尾藤唯香—ビトウユイカ— ③
詩乃宮さんは、以前からあたしのインスタグラムに投稿された写真に興味を持っていたらしく、ぜひとも自ら「被写体になってみたい」と名乗り出て、ダイレクトメッセージを送ってきたのだ。しかし、彼は一つだけ大きな勘違いをしていた。投稿された数多の写真をチェック済みなら、本来気づくはずだが、あたしは男を撮らない。文面の一人称が「僕」で、大方男である予想はついていたが、一応性別を訊ねると、「男です」と言われた。被写体募集の概要ストーリーに【女性限定】と書いてあるのを読んでいないのかと憤りを覚え、一度は撮影拒否をした。それでも彼は「撮影料は四倍払います。どうしてもマリさんに撮って頂きたいんです」と懇願してきて、あたしは仕方なく彼との撮影会を承認した。
人形町駅で待ち合わせをし、徒歩五分ほどに位置する小綺麗なラブホテルにあたし達は入った。ラブホテルは既にあたしの第二の家と化すほど出入りをしている場所だったが、撮影の為に脚を踏み入れるのと、セックスの為に入室するのでは意味合いが違う。隣にいるのが男という例外が発生していても、あたしは既に写真家モードだった。
正味、男との撮影は乗り気ではない。昔、一度ネット上のネカマに引っ掛かり、あたしはまんまと騙され男との撮影会をマッチングしてしまった。あたしのSNSは決して出逢いの場などではないが、何と勘違いしたのか、鼻息の荒い体躯の良い男はあたしを半ば無理やりホテルへ連れ込み、シャッターを二、三回だけ建前程度に切らされた後、そのまま被写体に犯された。
その経験がぼやけた記憶と憎悪になって、あの時の苦い後味をどうにも思い出してしまう。詩乃宮さんはあのネカマのように浅黒い肌をしていたり、ぎらりと光る眼光があるわけではなかったが、ペニスがついている以上、あたしは信頼しきれないのだ。
部屋に入って、すぐに撮影の準備を始めた。詩乃宮さんは、ソファの上にじっと座って、機材を弄るあたしのことをただ眺めていた。
清潔感のある少し長めの前髪から覗く瞳は、黒い機材たち見つめキラキラと輝いていた。そう、あの日あたしが拓海の部屋で一眼を見ていた時のような心持を、詩乃宮さんの表情からは感じ取れた。
「カメラとか、好きなんですか?」
あまりに無言が長いと撮影の際にリラックスした顔が撮れないと思い、あたしは詩乃宮さんに話しかけた。
「いえ。なんだか、かっこいいなって」
「ありがとうございます」
声量は小さいものの、彼の声には透き通る膜の奥に芯のような強さを感じた。それは、誰かに何かを伝えることに適した声質で、歌手や教師、講演家などに向いているなと思った。
あたしは彼が「かっこいい」と少々幼げな言葉を使ったことに意外性を覚えた。詩乃宮さんは、黒いワイシャツに黒いジャケットという、ホストのような恰好をしていた。しかし、そのわりには夜と遊びの香りが一切しない男性で、休日は家で映画でも見ながらひとり時間を潰していそうな、穏やかな人間性を雰囲気から掴んだ。それはあたしにとってかなり好印象で、機材を見て「かっこいい」と端的に言う辺りも、下手に彎曲さを狙う痛い男よりは──拓海みたいな──よっぽどましだったのだ。
細かな撮影準備が完了し、あたしが「それじゃあ、まずは服を着たままで。そのままソファに座っているところを撮りますね」と言うと、詩乃宮さんはどうしていいのかわからなかったようで、膝の上に手を乗せ、証明写真の撮影時みたいに固い表情を作った。緊張感が伝わる視線でカメラを睨む詩乃宮さんに「固いなぁ。でも、面白いから撮りますね」と一枚シャッターを切った。顔が良いから、少し不自然な表情もそれはそれでいいのかもしれない。
あたしのアマチュア写真家としてのプロフィールを知ってくれている以上、この撮影会がどういうスタンスで進んで行くのか、その覚悟は詩乃宮さんにもあるはずだ。簡単に言えば、ヌード。しかし、詩乃宮さんがあたしの前で進んで裸になってくれる想像はできない。もちろん、いきなり襲いかかってくる想像もできない。一応、覚悟はしていたが、その心配も無さそうだ。
カメラを向けられただけで照れている彼が、何処までリラックスしてくれるか、あたしの腕の見せ所だ。
「お話しながら撮りますね。カメラのことはいったん忘れて、あたしとの会話に意識を向けてもらえたら嬉しいです」
「あ、はい」
あたしはファインダーを覗くのをやめて、カメラをひとまず下ろした。
シャッターは指にかけたままにして、レンズはしっかりと彼のことを捉えることのできる位置に置いておく。
「プライベートなことも訊くので、嫌だったら答えなくていいですからね。あと、嘘で答えてもらっても構いません」
「嘘で?」
「はい。嘘の方が話しやすい人とか、結構いますからね」
人が嘘をつく時の表情も好きだ。会話の最中で隼のように紛れ込んだ嘘に、人は気づくことはできない。ただ、一枚の写真に収めると、人は嘘をつく時、全く別の顔を見せる。隼を捕獲できるのは網ではなく、シャッターなのだ。捕獲された隼は被写体にとって何よりも恥ずかしく、隠したいものに変わる。
「じゃあ、どうしても言いたくないことがあったら、嘘をつきます」
「そういうこと、言わなくていいんですよ。正直ですね」
「あ、そうなんですね、参ったな」
詩乃宮さんが後頭部を触りながら仄かに笑った。ああ、いい。人の好さそうな顔だ。一枚、シャッターを切る。
「詩乃宮さん、おいくつですか。大人っぽくも見えるけれど、あたしと同じくらいな気もする。年齢不詳ですよね」
「ああ、今二十九です」
「えっ、私より六つも上なんですか」
想像より遙かに上で、あたしは少し畏まった。
「子供っぽいですよね、僕。童顔、あまり好きじゃなくて」
「いやいや。端正な顔立ちで、羨ましいです。あたしが老けているだけかも」
「そんなことは、ありませんよ」
ここで、「マリさんも綺麗」とか言えない口下手な感じ。ああ、言葉に迷いがある時の泳いだ目。一枚、また切る。
「今は何をされているんですか」
「ああ、高校教師をやっています」
「教師?」表情を見る。隼は飛んでいない。「何だか意外です」
「先生に見えないですよね」
「詩乃宮さんのように素敵な男性教諭がいたら、女子生徒は嬉しいだろうなぁ」
「そんな。今の子たちは僕なんておじさん呼ばわりですよ。同級生とか、大学生に恋しているみたいで、相手にもされません」
「未成熟な女子高生じゃ、大人の良さには気づけないんですよ。あたしだったら放っておきませんね」
「上手ですね、マリさんは」
何度か質問を重ねてみたが、やはり詩乃宮さんの顔から緊張の糸が解ける素振りは見えなかった。初対面の人の前で、取り繕う自分を剥がせていない。それでは、あたしの撮りたい写真も、詩乃宮さんが撮られたい写真も撮影はできない。少々じれったくなってきた頃に、詩乃宮さんにスーツ姿にままベッドに寝転ぶよう指示を出した。
凄く変わった表現にはなるが、純白のシーツ上に寝そべる黒ずくめの詩乃宮さんは、まるで鍵盤を彷彿とさせる凜とした美しさがあった。あたしはそこで、自分の不埒を、芋臭いあの頃から変わってしまった愚かな自分を下腹部に感じた。
性的な圧力をかけてこない相手だからこそ、あたしはきっと、悶々としていたのだろう。そう、男を馬鹿にしながらも、あたしはセックスが好きなのだ。求められることだけが当たり前になっていた今のあたしに、何も求めてこない詩乃宮さんの存在は魅力的でしかなかった。あたしが彼の上に跨ると、彼は少し戸惑っていたが、「撮影ですもんね」と受け入れてくれた。これから音が鳴り、曲が始まる。そんな好奇心が、心をくすぶって仕方ない。あたしは、こういう写真活動に向いていないのかもしれないと、自分が情けなくなった。
「お喋りはこのへんで。今からあたしの好き放題にやるので、嫌だったら言ってください。でも、あんまり嫌そうに見えなかったら、撮影を続行しますね」
「あ、お願いします」
あたしは彼の「す」という語尾に食い気味でキスをした。舌を入れようとすると、貝のようにぎゅっと固く閉じられてしまった。そんな体験は初めてだった。どうせ最後は男なんて皆そのつもりなんだと思っていたから。彼が抵抗しないせいで、これって逆レイプなのではないかという不安があたしを襲った。
早く、この純朴な男性のスイッチが入った瞬間を見たい。撮りたい。そしてあわよくば、その牙であたしに噛み付いて欲しい。そんな一心で詩乃宮さんの唇をあたしの濡れた舌で撫でまわしていると、不可抗力的に彼の唇に隙間が空き始めた。
キス、したことないのかな。二十九歳で? こんなにハンサムなのに? そう思うほど、詩乃宮さんはキスが下手くそだった。
濃厚なディープキスの最中、詩乃宮さんは「んっ」と声を漏らしていた。キスだけで? そんな声が出るの? 多少引いてしまう自分がいたが、可愛い気もする。
「あの」舌で舌を何周かしたタイミングで、詩乃宮さんがあたしの肩に手を添え、唇を引き剥がす。
「嫌だった?」圧倒的にあたしの立場が上になった今、目上の人間だろうと敬語は不要だ。
「僕」
「うん?」
「僕、好きな人としか、キスをしたことがなくて」
「うん」
彼を見ていると、昔のあたしを思い出す。大学生になる前の、拓海に処女を奪われる前の自分。キスなんて、好きな人とだけするものだと思っていた頃のあたしが、今、目の前にいるようだった。
「正直戸惑っているんですけど、撮影の為に必要なキスなら、僕は受け入れたいです。だから、まず、僕はあなたのことを好きになりたい」
「あたしのことを、好きに?」
涙目であたしを見つめる詩乃宮さんは、子猫のように目の端を震わせている。長い睫毛に挟まれた美しい水晶体に、意識の全てを吸収されそうになる。
「いいよ。是非、あたしのことを好きになって」そう言って、さっきより愛をこめて再び彼に唇を重ねた。
あたしは、男を見くびり、馬鹿にしている。
その男という分類に、詩乃宮さんは含まれていないのかもしれない。
自分の中で、大きな矛盾が生じている。
あたしは、男性器の歪な見た目が苦手だ。だから写真は撮らない。男性器の形が、あたしの膣を刺激する時のみ、その有用性を感じることができる。だからセックスは好きだ。あたしにとって、男性は快楽の道具でしかない。金を稼ぐための道具でしかない。拓海があたしをそう扱っていたように、ゼミのメンバーが身体目当てだったように、あたしも彼らを快楽の道具としか思ってはいない。だから恋などしないし、しなくても生きていけると思っていた。
詩乃宮さんは違った。彼は、恋の上にキスがあると言った。じゃあ、既にキスをしたあたしと彼が恋をすることは必然だったのではないかとも思う。一瞬の凪が起こって、波が去っていく。そこに残ったのは、久しぶりに恋をするあたしのにやけ面だった。
「マリさん」
「うん?」
「未だ僕は、あなたのことを好きになりきれていないから、今日はこれ以上、何もしたくありません」
「そっか。でも、撮影は続けるよ?」
「勿論です。服を脱いだりしろと言われれば、それは構いません」
「じゃあ」あたしはこの時点で、もう撮影にかこつけて詩乃宮さんの裸を見てみたくて仕方なかっただけなのかもしれない。嫌いだったはずの男の裸。ああ、矛盾が増えていく。
詩乃宮さんが私に言われるがままにゆっくりと裸に近づいていく。ソファに丁寧に畳まれたワイシャツやスラックス。その隣で、隠し場所に迷い手を彷徨わせる詩乃宮さん。痩せ型だったが、程よく筋肉もあり、何より肌が白かった。日焼け一つ知らないようなきめ細やかな肌が、実に羨ましい。手入れをしているのか、陰部の毛量は程よく、その清潔感のある顔立ちにぴったりな生え方をしていた。
あたしは詩乃宮さんを裸の状態でベッドの中へと引きずり込んだ。掛け布団を下半身に被せ、ベッドサイドに寄りかかる彼の横顔を撮影する。その途中、あたしの質問は続く。
「今、恋人はいないの?」
「いませんよ。もし仮にいたら、キスは絶対にさせませんでした」
「好きな人は?」
「マリさん、の予定です」
「あ、そうだよね。ごめんなさい」
つかめない人だ。流体のような人だ。彼が何を意図してあたしに発言しているのか、そこに隼は飛んでいるのかはっきりしない。もし、あたしを抱きたいだけならとうにそのチャンスの山は何度も越えているはずだし、仮に恋人になることを視野に入れているなら、少しまわりくど過ぎる気もする。
女の扱いが上手い男は何人か知っている。あたしが気持ちよくなれる言葉を扱える男はこの世にごまんといる。そんな男は皆、世辞や冗談が得意だった。ただ、そういう邪険で無粋なものを男から差し引くと、透明度の高い詩乃宮さんのような人間が形成されるのかもしれない。買いかぶりすぎだろうか。いや、彼は何か、特別な香りがする。
「詩乃宮さん、ワイシャツだけ着てくれません? 下は履かないで」
「あ、はい」
布団を引き剥がす。シーツ上に佇む詩乃宮さん。全裸に黒いワイシャツだけ袖を通させて、陰部が見え隠れするアングルで全身を四方八方からシャッターを切った。ペニスに触れたい。キスだけであんなに甘い声を出す彼が、そこへ手を伸ばしたらどのような顔で鳴くのか知りたかったが、彼は未だ、あたしに恋をしてくれていない。だから、直接的な接触は不可能で、あたしは「撮影」という言葉にこじつけて、彼にセクハラまがいの行為を繰り返した。最低だ。最悪だ。適当だ。お母さんが今のあたしを発見しても、多分娘だとは気づかないだろう。あたしは詩乃宮さんの頸動脈をゆっくりと絞めて、苦しそうな顔も撮影した。あたしの作品の中では人気の、「苦しみフェイス」が撮れた。
「僕、ちゃんと良い被写体になれていますかね」苦しそうな顔の詩乃宮さんがあたしに訊ねる。
「もちろん。最高だよ。あたし、こんなに男性の裸を撮りたいと思ったことは初めて」
「なら、僕としても嬉しいです」
「詩乃宮さんがもっと悪い人だったら、あたし、我慢できなくて襲ってたかも」
「そんな。恥ずかしいですよ、僕」
その日は、久方ぶりの撮影ということもあって、なんせ相手が男性――詩乃宮さんという特別な――であったことも相まって、かなり体力を消耗してしまった。撮影会が終わり、データは帰宅後データ便なので高画質の状態のものをすぐに送るから、メールアドレスを教えて欲しいとあたしが言うと、詩乃宮さんは「いえ、データは結構です。また、撮ってください」と言葉を返した。
理解が追い付かないあたしの手に、詩乃宮さんは六枚の一万円札を握らせた。撮影料の約束の四倍の額。あたしはそこから四万円を詩乃宮さんへと返し、「あたしも楽しかったので、料金は定額+アルファだけ頂きます」と伝えた。
「ありがとうございます。それでは」
詩乃宮さんはシャワーも浴びずに――考えれば、浴びる必要もない――服を着て颯爽とホテルを出て行った。彼の背中をギリギリまで目で追ったあたしは、機材を片付け、何も考えてしまわぬように後に続いて部屋を出た。
帰宅してすぐに、あたしは一眼レフからSDカードを抜き取り、撮影したデータをパソコンへと取り込んだ。デスクトップに保存するだけに留まらず、大事な作品を残したUSBにも画像データはコピーした。
撮影した写真を一枚ずつチェックする。自分で言うのも恥ずかしいが、普段の、女性を被写体にした写真にも負けずとも劣らない出来の作品で溢れていた。恥ずかしげに髪を掻く表情。何か一点を見つめる儚い視線。苦しみの先に愉悦を見つけかけている赤く染まった顔。どれも、あたしを欲情させるには申し分ないものばかりだ。
撮影会と称して、こう、何か性的なものを満たしているあたしは、あの日のネカマや拓海と同類なのかもしれない。「犯罪者じゃん」自分に向かって言い投げた。黒いデスクトップに薄ら映るあたしが、醜い顔で笑っていた。
あたしは、既に無意識的に自分のショーツ越しの下腹部に指を重ねていた。ロールが付いた椅子が背もたれと共に軋み、数分であたしはイった。あたしも猿だ。動物だ。こんなあたしのこと、詩乃宮さんは永遠に好きになってはくれないだろう。
「また会いたいな」
これまでこちらから私用で被写体に連絡することは無かったが、今回ばかりは自制心が通用するのか自分の中ではっきりはしない。あたしは、濡れた指をなんとなく自分の鼻に近づけた。案の定、鼻腔をつつくのは獣のような悪臭。男共はよくこんな匂いのする場所を舐めるなと、若干引いた。すぐさま、ティッシュで指の湿り気を拭きとり、そのままベッドに寝転んだ。
また撮りたい。そんな気持ちは表面上だけで、結局あたしは、詩乃宮さんに、あの身体に激しく抱かれてみたいだけなのかもしれない。そう思うと、再び下腹部が疼き、熟れる感覚に襲われた。満たされるまで。自分用に言い訳を作って、ノートパソコンを枕元に置きながら眠った。




