詩乃宮結季—シノミヤユウキ― ⑤
「そうか、記憶を取り戻したのか」
三年ぶりに会う戸田先生の風貌は、以前とは全く異なっていた。完全なプライベート空間という点が加味されてはいる。クリニックの薄香の景観ではなく、雑多な昼間のカフェがそう見せているのかもしれない。ただ、たんまりと脂肪がのった腹と、伸ばしっぱなしの無精髭がもたらす不清潔感は、戸田先生には似合わなかった。臨床心理士の仕事は既に辞めたと言っていた。現在は転職先を探しながら、貯金でやりくりしていると。白衣を脱げば、先生も人だ。もう年齢も四十半ばにさしかかるらしい。
「はい。先生の尽力で忘れられていたものを、すみません」
「いいんだよ。もう俺はカウンセラーでも何でもない。君をよく知る一人の男として、今日は君の話を聞かせて貰うから」
声に抑揚が少ない。張り艶もない。カウンセリングの際とは違う。僕はもう、彼にとってクライアントではない。僕の目の前で煙草を蒸かす先生を見て、そう強く実感させられる。僕は一言話す度に異様に乾く口を、ブラックコーヒーで潤した。
「それで、君はどこまで思い出したんだ」
「全てです。フラッシュバッグに苦しんでいた記憶の断片が、今では順序立てて繋がりを持ち、明確な記憶として僕の脳内に貯蔵されています。姉が僕を殺す為に、家族までも犠牲にしてこの世を去った。その原因は僕にあり、これまで僕の女性絡みで起きていた不調和は、全て、僕の性質に関係していることも今は承知しています」
先生は灰皿に吸い殻をぐりぐりと押し当て、目脂の溜まった瞳で僕を見る。
「それで、君の今の心はどうだ。波か、それとも一周回って凪か?」
「どちらかと言えば、凪です。怒りと理性が衝突して、今は落ち着いています。ただ、嵐の前の静けさと言いますか。大波が全てを呑込む前の、不気味な凪が起こったのだと考えています」
「ほう」
「つまり、復讐を考えています」
「復讐ねえ」
その仰々しい単語を口にする度に、喉の奥が詰まる気分になった。復讐をしたいというより、しなければいけない。過去を清算することでしか、記憶に付着した嫌悪を拭えない。麻奈美は僕を見抜いているのか。だから僕の復讐に否定的なのだろうか。
「このまま、為す術もなく肩身の狭い思いのまま生きていく気にはなりません。僕はね、思うんですよ、先生。自己の意志を表明せずに、虐げられることに怯え、理不尽さを泣きじゃくるだけではいけないと。何もしないことが、善ではないと。言ってしまえば、行動に移さず、過去を嘆くだけの日々は悪だ。僕の善は、僕の苦しみを、僕の手によって昇華し、憎しみから解放してやることなんです。僕は僕と似たような体質を持つ女性と出逢いました。彼女は僕を諭したけれど、僕は彼女と一緒に、この世界の価値観を捻りたい。折りはできずとも、捻るぐらいなら僕にもできる、そう思えるんです」
「なるほど。君らしい、真っ直ぐな考え方だ」
先生は紙ナプキンを二枚引き抜いて、ずぴぃと大袈裟に鼻をかんだ。
「戸田先生」
「よせよ。もう俺は先生じゃない。先生は君の方だろ」
「僕にとっては永遠の先生ですよ、戸田先生は」
「詩乃宮くん」
「はい」
「俺は君をよく知っている。俺が臨床心理士になって、まだ若年だった頃からの付き合いだしな」ずずずと、かなり荒く戸田先生が鼻を啜った。鼻炎なのだろうか。鼻を痛めそうな音だ。「俺にも色々あった。人生だからな。色々ない方が可笑しい。おかげで仕事を手放す選択までしたぐらいだ。ただ、君が記憶を取り戻したこと、そして、復讐に燃える男に成長してくれたこと。それは俺の色々ある人生の中でも、大きな事象だと思っている。俺が君の永遠の先生ならば、君に一つ、教授をしよう。君の体質と病、その話だ。
──『ソリロクイ症候群』と呼ばれるそれは、君のような他者の独占欲、承認欲求、衝動、生理的欲求を支配出来る特殊個体『S』との接触の間に発症する病だ。症状は、自我の崩壊。精神領域内での誤作動。まあつまり、心に素直な人間になっちゃうってのが、この病なんだ。ソリロクイ症候群はS体質者と接触し、心のどこか一部分でも掴まれ、S体質者に関する涙を流した時点で発症だ。医学的にはまだ解明されていないし、臨床の現場でも、クライアントの症例が少なくてな。Sに浸食された患者を、『N患者』とかとも呼んだりしてるよ」
戸田先生が雄弁に語る。麻奈美の言っていた内容に補足説明してくれているようだ。
「──そして、面白いことがもう一つ。俺もその、君と同じSだ」
驚きというよりは、喜びが勝った。先生と僕は同じ。その感覚は、慄然とした不気味さをはらみながらも、どこか心地よさすら含んでいた。
「先生は、この世界に不満を持たなかったんですか」
「持ったよ。弊害もあった。恩恵もゼロじゃないけどな。ただ、この力を使って、俺一人で社会に何かできるわけではない。支配するって、曖昧だろ。だけど、ここに今、世界への報復を企む一人の男が誕生した。捻るとか言い出す、ぶっ飛んだ男がな。俺らS体質界隈には、そういうカリスマが必要だったんだよ。君には、カリスマになれる資質がある。君が革命を起こすなら、俺は協力してやっていい」
「どんなことだって、協力してくれますか」
「ああ、勿論」
「突拍子もないことを言います」そんな前置きを僕が伝えると、戸田先生は頷いた。「僕を信仰してください」宣言通り、本当に怪しい発言を僕がすれば、戸田先生はがははと笑った。あまりに大きな声を張り上げるものだから、隣に座る二人組の女性客が同時にこちらを見た。
「本当に変なことを言うんだなぁ、詩乃宮くんは」
「本気ですよ、僕は。どんなことだってするんでしょう、先生。僕が考えているのは、Sの組織化です。S体質の人間が上層部に立ち、先生の言うN患者を配下に置く。そうすることで、大規模な何かをすることができます。デモでも、テロでも」
「大きく出たね。思想普及や声明に留まらず、犯罪にも手を染めることは厭わないと」
「僕は殺されそうになったんです。今更何も、感じません」
「面白い心意気だ。それで? 具体的にはどんな組織を作る気なんだ?」
「とりあえず、新宗教を設立しようと思います。それが一番、SとNの関係性を表現し易いかと。そこで僕は、教祖に扮します。先生がやってくれてもいいんですけど」
「いや、俺は遠慮しておくよ」
先生が首を横に振った。隣の女性客の片割れが僕を一瞥し、「かっこよくない?」と小声で呟いているのが耳に入った。怒気を秘めた満遍の笑みを、僕は隣へ向けてみる。女性は目をぱっちりと開き、にこやかな会釈で返事をしてきた。
「教祖は男前の方が良いだろうからなぁ。なあ」
その様子を見ていた先生がおどけてそう言った。
「まあ、そういうことなら。ひとまず先生には、教徒になって、僕を崇拝するフリをして欲しい。教徒第一号として、活動を広めていく役割をお願いしたいんです」
「なかなか奇抜な発想じゃないか。俺が革命の火種を生む役目ってことだな。楽しそうだ。しかし、どうして宗教なんだ?」
「洒落ですよ。僕は教師です。教壇の上に立つ人間です。それだけです」
「教団、ね。案外くだらない理由で、大がかりなことをやろうとするんだな、君は」
「僕って、そういう人間ですから」
ラガービールをグラスに注ぎ、それを一気に飲み干す先生。酔っているのか、本来こういう調子の人間なのか、先生は陽気な顔で女性客に話しかけた。
「どうだ? この男前が作る宗教に、入ってみないか?」
女性客はどちらも苦笑いを浮かべている。先生は「んだよ、泣かせんぞ」と笑った。
「先生、ほどほどに」
「すまんすまん。ただ、知っていると思うが、S体質は異性の相手にしかソリロクイを発症させられないぞ。詩乃宮くんや俺が教徒を増やすにしても、N患者は女に限定される。教徒は女性だけに絞る気なのか?」
「それには考えがあります。僕に記憶を取り戻させてくれた、上原麻奈美という女性をもう一人の教祖にします。そうすれば、性別の問題は解消ですよね」
「できるのか。S同士ではソリロクイは発症しない。君はどう彼女を落とす?」
「できますよ。方法はあります」
確信を込めた言い方になった。それは、麻奈美が僕をいずれは理解してくれるという慢心があったからだろう。麻奈美はそこまで無粋な人間では無いのに。僕に落とされないからこそ、彼女は永遠に美しい。その意味を、この時の僕は未だ知らない。
カフェを出る直前に、僕へ興味を示していた女性に声をかけた。先生へ、己の本気を見せる為に女性と連絡先を交換し、二週間でソリロクイを発症させた。彼女は先生に次ぐ教徒第二号となった。戸田先生にその成果を報告すると、「やるねぇ。俺もSとしての本領発揮するかな」と意気込んでいた。




