絵崎解一―エサキカイチ― ③
結局、江國さんと今後の捜査方針を検討している間に、時刻は午後十一時を迎えていた。今夜は桂と久しぶりにサシで飲む約束をしていた。俺が店に到着したのは集合時間から二時間遅れのことだった。九時頃は未だ話が熱中しており、桂には『すまん。仕事が長引いてる。遅れる』と謝罪メールを送った。すると、『お前は昔からそういう奴だよ。一人寂しく店で待つ』と返信が来た。
学生時代からの好と法曹仲間ということもあり、俺の遅刻は咎められなかった。まあ、俺は元・法曹でしかないが。
魚料理が旨いと有名の居酒屋へ入る。店員に桂の名前を言うと、二名用の個室席へ案内された。桂がパソコンを開きながら、日本酒を嗜んでいた。頬は既に赤く、箸をつけた肴の皿がいくつか並んでいる。
「すまん、遅くなった。今日は俺が出すよ。この店、何時までだ?」
「おうおう、そのつもりだよ。二時までやってるから安心して飲もう」
桂は俺が席に着くと、すぐにパソコンを閉じた。
「仕事か?」
「ああ。ちょっと厄介なの抱えてね」
桂は優秀な男だ。修習生時代もその正義感と愛想の良さ故に教官たちからは可愛がられていた。成績上位優秀者にのみ声がかけられる渉外事務所からもスカウトされるほどの男。法廷で戦いたくない弁護士がいるとするなら、俺は桂の名を挙げるだろう。
「続けても構わないぞ」
「なわけ。俺はお前がなかなか来ないから仕事で時間潰してただけだぞ? 今夜の目的は楽しく飲むことだ。ほら、早く乾杯ビール頼めよ」
「ああ、そうだな」
桂の顔を見ると、学生時代を思い出す。あの頃は楽しかった。桂の手元には灰皿が用意されている。煙草が数本、吸い殻となって押しつけられているのが見えた。俺のビールが届く前に、桂が新しい煙草に火をつけた。俺の好きだった銘柄。懐かしい紫煙が目の前を舞う。
「お? 絵崎、煙草辞めたんだっけ」
「とっくだよ」
「一本いるか?」
「いや、遠慮しておくよ」
少しだけ淋しそうな表情で、桂は煙を吐き出した。桂に煙草を勧めたのは、俺の方だった。今では立場が逆転してしまった。愛煙家として名高い俺は、既に過去の人間になった。
店員が生ビールを二杯、泡を揺らしながら運んでくる。桂とジョッキを鳴らし合い、俺はビールを浴びる。久々の酒は旨かった。桂と飲む酒が特別旨いのかもしれない。
「そういえば、新婚生活はどうだよ」俺が訊ねると、桂は顔の筋肉を緩めた。
「あー。ぼちぼちだよ」
昨年、桂は長らく交際を続けていた恋人と入籍した。多忙の為、式は挙げられていないらしいが、奥さんはあの合コンで桂が落としたミユちゃんだ。
「結婚すると、やっぱ何か変わるか?」
「月並みな質問すんなよ。さして変わらねえな。あ、結婚する前も同棲してたから、変化はないと思ってたんだけどな。籍を入れたことでミユも一安心したのか、俺この間初めてミユの屁を聴いたよ。テレビ見てて、笑った勢いでぷってな。放屁音すら可愛いんだ。うちの嫁は」
「それは良い惚気話だな。食事中には不向きだが」
「へっ」桂の独特な乾き笑いが漏れる。「そうそう、お前の方はどうなったんだよ?」
俺が先に訊いたのだから、質問される覚悟はしていた。しかし、いざ桂に打ち明けようと思うと言葉が竦んだ。「仕事が忙しくて相手を放置していたら愛想尽かされた」などと、人気弁護士という激務の中で結婚までこじつけた男の前で言うのは滑稽なだけだ。俺はお茶を濁すよう、「生活のリズムが次第に合わなくなってな。別れたよ」とだけ言った。
「あっちゃー。こりゃ絵崎、独身貴族コースまっしぐらだな」
「やっぱりそうか。俺もそんな気はしてる」
「どうせ仕事だろ」
「バレるか」
「一年半ぶりに会う友人との飲み会二時間以上遅刻する男が女と別れる理由は、浮気か仕事だろ。そして、お前のような正義の具現化に浮気という選択肢はない。よって仕事。間違ってるか?」
「大正解だ」
「しかし、お前は本当に狂ってるよな。俺とあんなに苦労して司法試験の勉強してたってのに、今じゃオマワリさんだなんて。ヤメ検って、なんか特別待遇あるのか?」
彼は俺が警察に異動したことは知っている。しかし、その目的がソリロクイ症候群を追う為だということまでは知らない。勿論、俺の所属も知るはずが無い。
「あるわけないだろ。俺の正義がその道を選ばせただけだ」
「かっこいいな。真似したいとは思えないけど」
「お勧めはしないな」
「にしても、お前は本当に優秀だよな。絵崎、覚えてるか? 修習生時代、お前の作る起案と起訴状を拝見した教官が、何をとち狂ったのか俺らに『このレベルを目指せ!』って怒鳴りつけてきたの。優秀な男が傍にいると、凡人は大変なんだよ」
「何言ってんだよ。渉外スカウト組のくせして」
いやいやいやと、桂はまんざらでもない顔でビールを煽った。
「それは絵崎もだろ? お前は検事になるからって蹴ったけど、成績だけで言えば渉外はお前の方が欲しかったはずだよ」
「俺を買いかぶりすぎだよ、桂は」
「いやいや。お前が東京地検に配属された新人時代の逸話は後輩にも広がってるらしいぜ。見様見真似で仕事を覚える段階で、先輩検事に口出ししてブチ切れられて、結局お前の助言あり気で立証された事件があるって。そんで、札幌に飛ばされた後も、新任明けとは思えない活躍っぷり。否認事件だろうと被疑者の口を割る鬼。『取調室の悪魔』なんて恥ずかしい渾名が俺らの間で流行ったのも、そのあたりだよな」
「仲間内で流行らせたのは、お前だろ」
「でも、ビビったろ?」
「何が」
「A庁明けしてようやく一人前の検事になったと思ったら、自分が噛み付いた事件が段々と全貌を表して、その凄惨さを膨れ上がらしてくる時は」
桂が戸田の話をしているのだとわかった。
「さすがにな。少女連続誘拐事件を捜査一課と追っていたら、遺体をバラバラに切断して縫合する猟奇連続殺人事件に発展するなんて」
「戸田の弁護士はしんどかっただろうな」
「ああ。無理もない。戸田は壊れているからな」
「取り調べしたんだろ? どうだった?」
桂に問われ、俺は回想する。
取調室で幾度となく鼻水を啜る戸田の音。鼻血が出るのではと思うぐらい、その勢いは強かった。小太りな腹。汗っかきの肌。不清潔さ全面に出た風貌は、元臨床心理士とは思えぬ様相をしていた。
「検事さん、やっぱり男前だねぇ」静かな部屋に響く、生温い声。事務官がパソコンを開き、戸田の全てを記録しようと待ち受ける。俺は戸田を見つめ、激昂を飛ばす。
「おい! 俺の質問に答えろ! 適当な冗談ばかり言ってないで!」
留置所と取調室を戸田が往き来して十一日目。被疑者と検察官、互いに疲労が募る頃合いだった。その時点で、戸田が先の事件の犯人であることは九割確定していた。今は、法廷で戸田を追い込むための証拠集めの段階。事件に強く関係していることは認めたが、戸田は自分が手を下したことだけは否認し続けていた。逃げ場はもう何処にも無いはずなのに、戸田は「俺は殺してない。彼女たちが死にたくて死んだ」とだけ言い続けた。精神疾患の疑いなどに護らせるわけにはいかない。情状酌量の余地が一切無いよう、俺は戸田を仕留めるつもりだった。殺意の自供を取る。その為に躍起になるのは、俺の性だ。
「検事さん、お腹空かない? 俺、ピラフ食べたい」
関係のない話を始めた戸田に向けて証拠資料を叩きつける。コピー用紙が宙を舞い、その隙間から戸田の歪な微笑みが覗けた。自己陶酔の強さが浮き出る眼光。悪人の目つきだ。
「何人殺した? 未だ他に隠してるんだろ? なあ、どうなんだよ!」
「あのさあ、男前、俺は殺してないって言ってるじゃんか。確かに俺は、その事件の重要参考人だよ。でも、彼女たちが勝手に死んだんだ。自殺なんだよ。使用された凶器に俺の指紋はあったのか? 勝手なことやめてくれよ。ねえ」
終始余裕を浮かべる表情の戸田。端から正攻法でこいつから自供を取れるとは考えていなかった。だから俺は、一つの策を用意した。このイカれた男に似合う、脅し。
「わかったよ。戸田兆冶、じゃあ、これを見てくれ」
ノートパソコンを一台取り出し、俺は一つの映像を流した。画面に映っていたのは、一人の女子中学生。重要参考人として、彼女に事情聴取をしている様子を録画したものだった。髪の短いボーイッシュな少女。肌は浅黒く日焼けをしている。
戸田の表情が変わり、額に汗が滲み始める。貧乏ゆすりが始まって、目を泳がせている。わかりやすい動揺。戸田の方に、視線を向ける。
『君は、この人を知っているかい』
画面の中の俺が、戸田の写真を少女に見せている。
『知ってます』
『この男の事、どう思う?』
『最悪です』
『どうして最悪?』
『気持ち悪い。私はこの男ことを許さない』
彼女は戸田に拉致され、唯一、戸田のマンションから自力で脱出することのできた少女だった。彼女の証言により戸田の身元が判明、事件解決に繋がった。
俺にとって、重要なのはそこではない。彼女だけ行動が違った。彼女は戸田を、嫌悪しているのだ。
パソコンを閉じ、瞼を痙攣させた戸田と睨み合う。
「お前はどうして彼女だけ、匿い切れなかった?」
「俺はそ、その女に最初から興味なんぞなかった!」
首筋をボリボリと掻き始める。どんどんと赤くなる首。伸びた爪と指先の間に、皮膚垢が溜まっていく。
「嘘だろう。お前がそんなリスクを冒すか? どうしても手に入れたかったんだろう。日焼けした少女の肌。彼女は中学生。水泳部だ。スクール水着で日焼けした褐色肌と、水着に守られた白い肌のコントラストが、たまらなくそそるよな。ぷっくりと膨らみ始めた胸。滑らかな腰と素足。足の裏なんて、まだ柔らかくて触り心地も良いだろうよ。おい戸田。女の子を泣かせちゃいけないんだ。わかるだろ? 男ならさ。ちゃんと愛してあげなきゃダメじゃないか。無理に泣かせようとして、逃げられちゃったんだろ? この娘に。お前は何もわかってない。お前はミスを犯した。あーあ。さぞ気持ちよかっただろうな。彼女の小ぶりな胸を舐め回すのは。未熟な膣に挿入する気分を何回想像した? 何回抜いた? 答えろよ」
女性事務官を目の端に置くと、明らかに不愉快な口の曲げ方をしていた。どう調書をとったら良いのか分からず、タイピングに戸惑いが現われている。無理もない。やり方が鬼畜なのは、相手がそういう人間だからだと割り切っている。
「まあ、もうお前はこの娘に、一生会うことも出来ないだろうけど、な」
「ああああああああああああああああああ」
発狂し、パイプ椅子を弾き飛ばして床に倒れ込んだ戸田。地べたに仰向けで這いつくばった彼の下腹部に目をやると、恥ずかしげもなく勃起していた。悪寒が走る。どこまでクズなんだ、俺は心の中で戸田に唾を吐いた。
「それで、戸田を自供させる手段はどうやった? 否認事件ってのは厄介だったろ。法廷での様子を見る限り、かなり旨味のある証拠をかき集めたようだったけど」
注文していた唐揚げの半面に、俺はレモンを搾った。皮を下向きにして絞ると香りがいいという情報を教えてくれたのは、桂だった。
「別に。いつも通りだよ」
「いつも通りねぇ。悪魔のいつも通りは末恐ろしいな。お前、特捜部からも声かかってたんだろ。刑事部にいていいタマじゃない、あのやり方ができる検事は、って」
「人をヤクザみたいに言うな」
「まあさ、絵崎には、人の心理を揺さぶる資質があんだよな。人心掌握術と正義感が上手く重なり合って、お前はあのまま検事でいれば今頃キャリア一直線だったってのにな。勿体ないとか、思わないんだろうな、お前はさ」
「ああ」
「で、どんな事件なんだ」
レモンの汁が輝いている方の唐揚げを俺は口に放り込んだ。桂は、何もかかっていない方の唐揚げに箸を伸ばした。
「何が」
「お前がわざわざ出世を蹴飛ばして警察組織に身を投げるとするなら、深追いしたくなる未解決事件とかがあるんじゃないのか。検察庁でも迂闊に手を出せない、警察内部の組織犯罪とか」
「そんなに馬鹿でかい規模に首を突っ込む勇気はないな」
「でも、東京地検刑事部時代によくしてもらった人がいたんだろ。捜査一課に。その人のバッグがあれば、自由に動ける確信があったから、お前は」
「なあ、桂」
「あん?」
桂が俺を一瞥する。既に頬はほんのりと紅い。切り揃えられた短髪に、白髪を発見し歳月を実感する。大学一年の時の桂は、金髪だったことを思い出した。
「俺はただ、正義を執行するだけなんだ」
「そりゃ、いつもそうだよ、お前は。俺も法曹の端くれだからよ、正義感ってのはここ十何年間で叩き込まれてきたつもりだ。でも、俺らの惰性的な正義とは違う。絵崎の正義は常に進化を遂げて、発展してるからな。だからこそ、心配なんだよ。お前も人の子だ。法は神が作ったものじゃない。人が作ったものを、人が守ってるんだ。お前は優秀だが、神様じゃない。奢りがあるとか、そういうんじゃねえけど、あんまりヤバいことに手は出すなよ。お前が拳銃を握る日なんて、俺は来て欲しくないんだ」
いつからか、俺と桂の間に生まれた隙間。もう、あの頃のようには戻れない。桂には胸を張れる仕事があって、己の帰りを嬉々として待つ家庭がある。俺のように、よからぬ息のかかった人間では無い。表を生きるべき、人間なのだ。永遠に友人であっても、俺と桂は、学生時代のようにはなれない。俺の人生に、未練ばかりが募っていくようだった。
「悪い。俺はただ、自分が悪だと思ったことを、裁く立場にいたいんだ。それがどんな場所であっても、な。お前からの言葉は、叱咤激励の一つとして受け取っておくよ」
はっきりと言い切ると、「全く。顔が恐いんだよ。だからしえりちゃんにも逃げられる」と桂はにやつきながら再度新しい煙草に火をつけた。
それから俺と桂は、店が閉まるまでたらふく酒を飲んだ。酩酊した俺の代わりにタクシーを捕まえ、俺の身体を車内へ押し込んだ桂と別れの挨拶を交わした。途中まで一緒に乗って行けと提案したが、「こっから家近いし、少し歩いて帰るよ。べろべろに酔って帰ると嫁がうるさくてね」どこか楽しげに不満を漏らす桂は、優しい笑顔を向けて俺の乗車するタクシーを見送った。




