離坂しえり―リサカシエリ― ④
男性が『長いお別れ』の原文を読了済である事実は、さして私の関心を奪いませんでした。私はそれよりも、今、この腸に沸々と溜まった憤りをどう沈めるかでいっぱいでした。私が予測した点数を遥かに下回る六十一点。私を冷静に評価するのは私だけです。そんな私が、高得点を叩き出せるギムレットに、六十一点を付けた男性。私に低い評価を与えていいのは、私以外でいえば、この世界にはカイちゃんしかいない。悔しさが、眼力に浮き出てしまわぬよう気を遣いました。
「君も、小説を読んだことがあるんだね」
「はい。一応。まあ、教養の一つとして、出来心みたいなものですけど」
「そっかぁ。なら、話は早い。作中で、レノックスはギムレットについて何と語っていた?」
私を試す気なのでしょうか。そんな簡単な質問、答えられないわけがありません。「『本当のギムレットに必要なのは、ローズ社の産んだ至宝のライムジュースと、ジン、たったそれだけを半分ずつ入れること。他には何も必要ない』ですよね」
「大正解。博識だね、君」
「有難いお言葉、そのままお返しさせて頂きます」
「別に現代風の口当たりが柔らかいギムレットを僕は否定する気なんてない。君のギムレットはよくできているし、舌触りの滑らかさ一つとっても、下手なシェイクじゃここまでは辿り着けないだろうね。ただ、シロップという装飾品を足すのであれば、君に足りないことがある。それは、客観性だ。カクテルを作る上で、というより、人に飲食物を提供する上で必要なのは客観性。主観で口に含むものを作って、それが評価されている人がこの世界にいないわけではないけど、そういう人間は一握りで、まさしく天才だ。そして、君は天才じゃない。ただ、特別器用ではある。僕が言いたいことがわかるかい。君は、もう少し自分を俯瞰して、伸ばすべき点を伸ばし、整える部分は整え直す必要があるんだ。そう、その濃すぎる化粧みたいに、ね」
あまりの饒舌さに、堪忍袋の緒が切れたのか、店長が「失礼ですが、お客様、他のお客様もいらっしゃるので、あまりお口に合わないようでしたらお代は頂きませんので、ご退店を」と言いました。
私はそこへ割って入って、「すみません、店長。もう少しお客様と話をさせていただけませんか」と反抗しました。店長は眉をひそめます。難しい顔で「いいのか」と私を睨みました。そう、この男性は、私を挑発しています。売られた喧嘩に目を背けられるほど、私は大人ではありません。
「ご感想、ありがとうございます。参考にさせて頂きます」
「良い姿勢だね、君」
男性は、そのあとも私の顔を舐め回すように見つめていました。事実、これが案外不愉快ではありませんでした。端正な顔立ちの男だからでしょうか。いや、それだけではありません。男性は、私を的確に分析し、評価しています。あの鼻息が荒い黒服や、絶倫くんとは違う。私をしっかりと見て、たった数十分で私を理解しようと努め、私に点数を付けている。
私は徐に「何点ですか」と男性に問いました。なにが? そう言いたげな顔がこちらを見ます。
今夜、家を出る前に鏡に映った私は「八十四点」でした。私のギムレットに「六十一点」をつけた男性は、一体今日の私をどう評価するのでしょうか。好奇心が打ち勝ちました。私は客や店長の目も憚らず「今日の私、何点ですか」と訊ねます。
男性は即答します。「五十九点」。
気を抜いたら、その場で失神してしまいそうになりました。瞼が軽く痙攣を起こします。男性の得意げな表情に激昂を覚えそうにもなります。
「低いですね」私は今、どんな顔をしているのでしょう。
「妥当だと思うよ、僕は」不敵に微笑む男性。
ピンヒールを履いた私の足が色の世界に踏み入ったその日から、私は他者から高い評価を貰い続けてきました。ただ、それは何のあてにもならず、その雑な高評価がより一層私の士気を高める作用だけを持っていました。そう、他者の高評価は常に、私の自己採点を上回っていたのです。カイちゃんだって、その一人です。コンパをした夜、私より可愛い女の子なんてざらにいたのに、カイちゃんは私を選んでくれました。付き合いたての頃は、私を愛玩動物のように毎日愛でてくれました。私には勿体ない言葉を、評価を、浴びせ続けてくれました。私の納得は段々とそこに追いついていって、次第にカイちゃんからの評価だけは、どれだけ私の自己評価とズレが生じていても、受け入れられるようになっていきました。
私は、自己肯定感の低い人間です。だからこそ、他者の評価を捕食しながら、反骨精神でここまで生きてきました。私のポリシーはそこにあります。それなのに、この男性はこれまでの種類とは一線を画しています。私を、低評価しています。バッドボタンを押します。いいねを押してはくれません。屈辱さが心臓に張り付いてなかなか剥がれてはくれません。自己採点よりも悪い点をとる経験など、ほとんど初めてだったので。
カイちゃんを思い出します。カイちゃんが、私に冷め始めた瞬間を、私はよく知っていました。それは、記念日の夜でした。お洒落なイタリアンで夕食を済ませ、カイちゃんの自宅へ戻り、久しぶりに激しく抱かれました。二人の薬指には、カイちゃんがくれたお揃いのペアリングがきらめいていました。私にとって、最高の夜になるはずでした。なのに、カイちゃんはその日一度も、私に「好きだ」とか「愛している」とは言ってはくれませんでした。
カイちゃんは、素直な人です。嫌なことは嫌だと言うし、嬉しいとよく笑い、悲しいとすぐに泣きます。だから、私に冷めるまでは、私の愛らしさを見つける度に、好きだと伝えてくれていたのに。その時期です。カイちゃんの仕事は多忙を極め始めたのは。私はその夜以降、カイちゃんからの絶対的な愛を享受できるよう、善処し、努力を積み重ねてきました。
しかし、もう既にカイちゃんは私のことなど見ていなかったのかもしれません。私を評価することも忘れたカイちゃんと、私を的確に評価する出逢って十数分のこの男性が頭の中で並びます。ああ、憎かった。ただ私は、この男性が憎くて仕方なかった。カイちゃんの冷め具合を、この男性が現れたせいで私は実感してしまったのだから。照明の暗い店で良かった。私は鼻を啜ることなく、偏に一滴だけ右目から涙を零しました。不可抗力に近いものでした。カイちゃんを思い出した反動による、弱さと悔しさが一滴だけ我慢が出来なかったのです。
「君、もっと綺麗になりたいんでしょ」
私の夢を、切望を、欲求を、本能を、男性は簡単に口に出します。
「はい、と言ったら、何かあるんですか」
男性はカクテルグラスの淵を指で撫で、隠微な視線を私に向けます。
「今夜、僕とセックスしましょう。きっとそれだけで、君は更に美しくなる」
左端のカップルが「セックス」という単語に異様な反応を示しました。店長が「お客様、さすがに」と男性を窘めます。男性は余裕な表情を浮かべ、「僕は彼女に訊いているんだ」とだけ呟きます。
「こんなことばっかり、女の子に言っているんですか」
「それが悪い事だって自覚がないもんでね、ごめんよ」
男性は「詩乃宮結季」と名乗り、そのまま私を高級ラブホテルのスイートルームへ連れて行きました。どうして私が男性に着いて行ったのか、それは、ただ悔しかったからです。私は彼の低評価を、どうにか磨いたテクニックで覆したかった。武器はいくらだって使う。だから取り消させる。そうでもしなければ、私のような点数の低い女を、カイちゃんはきっと見捨ててしまうから。
部屋に到着し、玄関で私がヒールを脱ぎ、男性は革靴を雑に脱ぎ捨てました。二つ目の玄関を越えた瞬間、詩乃宮結季は私の唇を強引に奪い、そのままベッドに押し倒しました。




