尾藤唯香—ビトウユイカ— ①
停留所に着き、二百二十円と整理券を運賃箱へ落とす。バスを降りると、燦々と照り付ける陽射しがあたしの肌を襲った。「最悪」。焼かれるような暑さに行き場のない不満が漏れた。
舗装されたばっかりの歩道の先では陽炎が揺れている。肌がべたつくほど日焼け止めを全身に塗りたくってきたが、油断はできない。あたしはフリルの日傘を開いて、灼熱の太陽に怯えながら彼の家へと向かう。
送られてきた住所を頼りに、新築が立ち並ぶ住宅地を進む。体温が少しずつ上昇していき、背中と脇、それとおでこに汗が滲んでくる。水色のワンピース越しに、あたしは自分の体臭を確認する。今のところは薄めに付けた香水の匂いが勝っていた。とにかく、彼の家に辿り着かないことには埒が明かない。これ以上汗をかくわけにもいかない。人生初のお家デートが汗臭い状態で始まるのは嫌だった。
結局、迷いに迷って、あたしが彼の家へ到着するのにバス停を降りてから十分以上もかかった。こんなに入りくんだ場所に住んでいるなら、バス停まで迎えに来てくれたっていいはずなのに。そんな愚痴を零しながら、玄関の前で日傘を畳み、スマホの内カメラで前髪の状態を確認する。悪くない。そう思ってスマホをハンドバッグへ仕舞う。
一早く涼しい場所へ。そう焦る気持ちが、あたしの緊張を取り払った。人差し指でチャイムを押す。音に反応して、彼が二階から駆け降りてくる忙しない足音が外まで響いた。立派な白塗りの一軒家。ここは彼の実家。あたしは、実家に呼ばれた。大学生のお家デートは、一人暮らしの部屋に呼ばれるものだと思っていたが、そうでもないらしい。今日は両親が仕事で不在の為、あたしは立ち入りを許可されたのだ。
鍵が開錠される。深呼吸を一度挟む。熱に侵され、忘れていたはずの緊張を思い出した。心音が走り出す。玄関があたしを迎え入れようと外向きに開いた。襟元が何十回もの洗濯で伸びきったであろう白いティシャツに、黒いハーフパンツ姿の彼が「いらっしゃい」とあたしに手招きをした。その表情が何とも涼しげで、ちょっと腹が立つ。ただ、文句を口に出せるほど強い立場にいないあたしは、「ごめんね、遅くなって」と謝るしかない。
「そうだよ。待ちくたびれたわ」
そう言って笑う彼の後頭部に寝ぐせを見つけた。あたしが早起きしてヘアアイロンで巻いたこの髪とは対にいるような髪型だった。どうにも、そういう配慮のできない男が、あたしの人生史上最初の恋人というわけだ。溢れそうになる溜息を無理に我慢する。
小さなリボンが付いた白のヒールを脱ぎ、踵を揃えて端へ寄せる。VANSのスニーカーに、青くてボロいサンダル、ベージュのパンプスと爪先の削れた本革靴。靴の多様性に実家味を覚える。ロマンスが、あたしから段々遠ざかっていくようだった。
「俺の部屋二階だからさ、先行ってて。ジュース取ってくるわ」
「あ、うん。ありがとう」
一段ずつ、ゆっくりと階段を登った。二階へ辿り着き、【TAKUMI】という木製のプレートが釣り下がった部屋の前で立ち止まる。ドアノブに掛けた手が震えていた。なかなかそれを回せずにいると、背後から「どしたん? 入りなよ」と声をかけられた。彼の両手には、五〇〇ミリのペットボトルに入ったミルクティーが一本ずつ握られている。「うん」と小さな声で頷くあたしを、彼は強引に部屋へ押し込んだ。「ほい、どぞどぞ」
初めての、男の子の部屋。ファブリーズの匂いが強く香った。開口一番路頭に迷ったあたしに、「適当にくつろいで」と彼は言う。男の子の部屋が、あたしにとってどれだけ敷居の高い空間なのか、それを本人は自覚していないみたいだ。作法を知らないあたしは、困惑したままゆっくりと部屋の隅に腰を下ろした。
部屋は小綺麗だった。大雑把な性格の拓海にしては、だけど。織目の白い壁紙に、ラッドウィンプスと巨乳グラドルの大きなポスターが画鋲で留められている。机は学習机。机上に乗っているのは、漫画本とゲームモニターとプレ4。捨てたらいいのに、何故か溜まっているエナジードリンクの空き缶。居場所を床に追いやられた参考書とノート。綿が萎んだスヌーピーのぬいぐるみがベッドに寝転んでいる。どこをとっても、実家味が五月蠅い。
「なんか固いよ。リラックスしてよ」
「ありがとう」
そう言われても、男の子の部屋でリラックスするというのはどうするのが最適なのかあたしにはわからない。大学一年生、十九歳になった今でも、そういう部分で自分はかなり出遅れていることを実感させられる。
産まれてこの方、恋愛とは無縁だったあたしに、ようやくできた初彼氏。拓海。
全学部共通科目の講義で、居眠りをして全く授業に追いつけなくなった拓海に、記入済のレジュメを貸したことが全ての始まりだった。だらしない学生だと軽蔑するところかもしれないが、他人にすぐ頼る気さくさがあたしには輝いて見えた。声をかけられた瞬間から、私の心臓が鳴ってしまったのは、過去の恋愛経験値の低さを証明している。
拓海とは写真という共通の趣味があり、そこから派生して更に親しくなった。恋愛初心者のあたしに、拓海は興味を示した。周りを気にせず、うんざりするほどのアプローチを受けた末、出逢って三ヶ月、つい先日彼の告白を承認した。異性から好意を伝えられるのは中学三年ぶりで、さすがに焦りを覚え始めていたあたしにとっても好都合だった。
実際、拓海は優しい。話も面白く、一緒にいると居心地は良かった。ただ、この感情を恋と呼び、あたしが彼を恋人にしたいと思う最低条件を満たしているかは不明瞭なままだ。それを友人に相談すると「世の中のカップルなんて、大体そんな始まりだよ」と言われ、何だか納得してしまった。
あたしはカーペットの敷かれている床に座りながら、拓海がくれたミルクティーに口を付ける。冷えた甘い紅茶は美味しかったけど、せめてグラスに注いでくれたりしてもいいのではないかと思った。あたしが彼氏という存在に期待をし過ぎているだけなのだろうか。判断材料が少なすぎて、拓海の行動が世の彼氏のスタンダードなのか区別がつかない。
拓海の部屋を見回すと、やはり目に留まるのは漫画本の隣に置かれた一眼レフの存在だ。あたしと拓海を繋いでくれたのは、まさしくそこにあるカメラであり、彼がどうしようもない男だとしても、カメラや写真について熱弁している瞬間だけは好きだった。認めることもできた。
あたしが一眼レフに興味を示しているのに気づいた拓海が、その重々しいボディを持ち上げて、ストラップごと渡してくれた。バンドにも拘っているらしく、これはバイト代を費やして作ったオリジナルのストラップなのだと楽しそうに説明を始めた。
自分自身で写真を撮るのはもちろん好きだけど、ここまでカスタマイズされた立派なカメラは一台も持っていない。写ルンですとスマホのカメラがあたしの主戦場であった故に、十万円はくだらないカメラを所有しているだけで、拓海がプロの写真家のように思えた。
ファインダー越しに拓海を覗くと、「撮っていいよ」と言われたので、一度だけシャッターを切った。ダサく縒れたティシャツにぼさぼさの髪。実家味丸出しの部屋にいる拓海ですらも、この機体一つ通せば一つの作品になる。だから写真は好きだった。「いいな。あたしも欲しい」カメラを拓海へ返しながら呟くと、「良い素材には、良いカメラ。お勧めだよ。俺の写真たち、見る?」と机の引き出しから現像品をいくつか取り出し、見せてくれた。
拓海が撮った町の風景や、花、空、野良猫、海のような自然界での出来事、はたまた友人の何気ない日常を切り取った一枚。それはとても写りよく、美しかった。やはり拓海は、写真を撮る才能だけはあるのだと実感する。
拓海は「俺は表現者だから」とよく言っていた。これは出逢った当初から常に一貫していた彼なりのポリシーみたいなものだろう。「ファインダー越しに写る自分の世界を、他の沢山の人に届けてあげたい」なんて、耳がこそばゆくなるようなことも平気で言ってのけるのが拓海という男だった。
写真を見て、楽しくなってきたあたしが「もっと写真見せて欲しいな」と強請ると、拓海は先程までの夢を追う青年のような表情から一変して、「あとでね」と言いながらあたしの肩を抱いていきなりキスをしてきた。未だ昼じゃないの? という疑問の後に、夜には親が帰ってくるから今なのか。という回答があたしのクエスチョンマークを拭い去った。
突然ファーストキスを奪われ身体が後ろへ仰け反りそうになったが、拓海が力強くあたしを抱いていたせいで動けなかった。堪えきれずに目を泳がせていると、拓海はあたしをそのままベッドに押し倒し、服を全て脱がせて、閉じた唇の隙間に生暖かい舌を潜り込ませてきた。
覚悟はしていた。男の人の部屋に上がるということは、そういうことになる可能性が無いとは言い切れない。ただ、頭では理解していたはずのものも、ここまで強引に始まってしまうと、あたしは雰囲気に気持ちを溶け込ますことができなかった。
セックスは、あたしの想像とは違った。拓海がそうなのか、このぐらいの愛撫でちゃんと濡れないあたしが悪いのかわからないけれど、キスの後にさらっと胸を揉まれ、指で下腹部を撫でられるだけの愛撫だった。気持ち良いという感覚はなく、何か軽い痺れのような状態に入ってからは、よりいっそう何も感じなくなった。優しい言葉は無かったし、本当に拓海が触りたくて触っているだけの愛撫のような気がした。それでも拓海は十分に興奮していた。
意気揚々と避妊具をつけ、挿入段階に移ろうとする拓海を見て、あたしはさすがに「待って」と言った。処女であることを赤裸々に伝え、少し恐いと本音を漏らすと、拓海は露骨に嫌な顔をした。だけど、勃起した下腹部に自制心が負けているのか、拓海は「気にしない」とだけ言って半ば無理矢理あたしの中へと入ってきた。
拓海が慣れた動きで腰を振っている最中は、「痛い」と「もっとゆっくり」と「恥ずかしい」と「無駄毛処理しといて良かった。ありがとう、まなみん」ぐらいしか考えられなかった。拓海が気持ち良さそうに声を漏らしているのを見て、あたしも「んっ」と拓海の動きに合わせて気持ち良さげなフリをした。心の中に、形容しがたい寂しさが溢れた。
拓海が「やばいかも」と言った時、あたしの脳内を不安が過ぎった。避妊具はつけてくれているが、「外に出して」と頼んだ。ここだけは譲れなかった。拓海は本日二度目の不愉快そうな視線をあたしに向け「ゴムしてんのに?」と、多少嘲りながら言った。それでもあたしが怪訝な眼差しで首を横に振るもんだから、拓海はあたしの中から勢いよく身体を剥がし、「じゃあ」とあたしの口を使った。
塩素のような匂いと苦味。ただただ不快な粘着性の高い液体を口の中から吐き出そうとすると、拓海はあたしを睨んだ。その目は「捨てんの?」とあたしを脅しているように見えて、怯んだあたしは心を無にしてそれを喉の奥へと流し込んだ。満足そうな拓海をよそに、残っていた紅茶を出来るだけ沢山飲んだ。世のセックスも、このレベルなのだろうか。怒りや快楽よりも、ひりひりとした下腹部の痛みが勝って、それ以上はあまり何も考えたくはなかった。
初セックスの行程が足早に駆け抜けていき、あたしはほとんど放心状態だった。途端、全裸でいるのが嫌になって、すぐに下着を身につけた。今日の為に新調した下着へのコメントはゼロのままだ。
「あ、さっき写真見たいって言ったべ。パソコンの中にデータあるから、好きに見ていいよ」
そんなことを言い残し、拓海はシャワーを浴びに階段を降りていってしまった。
拓海があたしをゴールにまで連れて行ってはくれなかった。まあ、それはあたしが処女だったこともあるし、処女を初回でイかせるのは難しいのかもしれない。それでも、あの冷めた態度だけは許せなかった。もう少し可愛がって欲しかった。甘やかして欲しかった。嘘でもいいから、好きだとか、言って欲しかった。
一人取り残された部屋で文句を垂れながら、あたしはティッシュで下腹部を拭いた。悶々とした気持ちは残っているものの、薄く、赤に染まったチリ紙を見ると、セックスはただ滑稽な行為に過ぎないのかもしれないと思えた。私は血濡れていない部分で、ヨダレでべたつく乳首も一緒に拭いた。
服を着終えたあたしは、拓海に言われた通りパソコンを立ち上げた。だけど、パスワードが必要で、デスクトップ画面に辿り着くことすら困難だった。「適当かよ」さすがに飛び出た舌打ちを後悔しつつ、あたしは拓海がシャワーから上がるのを待った。
「パスワード、必要だったよ」
「ああ、souzounosakie」
濡れた髪をバスタオルで拭く拓海が部屋に戻った。配慮が無かった点については触れず、端的にイタいパスワードを拓海は述べた。ああ、やっぱりあたしは、彼とは無理かもしれない。初めにそう思ったのは、このタイミングだった。
あたしは彼のデスクトップに貼り付けられた【作品】というフォルダをクリックした。何百、いや、何千枚にも及ぶ写真データが、画面いっぱいに表示されている。うん、やはり拓海の写真は良い。こんな猥雑な精神状態でも、そう思わされてしまうのだから、やはり彼には才能があるのかもしれない。
拓海が「ドライヤーしてくるわ」と部屋を抜けた隙を見て、あたしは【授業ファイル】と明記されたフォルダをクリックした。【作品】のフォルダ内にも【風景】や【人物】のようにしっかりとカテゴリー分けされたファイルがある中で、【授業ファイル】とは、何とも怪しい名前のフォルダが見つかった。もちろん、【授業ファイル】とは名ばかりで、その中には数多の女性の裸の写真が、数え切れないほど保存されていた。あたしと年齢が近い、もしくはそれよりも若そうな女性たち。制服を着ている子の姿もある。大きな乳房を存分に曝け出したり、舌をべろんと犬のように伸ばしたり、中にはさっきまであたしが咥えていた男性器を愉悦の笑みで咥える女性を上から撮影した写真もあった。
リベンジポルノ。真っ先にそんなワードが浮かんだ。ただ、それにしてはどの女性も、良い表情で写真の中に閉じ込められていた。被写体として成立しており、そこに下品さは少なく、何とも芸術的な一枚に仕上がっている。
そんな女性たちを見ていると、頬が熱くなった。同性愛などではない。また別の、何かがあたしの下腹部を刺激した。彼女たちの、妖艶な顔。あたしを昂ぶらせてくれたそれは、不完全燃焼に終わったあたしを密かにオーガズムへと誘ってくれたのだった。




