離坂しえり—リサカシエリ― ①
立川という街は、新鮮と枯渇をチャンポンしているような街だと、私は考えます。駅はグランデュオやエキュートといった大型商業施設と隣接し、いかにもの利便性をひけらかしています。アップルパイ専門店から漂う甘いバターの香りと、うんざりするほどの人だかりを掻き分けて駅を出ると、北も南も、飲食店が無駄に、そして雑多に広がっています。
大きすぎるゲームセンターを出入りする制服姿の高校生。古着屋の前で、宗教勧誘をするおばさん。パチスロ店から出てすぐにあるラーメン通りで腹を満たす不清潔な男。手を繋ぎながら裏路地のラブホ方面へと進むカップル。私はそんな老若男女の喧騒に紛れながら、小さなビルの四階で、今夜もお金を稼いでいます。私の仕事は、この空虚で詭弁に満ちた街にはよく似合っているとも思います。新宿にもなれず、赤坂にもなれず、ましてや麻布にもなれないこの街と、私はよく似ているのです。
角がほじくられた二人掛けの白いソファに座り、恋人にラインを返します。二十時半。一般企業勤めであれば、それがよほどの漆黒さを極めていなければ、既に退社している時刻。しかし、きっと彼は未だ何処かを走り回っているか、難しい顔でパソコンと睨めっこしているのでしょう。当面の間、返信は期待しません。
私の彼氏、「カイちゃん」は検察庁勤めになります。ドラマや映画で検事という職業を目にしたことはありますが、私はカイちゃんがどんな実務をこなしていのか、実際にはよく知りません。昔読んだ小説に登場した検事は、事件の真犯人だと思われる容疑者の口を割る為に、机を蹴り飛ばし、激しく怒鳴りつけていました。カイちゃんも、そんなことをしているのでしょうか。私は、彼が人に対し厳しく当たり散らす様を、想像することすらできません。カイちゃんはいつだって優しくて、私を包み込んでくれる、そんな男性だからです。
私がカイちゃんと出逢ったのは、個室席の多い居酒屋で開かれた合コンでした。法曹関係の仕事に就く、将来性のある男性陣が揃った合コンに、私は有名女子大の一派として参戦することになりました。私は端から、そこで何かを得ようなどとは思っていませんでした。男性陣が全額出してくれるということで、タダ飯を貪りに私は合コンに出席したのです。
会が始まって、すぐにピンときました。五対五のコンパで、私と同じく、今夜に尽力する気のない様子で酒を飲んでいる男性がいることに。それが、カイちゃんでした。法曹を志すものとして、正しい呑み方をしていたのはあの場でカイちゃんぐらいだったと思われます。
二次会を適当な理由で蹴った私とカイちゃんは、二人だけで近くのバーに行き、そこで意気投合しました。カイちゃんは、清潔感のあるたくましい男性でした。当時大学三年の私よりも七つ歳上で、私にとって、カイちゃんは大人の全てを手に入れているように見えました。真っ直ぐな瞳。綺麗な肌。太い首と、隠し切れないハンサム。私は一瞬でカイちゃんの虜になり、カイちゃんに振り向いてもらおうと、努力するようになりました。
カイちゃんとの出逢いから半年後、晴れて私達は交際を始める運びとなりました。検事になったら、忙しくなるからと、交際を嫌がっていたカイちゃん。彼のその愚直さと不器用さが、たまらなく愛しかったのです。私は心から「仕事が一番。私が二番でいいからね」と言いました。カイちゃんは、申し訳なさそうに笑って「ありがとう」と返してくれました。
カイちゃんと一緒にいると、彼の溢れんばかりの正義感をひしひしと感じることができます。もし、検事になって悪事を公のものにしない人生だとすれば、彼はそれこそ警察官、もしくは弁護士、あとは、消防士などに就いていたかもしれないと思わされます。そうとしか考えられないほど、自分の正義に熱く、信念に燃ゆる男がカイちゃんなのです。
そんなカイちゃんだから、私は彼の浮気を疑った試しなど一度もありません。そもそも、女の扱い方は正直平均点以下だし、顔は良いけど、初心さがたまに傷でもあります。そこも好き、というのが、素直な話なのですが。
カイちゃんの仕事が多忙さを極め始め、私には想定通り我慢が増えました。「仕事が一番。私は二番」なんて偉そうに言ったこと、内心後悔したりもしました。しかし、取り消すことはできません。カイちゃんは、そういう人は嫌いなのです。だから、私も仕事を始めました。
カイちゃんと結婚する予定の私は、ろくな就職活動もしなかったせいで、定職につかない一年を過ごしました。でも、それでは気が紛れてはくれなくて、カイちゃんに内緒で、歯科医院の事務職を始めました。安月給が苦痛でした。それ以上の思い出が残らないような職場でした。
私は、カイちゃんに振り向いてもらいたい一心でした。あの情熱で、再び私を抱いて欲しかったのです。でも、カイちゃんの情熱は全て悪事を裁く為に注がれていました。私に必要なものは何か探します。足りないと気づいたのは、美しさでした。美しさがあれば、カイちゃんは私を放ってはおけない。さすがのカイちゃんでも、私が途端に綺麗になったら、何か不安がってくれるはずでした。美しさの取得に必要なものは、お金です。定職についていない私は、水商売を始めました。最初はキャバで働きました。わりと人気が出て、上場企業に務める男から指名も何度か貰いました。でも、キャバは疲れます。職場の人間関係が特に。もっと素早く、簡単に稼ぎたい。そう思って、私はドレスを更に一枚脱ぎました。
「オクラちゃん、今日も稼ぐねぇ、いいねぇ」
デフォルトで鼻息が荒い黒服が言います。その醜い声で、私は回想から意識を戻しました。
バッグから硬水を取り出し、唇を濡らします。コンビニで買ってきたサンドイッチに巻き付いたビニールを引き剥がし、ふわふわとした白の三角形を、ハムの部分を避けて二口だけ食べました。レタスとハムと、少しのからしマヨネーズを挟んだ質素なサンドイッチ。私は残ったそれを丁寧に包装の中に戻します。
「オクラちゃんの夕食、今日も少ないねぇ」
黒服の言葉に、基本は反応しません。業務内容に関する事項だけ、しっかりと返事をします。別に鼻息の彼も、さしてそれを気にはしていないようです。喋りたいから喋っているという感じ。口はこちらに向けても、手では資料をペラペラと捲っていましたから。
ああ、ハム入りのサンドイッチを買って、ハムを避けて食べる行為は何とも世知辛いものです。しかし、肉は駄目です。後々胃から肉の匂いが微量に漂ってしまって、キスをするタイミングにどうしても臭いますから。客は気づかなくとも、私が嫌なのです。
事実、空腹は継続されています。ただ、その飢えは私にとって何ら日常的なものです。
二口は許されます。ハードワークをこなす身として、最低限のエネルギーが必要ですから。ただ、三口食べたら、そのまま一切れ食べきってしまうかもしれない。私は、サンドイッチ一切れ分の腹の膨れすら、客には見られたくはないのです。そう思うと、私の食欲は簡単に止まりました。最近、体重がかなり落ちました。痩せ過ぎだと、カイちゃんに心配されてしまうぐらいに。
「あんまり痩せると、おっぱい小っちゃくなっちゃうよぅ」
「それって、いけないことなんですか?」
あまりに無礼な黒服に苛立って、つい返事をしてしまいました。
「いけなくはないけどさぁ、オクラちゃん、今より痩せたら、俺的にはちょっと魅力半減かなぁ。我慢のし過ぎはよくないよ。ストレスにもなるしねぇ」
私に一度も金を払ったことがない分際で、彼は何様なのでしょうか。それに、我慢のし過ぎなど、はた迷惑にもほどがあります。女は我慢を装備して産まれ、我慢を強いられ生きているのです。生理痛もないような男に、女の我慢を語られたくはないのです。
遠い記憶、未だブラジャーすらつけないで学校へ行けていた頃、友達に「女の子はね、我慢するのが当たり前なんだよ」と言われて以来、私はそれを教訓としています。友達はこう続けました。「お化粧の為の早起きも、冬にスカート履いたりするのも、赤ちゃん産む時に大変なのも、結婚も、我慢ばっかだよ」今思うと、かなりおませな友達です。
私の肉体に口出しをしていいのはカイちゃんだけです。私の胸を揉みしだく男は他にもいますが、私の胸を躍らせてくれるのはカイちゃんだけですから。割り切れる私だから、この仕事を続けられています。給与は高く、人間関係に縛られない。何より、私が美しさに磨きをかけると、客も喜ぶ。完全な需要と供給の成立。だから私は、案外この仕事が好きです。カイちゃんが知ったら、どう思うのでしょうか。言うつもりはありません。ある程度お金が貯まったら、私はカイちゃんの帰りを待つ専業主婦になるつもりですから。
「まあ、あんま無理しないでよぉ。今日は『ホン』だし」
「はい」
ホン。ほん。本。
「本サロ」なんて言葉は、既に絶滅文化だと考えていました。仮に店を構えていたとしても、それは赤羽や西川口、小山などの風俗一等地に限定されたものだと決めつけていたものですから。しかし、この立川の街にも、本サロが存在しました。
ウチの店は、曜日によってピンサロが本サロへと変わる特殊な営業形態をとっています。通常のピンサロ店を装って、本サロを年中営業している店が見受けられますが、それはリスクマネジメントにどうも欠けます。その点、私の職場は毎週木、金曜日にのみ、本サロへと変化し、客の更なる私欲を満たすシステムが追加されます。そして、嬢にはピン担当とホン担当と、ハイブリットを受け持つ私のような三パターンがいます。ピンのみの子は、当店で本番が行われていることすら知らないように、黒服が上手く回しています。
その為、この本サロ状態については、常連の客とホン担当の嬢、そして黒服だけの間のみ情報共有されます。
広告や小さなウェブサイトに表記されている料金も、木、金曜日以外の通常営業時の値段設定であり、木、金曜日に足を運び、本番を注文する客には「テクマクマヤコン」と受付時や電話で回答してもらいます。そのまんまの意味です。魔法の言葉です。すると黒服から、「本番有」の料金表が提示されるといった仕組みになります。
もちろん、本サロは違法です。ウチの店は、本サロを曜日限定にすることで、限りなく情報の漏洩や拡大を避け続けています。更には、嬢の性感染症等の検査に抜かりのない部分がこの店の良いところです。客の方にも、血液検査の診断結果の提示を本番行為の前の取り決めとして約束しており、客、嬢、スタッフ、ともに安心して違法のセックスを行うのが、サロン「ルナックス」というわけなのです。
今夜はあと九十分が二件、百二十分が一件残っています。九十分の片方は今日が初めての相手です。しくじらない様、最善を尽くしたいところです。
「それじゃあ、オクラちゃん、そろそろ」
黒服が小さなメモ書きを私へ手渡します。客の名前と、オプションの内容にチェックマークがついた用紙。いつもの中肉中背の男です。オプション内容も、さして代わり映えはしません。
「はい。ありがとうございます」
共用の洗面台へ行き、歯磨きを入念に行います。口の中にミント感が残ると客が嫌がるので、マウスウォッシュはしません。歯磨きを終えた私は鏡の前で自分の顔をまじまじと見つめます。私は私に問います。「――今日の私、何点?」鏡の中の私が嗤います。「七十九点。昨日より二点マイナスだよ」
アイラインの引きが甘い。もう少し目尻まで伸ばして、厚さも欲しいところです。私の少しきつい瞳の形には、その方がいい気がします。マイナス一点。グロスのノリが悪い。金曜日はいつもそうでした。木曜日にキスが好きな客がいるせいで、必然的に荒れてしまう。少しリップを高いものに変更した方が良いかもしれません。乾燥していると、色のノリが悪く艶が足りなくなるので。マイナス一点。
「そんなに鏡見ちゃってぇ。今日もばっちり可愛いよ、オクラちゃん」
「ありがとうございます」
嘘です。今日の私は、昨日より可愛くはありません。
適当なことを言う男は信用しない。
それは、ブラジャーを身に着ける前から私に備わっていた、私なりのポリシーでした。
「頑張れ私」
中指を舌で軽く舐め、鼻に近づけます。無臭。よし、行こう。




