六丸真緒—ロクマルマオ― ④
山下公園の広場で学年全体への説明を牧原先生が終えると、ほとんどの生徒は足早に中華街の中へと吸い込まれていった。梅雨空け十日、天気も快晴。この宿泊研修が終わると生徒達には一学期の期末試験が待ち受けている。ここぞとばかり羽を伸ばすつもりの背中を見つめながら、頼むから問題を起こすなよという一心で、生徒を見送り手を振った。
一度教職員が集合し、この後のタイムスケジュールを確認する。ボクとシノは二人で生徒人気も高く、人混みというリスクを踏まえて中華街をパトロールすることになっている。シノはワイシャツの袖を捲り、「行きましょうか」とボクへ言った。生徒がいるから、ちゃんと詩乃宮先生だ。ボクはたまらず畏まって「はい」とシノの後を追うように朝陽門を潜った。
賑やかな中華の様相。教員はお土産を物色したり、食事を中華街内で取ったりはできないけれど、こうしてシノとぶらぶら散歩をするのは楽しかった。シノとボクを見つけた他クラスの女子生徒たちが、肉まんやら、押し売りされたであろう焼き栗を抱え、「あ、詩乃宮先生とマルTだ! なんか食べた? 栗あげるよ!」と楽しげに絡んできたりした。「ありがとうございます。栗の押し売りには注意しましょうね。でないと、宿泊研修の思い出が栗だけになってしまいますから」シノが優しく笑うと、女子生徒達が爆笑した。完璧な切り替えと返し。シノにしか出来ない芸当だ。
途中、八十島先生のクラスに在籍している、あの武田という生徒を見かけた。男五人でわいわいとお喋りをしながら歩く彼。彼を「例外」のように扱った八十島先生は、今の彼の、純真無垢な表情を見ても同じことが言えるのか気になった。「六丸先生と詩乃宮先生だ」武田ではない生徒がボクらを見て指を差した。ボクはシノの前に出て、「楽しんでるか?」と訊ねた。話しかけてきた生徒の背後で、武田がゆっくりと頷くのが見えた。
結局、教員組が落ち着いたのは、生徒達がホテルで夕食を済ませた後の九時頃だった。ボクらも生徒同様バイキングで夕食を済ませ、そのまま部屋へと戻った。生徒は二人一組で一部屋だったが、ちゃんと教員には一部屋ずつ与えられている。十一時の見回り当番まで時間があったので、軽くユニットバスで汗を流すと、十時の見回り当番を終えたシノがボクの部屋へやってきた。
「何か、こう自分の部屋を抜け出して友達の部屋に行く気分って、やっぱわくわくするな」
シノが窓際の椅子に腰をかけた。ボクは給湯ポッドに水を汲み、スイッチを押す。
「ボクら、それを注意する側のはずなんだけどね」
「マルだって別にそこまで厳しくする気ないだろ。派手に暴れたり騒いだりしてなけりゃ。部屋移動して盛り上がるぐらいなら見逃してもいいよ」
「まあ、それはそうだね。どうせここのフロアは端から端までウチの生徒だから」
シノはボクの部屋に入る時、片手にコンビニの袋をぶら下げていた。それが今、テーブルの上に雑に置かれている。まさかとは思ったが、その袋の中には、中華街で売っていたシュウマイと、缶ビールが二本だけ入っていた。
「正気なの? というか、シュウマイはいつ」ボクが訝しげにシノを見た。
「よく見ろ。ノンアルだよ。シュウマイは、さっきどっかの女子生徒が、『これ詩乃宮先生にお土産で買ったから食べてください。先生達、何も中華街で食べてなかったから』とか言ってくれたよ」
「さすがのモテ具合だね。まあ、それならいっか」
ボクはベッドに座って、シノと一緒にプルタブを弾いた。缶をぶつけ鳴らし、苦い蜜味の液体をゴクゴクと身体に流し込む。一日中動き回ったことや、シャワー浴び終わりということも相まって、それはたまらなく美味しかった。
「シノはさ」
「あん?」シュウマイに付属のからしをたっぷりと付けて頬張っていたシノが、咀嚼をしながらこちらを見た。
「本当に、変な人だなって思うよ」
「何がだよ」
「よくそんな簡単に切り替えられるよね。自分を」
「仕事なんてそんなもんだろ。プライベートと教師。切り替えらんなきゃやってられない」
「それでも、ボクにとっては特殊に感じるんだ。シノってちょっと普通じゃないから」
「普通って、何だよ」
「え?」大ぶりのシュウマイに伸びていたボクの箸が止まった。
「いやさ、皆が当たり前のように普通って言葉を使うけど、俺にはそれがイマイチわかんねんだよな。普通だから、普通じゃなくちゃ、普通に、って。お前らの判断基準で普通とされるものは、俺にとっては全然普通じゃなかったりするんだよ。そもそも、普通なんてものはないのかもしれない。皆が皆、普通の外で暮らしてるんだ」
「つまり、例外ってこと?」
「まあ、ニュアンス的にはそうかもな。皆が例外で、その例外を伸ばしたり、整えたり、好きなようにやっていいんだ。それがこの国では許されてるはずなんだ。それを手助けするのが、教育なんだよ。例外をスタンダードにしていく。そこに、教育の本質はある。あと、人格の完成な。その言い方は役人と法曹臭くて俺は嫌いだけどさ」
シノが言った言葉が、ボクの胸にゆっくりと刺さった。例外だったから。普通じゃないから。例外を畏れたから。普通を求めていたから。ボクに刺さったのかもしれない。
ボクは、シノの友達だ。シノの同僚だ。教師として尊敬しているし、一緒にいると楽しい。でも、それだけじゃない気もしていた。シノが宇井と直接的な接触を始めた時に沸いた感情があった。「教師と生徒の一定の距離感はどうしたんだよ」と、ボクは内心シノに言いたかった。土曜日にやる仕事も無いのに、宇井と会うために学校へ足を運ぶシノ。それは君の理想に反する行為なんじゃないか。教育理念から脱線しているんじゃないか。
ボクの心は、素直では無い。嘘をついているわけでもない。ボクはボクで、シノとはまた別のもう一つがある。
「ノンバイナリージェンダー」
「あ?」単語を呟いたボクに、シノが聞き返す。「何?」
「シノ、ノンバイナリージェンダーって知ってる?」
「ああ、セクシャルマイノリティのやつだろ」
「ボクね、それなの」
咄嗟に出たカミングアウトだった。野球部の武田の顔が過ぎった。悪態をつく八十島先生と、理解したふりが好きな真紀子先生が浮かんだ。シノの顔を見るのが恐くなって、ボクは俯く。ゆっくりと顔を上げると、シノはじっと、こちらを見つめていた。
「それで?」
「驚いた?」
「多少」
「ボク、騙してたんだ、シノを」
「おい」
「うん」
「俺のこと、馬鹿にしてるだろ、マル」
「なんで」
「騙してるって、お前今言ったろ」
「うん」
「今ここでお前に騙されたって思う奴は、社会性の欠片も無い、教養をちっとも蓄えてない馬鹿な奴だろ。ノンバイナリージェンダーってことは、騙してたことにはならねえよ。マルが今どっちなのかは知らねえけど、俺に見せたことのない姿があっただけだからな」
彼がノンバイナリージェンダーについて知っているとは予想していなかった。ボクのマイノリティは少し一般的なものからは外れている。シノは「今どっちなのか」と言ったが、それがとても的確だ。ボクの性別は、時と場合によって入れ替わる。男と女、そのどちらかに限定されることのない性別。中間でゆったりと漂う性自認は、流動性を持ち、第三の性とも呼ばれている。具体的に言えば、ボクは体感として、どちらの性別でも無いアジェンダーと、男から女へ変わるトランスジェンダーの中間だ。男性であることに違和感を覚え、女性になることに魅力を感じるが、男性器をそぎ落としたい欲求まではない。そして、複雑ではあるが、性的志向に関してはボクのその時の性自認に強く依存している。ボクが女であれば、シノのような男性に恋をするし、ボクが男であれば、アンナ先生に欲情することだって可能だった。
ボクは、シノの前ではよく入れ替わる。シノがボクに触れた瞬間、コロッと女のボクが声をあげたりするし、教育論について語り明かしていると、男のボクがシノに抵抗しようと足掻いたりする。そして今のボクは、きっとシノに見惚れてしまっている。シノの鋭い目つきと、雑な語尾。そのたくましさに、心がじんじんと痛んだ。シノがボクの目の前にいる。窓の外に広がる夜景が、シノを映えさせている。シノの香りがこの部屋に漂う。中華街では意識することの無かった、シノの性。ボクはゆっくりと首を落とし、「今は女だ」とシノに打ち明けた。
「そうか。不思議っちゃ不思議だよな。入れ替わるなんて、想像はできない。でも、それを聞いてなんで俺がマルとだけ仲良くしたくなるのか、納得しちまったよ」
「納得?」
「そう。俺も、例外なんだ」
「シノの例外は何さ」
「知りたいか」
「知りたいから、聞いてる」
ボクは少し期待していたのかもしれない。シノが自分と万が一同じ境遇なら、今よりもっと強い結びつきが生まれるかもしれないと。でも、それは期待の範疇を超えない。シノは別に、ボクとは違う。「今は言えない」ボクをはぐらかすシノは、哀しい目をしている。知りたがるのは罪だ。シノが打ち明けたくなったら、それでいい。
「でも、マル」
「うん」
「例外を打ち明けられるほど、俺は心の準備ができてない。でも、例外は誰しもが抱えてるものなんだ。それを否定する権利は誰にも無いし、例外を自由に扱い、自分なりに幸福な人生を歩もうとする足枷になっていいやつなんて、この世には誰一人だっていないんだ、わかるか?」
「わかるよ」
「俺がマルに、革命って言ったの覚えてるか」
「うん」
「俺が今考えてる革命っていうのは、この例外に苦しむ人々を、よりよい考え方に導いて、幸福へ連れ立ってやるってもんなんだけどさ」
「つまり?」
「偏見を持たずに聞いてくれ。マルは、宗教をどう思う?」
意外だったのは、宗教勧誘が始まったことよりも、シノに何かを信仰する気持ちがあるという点だった。でも、それは全てボクの決めつけがそうさせているだけだ。シノにも事情がある。その事情を聞かずに、何かを断定することが悪なのは、ボクが一番よく知っているはずだ。
「無宗教で信仰心も乏しいボクには、関係のない世界だと思ってる」
「俺は今からマルを勧誘する。ただ、冷静に判断してくれ」
「直接的だね」
「悪徳じゃないからな。マルをカモにするつもりで話すわけじゃないから。俺が最近所属してる団体の話だ。『離柘榴の会』っていう新宗教の教団なんだけど、結成して日数が短くて未だ知名度も何も無い。水面下で活動してるような組織だ。でも、俺にとってその場所は凄く心地良い。面白いのが、教祖がいないんだよ、その教団には」
「教祖がいない? どういうこと?」
「離柘榴の会は組織ぐるみで国家テロを起こしたり、狂信者から金をむせびとったりはしない。一円も払わせないし、人を殺める薬品を作らせたりもしない。ただ、繋がり合うことを目的としてるんだ」
「繋がり合うって、曖昧だな」
「月に一度の会合があって、そこに、参加したい人間が参加する。勿論教祖はいないから、教えを乞うことはないし、絶対神があるわけでもないから、教典をひたすら読んだりもしない。勿論、高い壺を買わされたりもしない。あれだよ、簡単に言えばディベートをするんだ。今、自分たちが直面してる問題について、真剣に語り明かす」
「それって、宗教団体って呼べるの?」素朴な疑問だった。宗教に興味がないボクにとって、その団体が新興宗教と名乗れるほどのものなのか、ボクには判別がつかない。
「呼べるさ」しかし、シノは確信を持ってそう言った。「神は自分自身であり、教義だって勿論ある。法人化されていないからお遊びだって揶揄されるかもしれないけどな。来てみればわかる。凄い場所なんだ。これ、名刺」
シノから渡されたのは、柘榴の花が描かれた白い名刺。『離柘榴の会』ロゴマークであろうか、その花に寄り添う形で、何かの生物が描かれていた。牛と人間と羊の頭に、何か鳥の脚、蛇の尻尾のようなものもついている。記憶はないが、見覚えはあった。
「興味沸いたら、いつでも声かけてくれな」
そう言い残し、シノはシュウマイを二個分、ボクの分だけきっちり残して部屋を出て行った。まるで最初からこの勧誘をしようとボクの部屋に転がり込んで来たみたいで、少し不快だった。
残っていたビールを飲み干す。時間が経ち、ホップ缶も抜けた偽ビールは、ボクのカミングアウトと宗教勧誘の味が混ざって、ただ苦いだけで喉の奥を通り過ぎていった。




