六丸真緒—ロクマルマオ― ①
土曜日の正午。職員室に設置された薄型の4Kテレビが、緊迫感を削いだ情報番組を垂れ流している。画面に、虹色の旗を掲げる人々が映る。PRIDEと大きく書かれた横断幕を広げ、市街地を行進している。懐かしいニューヨークの街並み。一昨年、一年間だけ留学した時の記憶が鮮明に蘇った。「アメリカでは、このようにして一ヶ月間にわたり、ほぼ全ての都市でレインボーをモチーフとした大規模イベントが開催されています。仮装姿の方も見受けられるこちらのイベントは、LGBT+の祝祭で……」キャスターが映像の解説をしていると、ボクの対面で同じくテレビを観ていた八十島先生が「なんかよ、なんかこういうの、俺は好きじゃねえんだよな」とコメンテーターよりも先にコメントを残した。
一応、職場の上司である八十島先生のそれが独り言になってしまわぬよう、ボクはすかさず反応を示す。「どうして好きじゃないんですか?」
車検の企業広告がプリントされたうちわで顔を扇ぐ八十島先生が答える。
「こんなんはさ、本来そっとしておくべきなんだよ。ゲイだのレズだのに理解がないとあーだこーだ言ってくる輩がいるけどな、実際問題、自分がゲイじゃなかったら彼らの気持ちなんぞわかりっこねえだろ」弛みきった二重顎に滲んだ汗を、ハンカチで拭いながら悪態をつく八十島先生。季節は梅雨入り前。うちわを扇ぐスピードが加速していく。「俺はよ、でかでかと話題にすんの、余計にダメだと思うわけよ。正味、知るかって感じだしな、アハハ」脂汗を浮かべた額でボクを見た八十島先生の発言は、本当に教育者なのかお前は、と疑いたくなるようなものだった。
ボクが愛想笑いを返すと、会話を盗み聞きしていた真紀子先生が「六丸先生、八十島先生の態度と考え方を許してあげてね」と、まるでボクの心を見透かしていたかのように、八十島先生の擁護に回った。真紀子先生の香水と厚化粧は、今日も人一倍煩くてキツくて濃ゆい。
「いえいえ、ボクは別に」
「八十島先生のクラスの子で、一人、性同一性障害の子がいたんですって」真紀子先生は途端に小声で喋り始めた。あたかもそれが、誰かの前科をボクへ耳打ちするみたいに。「それで、ちょっと問題になりかけたそうよ。だから余計に嫌なんでしょ? 大事にしてる感じが、ね」
八十島先生が音を立てながら珈琲を啜り、うちわで机をカンカンと叩いた。
「そうだそうだ。また厄介な仕事増えちまうところだったんだよ」厄介とは。「ウチの野球部の武田が、まさかゲイだったとはな。丸坊主の野球少年が同じ男を好きになるなんて誰が予想できたよ。野球部の部室で、練習着の盗難事件が多発して、一人一人顧問の二村先生が取り調べしたら武田がカミングアウトしたわけ。『俺がやりました。俺は男が好きなんです』って。二村先生と俺、目丸くして見つめ合っちまったよ。こんな話が出回ったら、いじめに繋がるのは確定だろ? 普通に女を好きになれよな。スポーツ少年なんだからよ」
「もう。八十島先生もそれぐらいにしときなさいよ。まあ、私は少しだけ分かってあげられるけどなぁ。武田くんの気持ち。性同一性障害と上手く向き合っていくのって、大変だろうけどね」真紀子先生が誇らしげな表情でそんなことを言った。武田という生徒は、別に男が好きだと言っただけで、それは性同一性障害であることを裏付ける事実にはならない。性的志向が同性に向く、同性愛者なだけだ。彼の性自認までが外見と分岐していると思い込むのは、真紀子先生の思い違いである。
「まあよ、何事も穏便に。それが一番だよ」八十島先生が長い溜息を吐く。
「それはそうね」真紀子先生が同調する。
古い世代の人間だから仕方ないのだ。こういう人間が順を追って死んでいけば、いずれセクシュアルマイノリティを抱える人々の「例外」というレッテルが取り払われるだろう。それがいつになるかは分からないが、教壇に立つ人間の知識がこの次元で落ち着いてしまっている以上、近い未来に成し遂げられる気はしてこなかった。
ボクは居心地の悪さに耐えきれず、辟易のままに後ろを振り返って窓の奥に広がる校庭を見つめた。土曜日なので、校庭に人影はない。昨年、かなりの予算を費やして作った人工芝のグラウンドが、寂しそうに青々と一面を埋め尽くしている。人工芝のせいで、野球部は校庭での練習が困難になってしまった。あの無駄な人工芝グラウンドと八十島先生は、武田くんの高校生活においては弊害なのかもしれない。そう思った。
しばらく眺めていると、スクールバッグを抱えたウチのクラスの女子生徒が人工芝を踏みつけながら横切った。宇井渚だ。ボクは腕時計で時刻を確認し、「いくか」と独り言を溢した。
作成中の学習指導計画を閉じ、席を立つ。一瞬、八十島先生と目が合ったが、彼はすぐに視線をパソコンへと戻し、飛沫をデスクトップに撒き散らしながらくしゃみを二回した。




