新約・羅生門
芥川龍之介『羅生門』を現代的に新解釈・アレンジした物語です。
十一月の夜、都心の高架下は冷たい雨に洗われていた。
街明かりもほとんど届かない一画、廃ビルのシャッターの前に、失業者の男は佇んでいた。
かつて町工場が入っていたというそのビルは、三年前から空き家になっている。
正面玄関は重いスチールのシャッターで閉ざされ、雨が鉄板を打つ音が、夜の街の静けさにリズムを刻んだ。
シャッターの脇には、ブルーシートとダンボールで組み立てられた小屋が三つ並ぶ。
中からは、濡れた新聞紙と古い布団の匂い。
誰かのいびきと、ラジオの小さな音が僅かに聞こえる。
男は、その隅でリュックひとつを抱え、濡れた肩をすぼめていた。
スーツの上着はほつれ、靴下にも雨が染み込んでいる。
数か月前までオフィスでPCの前に座っていた自分が、いまはここで雨宿りをしている。
生活が崩れ落ちる音は、意外と静かなものだった。
家賃は未払い。スマホの画面には督促の通知が並ぶ。
友人たちの結婚や昇進の報告がタイムラインに流れるたび、親指が凍りつく。
冷えた胃袋にカップ麺一杯分の金しか残っていない。
そのとき、男は、シャッターの前で何かをしている女に気付いた。
年齢は五十代にも見えるし、もっと上にも見えた。
痩せ細った手首、黒ずんだ帽子、まるで道具と化したような無表情。
女は濡れたビニール袋から、男物のジャンパーを取り出した。
昼間にこの界隈で見かけた老人が、今日になって姿を消していた――その老人の持ち物かもしれない。
女はジャンパーの袖をナイフで切り、古びた自分のコートに縫い付け始めた。
「それ、人の物ですよね」
思わず声をかけた。
女は針を止め、目だけをこちらに向ける。
「……死んだ人のだよ」
「でも、それは――」
「死人には寒さも暑さも関係ない。あたしは生きてる。生きてる者が残されたものを使う。それだけのことだろう」
女の声は低く、乾いていた。
縫い目に歪な銀色の糸が通るたび、シャッターの金属音が重なる。
男は言い返せなかった。
明日生きるためなら、どんな手段でも正当化できるのか。
自分だって同じ状況になれば――
ふと視界の端に、コンビニの灯りが差した。
スーツ姿の中年男が、自転車のかごにブランドの紙袋を載せ、店に入る。
紙袋の隙間から白い角の封筒が覗いていた。
男の心臓が、冷たく跳ねた。
もし、あれを盗れば……数日分の食い扶持と、もしかしたら家賃の足しにもなるかもしれない。
「やってみなよ」
女が針を止めて呟く。
その目は、誘うように光った。
「戻る場所なんて、もうないんだろ。なら、生き延びるしかない。誰かを蹴落とさなきゃ、生きていけない夜もある」
男は息を飲んだ。
足元の水たまりが、シャッターの錆と僅かな街明かりを映している。
コンビニの男は、しばらく戻りそうにない。
男は身を低くして、自転車の前かごに近づいた。
紙袋の紐を指でずらし、封筒に手を伸ばす――
――その瞬間、背中で短い電子音が鳴った。
振り返ると、女がスマートフォンを構え、レンズの奥からこちらを真っ直ぐに見据えていた。
男が固まっていると、女はゆっくりとスマホを反転させ、「REC」の赤い文字と、時刻が刻まれた画面を男に突きつける。
さらに女が指先で操作すると、画面には、男が封筒に手を差し入れる“決定的瞬間”の動画が再生された。
雨音の下、動画の再生音だけが妙に生々しく響いた。
「いい映像だねぇ。音も顔も、しっかり入ってる」
女の口元がつり上がる。
「これをネットに上げれば、一発でお縄だ。……でもさ、あたしも生きるために“なんだって”やるから、ちょっと話をしようか」
「……充電、どうしてるんです」
「NPOのステーション。夜のうちに満タン」
女は当然とばかりに肩をすくめた。
「発信力は、冷たくならない」
その夜から、男は女の言いなりになった。
盗品の換金、SNSでの情報収集、夜中の使い走り。
断れば、あの動画がいつでも晒される。
逃げ場はなかった。
自分も女も、どちらもシャッターの“外側”にいる。
夜ごと、廃ビルの金属扉が放つ冷たさだけが現実だった。
やがて、男は覚悟を決めた。
もう、これ以上は、下には堕ちない。
ならば、この女と同じことを、自分もやるだけだ。
ある深夜、女が油断した隙に、男は彼女のスマホを奪った。
同時に、自分のスマホの録画を再生する。
そこには、女が死者の遺品を剝ぎ、笑いながら自分を脅す一部始終が動画で記録されている。
「お互い、持ってるんだ。生きるために、なんだってやるネタを」
雨がシャッターを打つ音が大きくなる。
女の目が、初めて怯えたように揺れた。
男は、女の懐から財布と封筒を奪い、ブルーシートの小屋を振り切って走り出した。
シャッターの向こうに、かつての“社会”はもうない。
金属の門を背に、男は冷たい雨の夜の街へと駆け出す。
握りしめた金の重みに、奥歯を噛んだ。
今は生きるほうへ流れる。
それだけのことだ――