騎士マルクス、実力を思い知らされる。
ふと、身に覚えのある香りで目が覚めた。日課だった早朝の鍛錬の際に、胸いっぱいに吸い込む、あの香り。朝露の香りだ。
瞼を開けると、白い天井と壁が闇夜に包まれた空間に浮かんで見えた。左腕で瞼を触ろうとして、何かに引っ張られる感触に少し驚く。左前腕辺りに、白い茎の様な物が繋がっているのを確認するや否や、不気味さを感じた私は反射的に繋がれた茎を引き抜いた。得体のしれない気色悪さを振り払うように、自分の頬を叩いて正気を取り戻すと、上体を起こして部屋と己の身体を見渡した。
先ずは状況の整理である。私はアーチ橋から落ちたが、奇跡的に一命を取り留めた。しかし先程の眩い部屋で異国の衛兵達に捕縛され、現在投獄されている。先程の左腕に繋がれていた白い茎も何かしらの意味があるに違いない。頰を叩いた際にも感じたが、警護任務の前に従者に綺麗に剃り上げて頂いた髭が、雑草の如く生い茂っている感触がある。かなり長い間、深い眠りについていたのだろう。
そして一番気になるのは、私が先程まで寝ていた牢屋であろう。いつの間にか肌触りの良い上等な寝間着に包まれ、恐ろしい程に白いシーツと布団の中で眠っていた。ここに収容された際に着せられたのだろうが、スクイン王国騎士団の副団長という事を考慮しても、捕虜には不釣り合いな待遇である。
枕元には、棚に飾られた花と、何に使うのか分からない黒い板がこちらを向いている。床は石材の様に冷たくもなく、木材の様にささくれていない、変わった質感であった。何度となく敵国の捕虜になったことがある私だが、もはや牢屋と言うよりも『迎賓館』と形容できるほどである。
とはいえ、いつまでもこの“迎賓館”に長居する気は無い。
「やはり祖国へ帰らなくては。」
寝床から身体を起こした私は、部屋の中に得物があるかを探し回った。とはいえ、ここは迎賓館といえど牢屋の中である。武器や防具といったものがあるとは思えなかったが、代わりになる何かを探した。
寝間着の上からシーツをマントの様に羽織り、横たわるベッドの柵や謎の黒い板を打撃武器にでも使おうとも思っていたが、暗闇の中で見覚えのある鈍い輝きが、月明かりを受けて輝いていた。
「これは…、私のバックラーか!?」
一切の装飾を排除した造形。打撃で生じた僅かな窪みと、握りを覆う擦り切れた皮革。間違えようがない。私が新兵の頃から使用してきた、強靭で錆びることも汚れることも無いグランマイト鉱石を用いて仕立てられたバックラー『グランウォール』である。盾自体も立派な武器である為、牢屋の中に放置されている事が非常におかしいのだが、『小型の盾』であったが為に、おそらく驚異と見なされなかったのだろう。しかし、バックラーというものは剣の心得のある者が使えば、剣を受け止める盾だけでなく、斬撃を払い除け細剣を叩き折り、相手の肉体を叩き潰す立派な『武器』となる。これさえあれば、頼もしい事この上ない。
一番の得物を右手に握り込み、弱った心を勇気で満たした私は、変わった造りの入口の扉に手をかけた。どうやら、横へとずらして開ける様式の扉のようだ。一度だけ、東洋の国へ遠征した際に視察した民家の戸が、こういった“引き戸”という様式だったのだ。つまるところ、ここは東洋の国なのだろう。軽く引いてみたところ、やはり鍵がかかっているようで扉が開くことはなかったが、ふと頬に風を感じた私は、反射的に牢屋の窓の方へと振り向いた。窓は何故か施錠されておらず、左へと僅かに開いていたので全開にすると、夜闇から肌寒い風がマルクスの身体を包んだ。
窓に腰掛けた私は、外壁に僅かにある縁に手足の指先を引っ掛けて降りてゆく事にした。かつての大戦の際に、世界掌握の為に魔術士を利用し悪事の限りを尽くしたケニグムア帝国の城壁を攻め込んだ時のことを思い出した。まだまだ若造で何度も滑落しかけた当時の私とは違い、幾多もの障害を乗り越え鍛錬を重ねた今の私では、壁の昇り降りくらい容易いものだ。
滞り無く地上へと到達した私は、近くにあった茂みの中へと身を滑り込ませ、周囲を警戒する。周りには開けた道と、これまた2つの輪がついた銀色に輝く珍妙な物体が数台ほど、屋根の下に停められていた。虫の様に細く、芸術品の様に緩やかな曲線を描く骨が伸び、その末端から放射状に伸びた細い骨が、見事なまでの真円を描いている。
その美しさと好奇心に駆られ、駆け寄ってじっくりと観察したいものだが、今は脱獄の身。惜しみつつも茂みに隠れながら、芸術品とは反対の開けた道の端を通る事にした。
障害物も少なく開けた道ほど、危険極まりない場所は無い。特に視界を暗闇で満たされている状況では、どこから奇襲を受けるか分からないものだ。だからこそ、こうして慎重に茂みの中を進んで――。
「ハァ…、フェッ…、ブェックシャァ!ブエックシュァッ!」
マズい。非常事態である。鼻の奥で何とも言えぬ不快感が表れたかと思うと、意志に背く様に“スタルヌティーレ”が止まらなくなった。伝染病に感染した初期症状なのか、魂を肉体から追い出す為に、魔術士が予めかけておいた呪いなのだろうか。なにはともあれ、こういう場合は「神のご加護を」と唱えるべきなのだが――。
「アッ、神のごアックシュァ!ごかヘッブシッ!へベシャァラ!はぁ、はア゛クショァッ!!!ッヘイッ!かみヘァックシャァ!」
マズい。スタルヌティーレが止まる気配が無い。堪らず立ち上がってしまった私は、スタルヌティーレの連発で鼻から垂れてきた液体をマント代わりのシーツで拭う。このままでは衛兵に見つかる可能性もあるが、止めどなく鼻の奥から湧き水の如く溢れてくる。もう私は一生このままなのだろうかと諦めかけたその時、視界の端に白い何かが現れた。呪いをかけられた哀れな私を見かねて、何者かが白い布切れを差し出してくれたようだ。
「ヘブシャッ!!!おおっ!すまないな。…ん?」
差し出された白い布で鼻を拭いながら顔を上げると、顔を隠した三人の黒い甲冑姿の者たちが、心配そうにこちらを見ていた。
「うわぁぁぁぁっ!?!?」
その瞬間、私は驚きの声と共に反射的に四肢を動かしてしまった。差し出してくれたであろう1人目の顎を左拳で揺らし、何か黒色の杖のような物を構えた2人目の鳩尾にバックラーを叩きつけ、3人目は体重を乗せた蹴りを腹部にめり込ませると、揃ったように甲冑姿の者たちは崩れ落ちるように倒れた。
「大丈夫か!?本当にすまない!驚いてしまって、つい叩き込んでしまった!悪気は無いのだ!許してくれ…。」
得体の知れぬ相手だが、名乗りもせず反射的に暴力を振るってしまったのは、こちらの過失である。幸い気絶しているだけの様で少し安心した私は、速やかに立ち上がり場を離れようとしたが、新たに現れた“殺気”を感じて顔を上げた。
先程の者達と同じような出で立ちをしているが、歩き方からして女性であると直感した。しかしながら放たれる殺気は、知性の欠片もなく対話すらも拒むような怪物のようにも思える。歴戦の女戦士か、あるいは『本物の怪物』なのだろうか。先程の驚きと殺気でスタルヌティーレが収まった私は、疑念を抱きながらも立ち塞がった戦士と対峙する。
束の間の静寂が流れた後、先に仕掛けたのは私であった。バックラーを構えながら右脚で地面を蹴り上げ一気に相手との間合いを詰めると、右手に握りこんだバックラーで相手の顎を狙う。
しかしながら私は、百を数える合間に冷えた地面へとひれ伏す事になる。
私の一撃が届く前に相手が視界から消えたかと思うと、腹部に強烈な痛みが走る。反射的に私が腹を抱えた瞬間、まるで水が岩を穿つように脛や首筋や間接に鋭い殴打が幾重にも入る。正確な急所攻撃で体勢を崩される為に、間合いを取ることもバックラーによる防御すらも許されず、私は「卑劣で騎士道の精神に反する」相手の攻撃の効率性と恐ろしさに戦慄した。
しかし殴られ続けるわけにはいかない。ここで私は反撃に出ようと相手の左拳を手のひらで受け止めたが、相手は瞬時に私の両腕に絡みつくように締め上げると、身体が宙を舞った。
素手の女戦士にいとも簡単に投げられ硬い地面に叩きつけられた私は、ただ夜が明け始めた金色の空を眺めながら己の無知と無力さを痛感し、深い絶望感を覚えることしか出来なかった。
後に彼女から聞いたが、彼女が習得していた格闘術は「クラヴ・マガ」という、戦乱が絶えない国家で開発された軍隊格闘術だそうだ。もう二度と味わいたくないと、私は心の底から思ったものだ。




