第49話『やっぱり、メイドは最高だ』
ようやく、大きな肩の荷だった叙爵式は終わった。
――はずなのに、僕の心は少しも軽くなっていなかった。
「はぁ……」
王都からの帰りの馬車の中で、思わずため息が漏れる。
揺れる車内で天井をぼんやりと見つめながら、頭の中だけが妙に忙しかった。
本当なら、面倒事を避けるために専属メイドたちは屋敷に置いてきた。
それなのに――結果的に一番厄介なことを引き起こしてしまったのは、他でもない僕自身なのだ。
あの時は、あれが正しいと思った。
間違っていないと、胸を張って言える。
だが冷静になって考えてみれば、相手は侯爵。
王都でも名の知れた、影響力のある貴族だ。
もしかしたら、これから先――
理由の分からない嫌がらせを受けるかもしれない。
遠回しな圧力や、面倒な横やり。
そういうものが、当たり前のように降ってくる世界なのだ。
時間が経つにつれて、そんな想像ばかりが頭をよぎる。
考えなくていいはずのことまで、勝手に膨らんでいって――
「……考えすぎ、かな」
そう自分に言い聞かせても、気分はなかなか晴れなかった。
重たい気持ちのまま、馬車は淡々と王都の貴族街を進んでいく。
整えられた石畳や立ち並ぶ屋敷の景色が流れていくのを、僕はただぼんやりと眺めていた。
やがて、王都の別邸である屋敷の前に馬車が止まった。
「お疲れ様でした、坊ちゃ……いえ」
御者台から、エリーゼの声がかかる。
「これからは、クラウス様とお呼びしなければなりませんね」
「はは……なんだか、寂しくなるね」
思わずそう返すと、エリーゼは一瞬だけきょとんとしたあと、
すぐに心配そうな表情でこちらを見た。
「どうかされましたか?」
少し言葉に詰まりかけて、僕は曖昧に笑う。
「本当に、ちょっと疲れただけだよ」
「……そうですか。それなら、よろしいのですが」
実際、精神的にも体力的にもヘトヘトなのは間違いない。
できることなら、このまますぐベッドへ倒れ込みたい気分だった。
そんなことを考えながら、屋敷の扉の前に立ち――
ゆっくりと、取っ手に手をかける。
そして、扉を開けた瞬間――
胸にまとわりついていた不安は、
すべてどこかへ吹き飛んでいた。
『『お帰りなさいませ、ご主人様』』
声を揃えて迎えてくれたのは、並んだ専属メイドたち。
満面の笑みでこちらを見るプルメア。
少し照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに胸を張るニア。
平静を装いながらも、必死に恥ずかしさを押し殺しているセラ。
そして――なぜ私まで、という訴えかけるようなジト目で見つめてくるネーヴェさん。
その光景を視界に収めた瞬間、
「でゅふゅぅぅぅ……!」
理性より先に感情が決壊し、僕は歓喜の声を上げながら、
そのままの勢いでメイドたちに抱きついていた。
「な、なにしてるニャ!?」
「ご、ご主人様!?」
「ちょ、ちょっと待て……!」
「……離れて」
四者四様の反応が返ってくるが、正直、今はどうでもよかった。
張り詰め続けていた気が、音を立ててほどけていく。
叙爵式で溜め込んだ緊張も、
貴族たちの探るような視線も、
アーヴィング侯爵とのやり取りも――
すべてが、この一瞬で遠ざかっていった。
……やっぱり、メイドは最高だ。
僕の心の拠り所であり、
どんな不安も、重圧も、面倒事も、
問答無用で吹き飛ばしてくれる存在。
考えてみれば、答えは最初から決まっていたのかもしれない。
貴族社会がどうだとか、侯爵がどうだとか、
そんなものに怯えて立ち止まるために、
僕はここにいるわけじゃない。
僕は――
理想のメイドたちと、この幸せな時間を、
できるだけ長く、できるならずっと味わっていたい。
そのためなら、多少の嫌がらせや面倒事くらい、どうだっていい。
そうだ。
全部どうだっていい。
世界がどう思おうと関係ない。
貴族が何を企もうと、知ったことじゃない。
僕には、メイドがいる。
そして、もっと迎え入れたいメイドがいる。
だったら答えはひとつだ。
この身も、この立場も、この男爵位も――
すべては、最高のメイド環境を築くために使う。
そう、改めて心に決めた瞬間、
セラの肘が、無言で僕の脇腹にめり込んだ。
「……変な決意を固めるな。顔に出ている」
最高だった。
◇◇◇
ひとしきりの騒ぎが落ち着いたあと。
エリーゼが淹れてくれた紅茶を味わい、全員がそれぞれの定位置に戻った頃だった。
ついさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返った室内で、セラがふとこちらを見る。
その視線は咎めるものではなく、確かめるような静かなものだった。
「――で、何があった」
冗談めいた響きはない。
自分では普段通りのつもりだったが、セラの目は誤魔化せなかったらしい。
「たしかに……扉を開けたとき、少しお疲れのご様子でしたね」
プルメアの穏やかな声が重なる。
気づけば、全員の視線が自然とこちらに集まっていた。
どうやら、誤魔化せているつもりだったのは僕だけだったようだ。
僕は小さく息を吐いた。
「実はね……」
叙爵式で起きた出来事を、順を追って話す。
領地の下賜が告げられたこと。
その場で異を唱えたアーヴィング侯爵の存在。
そして、思わず口を挟んでしまった自分の行動も、包み隠さず。
話し終えた瞬間、ニアが声を上げた。
「にゃ!? 侯爵相手に口出ししたのかにゃ!?
それ、喧嘩売ったようなものじゃないのニャ!?」
「いや……さすがに、そこまでじゃないと思う……。たぶん」
自分でも歯切れが悪いのは分かっていた。
その様子を見ながら、セラはしばらく黙り込む。
考え込むように視線を落とし、やがて静かに口を開いた。
「……少し、引っかかるな」
「引っかかる?」
「侯爵の言ったこと自体は、内容だけ見ればもっともだ。
十歳そこそこの子供に領地を与えるなど、常識的に考えれば、
疑問が出ないほうがおかしい」
「……確かに」
「だが問題は、そこじゃない」
セラは一拍置いた。
「それを“誰が言ったか”だ」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「影響力のある侯爵家が、あえて公の場で異議を唱える。
それを王が正面から否定する――そうすれば、どうなる?」
答えは、考えるまでもなかった。
「……他の貴族は、もう何も言えなくなる」
「そうだ」
セラは静かにうなずいた。
「いわば、貴族社会の腹芸というやつだ。
反対役をあらかじめ用意し、それを潰すことで場を収める」
叙爵式の光景が、鮮明によみがえる。
王に直言する侯爵。
それを受け止め、明確に否定する王。
そして、沈黙した大広間。
……言われてみれば、確かに筋は通っていた。
僕は思わず頭を抱える。
「じゃあ僕は……本当は黙っていればよかったところで、
余計なことを言ったってこと?」
セラはすぐには答えなかった。
その沈黙こそが、何より雄弁だった。
「……そういう可能性も、ある」
少しだけ言葉を和らげて、セラは続ける。
「もちろん、侯爵が本心から異を唱えた可能性も否定はできないがな」
僕は深く息を吐いた。
「そういうことなら、事前に言っておいてほしかったよ……」
本音が、ぽろりと零れる。
前もって知っていれば、こんなふうに無駄に悩んで、
勝手に不安になることもなかったのに。
肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
不安は確かに消えた。
だが、その代わりに残った感情は――
「やっぱり、貴族社会って面倒だね……」
ぽつりとこぼしたその言葉に、セラは小さく息を吐いた。
「ああ。だから私は、嫌いなんだ」
短い一言だったが、不思議と腑に落ちた。
不安はひとまず消えた。
けれど――貴族社会という場所が、
想像以上に面倒で厄介だという評価だけは、
むしろ強まってしまった気がする。
そう思うだけで、胃のあたりが重くなる。
願わくば、これから通う予定の学園では、
こんな面倒な腹の探り合いとは無縁であってほしい。
切実に、そう思わずにはいられなかった。




