第41話『旅立ち』
朝の空気はまだ少し冷たかったが、その中にほんのわずかに春の匂いが混じっていた。
屋敷の前では、使用人たちが慌ただしく動き回っている。
次々と荷が運び込まれ、馬車の荷台には僕たちの荷物が積み上がっていった。
王都にいる間、僕たちは王都にあるヴァイスベルグ家の別邸で暮らすことになる。
いわば――引っ越しのようなものだ。
「おい、馬鹿猫! サボってないでさっさと運べ!」
「ニャー! 馬鹿猫って言うなこの筋肉馬鹿騎士メイド!」
セラの鋭い声に、ニアが尻尾を逆立てて飛び跳ねる。
荷箱の上でふてくされた顔をして、にゃーにゃー文句を言う姿は、どう見ても仕事中というより喧嘩ごっこだ。
セラは眉をひそめつつも、わずかに口元を緩めている。
周囲の使用人たちは苦笑しながら距離を取り、
僕はそのやり取りを眺めながら、つい頬がゆるんだ。
「……まったく、出発前から元気だなぁ」
でも――なんだか、少し安心する。
王都に行こうが、学園に通おうが、
たぶん僕のまわりはいつもこんな調子なんだろう。
騒がしくて、少し手が焼けて、でもどこか心地いい。
そんな光景がずっと続く気がして、思わず小さく笑ってしまった。
そこへ、父上と母上が姿を現した。
使用人たちが一斉に頭を下げ、場の空気が引き締まる。
父上は僕の背後――騒がしい専属メイドたちを見やり、わずかに口元を緩めた。
「相変わらず、お前のメイド達はずいぶんと個性豊かな者たちだな」
苦笑を浮かべながら、父上はゆっくりと僕に視線を戻す。
その声音には、わずかな期待と、ほんの少しの心配が混じっていた。
「ここでは他の貴族との接点も少なかったが、王都には多くの貴族がいる。
お前なら大丈夫だとは思うが――都会の常識に戸惑うこともあるだろう。
だが、それもまた学びだ。焦らずに、自分の目で見て確かめてくるといい」
穏やかで、どこか寂しげな口調だった。
父上の言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「あらあら、フレデリックったら、そんなに固いことを言わなくてもいいじゃありませんか。
クラウスちゃんはちゃんと分かっていますよ」
母上が僕のマントの襟を整えながら、ふんわりと微笑む。
その指先はまるで、旅立つ子供の心をそっと撫でるように優しかった。
「王都はここよりもずっと賑やかで、いろんな人が集まる場所です。
それぞれに考え方も、ものの見方も違います。……でもね」
母上は一度言葉を区切り、僕の後ろ――荷物を運ぶメイドたちへ視線を向ける。
その瞳には、やわらかな光と、ほんの少しの憂いが宿っていた。
「どんな場所でも、そばにいてくれる人を大切にできる人であれば――きっと、何があっても大丈夫。
クラウスちゃん、どうかその優しさを忘れないでね」
母上の言葉に、胸の奥が静かに温もりを帯びる。
僕はただ、うなずいた。
春先の風がマントの裾を揺らす。
その感触に、ようやく“旅立ち”の実感が湧いてきた。
屋敷で過ごした日々が頭をよぎり、名残惜しさと期待が入り混じる。
「――それじゃあ、行ってきます、父上、母上」
「行ってらっしゃい、クラウスちゃん」
「ああ、気をつけてな」
二人の声に背中を押され、僕は一歩、馬車の方へ向き直る。
そのとき――ふと、何かが足りないような気がした。
屋敷の前には、ずらりと使用人たちが並び、整然と頭を下げている。
彼らの顔はどこか誇らしげで、温かな笑みを浮かべていた。
その光景を目にして、胸の奥に小さな安堵が広がる。
けれど――その中に、ひとりだけ、見慣れた姿が見当たらなかった。
「……あれ? エリーゼは?」
僕の口から自然と名前がこぼれる。
隣で荷の最終確認をしていたセラが顔を上げた。
「そういえば、朝から見ていないな。荷の積み込みにも立ち会っていなかったが」
その言葉に、胸の奥が少しざわつく。
考えてみれば、王都行きが決まってから、彼女とはまともに話していなかった。
廊下ですれ違っても、ただ静かに会釈を交わすだけ。
以前のように、紅茶の香りに包まれながら世間話をしたり、身だしなみを整えてくれたりすることもなかった。
まるで、少しずつ――距離を置かれていたように思う。
「あぁ、そうだ。エリーゼなんだが――」
父上が何かを言いかけた瞬間、僕はその言葉をそっと遮った。
「いいんです、父上。……分かっています」
父上は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
エリーゼは、メイド長として屋敷をまとめる立場だ。
僕の旅立ちを知らないはずがない。
それでも見送りに来なかったのは――おそらく、わざとだ。
この世界に生まれて十年間、彼女はずっと僕の傍にいた。
朝起きれば紅茶の香りがして、昼は勉強を見守り、夜には静かに灯りをともしてくれる。
叱られたことも、褒められたことも、どれも僕の日常の一部だった。
けれど今、その姿はない。
それが、何よりの“言葉”なのだと思った。
――もう、あなたは一人で歩けますよ。
――私がいなくても大丈夫でしょう。
そんな声が、胸の奥にそっと響いた気がした。
きっと、エリーゼはそれを言葉ではなく、沈黙で伝えたかったのだ。
別れの涙よりも、送り出す静けさのほうが、彼女らしいから。
「……そうか、そういうことなんだね」
自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
少しだけ胸が痛んだが、同時に、不思議と心が軽くなっていく。
その痛みさえも、前へ進むためのものだと思えた。
「行こうか」
僕は馬車へと乗り込み、扉が静かに閉じる。
窓の外で手を振る使用人たちの中に、やはりエリーゼの姿はない。
それでも――どこかで、見えない場所から見送ってくれているような気がしていた。




