第37話『分かたれし元魔王』
あれから、僕たちは街へと帰還した。
城門をくぐったその瞬間、押し寄せたのは――熱狂に近い歓声だった。
「クラウス様ー!」
「キャー! すてきー!」
「さすがだよ、クラウス様!」
子どもも、若い娘も、老いた人々も。
誰もが目を輝かせ、僕たちを見上げていた。
まるで、伝説の英雄でも迎えるかのように。
名を呼び、手を振り、時には泣き崩れそうな表情で頭を下げる者もいた。
そのどれもが、心からの感謝の現れだった。
この街を――この人々を守るために、僕たちは命を懸けて戦った。
その意味と重みが、ようやく実感として胸に沁みてくる。
……ああ、本当に――守れてよかった。
屋敷に戻ると、すぐに父上の執務室で報告を行った。
僕の話を黙って聞き終えたあと、父上は目を細め、ゆっくりと息を吐いた。
「まさか、倒して戻ってくるとはな……」
静かに洩らした声には、驚きと――ほんのわずかな呆れすら混じっていた。
だが次の瞬間、父上の目が優しく細まり、口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「――しかし、無事でよかった」
その一言に、言葉では言い表せないほどの重さがあった。
僕たちは、この地に迫っていた“滅び”を打ち払った。
けれど、それは決して誇るためではない。
この家に戻り、こうして無事を願ってくれた人の前で、胸を張って帰還を告げるためだったのだ。
ようやく、肩にかかっていた重圧がほんの少しだけ解けていくのを感じた。
そして、報告を終えた僕は、足早に自室へと戻った。
――どうしても確かめなければならないことがあったのだ。
自室の扉を開けると、そこにはいつもの三人専属メイドノ――セラ、ニア、そしてプルメアが待っていた。
だがそれだけではない。
部屋の奥、窓辺に佇んでいたのは、フードも仮面も外したネーヴェだった。
銀の髪が静かに揺れ、羊のように巻かれた角が柔らかな陽光を鈍く反射している。
あの戦いのあと、彼女は何も語らなかった。ただ、黙って僕たちとともに街へ戻り、今もこうしてここにいる。
けれど、その沈黙の奥に隠された真実を、僕はどうしても知る必要があった。
椅子に腰を下ろし、呼吸をひとつ整えてから、僕は静かに口を開く。
「……それで。話を聞かせてもらえますか?」
ネーヴェはわずかに視線を伏せ、そして淡々と頷いた。
「……わかった」
一拍置いて、彼女は静かに語り出す。
「私は、元魔王軍で魔王様にお仕えしていた」
その言葉に、セラとニアがわずかに反応する。
僕も無意識に背筋を正していた。
「今から約十年前。魔王様は、現魔王との戦いに敗れた。
そして、最後の手段として、複数のスライムの分体を各地へと逃された」
言葉に抑揚はないが、その内容の重さが、じわじわと胸に沁みてくる。
「私は、その分体を探すために、密かに魔王領を抜けた。
だけど、魔族の姿では警戒され、行動も制限される。
人の中に紛れなければ、情報すら得られなかった」
ネーヴェはそこで一度言葉を切り、軽く目を伏せる。
「だから、変装して、冒険者になった。
冒険者という立場は便利だった。依頼をこなせば信用され、名声が上がれば情報も自然と集まってくる」
「私は、ひたすらにスライムに関する情報を追い続けた。
どんな些細な目撃談でも、それが魔王様の分体かもしれないと思えば、すぐに向かった。
……それが、私にとっての最優先だった」
その声には、わずかに疲れをにじませた響きがある。
「だけど、それを最優先にしたことで、周囲からは“よほどスライムに恨みがあるらしい”と、誤解されるようになった」
淡々と、まるで他人事のように語りながら、ネーヴェは目を伏せる。
「……そして、いつの間にかついた呼び名が、“スライムスレイヤー”」
その名を口にしたとき、ほんのわずかに、彼女の口元が動いた。
それは苦笑だったのか、それとも皮肉だったのか――判別できなかった。
「魔王様は、たしかにスライムだった。でも、とても強かった。
けれど、その分体は、生まれたばかりの“最弱”のスライム。
だから……私は、もう諦めかけていた。十年も経った。
どこかで、静かに、誰にも知られず、命を落としたのかもしれないって……」
ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉は、ひどく静かだった。
だが、その奥に滲む想いは、どこまでも深く、重い。
「でも……見つけた」
ネーヴェの視線が、そっとプルメアへと向けられる。
「あなたを見た瞬間、すぐにわかった。――間違いない。
その姿、その魔力の気配……魔王様の、分体」
それは確信に満ちた眼差しだった。
淡々とした口調のまま、けれど一分の迷いもなく、彼女は言い切った。
視線を向けられたプルメアは、きょとんと目を丸くしたまま固まっている。
「……え?」
間の抜けた声が、静まり返った部屋に落ちた。
まるで、自分にはまったく関係のない話を聞かされているかのような顔だった。
ネーヴェは、その反応に何の動揺も見せず、淡々と告げる。
「分体には、記憶は引き継がれない。……覚えていなくて当然」
その冷静な言葉が、逆に現実味を帯びて耳に残る。
――でも。
「……いや、そもそもスライムの魔王なんて、にわかには信じられないんだけど」
我知らず、僕はそう口にしていた。
自分のすぐそばにいた存在が、“元魔王”だなんて――常識が受け入れを拒む。
その言葉を否定したのは、セラだった。
「……知らないのも無理はないな。十年ほど前の話だ。お前はまだ、産まれていなかっただろう」
彼女は腕を組み、壁にもたれるようにして言葉を続ける。
「確かに、スライムの魔王の噂は人間の間でも広まっていた。
それほど異質で――だが、それゆえに、印象に残る存在だったんだ」
セラの声は冷静で、どこか重みがあった。
「元来、魔族と人間は長い間、戦を繰り返してきた。
魔王が代替わりするたびに、領土を広げようと侵略が始まる。血と炎の歴史だ」
「だが、魔王の位は人間の王と違う。血統ではなく、“力”によって継がれる。
つまり、前の魔王を倒した者が、次代の魔王になる――実力主義の王政だ」
「そのなかで、“スライムの魔王”が現れた。
最弱とされる存在が、全魔族を従えた。……常識では語れない話だが、実際、魔王軍はその時を境に、一切の侵略をやめた」
「おかげで、人間と魔族は互いに干渉を避け、静かな平穏を保っていた。
長い戦の歴史の中では、稀に見る穏やかな時代だった。」
セラの視線が、ゆっくりとこちらを向く。
「だが――突如、“スライムの魔王が討たれた”という噂が流れた。
それを境に、各国は再び警戒を強めたが……幸いにも、今のところ実際の侵略は確認されていないがな。」
語られたその歴史の一端が、静かに空気を震わせる。
「……そう、なんだ」
ぽつりと漏れた僕の言葉には、もはや否定の色はなかった。
それは、事実を受け入れつつある思考の中で、確信へと近づくための一歩だった。
セラがふと目を細め、静かに付け加える。
「実際、私もプルメアを初めて見た時……人形のスライムで、真っ先に思い出したのは、“あの”魔王だった」
言葉を受けて、僕はすぐ隣の彼女へと視線を移す。
困ったように首を傾げるプルメア。
きょとんとした顔で、ただ僕の目を見つめ返してくるその姿に、“元魔王”の影など微塵も感じられなかった。
それでも、確かに――
今、ここに集まったすべての情報が、ひとつの結論を示している。
彼女は、元魔王の分体かもしれない。
けれど同時に、僕にとっては、出会ったときからずっと変わらない存在でもある。
僕の――大切な、仲間だ。
そう思えた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。




