第34話『黒き災厄、戦場に降り立つ』
黒竜が降り立った瞬間、戦場の空気が一変した。
その巨体がわずかに身じろぎしただけで、荒れ狂う暴風が生まれ、前線の槍兵たちが吹き飛ばされる。盾ごと弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた兵士たちは、二度と立ち上がらなかった。
戦列が崩れる。怒号も、悲鳴も、黒竜の咆哮にかき消される。空気そのものが圧迫され、誰もが、動けなかった。
「くっ……!」
ニアが短剣を構え、セラも剣を握り直す。二人は迷わず、黒竜へと向かっていった。
ニアの一閃。鋭い短剣が竜の脚へと走る。続けざまに、セラの重い剣が、竜の鱗へと打ち込まれる。
だが――金属を打つような甲高い音だけが響き、二人の刃は、黒竜の鱗にまったく通らなかった。
「っ、なんにゃこれ……固すぎるニャ!」
「……厄介だな……」
セラも、眉をひそめる。
黒竜が、無造作に翼をはためかせた。その一撃だけで、二人は地面を転がり、体勢を立て直すのがやっとだった。
「怯むな! 陣形を立て直せ!!」
フレデリックの怒声が、戦場に響く。だが、誰も動けない。震える手で槍を構えながら、兵士たちはただ硬直するばかりだった。
そこへ容赦なく振り下ろされる、黒竜の鉤爪。兵士たちの命を刈り取ろうとする、その瞬間――。
鋭い斬撃が飛び込んだ。黒竜の爪を受け止め、前に立ちはだかる黒衣の剣士、ネーヴェだった。
仮面の下に感情は見えない。だが、その佇まいは、まるで戦場そのものを制圧するかのような気配をまとっていた。
黒竜の爪が唸り、ネーヴェの剣が火花を散らす。一撃、また一撃。巨大な爪撃を最小限の動きで捌きながら、反撃を叩き込んでいく。
しかし、黒竜の鱗は、まるで鋼鉄の壁だった。どんな斬撃も弾き、傷ひとつ刻まれることはない。まさに絶望そのものの存在。
それでも、ネーヴェは止まらない。牙を受け流し、鉤爪をいなし、懐へ飛び込む。異形の巨躯と、ただひとり、互角に渡り合っていた。
だが――わずかな隙を突かれた。
黒竜の尾が、地を裂きながら振り抜かれる。逃げ場はない。ネーヴェは即座に後方へ跳ぼうとした。しかし、間に合わない。
暴風のような尾の一撃が、ネーヴェの頭部をかすめた。
バキィン――!
戦場に、甲高い音が響いた。仮面の表面に、深く走る亀裂。
「……っ!」
ネーヴェはたまらず数歩後退し、片手で仮面を押さえる。必死に、割れた仮面を隠すように。その動きには、これまで一度も見せたことのない焦燥が滲んでいた。
その光景を目にしたフレデリックは、目を見開き、すぐさま叫んだ。
「――全軍、撤退だ!!」
黒竜の登場で、魔物たちはすでに森へと踵を返している。今、あの黒き災厄と正面からぶつかり、無駄死にしてはならない。生きて帰り、王都へ報せ、援軍を請わなければ。
兵たちは混乱しながらも、ばらばらと後退を始めた。
だが――黒竜は、容赦しない。
巨躯が深く息を吸い込む。喉元に、禍々しい黒光が灯る。
「チッ……まずいな!」
フレデリックが即座に叫ぶ。
「防御魔法だ! 防御魔法を展開しろ!」
彼自身も手をかざし、詠唱を紡ぐ。
次の瞬間、黒竜が黒炎のブレスを吐き出した。濁流のような黒炎が、すでに展開された魔力障壁に襲いかかる。
轟音。激しい衝突。だが、ブレスの圧力はあまりに凶悪だった。障壁はひとつ、またひとつと音を立てて砕け、最後の一枚にまで迫る。
絶対絶命。誰もが、死を覚悟したその刹那――。
「魔力障壁ッ!!」
僕の魔法が咄嗟に展開された。前へと飛び出し、渾身の魔力を込めた障壁が、黒竜の黒炎を正面から受け止める。
衝撃。肌を裂くような熱。全身を押し潰すような瘴気の重圧。それでも――僕は、耐えた。
「父上! ここは僕が足止めします! その間に皆を!」
必死に叫ぶ僕に、父は一瞬だけ目を見開いた。だがすぐに、強い意志を宿した眼差しで頷く。
「……すまない、クラウス! 今はお前に頼る他ない!」
父上たちが撤退していく気配を背に感じながら、僕は黒竜から目を離さなかった。
その漆黒の巨躯を、まっすぐに見据える。
黒竜も、こちらの挑戦を受けるように咆哮を轟かせた。
大気が震え、地が唸る。
逃げ場など、初めから存在しない。
ならば――戦うしかない。
僕は一歩、前へと踏み出した。




