第30話『瘴気に沈む森』
森の入口は、いつもと変わらぬ穏やかさに満ちていた。
風に揺れる木々。差し込む朝の陽光。鳥たちのさえずりも、どこかのんびりとしている。見慣れた風景。何度も足を運んだはずの、静かな森の始まり――
だが。
一歩、また一歩と奥へと進むたび、その様相は少しずつ、確実に変わっていった。
肌にまとわりつくような湿気。地面にうっすらと染みついた黒ずみ。気づけば、鳥の声も遠のいていた。
そして、視界に現れ始める――黒い靄。
瘴気が、目に見えるほど濃くなっていた。
「……臭うにゃ」
鼻をひくつかせ、ぴたりと一点を見据える。
「こっちからにゃ」
指差された方向へ、慎重に足を運ぶ。次第に、空気がぬるりと重たく感じられてくる。腐臭が鼻腔を刺し、息をするたびに胸の奥がざらついた。
そして、木々の合間――開けた一角に出た瞬間、僕たちは思わず足を止めた。
そこには、折り重なるように転がる魔物たちの死骸。裂かれた腹、千切れた四肢、潰れた頭部。赤黒く染まった地面には、肉片と骨が混じり、濃厚な死の匂いが充満している。
牙の痕。爪の裂傷。抉られた肉塊。
どれもが、魔物同士による争いの跡だった。
――共食い。
それ以外に、この惨状を説明できる言葉はなかった。
「……どうやら、生きているものは居ないようだな」
セラが低く呟き、慎重に辺りを見渡す。
僕は足元に注意を払いながら、死骸の間をゆっくりと歩いた。腐敗の進んだ皮膚が剥がれ落ち、骨が露出した個体も少なくない。踏みしめるたびに、足元から黒い瘴気がじわりと立ち昇ってくるような感覚に襲われる。
「こうやって、瘴気がどんどん増幅していくわけか……」
腰に下げたポーチから、大森林の地図を取り出す。父上から渡されたもので、既にいくつかの瘴気溜まりの候補地点が印されていた。
けれど、もしこの様子が他の地点でも起きているとすれば――魔物の発生は、もはや時間の問題だ。
――そのときだった。
パキン。
乾いた枝を踏む音が、静寂を裂く。
続けざまに、別の方向からも音が重なった。枯葉を踏みしめる音、草をかき分ける音。数は徐々に増え、やがて僕たちを包囲するように森の中から響き始めた。
空気が、一変する。
瘴気に紛れて、濁った気配が森を満たしていく。風の流れさえ変わったように感じられるほど、息苦しい緊張がその場を支配していた。
木々の合間――そこに姿を現したのは、魔物たちだった。
朝の光の下、朽ちかけた毛並みとただれた皮膚を晒しながら、異形の影がゆっくりと近づいてくる。牙を剥き、腐臭を纏い、まともな生き物とは呼べない姿へと変貌した魔物たちが、飢えた本能に突き動かされるままに、こちらへと歩を進めていた。
「来たな……!」
僕は背に風の魔力を纏い、即座に跳躍できる体勢を整える。
「プルメアはこの死骸たちの処理を優先して! 瘴気を減らすには、まず“残骸”の片付けが先決だ!」
「はい、かしこまりました」
紙袋越しでも分かるほど、プルメアは柔らかく微笑むと、腐臭漂う戦場へと静かに歩を進めていった。
「ニア、セラ! 僕たちは――殲滅するよ!」
「待ってましたニャ!」
「ひと暴れしてやるか」
二人は同時に地を蹴った。セラは剣を抜き、正面の敵へ一直線に駆ける。無駄のない動きで一太刀、斬り裂いた魔物の胴体が音もなく崩れ落ちた。
ニアは逆側から横合いに回り込み、獣王迅閃で勢いよく敵の懐に突撃する。
「どくにゃぁああッ!」
裂けた喉元から瘴気が噴き上がる。ニアの双短剣が二体目、三体目を連続で仕留めていった。
僕はやや後方、二人の戦線の中央から魔力を集中させる。
「雷槍召喚」
上空から伸びた雷が、一本の槍となって敵を貫く。濁った断末魔が上がり、周囲の木々が風圧に揺れた。
だが――
終わらない。
数を減らしたかに見えた敵は、森の奥からさらに現れ、次から次へとこちらへ向かってくる。
(きりがない……!)
「ニア! 魔法で一掃するから援護して!!」
「わかったニャ! 絶対に近づけさせないにゃ!」
ニアが素早く僕の近くへ戻り、背後を守るように身構える。
「セラ! 頼む、持ちこたえてくれ!」
「言われなくても。こっちは任せておけ!」
セラは返事の代わりに、一歩踏み込んで剣を振るった。斬り上げ、回転し、魔物の肩口から胸元までを裂く。
僕は地を見据え、魔力の奔流をその身に集める。
「紅き雷よ――空を裂き、地を砕け……!」
空間に幾重もの魔法陣が浮かび上がり、轟々と風が巻き起こる。草木がしなるほどの圧力。周囲の瘴気が渦を巻くように魔法陣へと引き寄せられていく。
「迸る魔力よ、我が意思に応じて姿を変えろ……!」
さらに新たな魔法陣が重なり、眩い光が大地を照らす。
「雷鳴を抱きし炎よ――天に吼え、万象を焦がせ!」
大気が振動し、森全体が震えた。
「――応えよ、我が渇望」
「轟雷紅蓮!!」
詠唱の終わりと共に、天から轟く雷鳴が落ちた。
空が割れた。
雷光が地を貫き、同時に紅蓮の炎が森を包む。爆発と共に吹き飛んだ魔物たちは、焼け焦げ、崩れ落ちていく。煙と熱気が森の奥まで届き、瘴気の靄すら一時的に吹き飛ばした。
沈黙が、辺りを満たす。
魔力を収束させて膝に手をつき、ひと息つく僕の耳に、ため息まじりの声が届く。
「相変わらず、馬鹿みたいな威力だな」
剣を肩に担ぎながら、セラが焼け焦げた地面を見下ろしていた。
「死体も吹き飛んでるし、一石二鳥にゃ」
ニアは僕の隣で軽く手を振り、笑顔で戦果を眺めている。
「お見事です、ご主人様。後片付けがずいぶん楽になりました」
紙袋の下から、プルメアが嬉しそうに声をかけてくる。
けれど――その言葉を、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
これで、ようやく瘴気溜まりの“ひとつ”を潰したに過ぎない。現れた魔物も、数こそ多かったが、個体としてはそれほど手強くはなかった。
僕は森の奥を見つめる。靄はなおも濃く、肌を撫でる空気はぬめるように淀んでいる。
「……今のは、あくまで端の一角ってことかな」
腰のポーチから地図を取り出し、視線を落とす。赤い印――瘴気溜まりの候補地点は、さらに奥深くに集中している。
「本当に危険なのは、もっと先。瘴気の濃度も……ここより、ずっと上だろうな」
そのとき、森の奥からふわりと風が吹いた。
鼻を刺す、濃密な瘴気の匂いが乗ってくる。
僕たちの戦いは、まだ――始まったばかりだ。




