第1話 あるビルの屋上で 後編
心地良い10月中旬の朝。場所は廃墟のような古いビルの屋上。
そこには、高身長でくすんだ色の襤褸に身を包んだ灰色の体色を持ち、若返ったような顔を持つ歪な容貌の化物となった中年女性がいた。
そんな彼女が「いただきまあす」と大口を開けて蠢くヒルのような形状になっている舌を伸ばし、目の前にいる青年・虹浦和久の血を吸おうとしたその時。
「・・・お前まで・・・僕のことを笑うなよ・・・!」
「あ・・・。あ・・・。あ、あ、あ、あ、熱いぃぃぃ!い、痛いぃぃぃ!」
中年女性は怒りに震える和久の顔から勢いよく手を離し、赤く腫れあがった自身の掌を見ながら大きな悲鳴を上げ始めたのだ。
「な、何!?どういうこと!!」
「へ・・・え!?」
女性が手を離したはずみでその場に尻もちをついてしまった和久だが、のたうち回る彼女の姿を見て困惑の表情を浮かべる。
「ど、どうして・・・?急に肉体が溶けていく・・・!形状を保てないし元の姿にも戻れない・・・!」
そして彼女の肉体は、まるで高熱で溶けていく飴のようにみるみるうちに崩れ始めていった。
「熱い・・・!痛い・・・!だ、誰か助けて・・・!」
「・・・マジかよ。魑魅の肉体を溶かしやがったのか・・・!?」
さらにこの様子を見て驚くのは、この中年女性を追って同じく屋上にやって来た黒スーツ姿の強面男性。だが傷跡だらけの顔を持つ彼はこの機を逃すまいと女性のもとへと駆け出し近づく。
「ひ、ひいぃぃぃ!この処理士め!こんな仲間を隠してたのか!」
「俺様も知らねえよこんな坊主!だが良い機会だからここでテメエを殺す!」
なおもドロドロと溶けていく中年女性。するとじきに「あ、ああああ・・・」とうめき声を漏らす彼女の体からは、赤色に輝く球体が飛び出してきて。
「これで終わりだクソ魑魅。散々人を殺すほど血を吸い尽くした上に情けなく逃げ回りやがって。面倒だったんだよ」
ヂョキ・・・。
強面男性は懐から取り出し、右手に持った黒い柄のハサミで宙に浮かぶその球体を切断。そして耳に残る切断音を残した赤い球体はふたつに割れ、輝きを失って屋上の床に落ちた。
「物損被害はゼロ。まあ道中でここの階段の手すりは壊しちまったが元々腐食してたから俺様のせいではない」
オールバックの髪と無精ひげ、そして顔にいくつもの傷跡がある強面男性。彼は少し屈んでふたつに割れてしまった赤い球体の残骸を拾う。
そして風に吹かれながらもポツンとそこに残っている襤褸を睨みつけ、生々しく屋上の床にこびりついた中年女性の跡を踏みにじりながら彼は続ける。
「この跡は・・・。まあ近いうちにこのビルも取り壊されそうな雰囲気だし、無視して良いだろ」
こうして頭をポリポリと掻いた後、球体の残骸をズボンのポケットに入れ、背広の内側から取り出したスマホに何かを打ち込む強面男性。
その男性はまるで一仕事を終えたような佇まいをしているが、一連の行動を見ていた和久はわなわなと震えていた。
「え・・・な、何!?あの女の人、どうなったの!?」
「にしてもこんなところでとんでもない逸材を見つけちまったな。さっきのはベテランを2人殺した奴だぞ」
すると強面男性はスマホをまた背広の内側に収めると、腰が抜けている和久の前方までに行きしゃがみ込む。
「おいテメエ。ここで何してた」
「な、何ってその・・・」
「平日の朝からこんなところに来て何をしてたのかって聞いてんだよ。まだ学生か何かだろ?それともフリーターか?」
「そ、その・・・。ここでと、飛び降り自殺を・・・って、ごふっ!」
和久がこう言い終わるかどうかのところで強面男性は思い切りその頬を殴り飛ばす。
「い、痛い・・・!」
「こりゃ事情聴取の前にまず説教だな。おい、このビルの下を見てみろ」
「え・・・え?」
「下を見ろって言ってんだよ!このバカ野郎が!」
そう叫んだ強面男性は和久の首根っこを力強く掴むと、設置されている柵に顔を押しつけて眼下に広がる光景を見せる。
そこにあるのは車通りの多い道路。さらに歩道には多くの老若男女が歩いていた。
「確かにここから飛び降りたらテメエは死ねる。だが・・・もしそれをしたら下の人間はどうなる!車を運転してる奴は!歩道を歩いている奴は!運悪く空から降ってきたテメエと激突したらどうなるんだよ!」
「う・・・」
凄まじい剣幕の強面男性からこう言われた和久はその意味を理解し、言葉を失う。
「テメエが死にたいとかはどうでもいい!知ったこっちゃねえ!でもな!その身勝手な行動のせいで犠牲者が出るんだぞ!」
澄んだ秋空に響く説教を耳にした和久。次第に彼は目を潤ませ、ぽろぽろと涙をこぼしながら坊主頭をふるふると震わせて、謝罪を絞り出す。
「す、すみません・・・。確かに僕のせいで罪の無い人を巻き込んでしまうところでした・・・。でも、もうそこまで考える余裕はなくて・・・。」
嗚咽しながら彼は続ける。
「僕にはもう何もありません・・・。色んな人に騙されて、バカにされて、大学やバイト先にはいられなくなって、育ててくれた祖父母も突然亡くなって・・・」
「・・・」
「うっ、うっ・・・」
「はあ・・・。そんなに泣くなよみっともない」
ため息をついた強面男性は泣き出した和久からゆっくり手を離す。
「おい。簡単に死ぬぐらいだったらその命を懸けて人助けしろ」
「・・・へ?」
柵を弱々しく握りながら、うつむいて涙を流していた和久は頭を上げる。
「人間にとっての脅威、魑魅の肉体をあんな風にできるのは貴重な人材。詳しい話は後で聞くが、こちらとしてもテメエをほっとくわけにはいかねえ」
そして強面男性は和久を無理やり立たせると、スーツの胸ポケットから取り出した黒い名刺を手渡す。
「俺様の名前は晴司ジュン。とりあえず家帰ってもう少しまともな服に着替えろ。そしてこれに書かれている番号に即電話。迎えに行ってやる」
加えてこの晴司ジュンという男性は、腫らした目で名刺を見つめる和久に優しく声をかけた。
「他人からされた説教をその場でしっかり受け止めるってのは簡単なことじゃねえ。テメエのその素直さは一種の才能だ。自信持てよ」
それから彼は「じゃあな。その番号に連絡を待ってる」と言い、和久に背中を向けて屋上の出口に足を進めるが。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
和久は大きな声で呼び止める。
「何だよ。今の俺様、カッコよく決まったところだろ?空気読め!」
「その・・・。実は自殺しようと決心してから身辺整理も済ませてまして・・・。家や携帯はもう解約してるし、服はこのジャージが一張羅なんです・・・」
振り返ったジュンは唖然とした表情を和久に見せる。
「・・・マジ?」
「マ、マジです・・・」
降りかかってきた数々の不幸に絶望し、自殺しようとしていた虹浦和久。
しかしそんな彼の人生はこの出会いを境に大きく変わることになるのであった。