問題児日記 悪童だった私が創作の道に進んだ話
前回のエッセイが思いの外好評で驚いている。コツコツ書いている小説の評価よりも一夜で書いたエッセイの方が上回ってしまったのだ。本来なら小説の方をもっと評価してもらいたい…などと書きながら内心では小躍りして喜んでいる。読んでくれた方々へ感謝である。
さて前回では自分の創作歴を語っていったわけだが、今回はそんな無名で無能の創作者がいかにして創作という道へと突き進んだのかを回想していきたい。
自分の幼少期を列挙するとどうしても中年オヤジの武勇伝語りになってしまうのだが、悪童も悪童、年が年ならちゃんとお縄についてしまうようなことを平然と、無意識にやってしまっていた。
決して許されない行為も度々語る。そういうのを冷静に見られる人はぜひ最後まで。
***
自分はとある中級都市に生まれた。治安もよく、現在ではリニアが通れるようにするため年がら年中工事をしているそこそこの街だ。
振り返ると地元の幼稚園ではすでに名の知れた問題児だった。
その幼い悪行には枚挙に暇がない。
・口に水を含み階段の踊り場から階下へ向け放出
・絵の具を洗うための列に並んだ際、前の園児の背中にまだ絵の具がついた筆で絵を描く。
・走っている車へ向ってぶつかりに行く
パッと記憶を探っただけでもこの通り。こういう悪行をするたびに先生に、もしくは母親に止められ叱られたと思う。
常に走り回っていたような子供であったらしく母親からは『止まると死ぬので常に泳ぎ続けるマグロ』のような子だと言われ、本気で頭を心配された。
当時施設に入れようか迷ったと月日が経って言われたときはだろうな、としか言えなかった。
さて、大人たちに守られながらなんとか小学生に上がるとようやく大人しくなる…かと思えばそうでもなく、私は無駄慈恵をつけて悪行のずる賢さを加速させていった。
具体的な話をしよう。
この頃、私は習い事として水泳とピアノを習っていた。この2つは中学生まで続け、受験期になって休止するまで続けることになる。
この2つがそこそこ嫌だった。
まず水泳スクールは初日で逃亡未遂、捕まって習わされるもそこのコーチも水も怖かった。1時間ちょっとの練習なのだが小学生の私には半日以上かのような時間感覚に陥っていた。
この水泳は結果的にいうとそこそこ意味があったと思う。喘息で病弱軟弱の私の肺は鍛えられ、友達と遊びながら泳ぐのはまぁまぁ楽しかった。
さて問題はピアノだ。市内の個人で運営している所へ通っていたのだが学習内容は毎日一曲を十回ずつ、それを三曲練習する、というものだった。三十回も好きでもないクラシックを練習し続けるというのはなかなかの苦行である。自分は昔から好きでないことはとことんできないのだ。
算数は小1で躓いたし、英語も中1で躓いた。
とにかくこの三十回の練習は地獄だった。まずこれをこなさないと晩御飯が食べられない上寝られない。午後辺りから練習し始めるのだが大抵やる気の問題で夜まで伸びるのであった。
家族が寝ている間泣きながらクラシックをポロロンと引く家など近所の人からどう見えていたのだろうか。
妹も同じようにピアノを習い練習していたのだが、妹の方もだいぶキツかったようでほとんど泣きながら練習していた。大丈夫かこれ。
こんな日々が続くもんでついに俺はピアノの練習をすることにキレ、そしてそのまま夜分に家を飛び出した。
行き先は近所の公園だ。そこそこ広く、明かりは一つしかない。そこでベンチに座ってじっと過ごしていた。
静寂で暗い夜の公園というのは子供には相当怖いはずなのだが、眼の前に建立していたマクドナルドの室内灯が辺りを明るく照らしていたのを見て安心を感じていたのを覚えている。その後母親と祖母が俺を探しに来てそのまま捕縛された。こうしてたった数時間、人生でたった一度の家出は幕を閉じた。
そして俺はピアノを弾いた回数をごまかし始めた。回数の過少申告したり、母親が出かけるタイミングを伺いその直前にピアノを始める。そして数時間後母親が帰ってきたときには『練習終わったよ』と言える算段なのだ。勿論練習などやっておらずゲーム三昧をして楽しんでいた。
こうして悪知恵をつけつつ学校でも暴れていた。
自分の小学校の帰り道は右側に商社、左側に国道が走っていた。商社の入口前には白い石が敷き詰められており、当時は帰る途中にそこから石を拝借する子供が続出していた。
地面にこすりつければチョークのように絵を描けたし、軽くてキラキラしているのも子供心をくすぐったのかもしれない。そんな中私と友達は今思えばとんでもないことをやらかしていた。
その軽石を持ち国道を走るトラックの後輪めがけて石を投げるのだ。
正気の沙汰じゃない。何してるんだ。その通りで返す言葉もない。
訳を話すと大型トラックの後輪というのはベコッと真ん中がへっこんでいるのだ。そこに上手く軽石が入るとゴロゴロと回転するタイヤに巻き込まれまるでハムスターが回る車輪をガラガラ転がすかのごとく石が跳ねながら動くのだ。
この光景が面白かったのだろう。流石に高学年になるとやらなくなったが、この行為は自分の人生の中でも一二を争うほどのとんでもない最低な行動だったと思う。
さて、その頃、私はようやく創作らしいものに触れていた。実はクラスメイトと共にドラマを撮り始めていた。
が、そこまで大層なものでもなく、担任の教師のカメラを借りてそれを昼休みになると空き教室へ持っていき、演技をする友達を撮影。それを給食の時間に分割しながらテレビに映すのだ。
内容の記憶はないが、刑事モノだったような気がする。椅子に縛り付けられ、友達に殴られて気絶する演技をしたのを覚えている。当の自分はというと恥ずかしくて直視できなかった。そのドラマが流れているときは皿を変に高く上げテレビを見ないようにしながら食事をしていたものである。
一応演技指導や台本作りなどそれらしいことをしていた記憶があり、仲の良い友達でこうした作業をするのはなかなかにいい経験だった。
さて、そんな創作経験もあったが同時にこの時、ついに犯罪を犯してしまう。
いや今までやってきたことも犯罪だろと突っ込まれればそうなのだが、このときはついに警察にお世話になってしまった。
万引きをしてしまったのである。
この頃から自分は母親と共に買い物をする時や習い事から一人で変えるときなどに商品をポケットやとあるところへ入れてそのまま持って帰るというのを繰り返していた。
この頃にも悪知恵は働いた。とあるところというのは下腹部のところことである。
自分はポケットに入れてバレそうなものはこの下腹部とズボンのゴムとの間に挟んで持って帰っていた。
なんでそんなところにと言われれば、それはバレたとしても隠し通せる場所だからと考えたからである。
隠し場所は股間近く。もし仮に店員に万引きを目撃されたとしてもこの部分の商品を取るには股間へ向け手を伸ばさねばならない。
大人の店員が男児の股間へ手を伸ばしズボンを掴む。大人ならこのシチュエーションは避けるだろうと考え探られたとしてもポケットを外側から触るだけであり、この場所は探られないという確固たる自信があった。
しかも不自然に出っ張っていても少しタボついた上着を着ておけばカバーできた。
結果からいうとこれは自信過剰ではなく一回も見つかることは無かった。
ではなんでバレたのかというと万引きしたものを家のあちこちに隠していたからである。どういう経緯でバレたのかは覚えていない。しかしそれが発覚し母親と二人でその品物を探している途中、帰宅した父親に私の万引きが伝わったときの表情は今でも忘れない。
「どうかしたの?」
「〇〇が万引きしたの」
「万引きぃ!?」
この行為が万引きと呼ばれていたのを知ったのはこの頃だ。
両親二人にも、警察の人にも詰問されたのは、何故万引きしたのかだった。俺は答えられず、母親を泣かしてしまった。その光景は今でも染み付いているし、自分の過ちの深さを知った。
でも私は欲しかったから万引きしたのではなかった。盗ったのは印鑑や双眼鏡、いい匂いのする練り消しや食玩など。私が心の底から欲しかったものでは決して無かった。
調べると小学生が万引きをする動機の96%がどうしても欲しかったから、だそうだ。
今振り返れば家庭でのストレスがこの問題行動の引き金になっていたのかもしれない。
当時は八歳、日本の刑法では14歳未満の犯罪は罰せられず、おそらく親に責任がいったのだと思う。
その後どうなったのかは覚えていない。気がつけばいつもの日常に戻っていた。これ以降、私の万引きが話の内容として上がったことは過去一度もない。
当時お世話になった警察、そして母親には本当にもしわけないことをした。
あれ以降、当然だが警察にお世話になったことはまだない。
***
さてだいぶ語ってきたが決してこれらの行為を自慢したい訳では無い。あくまで自戒として、そして忘れぬ罪として語ってきたわけだ。
この事件以降、問題行動も落ち着いていった。悪いことといえば夜更かししてゲームをしていたことがバレて怒られる、とかだろう。誰もが通る道を踏めるようになっていた。
小学六年になるとピアノが弾けるという特技が生かされることになる。
クラスメイトたちがバンドを結成したのだ。そのバンドは演奏隊としてはお粗末なもので、リーダーはほうきをギター代わりに歌唱、ドラマーはスティック(何故か本物)でびっくり返したバケツの底を叩く。他のメンバーは突っ立って歌唱。ちゃんと演奏らしい演奏をしていたのはオルガンを弾く私だけだった。
合唱曲の替え歌を帰りの会のときに披露したのを覚えていた。
「デミグラスソース ハンバーグ 噛み締めながら 焼いて食おう」
小学生の卒業ソングの替え歌だ。分かる人は変わらないものを持っているのだろう。
中学校に上がると流石に自制が聞くようになった。問題行動らしい問題行動も起こさないようになったし、何よりも大人しく、陰キャになった。
小学生の頃のような無敵感や万能感はなく慎ましくなった。まるで散々暴れまわってきた幼少期の贖いのような豹変ぶりだ。
が、大人しくなった反面、その衝動はネットの世界へと注がれた。スマホを獲得し、プレステのvitaというものも買ってもらった。これによりネットによりアクセスしやすくなり、当時3DSでしか繋がれなかった自分にとっては大革命だった。それからは現実世界よりも電子の世界へとのめり込んでいった。
そして自分は典型的な痛いオタクへと変わってしまった。
よくも悪くも、活気も交流も減り自分の楽しみのために生きていけるようになったのだ。
この頃部活動を通じて一人の男と出会う。
そいつは筋肉ムキムキでメガネをかけたカエルが大好きなやつだった。
自作で割り箸ボウガンを作り女の子のまぶたを怪我させるという奇行っぷりで部内でもやべーヤツやべーヤツと言われていたがなぜ私はそこそこ仲良くなれた。話してみると意外と面白いし、ノリも好みでよく一緒にいた。こいつは結構問題児だったがかつて悪童だった私と馬が合ったのかもしれない。
で、こいつは絵が描けた。と言っても筋肉ムキムキの肉体にイカれた表情の人物を描くヘタウマといったジャンルの絵柄だ。
なかなか面白い絵柄に惹かれ、私と彼は1枚の白紙に絵を描いた。初めての合作かつ、初めて人を描いたものだった。
何も見ず、完全に頭の中の記憶を頼りに版権キャラで描き、ネットで流行っていたとあるクソアニメのセリフを言わせた、いかにもネットハマりたての中学生、といったような絵が完成した。
その絵はすでにロストしてしまい手元にないが、私はこの一緒に描いたという経験が忘れられず家に帰るとvitaでYouTubeに繋ぎ、『〇〇描いてみた』という動画を見ながら見様見真似で描いたのを覚えている。
彼とは高校中盤辺りから連絡を取らなくなってしまったが、時々デジタルで描いた絵を送ってきてくれた。
変わらない絵柄と、女の子のフェチ丸出しの絵にこもっていた情熱は相変わらずだった。
…とまぁこれが問題児、悪童、クソガキだった私が創作へと突き進むまでの道のりであり、記録である。
このきっかけから絵を描き始め、のちのち様々な創作へと性犯罪者の如く手を出し始めたのである。
お世辞にも華々しいものでもなんでもなく、そして自慢できるようなものでもない。こんな話は誰にも話したことがないし、冷静に振り返りながら執筆していると公開しようかどうか悩ましくなってくるほどだ。
それでも書ききったのには、当時の愚行を振り返り、また自分が創作へ足を踏み入れた背景を明確にしたいという意思があったからだ。
現在大学二年生。何事もなく、慎ましく、むしろおとなしいぐらいで半ば引きこもりのような日常生活を送っている。
小説、漫画、イラストなどの創作に楽しみを見出し、それを作り上げ、より楽しく彩るために様々な物事を調べて学習するという毎日だ。
この道に入れて良かったと思っているし、この道の人たちに出会えて良かったと思う。
過去に色々とやらかした元悪童の独白を最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。
日陰の下でボソボソと創作を続けるダンゴムシのような存在の贖いのような、言い訳のような落し文でした。
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ご迷惑をおかけした皆さん、この場を借りて謝罪します。申し訳ございませんでした。