♯1 小さなお嬢様と、恋じゃなく海に落ちた
時系列的には最初に当たるお話、第1話です。
――コトの発端は現在から半年ほど前。無駄に強運なボクの従妹がテレビ番組の視聴者プレゼント『夏休みに豪華客船で行く北欧・バルト海クルーズ 十三日間の旅 ペアチケット』に見事当選したことからすべては始まる。
「やったわイサリ! こういうクルーズって自腹で行こうと思ったら何十万円も払わなきゃいけないのよ!? このご時世にそんなモノを視聴者にプレゼントするなんて随分と太っ腹よね! ――ねえ、羨ましい? 羨ましいわよね? ふっふーん、仕方ないなぁ☆ 特別にアンタも連れてってあげる。感謝しなさいよね!」
ある日の早朝。ボクの部屋を訪れ、寝ていたボクに馬乗りになりながら胸を張った二歳年下の従妹・アズサのそんな申し出を、ボクは当初「いくら親戚同士でも高1の男と中2の女でお泊りはマズいって」と断ろうとしたのだけれど、この従妹にそんな常識、理屈は通用しなかった。
あろうことかアイツは、
「ふーん断るんだ。……アンタの夜のオカズ、巫女さんのコスプレをしているヤツが多いってこと、伯父様や『あっちの』伯母様は知ってるのかしら?」
と脅してきやがったのである!
実に卑劣極まりない!(てかアイツ、なんでボクの夜のオカズの傾向を把握してんの?)
後日、叔父さんと叔母さんにまで「イサリくんが一緒なら私たちとしても安心なんだけどな……」と「年頃の娘を持つ親としてそれでいいの?」とツッコみたくなるようなお願いされてしまい、気付いたらクルーズに参加することになっていたボクが、アズサとともに豪華客船に乗り込んだのはつい数時間前のことだ。
そしてあっという間に数時間が経って、参加者同士の交流を目的としたパーティがもうすぐ始まるという時刻になり、アズサが「そろそろ着替えましょうか」と言い出したタイミングで、ひとつ大きな問題が発生した。
「ねえアズサ。だんだん吐き気がしてきたんだけど……。これ、なんだと思う?」
「いや、船酔いでしょ。普通に考えたら」
「ふな……よい……?」
「なんで私のほうがそんな『何言ってんだコイツ』みたいな目で見られなきゃあかんのよ」
「船酔いって、船に乗っていて酔うっていう、あれ?」
「他にどんな船酔いがあんのよ」
「あれって都市伝説の類じゃなかったの……?」
「むしろなんでそう思った!?」
「だってボク、これまで漁船とかヨットとかボートとかに乗ってて酔ったことないし」
「なのになんで豪華客船だと酔うのよ。意味わかんないんだけど」
「……ダメだ。吐きそう。ごめん、ちょっと風に当たってくる。先に着替えてて」
「ったく。ホント軟弱なんだからっ。雑魚雑魚ざーこっ!」
……とまあ、そんなワケでボクは今、甲板で潮風に当たりながら一人淋しく黄昏れていたりする。
「おっかしいなー……アズサじゃないけど、なんで豪華客船だと酔うんだろ」
血か? ボクの中に流れる庶民の血が、『豪華客船』という分不相応な響きに拒否反応を示しているのか?
普通、こういった大きな船のほうが揺れは少なくて、酔いにくいものなんじゃないの?
どうなってんだボクの身体は。
「やっぱ、ずっと部屋にいて風に当たってなかったのが悪かったのかなー? 漁船とかだと甲板にいることが多いし」
夜の帳が落ち始めた水平線をぼうっと眺めつつ、ボクが人体の不思議について頭を悩ませていると。
「――お祖父さま、ほら、ご覧ください! 水平線の向こう! カモメさんがあんなに沢山! カモメさんがあんなに飛んでいるということは、陸地が近くにあるのでしょうか?」
不意に背後で幼い女の子のはしゃいだ声がして、タッタッタッ……と小さな足音が近づいてきた。
ああ、他の乗船客かぁ……子供の時分からこんなクルーズに参加させてもらえるなんてどこのお金持ちだ? と、ちょっぴり妬みつつチラリとそちらを窺えば、そこにいたのは案の定、いかにも上流階級といった装いをした祖父と孫娘と思しき二人組だった。
「ほっほっほっ。ルーナや、はしゃぎすぎて海に落ちんようにな」
「あっ。申し訳ありません、お祖父さま。こんなに大きなお船に乗ったのは初めてなものですから。何もかも新鮮で。つい」
「そういえばおまえはまだ自家用機でしか海外に行ったことがなかったの。船もクルーザーくらいにしか乗ったことがなかったか」
「はい。素敵な誕生日プレゼントをありがとうございます!」
「じゃが、せっかくの旅行なのに、他の客と一緒で良かったのか?」
「はい。わたくし、近頃自分を『温室育ちのお嬢様だな』って感じることが多くて……。もっといろいろなヒトと関わり、様々なことを経験したいんです」
「ふむ。それ自体は立派な心掛けじゃが……。一応注意するんじゃぞ」
「注意、ですか?」
「うむ。こういったクルーズに参加できる層は多かれ少なかれ社会的な成功を収めた人間ばかりのはずじゃが、中には不埒な輩が居らんとも限らんからな」
「大丈夫ですよ、お祖父さま。SPの皆さんも陰で見守ってくださってますし」
そう言って豪奢な水色のドレスを翻し朗らかに笑うお孫さんのほうは、明らかにまだ小学生で……せいぜい十歳くらい? その言動の端々にまだまだ幼さを隠しきれずにいる。
それでいて、緩やかな曲線を描く頬の輪郭やすっと通った鼻梁、桜色の小さな唇など、顔の造形のひとつひとつはとても整っていて、美人と評して差し支えなかった。
何より、白い帽子を被ったその頭――腰まで伸ばした亜麻色に近い金髪は、日本人以外の血が流れていることが明白で、年齢とは関係なしに目を惹く。
ルーナという名前と容姿からてっきり外人さんかと思ったけれど。日本語が流暢なところを見るに、海外生まれの海外育ちというワケでも無さそうだ。
「すげぇ……こんな漫画のキャラみたいな金髪ロリ、現実にいるんだ」
感嘆するボクのすぐ傍、甲板の端。転落防止のための柵を兼ねた手摺の前で立ち止まったその金髪ロリは、海をもっとよく見たかったのか、自分のおヘソほどの高さしかない手摺から身を乗り出して海面を覗き込もうとした。
オイオイ、危ないなぁ。
一応注意しておくか。
「ねえ、キミ。そんなに身を乗り出したら落ちちゃうよ?」
手摺より少し上の位置に別の柵があり、大人の転落を防止するのには充分なのだろうけれど、このコくらいの身長の子供の場合、手摺と柵の間の隙間が絶妙に危ない。
まあ、もちろん、このコみたいに手摺に寄り掛かり、身を乗り出したりしなければ、なんら問題は無いだろうけれど。
「……そうですね。ありがとうございます、親切なかた」
金髪ロリ……もとい女の子は注意されたことに気を悪くしたふうでもなく、むしろどこか嬉しそうに微笑むと、ドレスの裾を抓んで持ち、ペコリとお辞儀を返してきた。
やはり相当育ちが良いだろう。多少舌足らずではあるものの、年齢に似つかわしくないしっかりとした振る舞いだ。
率直に言って、可愛い。
「……ふう。危ない危ない」
ボクは額の汗を拭う(フリをする)。
「ボクがロリコンだったら致命傷だったぜ」
なお、この場合の『致命傷』が何を指すのかはボクにもわからない。
ボクは今ノリだけで喋っている。
「ろりこ……?」
初めて耳にする単語だったのだろう、女の子がきょとんとした顔で小首を傾げた。スミマセン忘れてください。
ていうか、こんないかにも『純粋培養されてきました』って感じなお嬢様の前でなんつー単語を口走ってんのボク!? そして何オウム返しさせちゃってんの!? もうこれ逮捕されるべき案件だろ! 事案だよ事案!
「はじめまして、親切なかた。わたくしはルーナと申します。以後お見知りおきを」
再びドレスの裾を抓んで持ち、ちょこんとお辞儀する女の子。……この挨拶、確か『カーテシー』とか言ったっけ? 十六年生きてきたけど、誰かが実際にしているところを見たのは初めてだ。
住む世界の違いをまざまざと見せつけられた感じ。
「お初にお目に掛かります、おじょ……お姫様。イサリと申します」
変な単語をオウム返しさせちゃったお詫びに、『お嬢さん』じゃなく『お姫様』と呼んであげた。ボクなりのリップサービスだ。なお『こういうときって、少女漫画の王子様みたいに片膝をついて彼女の手の甲に接吻したほうがいいのかな?』という考えが一瞬頭を過ぎったりもしたけれど、ボクみたいな非モテの童貞がそんなことをしても気持ち悪いだけなので自制した。……それこそ事案になりそうだし。
ていうか、彼女を『お姫様』と呼んだ時点で、自分に自分に『うわ気持ち悪っ』って思ってしまった。
……うん。
よく考えたら、女の子を『お姫様』と呼ぶ時点でボクには許されないイケメンムーヴだったわ。
気持ち悪いモノをお見せしてしまったことを謝るべきだろうか……。
「お、お姫様だなんて……。そんな……」
恐る恐る様子を窺うと、女の子――ルーナは、朱に染まった頬を両の掌で包み、もじもじと照れていた。
少なくとも不興を買った様子は無い。
セェェェェェェェェェェフ!
相手が幼気な女の子で良かったー。もうちょっと年齢を重ねて世間ずれした娘だったら、『キモ(笑)』という反応だったに違いない。従妹みたいに。
いやぁホント良かった良かった!
………………。
良かった、のかな? 今のボク、見ようによっては『まだ小学生の女の子を甘いセリフで誑かそうとしている高校生の兄ちゃん』なんだけど。
これはこれでアウトじゃない?
ボクがそんな犯行現場――敢えてそう呼ぶ――を目撃したら、お巡りさんを呼ぶと思う。やっといてなんだけども。
「ゴクリ……」
唾を呑みつつ、いつの間にかすぐそこまで来ていたお祖父さんの様子を窺う。
SPを呼ばれたらダッシュで逃げねば!
あ。でもここは海上、クルーズ中の船の上だから、逃げ場が無いや……。
「ほっほっほっ。社交場で大人のおべんちゃらを聞くことには慣れっこのルーナも、年齢の近い『お兄ちゃん』からの不意打ちには弱かったようじゃの」
お……おお……。どうやらお祖父さんにSPを呼ぶ気は無いようだ。それどころか今のやりとりを見てカラカラと笑っていっらしゃる。懐が広ぇー。
でもねお祖父さん。ボクが言うのもなんですけど、小学生の孫娘を甘いセリフで誑かそうとしている初対面の男にはもうちょっと警戒すべきだと思いますよ?
……いやまあ、もちろんボクにそんな下心は全く無いけれど。
「あ、あの、イサリさま。この船に乗っていらっしゃるということは、イサリさまもクルーズの参加者なのですよね?」
「え?」
まだちょっと照れているのか頬が赤いルーナの質問に、ボクはなんでそんなことを訊くのかと戸惑いつつ首肯する。
「ああ……うん。そうだよ。ボクは生粋の庶民だから、正直、場違い感が半端ないんだけどね。従妹がテレビ番組の視聴者プレゼントに当選しちゃってさ。マナーとかろくに知らないから、このあとのパーティでも恥を掻くんだろうなぁって気後れしてたトコで」
「なるほど。大変ですね」
……『ボクとキミは住む世界が違うんで。どうかボクのことは路傍の石とでも思って放っておいてください』と暗に伝えたつもりだったんだけど。どうやら通じなかったようだ。
まあ、小学生だしね……。
ちなみにお祖父さんのほうは、ボクが困っていることとか、庶民であることとか、すべてお見通しらしく、「くくく……」と笑いを噛み殺していた。おのれ。
「で、それがどうかしたのかい?」
黙り込み、何か思案している様子のルーナに、気になって訊ねる。
なお、口調は素に戻すことにした。彼女たちは上流階級っぽいので最後まで敬語を使うべきかなのかもしれないけれど、お祖父さんはともかくこの幼い女の子に敬語を使い続けるのはやはり落ち着かない。
……そういうトコが『庶民』の証拠なんだろうけど。
ルーナはボクの質問に、もじもじしながら上目遣いで、
「えっとですね。もしイサリさまさえよろしければ、今夜のパーティ、ご一緒しませんか?」
………………。
おやおや?
このお嬢様、突拍子もないことを言い出しましたよ……?
「えっ……なんで」
「わたくし、イサリさまともっとお話がしたいです☆ イサリさまとはまだ知り合ったばかりですけど、お話ししているうちに『もしお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなぁ?』って思えてきて……」
「お兄ちゃん」
う、うーん……。まあ、このコが構わないと言うのであれば断る理由は特に無いのだけれど(気後れはするが)。
あ。でも、従妹はどうしよう……。
………………。
いや、そこまで気にする必要もないか。向こうだって彼氏でもなんでもないボクにエスコートとかダンスの相手とか、そういうパートナー的な役割は最初から求めてないだろうし。一番楽しみにしているのは料理みたいだし。
問題は……。
チラリとお祖父さんの様子を窺う。
お祖父さんは物好きな孫娘に『やれやれ』という表情を浮かべていたが、口を挟んではこなかった。
孫娘を止めるつもりはないらしい。
ホント懐が広ぇー。
……いや、本当にいいの、それで? 懐の問題じゃなくない? 可愛いお孫さんに、どこの馬の骨とも知れない若造がお近付きになろうとしてますけども(実際は近付いてきたのはこのコのほうからだけど。物理的にも心の距離的にも)。
「まあ、まだ小学生だしね……」
身代金目当ての誘拐とかは当然警戒しているだろうけれど、『悪い虫』が寄って来ることについては現時点ではそこまで警戒しなくてもいいという判断なのだろう。
誘拐だって船上じゃ難しいだろうし。
でも、世の中には変態も多いから、やっぱり多少は警戒したほうがいいと思うんだけどな……。
こんな可愛らしいお嬢さんなら尚更さ。
「ダメ、ですか? イサリさま」
「いや……まあ、いいか。これも何かの縁だし、一緒にパーティを楽しもうか」
キミみたいな幼気な娘さんにそんな上目遣いでおねだりされたら、ダメって言えないじゃん……。
「! ありがとうございます!」
ボクが了承すると、ルーナはぴょんとその場で飛び跳ね、全身で喜びを表現する。可愛い。
……じゃない! だから危ないって! そんな手摺のすぐ傍で飛び跳ねちゃダメでしょ!
ボクが諫めようと口を開きかけたちょうどそのとき、轟と一陣の強い突風が駆け抜け……、
ルーナが被っていた帽子が、突風に攫われ宙を舞った。
「あっ、お母さまからお借りした大切な帽子が!」
ルーナは反射的に帽子を追いかけ、手摺からおもいっきり身を乗り出して手を伸ばす。
「「ちょっ――」」
目を剥くボクとお祖父さん。
二人揃って、とにかくどこでもいいからルーナの身体を掴もうと手を伸ばす。
が、遅かった。
勢い余ったのか。
元々波の関係で船体が多少傾いていたためか。
あるいは――運命の悪戯というヤツだったのか。
とにかく、ルーナはそのままバランスを崩し、「あっ」という小さな悲鳴だけを残し海へと転落した。
「「ルーナっ!?」」
ボクとお祖父さんの悲鳴が重なる。
慌てて手摺に駆け寄り、身を乗り出して海を覗き込むが、ルーナの姿はどこにも見当たらなかった。
波に掻き消されたのか、落水したときの波紋すら見当たらない。
「ルーナぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
お祖父さんの悲壮な叫びが木霊するが、無論、返事などあろうはずもない。
これは……、落水の際の衝撃で気を失い、そのまま沈んでしまったのか!?
あるいはもう……。
「くそっ」
そこからは無我夢中だった。目の前の手摺に括りつけられていた救命浮き輪を取り外してしっかり握ると、「少年!?」というお祖父さんの驚愕の叫びを背に、一瞬の躊躇のあと「ええいっ、ままよっ」と漫画みたいなセリフを吐きながら海へと飛び込む(一度言ってみたかった)。
着水。
メチャクチャ痛ぇ……(当たり前)。
あそこが一番下の甲板で助かった……。あれよりも高いところだったら絶対飛び込めなかったよ。
「待ってろよルーナ!」
船は常に航行を続けているため、あのコが落水した場所からは既に結構離れてしまっていたけれど、救命浮き輪を手に必死に泳ぐ。
泳ぎながら考える。
ルーナは大丈夫かな? あんな小さな身体であの落水の衝撃に耐えられるのか? それにあのコ、泳げるのかな?
お祖父さん、早くこのことを船員さんに伝えてくれないかな……。ていうかあの船、ボクたちを救助するためにちゃんと戻ってきてくれるよね?
浮き輪、せめてもう一個持ってくるべきだったかな? でも二個も持って泳ぐのはそれはそれで大変そうだしな……。
てか、途中で鮫とかに襲われないよね? 大丈夫だよね? 海の生き物が多いのは基本的に陸地に近い場所で、大海のど真ん中は逆に少ないって話を聞いたことがあるけれど……、そもそもここってどのへんなんだ?
……今更だけどこれ、下手したらボクも死ぬのでは? ヤバい、ここで死んだら遺品整理の際に夜のオカズ(巫女さんのコスプレもの)まで見られちゃう……!
とまあ、いろいろなことを考えながら、必死に泳ぎ続けていると。
「――ぷはっ……けほっ……」
! いた、ルーナだ! 良かった、生きてる! なんとか呼吸しようと、必死に波間で藻掻いてる!
どうも落ちた直後姿が見当たらなかったのは、落下の際の勢いで海中深くへ一度沈んでしまったからで、そのあとちゃんと浮かび上がってこれたらしい。
「頑張ったな、ルーナ! もう大丈夫だぞ! ほら、浮き輪に掴まって!」
状況は大丈夫どころかむしろ絶体絶命のピンチと言っていい。けれど、ルーナを励まし、かつ折れてしまいそうな自分の心に発破を掛けるため、ボクは敢えてそう言って、ルーナの上半身に腕を回し、持ってきた浮き輪へと掴まらせる。
それにしても、こんなヒラヒラなドレスを着た状態でよくもまあ……。ただでさえ動きにくい格好な上、水を吸ってメチャクチャ重かったろうに……。結構根性あるな、このコ。
案外ボクなんかよりもよっぽど逞しい人間なのかもしれないな、このコは。
「――けほっ……ごほっ……、い、イサリさま……?」
「うん。落ち着いて。ほら、もっと両手でしっかりと浮き輪に掴まって。もう大丈夫だから」
状況は大丈夫どころか(以下略)。
「は、はい……」
「本当に……、浮き輪も無しによく頑張ったよ」
「別荘にプールがあるので……、昔から泳ぎだけは得意なんです」
わぁお金持ちぃ。
「どこか痛いところは?」
「痛いところ……? いえ、大丈夫です」
「えっ。あの高さから落ちたのに? 正直、死んでいてもおかしくない高さだったよ? ボクなんか、長年それなりに鍛えてきたにもかかわらず全身ズキズキ言ってるのに」
これ、少しでも落ちかたが悪かったら死んでたんだろうなと思う。冗談抜きで。
「けほっ……。言われてみればそうですね……。海に向かって落ちている最中、恐怖で失神してしまって……。ついさっき気が付いたばかりなので、海面にぶつかったときの痛みとかも憶えてないんですけど……。でも、少なくとも今はどこも痛くありません」
………………?
なんだそれ……。
あり得るか普通? そんなこと。
子供の骨は柔らかいって聞いたことがあるから、そのお陰とか?
いや、それにしたって……。
だいたい、失神していたのにどうして溺れ死なずに済んだんだ?
不思議な話というか……不自然な話というか……。
偶然や幸運という言葉で片付けるにはあまりにも……。
いや、でも、偶然や幸運でなければなんなんだって話になるしな……。
………………。
「イサリさま……もしかして……わたくしを助けるために自分から海へ……?」
「『お姫様』のピンチだもの」
とはいえ、我ながら無茶したもんだよなぁ。
昔、ボクがまだ中1で、従妹が小5だったころに、ウチの漁船から落ちた従妹を海に飛び込んで助けたことがあったけど、漁船と豪華客船じゃあ全然違うのにね。
「っ……イサリさまぁ……!」
「おおっとぉ!?」
ルーナがぽろぽろと涙を零し、感極まったようにボクの胸に縋り付いてきた。
両の手を、浮き輪から離して。
「イサリさま……、ありがとう……ございます……、あり、がとう……ぐすっ」
……うん。ボクが来るまで絶望で圧し潰されそうだったんだろうなってのは想像に難くないし、幼いとはいえ女の子に抱き着かれて感謝されるのは悪い気がしないけれど。でも、この状況でボクに縋り付くのはヤメよう? ほら、浮き輪に掛かる力が偏っちゃって危ないから――って、だから沈む! 沈んじゃうってば! この状況でよく浮き輪から手を離せるなこのコは!?
「ほら、泣かないでルーナ。ちゃんと浮き輪に、…………」
摑まって。
その言葉を、ボクは最後まで紡ぐことが出来なかった。
出来たことと言えば――そいつを見つめて固まり、鯉みたいに口をパクパクさせることだけ。
傍から見たら、さぞかしマヌケな顔をしていたことだろう。
「? イサリさま?」
固まったボクを見てルーナがきょとんとする。
「どうし――、」
そして彼女もまたそいつへと視線を送り――やはり、言葉を失った。
だがそれもほんの数秒だ。
彼女はやはりボクなんかよりもよっぽど根性があるというか……逞しい人間だったのだろう。
すぐに我に返り、そいつへとこう問い掛けていた。
「あなた……いつからそこにいたの?」
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