夢
翌日、エマは昨日と同じように朝早くから起きて勉強をするつもりだった。けれど、目覚めたら日は高く、もう昼前になっていた。それでもカラダの疲れは取れていない。
「おはよう」
机に向かって勉強をしていたソフィが振り返り微笑む。
「大分、お疲れみたいね。ぐっすり眠ってた」
ソフィの隣に座るエルザは、エマに構うことなく黙々と勉強を続けている。
エマは疲労で頭がぼんやりしながら、自分の勉強机の椅子に座った。窓の外は晴れ晴れとしている。少し開けた窓からは春の花々の香りが風に乗って運ばれ、エマは山のことを思い出した。それから自分の家のことを。あの家はどうなっているのだろう? 父親との思い出がたくさん詰まった大切な家だ。
「エマの分の朝食、取っておいたんだけど、食べる?」
ソフィが布で包んだパンを渡してくれる。
「ありがとう」
エマはパンを齧りながら魔法辞典を開いた。何か使えそうな魔法はないかとページをめくっていると、
「あなただけ、何で特別扱いなの?」
エルザが突然そんなことを口にした。エマは自分が言われたとは思わなかったけれど、じゃあ誰にそんなことを言っているのかと気になり振り向くと、エルザと目が合った。エルザの顔は怒りに満ちている。
「え?」
エマは驚いてソフィの方をチラッと見た。ソフィも何のことかわからない様子でエルザの顔を見ている。
「どうしたの、エルザ」
「この子よ」
エルザはエマを指差して、
「ジルーに勉強を教えてもらってるのよ。この子だけ。どうして?」
批難の声を上げる。
「そうなの?」
ソフィに訊かれてエマは頷く。
「校長先生にそうしろって言われたから」
「そんなの贔屓でしょ。不公平」
エルザの顔は赤くなっている。喋る度に口調が攻撃的になり、エマは怖くなった。ソフィまでもが不思議がるような目で見てくるのが、味方を失ったようでエマは寂しかった。
そんなエマの気持ちを察したのか、
「エマはテスターを動かせるから、校長先生に期待されてるんじゃないかな。合格者が出なかったら、救済案も中止になっちゃうかもしれないし」
ソフィが擁護してくれたけど、
「何それ? じゃあ、わたしたちは何も期待されず、ただ死刑を待つだけの身ってこと?」
エルザが立ち上がり、カラダの横に添えた握りこぶしをワナワナと震わせた。
「そういうことを言ってるわけじゃ――」
「もういい!」
エルザは怒鳴って部屋を飛び出して行ってしまう。
ソフィは追い駆けず、エマに苦笑いをして肩を竦める。
「ごめんなさい」
エマは申し訳ない気持ちになった。
「エマは何も悪くないよ。でも、確かに今まで、そんな特別待遇を受けた子はいなかった」
ソフィは何か訊きたそうな表情でエマを見つめる。
クレマン校長がジルーをエマの個人教師役にしたのは、恐らくエマに半分魔法使いの血が流れているからだろう。
エマはそのことをソフィに言う気にはなれなかった。
ここにいる予備生たちは多分みんな、生徒たちから意地悪をされた経験があるはずだ。恐らくソフィだって、エマが昨日、アントワーヌから受けたような差別的な発言をされたことが、少なくとも一度や二度はあるはず。魔法使いに良からぬ感情を持っていてもおかしくない。その嫌悪感を自分にも向けてくるかもしれないと思うと、エマはとても真実を話す気にはなれなかった。
ただその一方で、それを秘密にすることは、母親のことを否定することにもなり、エマは何とも胸が苦しくなった。
「ごめんね、余計なこと言って」
ソフィが謝る。
「どういう事情があるにせよ、わたしはエマの味方だから」
そう言って本に視線を戻した。
エマはソフィにも母親にも罪悪感を抱きつつ、魔法辞典に目を戻す。透明になる魔法に道具を使わず浮遊する魔法。高等魔法は夢のようなモノばかりに思える。
ふと外の庭が騒がしくなって見ると、生徒たちがラクティッチの練習を始めていて、箒にまたがってスイスイ飛び回っている。箒を使っての浮遊は初等魔法だけど、あれだって今のエマには難易度が高い。羽やテスターを動かすのにも苦労しているくらいなのだから。
どうやら、練習しているのはラクティッチの校内選抜らしい。腰に巻いている布の色がバラバラだ。その中でも特に目立っている選手がいる。アントワーヌだ。誰よりも早く飛び回り、誰よりも強く黄金の球をゴールに突き刺し、誰よりもうるさく騒いでいる。
「うるさくて勉強にならない」
ソフィがため息を吐きながら庭に鋭い視線を向ける。こんな表情をすることもあるのかと、エマは内心ドキッとした。
「何が楽しいんだか」
ソフィはそう呟くと、
「そう思わない?」
エマに同意を求めてきた。
「う、うん」
「わたしね、たまに夢を見るの」
「夢?」
「そう、夢。ここに住んでいるのが、魔法使いより人間の方が多くなる夢。最終的には乗っ取るの。いい夢でしょ?」
ソフィは笑顔を向けてきたけど、エマは何も答えられずにただ微笑み返すだけだった。
「正夢になればいいのに。ここでずっと暮らしていけたらどんなにいいか。エルザだって元に戻ると思う」
ソフィは窓の外に視線を戻すと、
「魔法使いなんて大嫌い」
そう呟いた。
――やっぱり本当のことは話せない。
エマはそう思いつつ、ソフィに自分の半分を否定されたようで悲しくなった。