ラクティッチ
「まったく、信じらんないよ。オイラが予備生のお守りだなんて。神聖な使い魔のオイラがさ。クレマン校長、どうしちゃったっていうんだよ、まったくもう」
校長室から出た途端、ジルーはぶつぶつ文句を言いだした。
エマはそんなことよりも、校長室の前に置かれた棚に目を奪われた。金色に輝く大きなカップや金色の大きなメダルが付いた首飾りなどに混ざって、お腹に数字が書かれた服を着ている、白黒の少年少女たちがたくさん閉じ込められた紙がある。
「ジルー、これ何?」
「これってどれさ?」
「この紙。どうしてこのひとたち、こんな小さなところに閉じ込められてるの?」
エマがそう言うと、不機嫌顔だったジルーは急に「キャキャキャ」と笑い出した。
「何がおかしいの?」
「何がおかしいって? これだからもう、人間は笑わせてくれるよ。それはシャシンっていって、その時の風景なんかを記録するもの。そんな小さいところにひとを閉じ込められるワケないだろ。ちょっとは考えてくれよ、キャキャキャ」
ジルーがここぞとばかりにバカにしてくるものだから、エマはムッとしたけれど、それよりもシャシンというものが気になった。
「じゃあ、ここにいるひとたちは、今は別のところにいるの?」
「当り前さ。それは四十年前のものなんだから。魔法界には人間界よりも便利なものがたくさんある。人間界で『発明品』なんて呼ばれてるものは大体、魔法界の落とし物さ」
ジルーは誇らしげに言うと、
「ほら、真ん中にいるのがクレマン校長だよ」
シャシンの中央にいる、ハンサムな男の子と肩を組んで写っている少女を指差す。
それは、エマと同い年ぐらいの少女だった。髪の毛の長さは今と同じぐらいだけれど、口角がキュっと上がっていて、誰からも好かれそうな明るい笑顔を見せている。
「これが校長先生!?」
エマは驚いた。たった今会ってきたばかりの冷酷な印象のクレマン校長とは似ても似つかない。
「全魔法学校が集まるラクティッチの大会で優勝した時のものだ。後にも先にも、セイントフォーヘンがこの大会で優勝したことはこの時以外にない」
シャシンを見てジルーがひとり言のように呟く。
「ラクティッチ?」
「魔法界で一番人気の競技さ。この世界にいれば、これから嫌でも目にすることになる。ま、選手に選ばれるのは魔法力に優れたエリートばかりだから、あんたには関係ない話だけどね」
ジルーの嫌味はさておき、エマはラクティッチへの興味が湧いた。あのクレマン校長がこんなにも溌溂とした笑顔を見せているのだ。間違いなく素晴らしい競技なのだろう。
「そういえば今年、ラクティッチの特待生として入学したアントワーヌって子が、校内の選抜チームのエーカーに選ばれたらしい。これでアリスのパスセンスが活かされるようになるから、次の大会はいいところまで勝ち進むかもしれないな」
ジルーはそんなことをぶつぶつ言いながら廊下を進んで行く。
廊下の壁には、
『校舎内での空飛ぶ箒の使用禁止』
『分身の魔法を使っての身代わり出席は停学処分』
『授業中にトゥムトゥマ・ガムを食べないこと』
などと禁止事項が書かれた紙が貼られている。
「ねえ、ジルー」
「人間のくせに、気安く呼び捨てにしないでもらいたいもんだね。呼ぶならジルー様って――」
「トゥムトゥマ・ガムって何?」
「え? トゥムトゥマ・ガムも知らないなんて、どんな生き方をしてきたんだよ、まったく。これだから人間って奴は」
ジルーはぶつぶつ文句を言いながら、お腹の中に手を入れる。
「え、お腹がポケットになってるの?」
驚くエマに、
「なってちゃいけないって法はないだろ」
ジルーは機嫌を損ねながら巾着を取り出して緒を緩めると、
「はい、手を出して」
ぶっきらぼうに言う。
エマが手を出すと、巾着から白い小石のようなものが転がり落ちてきた。
「これがトゥムトゥマ・ガム?」
エマはそれを摘まんで観察する。何なのかさっぱりわからない。
「食べてみな」
ジルーが素っ気なく言うものだからエマは警戒してしまう。
「毒なんか入っちゃいないさ。そんな目で見て失礼だな、まったく。食べないなら返してくれよ」
「ごめんなさい」
エマは思い切ってそれを口の中に入れて、ゆっくり慎重に噛んでみた。すると、甘い味が口の中に広がるのと同時に、
「アハハハ、イーヒッヒッヒ」
ガムから笑い声が聞こえてきた。驚いて噛むのを止めると、笑い声も聞こえなくなる。
「それは笑いのガム。噛むたびに色んな笑い声が出るんだ。他には怒りや励まし、泣き声を出すガムなんかがある」
ジルーは巾着をお腹のポケットにしまう。
エマは面白くなってガムをクチャクチャと噛んだ。
「フハハハハ、ブヒブヒブヒ、ダーハッハッハッハ」
その陽気な笑い声につられて、エマもつい笑顔がこぼれてしまう。
「うるさいから、さっさと飲み込んでくれよ」
ジルーに言われて、エマは惜しい気持ちになりながらガムを飲み込んだ。喉を通った後も、
「プププププ、クスクスクス」
笑い声が微かに食道に響いて、エマはまた笑ってしまう。落ち込んだ時にこれを食べれば元気が出るような気がした。
「まずは制服を用意しなくちゃな」
ジルーは『衣装室』と書かれた札が下げられているドアを開けた。
その部屋の中にはいくつも棚があって、黒いローブや白いワンピース、色とりどりの布、下着類、革靴がキレイに並べられている。
「えっと、サイズはこんなもんかな」
エマの全身をひと目見てから、ジルーはローブと白いワンピースをエマに手渡す。そして、色とりどりの布から茶色の布を手に取り、
「これは腰巻に使う布で、色がそれぞれの学年を表してる。六年生から赤、白、青、黄色、緑、黒を使ってて、予備生は茶色って決まりさ。オイラ、外に出てるから、そのみすぼらしい服からさっさと着替えな。下着は適当なのを使えばいい」
ジルーが廊下に出て行くと、エマは火に焼けて穴だらけになった服や下着を脱いだ。母親の形見の首飾りはどこも焦げつかずにそのままで安心した。
まずは新しい下着、次にワンピースを着て、首飾りは見えないようにいつものように服の下に隠した。誰かに取り上げられたり、盗まれたりしたくないからだ。
ワンピースはまるで何も着てないように軽くて、ほのかに甘い香りがした。茶色い布で腰を縛るとフィット感が増す。
ローブを着て革靴を履いてから鏡の前に立つと、汚れのために茶色が混じったボサボサの金髪とまだ少し煤が付いた顔を除けば、魔法学校の生徒に一歩近づけたような気がした。
「どう?」
廊下からジルーの声がする。
「着替え終わった」
「じゃあ出て来て。次はこれから住む部屋に案内するから」
エマが廊下に出ると、ジルーは階段をのぼり始めた。
二階に到着すると、白いワンピースに黒の布を腰に巻いた、エマと同い年ぐらいの生徒たちが授業をしている風景が見えた。壇上にいる教師が握りこぶしをパッと開くと、白いハトが飛び出して、生徒たちが拍手喝采する。
「凄い」
エマも思わず感嘆の声を上げた。
「あんなの文字通り、子どもだましさ」
ジルーはつまらなそうに言いながら、階段をさらにのぼる。
「今のは一年生のクラス。習うのは魔法の基礎」
三階、四階と上がって廊下を歩く。
「ここは最上級、六年生のクラス。今は変身の授業をやってるみたいだな」
そう言って、ジルーが尻尾の先で指し示したのは、白いワンピースに赤い布を腰に巻いた、もうほとんど大人に見える生徒たちがいるクラスだった。ひとりの女子生徒が壇上に上がり、小枝のようなものをひと振りすると、白い煙がパッとそのカラダを包んで、次の瞬間には腰の曲がった老婆に変身していた。
「え!?」
一年生のクラスとはレベルが格段に違う、これぞ魔法という実技を目の当たりにしたことで、エマは人間界とは別世界に来たことを改めて実感した。それと同時に、
――わたしもあんな魔法が使えるようになりたい。
胸が高鳴るのを感じた。
そのまま廊下の奥に進むと、日の当たらない場所に狭くて急な階段があった。
「ここが、あんたがこれから三ヶ月近く暮らしていく屋根裏部屋さ」
ジルーはそう言うと階段をのぼり、エマもそれに続いた。
階段をのぼりきると、下のフロアと同じように廊下が直線に伸びていて、屋根のカタチに傾斜している左側には窓が並び、薄っすらと陽が射している。ちょうど下のフロアの教室の上部にあたる右側は壁になっていて、ドアが等間隔でいくつも並んでいた。
「基本的には三人部屋なんだけど、確か今空いてるのはここだったかな」
ジルーは階段から三番目のドアをノックする。
「はい」
中から返事がしてドアが開けられた。顔を覗かせたのは、モジャモジャの赤毛で目が細く、そばかすだらけのぽっちゃりした女の子だった。
「エルザ、この部屋、ひとり分空いてるよな?」
ジルーが訊くと、エルザはエマをチラッと見て、
「空いてるけど……」
迷惑そうな顔をして歯切れ悪く言う。
「じゃ、エマはこの部屋に決定。さ、入って入って」
ジルーに言われるままにエマは部屋の中に入る。
ドアの前にベッドが三床横並びになっていて、屋根のカタチに傾斜になっている窓側には机が三台、同じく横に並んでいる。それぞれベッドが一床、机が一台ずつ空の状態だった。
部屋の右側は壁、左側は服や私物を置く場所になっている。
あまり陽が当たらず、埃っぽい部屋ではあるけれど、これとは比べ物にならないほど酷い環境で生まれ育ったエマからすれば、とても居心地のいい場所に思えた。
「あとひとりは誰が使ってる?」
ジルーが訊くと、
「ソフィ。ジルー、あのさ、あたし、試験が近いんだけど」
エルザはイライラした様子で答える。
「いつ?」
「一週間後よ」
「で、そんな焦ってるようじゃ、期待薄いね」
ジルーが意地悪くニタニタ笑うと、
「猫のくせにうるさいんだよ、コンチクショー!」
エルザは癇癪を起して、机に置いてあるぶ厚い本をジルーに投げつけるも、
「おっと」
ジルーは軽々と避けて、
「ここに荷物を置いて、さっさと出よう」
空いているベッドを尻尾の先で示しながら愉快そうに言う。
エマは言われたとおりに予備の服や下着をベッドの上に置くと、ギリギリと歯ぎしりしてジルーを睨むエルザを尻目に部屋から出た。
エマはジルーの後に続いて階段を降りる。
「ああ、おかしい」
ジルーは楽しそうな様子だけれど、
「あの子と一緒の部屋なの?」
エマは上手くやっていく自信がなかった。
「言ってただろ、あと一週間の辛抱さ。あの様子じゃ試験は落第だろうから、もう二度と会うこともないだろうね」
「試験てそんなに難しいの?」
「魔法の基礎の基礎。オイラからすれば、寝ながらでもできるぐらい簡単だけど、人間には難しいだろうな。合格するのは十人中一人ぐらい」
「そんなに……」
エマは一気に自信を失ってしまう。
「まあでも、どっちにしろ、人間はここでは肩身の狭い思いをするだけだから、合格しても幸せとは限らないけどね」
「どういうこと?」
「人間は蔑まされてるからさ。クレマン校長が魔女狩りの救済案を提案した時、色んなところから反対意見が出た。教師だけでなく、生徒たちやオイラたち使い魔からも。だから、たとえ入学できても、周りは敵だらけってワケ。入学できても、イジメに耐え切れなくなって自主退学するパターンが多いね。つまり、ここから飛び降りる方がマシって思うほど、酷い目に遭うってことさ」
だから、ジルーは嫌味ばかり言ってくるのかとエマは納得した。
そして、死を選ぶほどのイジメとは何なのかと怖くもなった。村にいた時に他の子どもたちからイジメられたけど、顔を合わさなければいいだけの話だった。でも、ここにいる限り逃げ場はない。
「それに、あんたの場合は他の人間よりもさらに厳しい目にさらされるだろうね」
ジルーはエマを不安にさせるのを楽しんでいるようだった。その証拠にずっとニヤケ顔を浮かべている。
「どうして?」
「さっきも言っただろ。魔法使いが人間と子どもをつくるのは禁止されてるんだ。その禁忌を犯して産まれたあんたが、歓迎されると思う?」
「別に歓迎されなくてもいい」
エマはきっぱり言った。
「強がっちゃって」
「そんなんじゃない」
ひとりでいることにも、他人から嫌われることにも、エマは今までの人生で慣れていた。
それより悲しいのは、父親と母親が育んだ愛を否定されたことだ。
エマは父親が機嫌のいい時(それは大体、庭先で大きなニンジンが採れた日だった)に、母親との思い出話を話してくれた時の様子を思い出した。まるで、それさえあれば他には何もいらないとでもいうように幸せな顔をしていた。
「へぇ、そうなんだ」
ジルーはつまらなそうに気のない返事をすると、
「何でふたりは知り合ったんだ? そもそも、魔法使いが汚物だらけの人間界へ降りて行くことなんて、滅多にないっていうのに」
話のついでのように訊いてきた。
「お母様は、人間界で探し物をしていた時に、嵐に遭って空から落下してしまったの。その時にお父様に助けられて、そのまま一緒に暮らすことになった」
母親のケガが酷かったことや、薬草学に詳しくなければ絶対に助けられなかったこと、奇跡的に命が助かったことで神様に心の底から感謝したことなどを、父親がよく話していたことを思い出して、エマは懐かしい気持ちになった。そして、父親とはもう二度と会えない寂しさが込み上げてきて涙が溢れ出した。
「な、泣くなよな」
自分が泣かしてしまったと思ったのか、そして、そこまでエマに意地悪をするつもりはなかったのか、ジルーは少しうろたえた。
「で、あんたの母親が人間界で探してた物っていうのは?」
「知らない。ケガをした時に記憶喪失になったって」
父親の話によれば、母親は最初、自分が魔法使いであることも忘れてしまっていたらしい。徐々に記憶を取り戻しても、結局、人間界で何を探していたのか、魔法界の故郷の場所なども忘れたまま、エマを産んだ時に死んでしまった。
――わたしを産んだ時に?
それは、自分が人間との間にできた子どもだからではないか。命に危険を及ぼすから、魔法界では人間との子どもを産むことを禁止しているのではないか。エマはふとそう思い、胸がぎゅっと絞めつけられた。
人間同士の子どもを出産するのだって命懸けだ。出産が原因で死んだ村人をエマは何人も知っている。それでも……。
エマは暗い気持ちになってしまう。
「わざわざ人間界に探しに行く物なんて何があるんだ?」
ジルーは首を傾げる。
それはエマも知りたかった。それを探しに出ていなければ、母親と父親が知り合うこともなく、エマが誕生することもなかった。知る術はもうないけれど、もし何かの拍子に知ることができたら、絶対にそれを見つけ出して、家の裏にある両親の墓地に捧げたいと思っている。
そして、そのためにも魔法を学ぶことはきっと役に立つに違いない。絶対に入学して魔法使いになるんだと、エマは心に決めた。覚悟した途端、居ても立ってもいられなくなった。
「ジルー、入学試験のための勉強、今日から始めてくれる?」
「え? 別にいいけど、どうしたのさ、急にやる気出しちゃって」
「だって、ここから落とされるなんて嫌だもん」
それもまた理由のひとつだった。ここまで来るのに相当な高さを飛んできた。落とされたら確実に死んでしまう。
「ま、そのやる気もいつまで続くかね。クレマン校長の命令だから、ちゃんと教えてあげるけどさ」
「よろしくお願いします」
ちょうど階段を一階まで降りてきたところで、エマはジルーに深々と頭を下げた。
「よ、よせよ」
ジルーは照れくさそうに言う。口は悪いけれど面倒見は良さそうだ。エマはジルーの性格がわかりかけてきた。
「ふん。オイラの授業はスパルタ式なんだからな。さっきみたいに泣いても容赦しないんだからな。覚悟しな」
「はい、先生」
エマがそう言うと、ジルーは満更でもなさそうな顔になる。
そこへ、
「よう、ジルー」
ジルーと同じ背格好をした白猫が、ニヤニヤした顔をして近づいてきた。その途端、ジルーが急に縮こまったようにエマには思えた。
「やあ、エリック」
と応じる声も心なしか小さくなる。
「役に立たない人間をまた拾ってきたのか?」
エリックはバカにしたような顔でエマを見てくる。
「役に立たないかどうかはまだわからないさ。今、ここへ来たばかりだからね」
ジルーは俯きがちに答える。
「人間なんてどいつもこいつも役立たずばかりさ。どうせ試験に落ちて地上へ突き落とされるだけ。ホント、クレマン校長は何がしたいんだか。救済案だとか言っておいて、実は人間を殺すためにやってるってウワサもあるぜ」
エリックは尻尾を盛んに振っている。しょんぼりと垂れているジルーの尻尾とは対照的だ。
エマは言われっ放しでいることが悔しくなってきた。
「わたしは絶対に試験に合格する。ジルーが教えてくれるんだから」
そう言うと、ジルーはなぜだか迷惑そうな顔をして、反対にエリックの顔が明るくなった。
「本当かジルー?」
「ま、まあね」
「これでようやく、クレマン校長の使いっ走りから卒業できるってわけだ」
「そ、そんなんじゃないけど」
「いやいや出世だよ。同期として心配してたんだ。いつまでもクレマン校長に顎で使われて、教職に就けないんじゃないかってさ。今夜はお祝いでもしようか」
「だから、そんなんじゃないって」
「でも、ジルーが教師になってくれるんだろう?」
エリックに顔を向けられて、
「は、はい」
エマは戸惑いながら返事をする。
「やったじゃないか、ジルー。これでこの子を合格させたら、一年生の授業を任されるようになるかもしれないぞ」
エリックはジルーの背中を尻尾で叩くと、
「ジルーの出世のために、絶対に合格するんだ。頼んだぞ」
快活な声でエマを激励して去って行った。
「何だよあいつ、バカにしやがって」
エリックの姿が見えなくなってから、ジルーは悔しそうな声で漏らし、
「余計なこと言わないでくれよな」
強く責めるでもなく、恥じらうような口調でエマに言った。
「ごめんなさい」
エマは素直に謝った。
「外へ行こう」
ジルーに促されて外へ出た。