クレマン校長
石造りの校舎の中に入ると、エマはまず煤だらけの顔を水で洗うようジルーから命じられた。
洗顔が終わって廊下を歩いていると、箒が勝手に動いて床のゴミを掃き、塵取りがそれを吸い込むようにして集めて、その後を雑巾が行ったり来たりする場面にでくわした。
人間界でなら怪奇現象に他ならないけれど、ここでは愉快な演劇を見ているようで、エマは目を奪われてしまう。
そんなエマを尻目に、ジルーは校長室のドアをノックすると、
「クレマン校長、エマ・マルタンを連れてきました」
エマとふたりきりの時とは別猫のように丁重な物腰になった。
「どうぞ。お入りなさい」
部屋の中から感情のない声が返ってくる。
エマはジルーが緊張していることに気づいた。
ジルーがドアを開けると、赤いカーペットが敷かれた室内のドアから真正面に机があり、そこから短い白髪頭の痩せぎすの中年女性が、エマを驚いた様子で見つめてきた。
「あなたがエマ・マルタンね」
クレマン校長に確認されて、
「そうです。わたしはエマ・マルタンです」
エマは、はっきりそう答えられたことを、特別な何かを成し遂げたかのように誇りに思った。
けれど、
「ろくに栄養が取れてないようね」
クレマン校長からの第一印象がそうであるとわかった途端、エマは縮こまってしまった。
「ここで入学予備生として暮らせば、すぐに顔色も良くなるでしょう」
クレマン校長はそう言うと、
「どこまで説明してあげたの?」
エマと同じ青い瞳をジルーに向けた。
ジルーはビクッとなって背筋を伸ばし、
「魔女狩りからの救済措置であることと、入学試験についてです」
真面目ぶった態度でそう答えた。
「そう。それについて何か質問はある?」
クレマン校長は、今度はエマに顔を向けてきた。
質問はたくさんある。その中でもエマが一番気になっているのは、
「もし、入学試験に合格できなかったら、どうなるんですか?」
という点だった。ジルーが意地悪をしてウソを言っただけだと信じたかった。けれど、
「今から落ちることを考えてどうするんです」
クレマン校長は質問には答えてくれず、
「寮や教室の数には限りがある。一定の基準に達しない者をいつまでも置いておくわけにはいかないわ。ここにずっといたいのであれば余計なことは考えず、入学試験まで必死になって勉強すればいいだけの話。あなたの場合、三ヶ月近くも時間があるのだから、文句を言わずに勉強に励みなさい」
エマを諭すようにそう言った。
そうだ、本来なら自分は今頃、村の広場で焼かれて骨になっていたんだ。それを救ってくれたのに文句を言うなんて恩知らずだと、エマは心の中で反省した。
「他に質問は?」
「その入学試験までの間、わたしはどこで何をすればいいんですか?」
ジルーは『下働き』をさせると言っていた。具体的には何をするのか。それ次第でここでの生活の善し悪しが変わるとエマは思った。
「あなたは何が得意なの? あるいは何をするのが好き?」
クレマン校長はエマを値踏みするように見つめてくる。
「わたしは……」
エマは考えを巡らせたけれど、得意なことはここへ来る原因になった薬草学しかなかった。
「薬草で薬を調合することです。それと、好きなことは聖書を読むことです」
「そう。明日までには何をするか決めておくわ。住む部屋はここの屋根裏。毎月末には給金を渡す。制服はジルーが用意してあげて。他に質問はある?」
エマはこれ以上質問をしたら、失礼なことを口にしてしまうのではないかと自重しようとした。けれど、ふと気になって、
「わたしの母親は、魔法使いだったみたいなんです」
そう切り出した。もしかしたら、この学校の生徒だったかもしれない。そうだったらどんなにうれしいことか。入学試験のモチベーションになる。クレマン校長が知っていることを期待した。
けれど、
「つまり、あなたの母親は人間の男と結婚したということ?」
クレマン校長の顔色がくもり、見るからに機嫌が悪くなった。
それだけでなく、ジルーまでもが顔を顰める。
「どうしたんですか?」
何かおかしなことを言ったかと、エマは不安になった。
「魔法使いが人間との子どもをつくることは、魔法界の法律で禁止されてるんだよ」
ジルーがため息を吐きながら言う。
「どうして?」
エマには理解できなかった。
「純血を守るためよ」
クレマン校長が厳かな顔を向けてくる。
「人間の血が混じることで魔法力が弱まってしまうとされているの」
「だから……」
自分の魔法力はちっぽけなのかとエマは納得した。そして、いくら頑張っても魔法を使えるようにはならず、この学校に入学できないのではないかと心配になった。
「あなたの母親の名前は? 法律を破ったのだから、相応の罰を受けなくてはならない」
クレマン校長にそう言われて、エマは悲しくなった。母親は罪人なんかじゃない。絶対に違う。心の中で否定した。
「どうしたの? 早く名前を言いなさい。隠すつもりなら、あなたも罪に問われて、この学校に入学する権利も失うことになる」
脅しだった。けれど、エマは隠すつもりなんてなかった。母親には一度も会ったことがないけれど、父親と同じぐらい尊敬して愛している。
「わたしはお母様が悪いことをしたなんて思いませんから、隠すつもりなんてありません。お母様の名前はシャルロット。……お母様はもう死んでます」
エマがきっぱりそう言うと、クレマン校長の顔色が変わった。眉間に少し皺を寄せてエマを見つめてくる。怒ったのかもしれない。
ジルーが咎めるように見てくるけれど、エマはその視線を無視した。
「あなた……エマ、その、あなたは母親の記憶が?」
クレマン校長の喋り方がたどたどしくなった。エマへの怒りを抑えようとしているせいなのだろう。
エマはたとえ反抗的だとしても、入学試験の権利を取り上げられてしまったとしても、仕方ないと思った。母親を罪人だと認めて、呑気に学生生活など送りたいとは思わない。それならいっそのこと、天国へ行って両親と一緒に暮らす。
「お母様は、わたしを産んでからすぐに死んでしまいました」
エマがそう答えると、クレマン校長は目を伏せて黙り込んだ。次のひと言で運命が決まる。エマは身構えて、クレマン校長を見つめた。
ジルーは「何やってるんだよ、まったく」とでも言いたげな顔をしている。
「エマ、何か魔法は使えるの?」
てっきり叱られると思っていたものだから、エマはクレマン校長の質問に面食らってしまった。
「あの、その、少しだけ。モノを動かすぐらいですけど」としどろもどろになる。
「やってみて。ここにあるモノ、何でも使っていいから」
クレマン校長の机の上には、エマがこれまで目にしたことのないモノがたくさん置いてある。
「じゃあ、これを」
机の上を掃くためのモノらしい、一枚の鳥の羽をエマは指さした。それが、机の上にある中で一番軽そうだったからだ。
「どうぞ」
クレマン校長から羽を受け取ると、エマはまさかと思って、
「もしかして、これって入学試験なんですか?」
そう訊いた。魔法界の掟を破った母親をもち、反抗的で魔法力がないのなら、三ヶ月近くもここに住まわせる意味はないと判断したのかもしれない。
「違うわ。ただ、現状を見ておきたいだけ」
クレマン校長はウソを言っているようではなかった。それでもエマは心配だった。
――これが人生で最後の魔法になるかもしれない。
エマは覚悟を決めて机の上に羽を置いた。そして目を瞑り深呼吸。瞼を開けて、「動け!」と羽に向かって念じた。
すると、羽はフワっと天井に当たりそうになるまで舞い上がった。いくら羽が軽いとはいえ、エマは自分の力に驚いた。
羽は左右に大きく揺れながら落ちてきて、最後はジルーの頭に乗っかった。
ジルーは頭をぶるぶる振って羽を落とすと、「やってくれたな、わざとだろ」と訴えるような目でエマを見てくる。
クレマン校長は、エマの魔法力については何も言わず、
「ジルー、しばらくエマに付き添って、仕事が終わった後にマンツーマンで魔法を教えてあげて頂戴」
そう口にした。これに驚いたのはエマではなくジルーだった。
「はい。……え? でも、オイラは校長の使い魔ですし、予備生は基本的には自主勉強ってことになってるじゃないですか」
ジルーがそう主張するも、
「いいから、そうしなさい」
クレマン校長は有無を言わさぬ口調で返す。ジルーは観念して、
「わかりました」と言いつつ、恨めし気な顔をエマに向けてきた。
「エマに制服を用意して、敷地内を案内してあげなさい」
クレマン校長の命令に、
「わかりました」
落胆を隠さず答えたジルーは、「ついて来な」とぶっきらぼうにエマに言う。
エマが部屋から出ようとすると、
「エマ、あなたの父親はどんな人間なの?」
クレマン校長にそう訊かれた。
「優しかったです。薬草学はお父様から教わったんです」
「優しかった? 生きてないの?」
「少し前に死にました。栄養失調で」
「そう……それは残念ね」
クレマン校長が同情するような顔を向けてきたため、エマは驚いた。もしかしたら、それほど冷たいひとではないのかもしれない。そう思った。けれど、入学試験に不合格ならこの空高い場所から突き落とすのだ。
エマは村にいた時も父親以外と話すことがなかったため、大人というものがよくわからなかった。同い年の子どもと一緒に学校に通ったり、遊んだ経験もない。
これからこの場所で上手くやっていけるのか不安になりながら、「失礼しました」と言うジルーを真似て校長室を後にした。