使い魔ジルー
それからの展開はあっという間だった。
エマは自分の家が裕福に思えるほど、狭く不潔な牢屋に閉じ込められてしまった。
一日に一度だけ与えられる食事は、食材として入れられたのか、はたまた配膳の途中で混入してしまったのか、小さな蜘蛛が浮かぶスープだけだった。
以前のエマだったら少しは耐えられたかもしれない。けれど、アドルフから貰った硬貨で生活の質を上げてしまい、それに慣れつつある今では耐えがたく辛かった。
「ここはどこですか?」
「家に帰してください」
「水とパンをもらえませんか?」
看守に訴えても無視されるか、「静かにしろ!」と檻を木の棒で叩かれて威嚇されるだけだった。
そうして二日が経ち、牢屋から出されたエマは、何の罪で捕まったのかはわからないけれど、これでようやく家に帰れるのだと安心した。
ところが、そこから連れて行かれたのは、円状になった席にたくさんの人々が座る場所だった。その席には、エマが住む村のひとたちの姿も見えた。
そして、そのひとたちにぐるりと監視される席に座らされたエマは、自分の真正面にある高い座席から見おろす男性が、
「キリスト教を破壊する者」
「魔女の疑い」
「幻の見える薬を売った」
などと淡々と喋り続けるのを一方的に聞かされて、
「よって火あぶりの刑に処する」
そう締め括られるまでジッとしていた。
その最後の言葉を聞いた村人たちからよろこびの声が上がった。
――火あぶりって、わたしが? どうして?
エマはまったく事情がわからないまま、再び肥溜めのような牢屋に戻されて、次にそこから出されて向かった先は、生まれ育った村の広場だった。
曇天の下、広場の中央には木の枝が山盛りにされていて、そこにエマの背丈の三倍はある丸太が突き立てられていた。
その横にはたいまつを手にした修道士が立っていて、それらを囲むようにして村人たちが勢ぞろい。エマが姿を現すと興奮の声を上げた。
事情はわからないけれど、良からぬことが我が身に迫っているということだけは、エマにも理解できた。
――お父様、わたしをここから助け出してください。
エマは心の中で祈った。
「ちゃんと歩け」
修道士に引っ張られて、エマは村人たちが騒ぐ中を歩かされる。その群衆の中にアドルフの姿があることに気づいた。
――そうだ、今日は薬を渡す日だった。
薬を調合してないことを謝ろうとすると、アドルフは「話しかけるな」というように頭を振って、エマから顔を逸らしてしまった。
その行動に驚いている内に、エマは丸太の前に立たされて、両手を後ろに回され手首を縄で縛りつけられてしまった。
「何をするんですか?」
修道士に訊いても答えてくれない。その代わりに、
「火あぶりの刑だ!」
「地獄で悔い改めろ!」
村人たちが盛んに叫ぶ。
――どうしてわたしが火あぶりの刑にされなきゃいけないの?
エマはそう訴えたくても、自分に向けられる村人たちの憎悪に満ちた目を見て恐怖してしまい、声が出せなくなった。
――ミカエル様、ガブリエル様、ラファエル様、わたしを助けてください!
今度は聖書で慣れ親しんだ友人たちに向かって、心の中で救いを求めた。
けれど、救済の兆候は見られず、たいまつを持つ修道士が、その火をエマの足元の木の枝に燃え移らせた。
乾き切った木の枝はパチパチと勢いよく燃え始めて、エマはすぐさま膝下に耐えがたい熱さを感じ、
「やめてください!」
叫んだ。
その姿を楽しむように村人たちが笑い声を上げる。
――そうだ、こういう時こそ魔法を使えばいいんだ。
エマはそう思い立つと、木の枝がその場から動くように強く念じた。
ところが、動いたのは火の粉だけで、それが目の前にいる村人や修道士の服に降りかかって燃えだして混乱が広がった。
灰色の雲から雨が降り注ぎ始めた。
けれど、エマの足元には相変わらず木の枝があって、炎は勢いを増すばかりだった。
――お母様、助けてください。わたしに魔法の力をください。
エマは空を見上げて祈った。
その瞬間、ぶ厚い雲の向こうで雷光が煌めいた。それを母親からの合図だと受け取ったエマは、
「お母様、助けてください!」
今度は声に出して叫んだ。
すると突然、足元の炎が球状にブワッと燃え上がり、エマの姿を周囲から遮断した。
炎の壁に取り囲まれたことで、エマの全身から汗が猛烈に噴き出す。着ている服はチリチリと燃え始めた。
エマが死を覚悟した時、
「やれやれ、やんなっちゃうな、もう」
突然、男の子の声がした。驚いて顔を下げると、エマの目の前に青い目をした黒猫が宙に浮いていた。いや違う。その黒猫には翼が生えていて、それをはためかせているのだ。肩には麻袋を担いでいて、エマの顔をジッと見つめている。
「こんな縄も自力で解けないなんて、才能無しだよ、まったく」
黒猫はため息を吐く。何だかわからないけれど、エマが落胆させてしまったようだ。
「すいません」
エマは思わず謝り、
「あの、えっと、誰ですか?」
そう訊いた。もう自分は死んでいて、幻を見ているのではないかとさえ思った。
「ブー。質問する権利があるのはオイラだけ」
黒猫は生意気な小僧のように言うと、
「ここで焼け死ぬか、オイラについて来るか、ふたつにひとつ。さあどっちを選ぶ?」
何の説明もなく一方的に選択を迫ってきた。
「あなたについて行くってどこ――」
「ブー。質問できるのはオイラだけ。さっさと選ばないと焼け死んじゃうぜ」
確かにグズグズしてる暇はない。けれど、この猫は何者? どうして言葉を喋るの? 翼が生えてるのはなぜ? エマの頭の中はクエスチョン・マークでいっぱいになった。
――そうだ、生きてさえいればたくさん質問ができる。
その解決策に納得して、
「黒猫さんについて行く」
エマはそちらを選んだ。
「オイラは黒猫じゃなくて、クレマン校長の使い魔。そんでもって、ジルーっていう立派な名前があるんだ」
ジルーはそう主張すると、
「ふーん。後で『やっぱりあの時、焼け死んでおけば良かった』だなんて、間違ってもオイラのことを恨まないでくれよな」
疑いの目でエマを見てきた。
「そんなことしないわ」
エマは断言する。どんなに辛いことがあっても、死ぬことより悲しいことはない。それを父親の死で学んだ。生きてさえいればきっといいことはある。
「じゃあ、オイラはあんたをセイントフォーヘン魔法学校へ連れて行く。あんたはこれから魔法界の住人になるんだ。って言っても仮の住人だけど」
「魔法学校? 魔法界?」
「ブー。オイラに軽々しく質問するのは禁止。人間界のあんたはここで死んだことになるから」
ジルーは麻袋の口を縛っている紐をほどいて、麻袋を逆さにした。すると、人間の骨がバラバラと出てきて、エマの足元の炎の中に落ちていく。
最後に頭蓋骨が出てきたところで麻袋は空になり、ジルーはそれも炎の中に捨ててしまうと、
「そんじゃ、行こうか」
やる気のなさそうな声でそう告げる。
「行くって?」
エマは丸太に手首を縛りつけられたままだ。これでは逃げることができない。と思ったら、丸太はグッグッグッと地面から上がり始めた。
「魔法学校へ着くまでに、せいぜい人間界の景色を楽しむこったね。これが見納めになるんだから」
その言葉を最後に、ジルーは翼を勢いよくはためかせて上昇する。それにつられて、丸太もエマを縛りつけたままの状態で宙に浮き、ジルーに続いて空へ飛び立った。
広場の真ん中で炎が激しく燃え上がり、その周りで村人たちが火の粉から逃げ惑う様子が、あっという間に米粒大に小さくなっていく。
エマには景色を楽しむ余裕なんてなかった。それでも必死になって自分の家を探して、何とか見つけることができた。それは、上空から見るとあまりにもちっぽけだった。
けれど、エマにとっては色々な思い出が詰まった大切な場所。産まれてから九年間、父親と過ごしてきたかけがえのない宝物だ。ジルーが言うようにこれが見納めだと思うと、エマは寂しくなって自然と涙が零れた。
やがてその家も、エマが楽しく遊び学んだ山も見えなくなると、頭の上には雲が流れ始めた。
――雲にぶつかったらどうなっちゃうの?
頭を大ケガして地面に真っ逆さまに落ちてしまうのではないか。エマは急に恐ろしくなって、
「ジルー、雲にぶつかる!」
そう叫んだ。
ジルーはエマの方を振り返ると、
「何をバカなことを言ってんだか。まったく、これだから人間は」
やれやれとでもいうように頭を振ると、また顔を上げた。
ジルーのすぐ上にぶ厚い雲が迫る。
「危ない!」
エマは悲鳴を上げた。けれど、ジルーが雲の中にスポッと突っ込んだことで、
「え?」
拍子抜けした。
それに続いてエマ自身も雲の中に突入したけれど、痛みなんてまったくない。白い煙のようなモノが周りを流れていくだけだ。
――遠くから見るのと、近くで見るのとではこんなにも違うんだ。
エマは感心した。と同時に、山の頂上で休んでいた時によく、雲の上に乗って走り回れるんじゃないか、と妄想していたことが不可能だと知って、少し残念な気持ちにもなった。
雲の中を突っ切る時間がしばらく続いたと思ったら、エマの頭上には急に太陽が現れて、真っ青な空が広がった。
そして驚いた。エマの故郷の村がすっぽり収まってもまだ有り余るぐらい巨大な岩が浮いていたからだ。
そして、その岩の上には、尖塔がいくつもある灰色の建物が横に広がり建っていた。
「あれがセイントフォーヘン魔法学校さ。へへ、凄いだろ」
ジルーは誇らしげな顔をしながら巨大な岩を指差すと、そちらへ方向転換して飛び、エマが縛りつけられている丸太も後に続いた。
魔法学校の校舎は四階建てで、それぞれ色違いのローブを着た生徒たちが授業を受けている様子が窓越しに見えた。その内の何人かはエマに気づいて、指差して笑い合ったりしている。
エマはそこで、自分が丸太に縛りつけられたままであることを思い出して、急に恥ずかしくなった。それに、この格好のままでどうやって着地するのか……。
エマの心配をよそに、丸太は魔法学校の校舎の高さを超えてもまだ上昇を止めない。
校舎の裏には芝生が広がる庭があって、その先には森が続いていて、さらにその奥に建物が何棟か建っていた。
その景色が見えたところで、ジルーだけが宙に浮かんだ状態で止まった。丸太は上昇を続ける。エマは不安になり、
「ジルー?」
ジルーを見下ろすと、
「心配するなって。まったく、いちいち騒ぐんだからなぁ、もう」
うんざりしたような声が返ってきた。
その言葉通り、エマが縛りつけられている丸太はすぐに空中で停止して、今度はゆっくりフワフワと、注意しなければ気づかないほどの速度で芝生の端の方へ降下を始めた。
エマが落下して行く先には、丸太や長い平板が地面に何本も突き立っていた。
やがて、エマが縛りつけられている丸太の先が、柔らかな地面にゆっくりズブリと突き刺さっていき、エマの足がちょうど地面に触れたところで止まった。丸太は垂直に立っていて、見事な着地だった。
青々とした芝生の先に校舎が建ち、背後の森からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。ついさっきまで火あぶりの刑に処される瀬戸際だったエマの目には余計に、目にする光景や取り巻く環境がとても平和に映った。
「はいよ、到着」
ジルーがエマの目の前に着地するのと同時に、エマの両手首を縛っていた紐が解けた。
自由になったエマは思い切り伸びをして深呼吸。山では頂上に行くにつれて空気が薄くなるけれど、ここでは不思議と地上にいる時と変わらないことに気づいた。
それでいて、山頂のように新鮮な空気で、吸えば吸うほどに頭の中が冴えてくるような気がする。
それから目の前に広がる芝生。長さが揃っていて、新緑の巨大な絨毯が広げられているようだ。
――この上に寝ころんだらきっと気持ちいいだろうな。
そう思った途端、我慢できなくなって走り出したエマだったけれど、急にカラダが前に進まなくなって、地面から数センチ浮いた状態で足は空回り。
「はしゃいでる時間なんてないんだよ、まったくもう」
ジルーがため息交じりにそう言って、校舎の方へ翼をはためかせて飛んで行くと、見えない何かに首根っこを掴まれて引きずられるようにして、エマもその後に強制的に続いた。
そのまぬけな姿を見て、校舎から笑い声が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと、ジルー? 自分で歩くから。みんなに笑われてるよ」
エマが抗議しても、
「こっちの方が速い。それに、この先しょっちゅう笑われることになるんだから、今の内に慣れておけばいい」
ジルーは取り合ってくれなかった。
――しょっちゅう笑われるってどういうこと?
エマはその言葉が気になった。故郷では他の子どもたちから石を投げつけられたり、悪口を言われたりしたことは何度もあったものの、笑われたことはなかった。どちらかといえば、エマに対する憎しみや怒り、恐怖といった感情を抱いているようだった。
さらにエマは、生きることを選択した時に、
『後で「やっぱりあの時、焼け死んでおけば良かった」だなんて、間違ってもオイラのことを恨まないでくれよな』
ジルーがそう言ったことを思い出して、急に不安になってきた。
そもそも、エマは少ししか魔法を使えない。小石をわずかに動かせる程度の力がはたして魔法と呼べるものなのかどうかもわからない。
そういえばジルーは、エマが自力で火あぶりの刑から逃れられない姿を見て、
『才能無しだよ、まったく』
とも言っていた。あれは魔法使いとしての才能のことを言っていたのではないかとエマは思い、
「ねえジルー、わたしって魔法使いの才能ないの?」
素直に訊いてみた。すると、
「逆に訊きたい。あると思ってるの?」
ジルーはため息を漏らして、
「はっきり言ってゼロに近いね。そりゃ、普通の人間と比べれば多少はあるけど、この学校に通ってる子どもたちは、魔法界で生まれ育った子どもたちばっかりだから、あんたなんて足元にも及ばない。正式に入学できたら奇跡だね」
残酷な事実をエマに突きつけてきた。
「正式に入学できたらって、どういうこと?」
エマはてっきり、ここへ来さえすれば生徒にしてくれるものだと考えていた。そして、魔法界でずっと暮らしていけるのだとも思っていた。けれど、冷静に振り返ってみると、
『仮の住人』
ジルーがそう言っていたことを思い出した。
「しょうがない。オイラがあんたをここへ連れて来ることになったいきさつを話してあげるよ」
ジルーは歩く速度を少し緩める。
「セイントフォーヘン魔法学校には十歳になってから入学が許される。人間界では今、魔女狩りが流行ってるだろ?」
そう訊かれてもエマにはわからなかった。家と山を往復する日々の中に、外の世界の情報を知る手段はなかった。
「あんた、その当事者だったのに、何も知らないんだな。宗教的に問題のある人間は魔女扱いされて火あぶりにされちゃうんだよ」
エマはここでようやく、村人たちから魔女呼ばわりされていた真意を知ってショックを受けた。
「ホント、何も知らずに殺されかけてたの? あんたのトロさときたら信じらんないよ、まったく」
ジルーは大げさに肩を竦め、話を続けた。
「とにかく、魔女狩りが流行ってることに心を痛めたアデル・クレマン校長が、一年前に救済案を考えて、その許可が魔法局から下りたんだ。つまり、魔女狩りの対象になった九歳以下の女の子の中から、少しでも魔法力を感じる子をここへ連れて来て、この学校で下働きさせながら魔法の基礎を学ばせて、十歳の誕生日に入学試験を受けさせる。それに合格すれば、晴れて正式な生徒ってわけ」
「その試験に合格できなかったら?」
「強制送還さ。人間界に突き落とされる。ウチの学校だって慈善事業じゃないんだ。誰も彼も入学させてたらパンクしちゃうよ」
「突き落とされるって?」
「そのまんまの意味。クレマン校長みずから付き添って、お別れの挨拶の言葉を贈って、さようなら。それまでに少しでも飛ぶ魔法を覚えてたら助かるだろうけどね。でも、飛ぶ魔法は一年生の授業で習うから、それを使えるぐらいならそもそも、試験に合格できると思うけどね」
ジルーが淡々と語る話を聞いてエマはゾッとした。
「でもさ、あんたはツイてる方だぜ」
エマの内心とは裏腹に、ジルーはそんなことを言った。
「どうして?」
「だって、十二月生まれだから、次の誕生日まで三ヶ月近くの猶予があるじゃないか。この前ここへ来た子なんて、誕生日の前日に来たから、次の日には強制送還。あれはさすがに気の毒だったな。ま、自分の運命を呪うっきゃないけど」
そんな不幸な子のことを笑い話のように話すジルーに、エマは段々と腹が立ってきた。けれど、何も言い返せなかった。
――自分もその子と同じ運命を辿ることになるかもしれない。
そう思うと、エマはお腹がぎゅっと痛くなった。