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惡ガキノ蕾 (い)   作者: 薫墨意月
1/1

火事と喧嘩は江戸の華篇 (い)の1

 ──四月。

 中学校の卒業証書を、黒い筒の中へと永遠に仕舞い込んでからはやひと月。新居をバックに記念写真よろしく、あたし、双葉【ふたば】、きむ爺と三人が並ぶ。スマホを弄くっていた一樹【いっき】がタイマ─をセットし終え走って戻ると、あたしの隣で声を揚げた。

「よっしゃ。はい、チ-ズフォン……ドュ!」

 ──どんなタイミングだっちゅうの!?澄ましてた顔が崩れるのにもお構い無しにスマホがシャッタ-を切る。「変な風に写ってたら一樹のせいだかんね!」と噛みついたあたしの頭をぐしゃぐしゃと掻き回して、一樹は櫻の木の枝元に据えられたスマホを取り上げた。

 乱れた髪を指ですいて風に吹かせていると、後ろからその頭をぽんゝと優しく撫でて脇を抜けて行った双葉が、一樹の手にしたスマホに顔を寄せる。そんなあたし達の傍で、柔和な春の陽射しの中に煙管【キセル】から立ち上【のぼ】った煙を遊ばせているきむ爺。

 敷地の三分の一を占める駐車場の隅。逸【はや】る気持ちを抑えられず、今にも綻【ほころ】びそうな蕾達を宥【なだ】めながら立つ櫻。その老木の懐に背中を預けて、今日から暮らす新居をもう一度眺めてみる。

 流れてきた煙の薫りに懐かしい記憶を起こされて、温もりに包まれていた遠いあの頃へと、あたしはゆっくりと還って往った。



       ~はなみ 小学二年生~

 …あの時のあたしは…小学生…、たしか二年生になったばかりの頃だったと思う。

 ──学校から帰って、玄関のドアノブを引く。

 いの一番に目に入ったのは、テレビの前に座っている兄の背中だった。帰り道、同じクラスの凜ちゃんと遊んでいて遅くなったあたしは、その日兄妹三人の中で一番最後に靴を揃える事となった。「ただいま…」ランドセルを置きながら盗み見した一樹のほっぺたに、出来立てピカピカの擦り傷を見つける。赤くなっている目が一瞬ウルウルしているようにも見えたのだけれど、テレビから聞こえて来るのは「プルルルルン、かわい娘ちゃんの術!」なんてお気楽なセリフ。こりゃどうもテレビの内容に感動して涙してるって訳じゃなさそうだ、と勝手に当たりを付けたあたしが思い切って口を開いた。「一樹、どうかしたの?」どうかしたのの、"か"の辺りで真っ赤に充血した目玉がギロリと効果音付きで動く。視線が合った瞬間にピ-ンと来て、自分の発言が失言だったことに気付くあたし。…しくじった。声を掛けない事が正解のパタ-ンだったのだ。あたしに向かって飛んで来る「うるせっ!」の金切り声とテレビのリモコン。そのリモコンが頭に当たるのと同時に、当たり処が良かったのか悪かったのか、テレビの電源が切れた。唐突に暗転する画面。自分がリモコンを投げた事実は一切省【かえり】みず、たまゝピンポイントでスイッチに頭を打つける神憑り的なあたしのコメディの才能に更に苛立った一樹が、あたしの後ろに回って止【とど】めのロ-キック。崩れ落ちながら、あたしは大きく息を吸い込んだ。「うっ…わあぁぁぁ~ああぅぅうあ~ん!!」泣く。思い切りでかい声で泣き喚く。──そのまま二分経過。舌打ちしてリモコンを拾い上げ一樹がテレビの前に座り直す。泣き散らかしながらもその様子を薄目を開けて確認し、これ以上更なる攻撃が加えられる恐れが無い事を確かめるあたし。そのまま左右に視線を走らせると、子供部屋に続く襖が僅かに開いていて、隙間から此方【こちら】の様子を片目で窺う姉と目が合った。その右目が隠れて、4センチ程の隙間から替わりに覗いた唇を読心術で読んでみる。(ハ・ナ・ミ・オ・イ・デ・ハ・ナ・ミ・オ・イ・デ)

──(リョ・ウ・カ・イ)。慌てず、ゆっくり、そして油断する事無く、重ねてボリュ-ムを絞った嘘泣きもしぶとく続けながら、ちょっとずつゝその場からフェ-ドアウト。ギリッギリの幅だけ襖を開き素早く躰を滑り込ませると、あたしは無事、安住の地へと辿り着いた。すると襖をしっかりと閉めた双葉が、まるで探偵が事件の謎解きを披露する時のような得意気な態度で語り始めたのだった。

 ──それは…事の始めは、小学校からの帰り道、公園で友達と野球をしている一樹を見掛けて、双葉が声を掛けようとした時の事だったそうだ。公園へ後からやって来た六年生の四人組が、一樹達四年生のグループに向かって、ここでサッカ-をするのにお前達は邪魔だから他所へ行け、と怒鳴りつけたらしい。だからと言って、「はい。わかりました」とすんなり出て行くような珠【たま】じゃない一樹。「早く行こうよ」と腕を引く友達の手を振り払って、六年生に向かって行ったんだって。躰の大きさも違う相手、況【ま】して一対四じゃ、幾ら一樹とは言え敵う訳も無く、当然と言えば当然の成り行きで、自分がサッカ-ボ-ルの代わりになって遊ばれちゃった…ってのが双葉の話すこの一件の顛末だった。

「あいつら四人掛かりでさ…」悔しそうに話す双葉の瞳からは、今にも泪が零れそうになっている。今思い返しても、双葉はあの頃から兄妹思いの姉だった。──ふと思い付いて、「じいちゃんは?」と訊ねてみると、「あたしが帰って来た時にはもう居なかったから、きむ爺のとこでも行ったんじゃないの」って。あ、きむ爺っていうのはじいちゃんのお友達で、近所に住んでる茶呑み仲間の事。二人は殆ど毎日一緒に居て、パパはよくニコイチみてえだな、とか言ってからかっていたっけ。

 当時一樹は四年生、双葉が三年、そして私【わたくし】はなみが小学校二年生と、何だかややこしいけどあたし達は年子【としご】の三兄妹で、これにじいちゃんとパパを加えた総勢五名が我が桜木家のメンバーだった。ママは…。ママの話を少しだけすると、…ママはあたしを産んで間もなく死んだ。…これだけ。冗談抜きにして、あたしがママの事で頭の中に残ってる物なんてなぁんにも無いし、今日まで誰もあたしにそれ以上の説明をしてくれた事も無いから、話したくても話す事柄が全く浮かんで来ないってのがほんとの処。強いて言うならあたしの名前"桜木はなみ"、冗談じゃなきゃ酔っ払って付けたとしか思えないこの名前だけがママがあたしに残してくれた物らしいんだけど…。さて、話を戻して、頼りのじいちゃんが居ないんじゃどうやって一樹のご機嫌を取ろうか、双葉と二人で頭を悩ませていると、そこへ聞き慣れたバイクの排気音が近付いて来た。──パパだ。窓の向こうでスタンドを立てる音がしてエンジンが止まる。途端に双葉の顔がほころんだ。多分あたしの顔も。平常時ならば直ぐ様【すぐさま】玄関までお出迎えに行くとこなんだけど、その日に限って言えば、あたし達は二人して子供部屋から出て行く事が出来ずに、隣の部屋から伝わって来る一樹の発する負のオ-ラに、躰の動きを封じられていたのだった。

 ──ドアが開けられる音。パパの声。「ただいまつたけ」、確か昨日は「ただいますおさん」。「ドンッ」と荷物を置く音。──「ガララララ」と、リビングの引き戸を開ける音が続く。──毎度お馴染みの「ふぅ─」と長い吐息がひとつ聞こえて、一樹のはす向かい、何時もの場所にパパが座ったのが分かった。目配せを交わし、揃って襖の向こうに聞き耳を立てるあたし達。

 …話し声らしき物は何も聞こえて来ない。(1、2、3、4…)。頭の中で10まで数え、そっと…(背筋にゾッとする程冷たい物を感じながら)2センチ程襖を開く。双葉とあたしはそこから更に音を立てないよう細心の注意を払い、横にした頭を縦に二つ並べ覗いてみた。最初に目に入ったのはテレビに映し出された、男の子の忍者が馬鹿でかい蛇を相手に戦っている姿。見ているパパは…と言えば、缶ビ-ルを片手にピクリともせず、そのアニメに見入っている。顔を見合わせたあたし達は、長いゝ溜め息を吐【つ】いた。そして、(ちょっと!帰って来るなりいい大人がアニメに放心状態で見入ってる場合じゃないでしょ!子供の心配するのが先なんじゃない!?よく見て、ほら!一樹の顔!怪我してんじゃない!!)と、声に出さずツッコんでみる。しかし、テレビに心を奪われ瞬きすら忘れたパパは気付かない。まあ、声に出してないんだから気付かないのは当たり前なのだけど…、それにしても…。アニメとかプロレスを見ている時のパパっていっつもこうだ。そんなにか!そんなに面白いのか!?あんた一体幾つなんだ!?そう言えば前から思ってたんだけど、パパの着てるダブダブの作業着ってじいちゃんの好きな時代劇に出てくる忍者の服みたいだし、もしかしてコスプレってやつなのか?あれっ、じゃあひょっとすると、パパのやってる鳶ってコスプレの名前なの?アニメ好きのコスプレ好きって年のわりにやばくない…と、そんな下らない事を考えている内にテレビの中では終幕が近付いて、もう締めのセリフ。「自分で自分を裏切るな!」ど~んと決まって流れ始めるエンディング曲。「かっこいいなあ」と、これまた暢気【のんき】なパパの声。続けて「なあ」と、軽く放られたパパの言葉をあっさりスル-する一樹。パパはガン無視されてんのに全く気にしない様子で更に「やっぱり男の子はなあ…」と続けた。煙草にマッチで火を点けると天井に向けて煙を吹き上げる。煙の行方を目で追うあたし達の鼻にも、マッチ特有の薫りが届いた。ここでテレビには"次回予告"の文字。主人公の男の子の声で「諦めるまでは終わりじゃない!」残っているビ-ルを苦そうに飲み干すと、空になった缶を音を立てて握り潰すパパ。ここで二個めの「…なあ」。またゝスル-…かと思ったら、勢いよく立ち上がった一樹は黙ったまま玄関を出て行ってしまった。

 (なんだ?どうした?何処へ行った?)

 パパもテレビを消しながら、「ビ-ル買って来て貰おうと思ったのによお、しょうがねえなあ」と呟くと、立ち上がり玄関を出て行く。

 (そんならついでに、あたし達もお菓子買って貰おう!)と閃いて、あたしは双葉に視線を振った。

 ──「うゎおっ!」…ビビった。…ってか何?

 其処【そこ】には鉢巻きを締め、腰に二本の刀を差したサムライが居た。竹光【たけみつ】どころかプラスチックの刀ではあるけど。「行くよ」──短く言って、玩具【おもちゃ】箱の中から新聞紙に包【くるま】ったマグナムをあたしに渡す双葉。

 ──BB弾の鉄砲で何を…?

 一体これから何が始まると言うのか?凡【およ】そ正気とは言い難い双葉の装いは何の為なんだろう?なぜ空気銃が新聞紙で包まれていたのか?頭の中を駆け巡るさまゞな疑問符を呑み込んで、玄関へ向かう双葉の後ろを付いていく。上がり框【がまち】に腰を下ろして靴紐を結ぶ姉の背中に、やっとの事でひとつ声を掛けられた。

「どこ行くの?」

「安全装置は外しときな」

 …あ-そうか。…っていやいや、そうじゃなくて、

「だからぁ、どこ行くのって-」

「バンッ!」

 返事の代わりに勢いよくドアが閉まる。「しょうがないなぁ…」。マグナムの銃身をスカ-トにねじ込んでエアコンのスイッチを切る。ドアを開けると、あたしは吐く息が白くなる夕暮れの町に跳び出した。


 少し走って大通りに出ると、程なく手を上げて横断歩道を渡るサムライ発見。すかさず大声を出すあたし。「待ってぇ~っ!」

 信号が変わる寸前になんとか追い付く。と、双葉の視線の先には前を歩く一樹の姿が在った。「シッ」と、唇の前に中指を立てた双葉の真剣な眼差しに反射的に空気を読んで、「普通人差し指じゃないの」と言いたい処を我慢して口を噤【つぐ】む。10メ-トル程の距離を取って尾行を開始するあたし達。

 進む先に、今日一樹がサッカ-ボ-ルにされた公園が見えて来る。入口には公園に訪れる人々を逸【いち】早く出迎えようと、道路に飛び出した櫻の枝が寒そうに震えていた。先を往く一樹の後を追いその枝下まで近付くと、植え込みに隠れ公園の中を窺うように二人並んで首を伸ばす。すると、四五本先に立つ木の陰にサッカ-をしている六年生達を見詰める一樹の後ろ姿が在った。…1、2、3、4、憎【にっく】き仇敵の数は全部で四人。中でも一番躰の大きな野球帽を被った奴は、学校でもいつも威張っている有名なガキ大将だった。サッカ-をしているくせに帽子には思いっ切りジャイアンツのマ-ク。…それは…まあ、別にいいか…。   

 その六年生達から20メ-トル位離れた場所。肩幅よりも太い櫻の木を背にした一樹が、空に向かって大きく息を吐く。ひとつ…ふたつ…。何時もと雰囲気が変わった一樹に、もしや分身でもするのかと期待して、あたしの躰にはぐぐっと力が入る。…残念ながら忍者でも何でもない一樹の躰は、3秒待っても一人のままだった。

 一樹の吐く息が、煙草の煙みたいにほんの束の間白く色づいて、まだグラデ-ションを残した若い夜空に消えて行く。…そこから…記憶の中では見えて来る物全部の動きがスロ-モ-ションだった。…初めは隣でゆっくりと脇差しを抜く双葉の姿。何かが始まる昂揚感に包まれスカ-トに手汗を擦り付けてるあたしの目に、大声を揚げながら走って行く一樹の背中が映る。この映像もやっぱりスロ-モ-ションで。それを見てあたしも何を口走ったのかは覚えていないけど、意味を成さない言葉を喚きながら、双葉の後ろを四人に向かって駆け出したんだ。先頭を走る一樹が野球帽の顔面に頭から突っ込んで行く。縺れて転がる一樹達と残りの三人の間に割って入り、二刀流を振り回す双葉。最後に追い付いたあたしは、間髪入れずその三人に向かってマグナムの引き金を、引き金?あれ?引き金が…駄目だ、ひ…引けない。──あっ!そうだ、安全装置!やばっ…間に合わないっ!

 ──「バンッ!」。「バンッ!バンッ!」テンパって無我夢中のあたし、気が付いた時には大声で叫んでた。背中には日本刀を思わせる双葉の鋭い視線を感じながらね。「…はなみ!」双葉の尖った声が心の臓に突き刺さる。怒ってる。お怒【いか】りになっていらっしゃる。「ばか!」怒声と共に首の後ろに振り下ろされる刀。「う゛ぎゃん!?」…ガチで打ち首?って疑う位の痛み。その頃のあたしはまだ、幸いにも実際に打ち首された経験は無かったけど、いやほんと、それ位強烈な衝撃だった。にしても、安全装置外すの忘れたからって、幾ら何でも酷すぎる仕打ちでしょ。痛いのと悔しいので、やはり此処【ここ】でも泣くあたし。この世の終わりを迎えたテンションで泣き喚く。呆気にとられて、ポカンと立ち尽くす六年生の三人。そりゃそうだ。一心不乱に二刀を手に暴れる小さな女剣士と、弾の出てこない拳銃を向けて口で威嚇するガンマン。この世に産まれ落ちて初めて目にするであろう光景に、三人共、頭の中が付いていけないに決まってる。全力ダッシュした後、大声で騒ぎ過ぎた所為【せい】か酸欠気味で、段々頭がポ-ッとして来るあたし。

 ──不意に躰が持ち上げられた。

「はい、おしまい」

 あたしを抱き上げたパパは、まだ野球帽の上に馬乗りになっている一樹の頭を、空いている方の手でぽんゝと叩いた。外灯の明かりを受け鼻血と涙でてらゝとギラつく野球帽の顔は、ジャングルに住む原住民が着ける仮面みたいに毒々しい物に変わっていた。

 片手で野球帽を立たせたパパが、その手に黙って手拭いを握らせる。

 数秒の沈黙が流れて、顔を合わせた野球帽と三人が一言も喋らず自転車に跨がって帰って行った。その四人の後ろ姿と双葉が刀を鞘に収めるのを見届けて「帰るぞ」ってパパ。

 前を歩く一樹の後ろで、双葉がパパの手を握る。抱っこされたまま空を見上げたあたしの両目を、真ん丸のお月様が塞いだ。月明かりの下まだ固そうな櫻の蕾を、風が撫でるように揺らして去って行く。

 あたしの持ってる一番綺麗な月。



         ~パパとじいちゃん~

 …それは、そんなあたしの持っている記憶の中に宝物と呼べる物が少しずつ増えて来て、奥の方に仕舞い込んだ古い思い出を取り出すには段々と手間が掛かるようになってきた五年後。中学生になって最初の冬の事だった。


 "神様はやっぱり居ない"


 神様は居るのか居ないのか?当時、因数分解もまだ解けないあたしが、一握りの大人しか明確な答えを持たないであろう(言い換えるなら、答えを持っていると勘違いしている)その問いに答えを出した。

 冬晴れで風もない穏やかな午後。その日に限って涙は一滴も出なかった。お昼休み、職員室に呼ばれたあたし達兄妹三人が車で連れてこられたのは、学校から遠く離れた知らない病院の地下室だった。頼りない明かりの灯【とも】る霊安室。ベッドの上には何も話さなくなったパパの躰が寝かされていた。ぽんと頭に触れてくるあの大きな手は、もう動く事もない。…多分その事実を頭が認めるのを拒んだからなのか、そこから記憶は一度、空白の時間が続く。

 ──気が付くと、あたし達三人はパパが横たわるベッドの脇に置かれた長椅子に座っていた。誰も一言も言葉を発する事無く。一樹も双葉も泣いてはいなかった。それ処か、その顔にはほんの僅かな感情の色さえ浮かんでいなかった。喪失感が感情を支配するスピ-ドは時に悲しみを超える。いやもしかしたら、その時のあたし達は何処かが壊れていたのかも知れない。感性とか…物事を考える機能とか…。昼間だったのか夜だったのか、時間も色彩も熱も、交わすべき言葉さえ無くなった部屋の中、一樹の爪先がパパの置かれたベッドの脚を蹴る音だけが途切れる事無く続いていた。


 一樹の中学卒業まで四ヶ月を残した十二月。道路に飛び出した何処の誰かも分からない子供を助けるのと引き換えに、トラックに撥ねられ呆気【あっけ】なくパパは逝った。警察から聞かされた事故を目撃した人の証言では、子供の母親と思われる女の人は事故の後すぐ、その子供を連れて立ち去ってしまったという話で、それ以後その母子が名乗り出る事も無かった。漫画とか映画でよく使われるありふれた話だった所為か、あたしのキャパが足りなくて処理しきれなくなった所為なのか、その夜は眠った覚えが無い。次の日になっても涙が出てくる気配は訪れず、まるで世界から水分が消え失せてしまったみたいに全てが渇いていた。人も花も土も、川の流れも。その日からひと月ふた月の間の出来事は、思い返してみても浮かんでくる景色が殆ど無い。

 パパが死んだ事で、その二年前にじいちゃんも亡くしていたあたし達兄妹は、未成年者だけの保護者の居ない家庭となった。それまでは取り立てて意識する事も無かったんだけど、パパに兄弟が居ない事もあって、じいちゃんが亡くなった時点であたし達の肉親はパパしかいなかったんだ。それはじいちゃんが死んだ事さえ有耶無耶にされて甘やかされていたあたし達に突き付けられた、初めての現実味の全く無いリアルな現実だった。と言うのも二年前、あたし達三人がじいちゃんが亡くなったのを知ったのは、実際のじいちゃんの死から一年以上が過ぎてからの事だから。入院先からじいちゃんが亡くなった報せを受けたパパは、あたし達が学校に行っている間に、出棺から火葬までその全てを一人で済ませ、じいちゃんが死んじゃった事をあたし達に隠した。その事が分かったのは、お見舞いに行きたいと言う度、色々な理由を付けては先延ばしにしようとするパパに痺れを切らしたあたし達が「明日こそは何が何でもお見舞いに行く!」と騒ぎ出した或る日の夕方だった。天井に向け「ふぅ-」と長く煙を吐いたパパが、「無理だな。…もう死んじまっていねえもん」って普通に、ほんと「あ、忘れてた」って位の気楽な感じで言ったからだ。あまりに軽いその言い種に、一度耳から零れて聞き返した位。…だけど、あたしと一樹が「嘘だぁ」とか「それ全然面白くない」とか、同じよに軽い調子で返してみてもパパは黙ったまま。小さい頃から人並み外れて勘のいい双葉は最初のパパの言葉を聞いてからずっと、立てた膝に顔を伏せて一言も喋らないし。そんな双葉とあたし達を泣き笑いみたいな、見た事無い顔で見詰めるパパの様子に、一樹の顔色も段々と変わっていったんだ。一樹は兄妹の中で一番じいちゃん子だったしね。そこからの細かい流れは正直あんまり覚えてなくて、思い出せるのはパパの背中を殴り付ける一樹の姿。…ううん、ちゃんと言うと一樹のきつく握り締めて白くなった、まだ小さかった拳だけ。その日から暫くの間は、双葉以外、つまりあたしと一樹はパパと碌【ろく】に口も利かないで、声を掛けられる度【たび】不貞腐れた態度で真面【まとも】に返事も返さなかった。それでもパパが何も言わなかったのは、あたし達がパパに冷たく当たる事で、無意識の内にじいちゃんが居なくなってしまった寂しさを紛らわせていると感じていたからかも知れない。それにね、今になってみると、あたしにもなんでパパがそんな事をしたのかちょっぴりだけど分かる気もしているのだ。小さい内にママを亡くしていたあたし達に、それ以上悲しい思いをさせたくなかったんだと思う、きっと。一樹は中一だし、あたしと双葉なんてまだ小学生だったから、少しでも大きくなってからって考えたんじゃないのかな。動かないじいちゃんを眼の当たりにしたり、焼かれて骨になっていく時だって近くに居るよりは…。後から知ったからって悲しく無い訳じゃないけど、時間も距離も少しでも遠い方が記憶の中に残る悲しみを薄めてくれそうだし。だって今だにあたし、じいちゃんが何処かで生きてるような気がする時あるしね。もう今となっちゃパパのほんとの想いなんて聞く事も出来ないけどさ。話した事は無いけど、一樹も多分同じように考えてるんじゃないのかな。…そんな気がする。双葉に話せばもっと違った意見も聞かせてくれそうな気もするけど…。

 だけど、その頃はまだじいちゃんが居なくなった悲しさがちょっとだけ寂しさに変わり始めたばかりだったから、このパパの死はあたし達を今度は逃げ場の無い悲しみの檻の中に引き戻して、そして閉じ込めたのだった。



           ~そこから~

 頼る親戚も無く、ぼろゝのまんま施設に入れられそうだったあたし達を引き取ってくれたのは、ニコイチの片割れの木村の爺さん、通称きむ爺だった。七十過ぎのこのお爺さんに、あたし達は躰と心を救われる事になる。桜木から木村に名字を変えて、きむ爺の養子となったあたし達は施設行きを免れる事が出来たのだった。「なあに、名前なんてなあそんなもん、大人になったら元にもどしゃあいい」そう言ってきむ爺は笑ってくれたっけ。

 でも結局…結果的にだけど、きむ爺の家で卒業まで真面【まとも】に暮らしたのはあたしだけで、一樹は中学最後の三学期を殆ど学校に通う事も無く、パパのお葬式に来ていた鳶の親方の処でアルバイトとして働き始め、夜は会社の寮に泊まるようになる。同じ頃双葉も外泊する事が多くなって、家でも学校でも姿を見掛ける事が少なくなっていった。そんなこんなで、パパが居なくなった後の二年間は兄妹三人が顔を合わせる機会もめっきり減っていったのだった。

 やがて卒業と共に鳶として働き始めた一樹は、当然のように寮で暮らすようになり、翌年卒業した双葉は就職と同時に弟子入り、からの住み込み、そして彫り師へと怒涛の展開を見せた。パパの携帯から見つけ出した彫り師に連絡を付け会う約束を取り付けると、どう話を持っていったのかは教えてくれなかったけど、卒業までの家に帰って来なかった一定の期間は、そこで泊まり込みの上殆ど無給で働いていたのだと話してくれた。当時、刺青【いれずみ】なんてまだゝメジャ-じゃなくて、おっかない人か職人さん、他にはじいちゃんとパパみたいな、頭【かしら】とか呼ばれる鳶位しか目にする事も無かったし…あ、勿論TVとかネットは別にしてだけど。そんな感じの頃だから、中卒で彫り師ってかなりのレアケ-スだったと思う。今みたいに若者から主婦層までこんなに流行るなんて、あの頃は誰も思ってなかったんじゃないかな。昭和生まれの人達の中にはまだゝ抵抗のある人達も沢山いたしね。小学生から通っていた剣道クラブで敵無しだった双葉は、先生達や稽古で一緒になる警察官達からも可愛がられていて、高校進学やなんならその後の奉職まで奨められていたみたいだけど、そういった誘いに一度も首を縦に振る事は無かった。高校のパンフレットや奨学金の資料を持って来ては親身に話をしてくれるみんなの前で、「七十過ぎのきむ爺の世話になりながら高校に通うなんて…そんな野暮な真似、あたしには出来ない」って静かに言った後、下唇を噛み締めて強い目をした双葉の顔をあたしは今でもはっきり覚えてる。粋【いき】とか野暮ってパパとじいちゃんが口癖にしてたけど、一度口にした事は頑として変えない処もパパと双葉は同じだった。進学しなかったのは、学校に行ってなくて受験に不安があった訳じゃなく、一日も早く子供達の力で生きて行く為、双葉なりに考えた末の事なのだと分かり過ぎる位知ってしまっているあたしは、何も言えずに周りの子達と同じく平凡な学生生活を送っていた。それを双葉も一樹も望んでいて、もしあたしまでが学校に行かなくなって仕事を探すような事をしてしまったら、その二人の気持ちを踏みにじってしまうという事も同じ位よく分かっていたから。だからそれからの二年間は、三人がそれぞれの立っている場所で自分に出来る事だけをやった。何の約束も保証だって無かったけど、只、お互いを信じて。

 そして双葉の卒業から一年後の今年、あたしの中学卒業に合わせてパパが残してくれたお金を頭金に、あたし達兄妹は中古だけど三人が一緒に暮らせる家を手に入れたのだ。


 ──四月。

 もう一度、新しい住まいを見詰める。

 駐車場の一角に蕩々【とうとう】と立つ老いた櫻。その木肌に触れた背中から温もりが伝わる春の日。

「あたしにも見せて!」

 一樹と双葉の背を追うあたしの躰を風がそっと押した。



       ~H30年 11月最後の木曜日~

 当たり前だけど新しい生活は何もかもが初めて尽くしで毎日がバタバタと騒がしく、二三歩進んではつまずく日々の繰り返しだった。それでも兄妹がひとつ屋根の下に暮らす毎日は、取るに足らない平凡な出来事のひとつゝを幸せとして受け止められる新鮮さがあって、春から夏、そして秋へと季節の移り変わりに心を留める余裕もなく一日ゝが秒で過ぎて行ったのだった。

 新生活も慌ただしく半年が過ぎて、それまで様子見していた冬将軍様がそろゝ本気出したろうかって雰囲気を出し始めた十一月最後の木曜日。南瓜【かぼちゃ】の種を取ろうとスプ-ンを握った処で、アコ-ディオンカ-テンで仕切られた座敷の奥から、肩に消毒用のガ-ゼを貼り付けた優【ゆう】が顔を出した。あ、優は双葉の同級生で、今日に限って言えば友達でもありお客さんでもある。刺青を入れた後、一日はガ-ゼを貼ったままにしとくのが双葉の遣【や】り方みたいで、あたしも最初目にした時は痛々しく思えて顔をしかめたものだけど、双葉に言わせると服で擦るよりよっぽど肌にはいいらしい。

 あたし達が手に入れたこの中古住宅は一階が居酒屋、二階が居住スペ-スとして使われていたいわゆる店舗住宅ってやつなんだ。それを店の営業前のこの時間、座敷は双葉の仕事場として使っていて、夜は仕切りを解放した後テ-ブルをセットし直して呑み屋の営業になるって訳。店…と言うか家の前には車三台程を置ける駐車場が有って、猫の額程のにゃわじゃなくて、"にわ"も有る。団体様も大丈夫ですのでいつでもお待ちしております。宣伝。

 …で、なんで呑み屋を始める事になったのかって話だけど…。

 この家を内覧に来た時、一階の元居酒屋…つまり此処【ここ】にはまだ業務用のでっかい冷蔵庫や調理器具がそのまま残されていたんだ。それと何より、カウンタ-に使われていたのが立派な樫木【かしのき】の一枚板だったのがきむ爺の目に留まって…と、それが切っ掛け。だってきむ爺、「解体して全部ゴミとしてこちらで処分致します」って話す不動産屋を、あたし達の意見もろくすっぽ聞かずに引き留めちゃんうだもん。ま、そんな流れでリノベ-ションの費用も勿体ないし、元板前のきむ爺にあたしが協力して、二人で店を始めたって事に表向きはなっているんだ。双葉も気が向けば手伝う事もあるんだけど、基本、毎日店に出るのはあたしの仕事。高校にも行っていない、その上得意技もなんの取り柄も無くてやりたい事も見付からないダメダメなあたしでも、働ける場所が出来たのはほんと恵まれていると思う。この家を見付けて来たのは一樹と双葉の二人で、きむ爺は関係無い事になってるんだけど、呆れるくらい鈍くてとろいあたしにだって、三人の気持ちはちゃんと伝わってはいるのだ。ってか、きむ爺の下手クソなお芝居とか、あたしの顔色を心配そうに窺う一樹と双葉の眼差しとか、色んな想いが一遍に伝わって来すぎて、今思えば内覧が終わった後あたし、多分怒ったような変な顔になっていたと思う。だって、そうでもしていないと、なんだか胸の中で熱を持った物が零れ落ちそうで、顔の普段は使わない筋肉にずっと力を入れていたから。

 ──小上がりから降りてきて、ム-トンブ-ツに片足を差し込んだ優が声を投げてくる。

「はなみ。何か飲むもんちょうだい」

「はいよ」そう言われると思って用意してました。南瓜を切る手を止めてあたしがカウンタ-に置いたのはオレンジジュ-ス。

「え-、お酒じゃないの…」

「今日は止めときなよ」仕切りの向こうから届いた声が優の頭を軽く小突く。アコ-ディオンカ-テンが二つに分かれて咥え煙草の双葉が出て来た。「綺麗に入れたいんなら、一日位我慢しなって」

 そのまま優の隣に座った双葉の前には冷えた缶ビ-ル。いいなぁとかグチりながらも、それほど残念でもない様子で優はその唇をオレンジジュ-スに近付けた。「ありがと」と双葉。その"ありがと"はなんだかあたしと優の中間に置かれた気がして、答えは返さない事にする。

 薄く流れるインストゥルメンタルの合間に際立つ、プルトップが鳴らす「プシュッ」という控え目なパ-カッション。この音って肩の力が抜ける不思議な魔力が有るよね。そう思わない?

 壁に掛けられたおんぼろ時計が「ぼーん…ぼーん…」と、五回鐘を打って、店を開ける迄、残すところ後二時間。仕込みもなんとか終わりそうだ。

 簡単な仕込みと前日に残った洗い物、店の掃除はあたしの役目。手の込んだ料理とか生ものは6時頃に来るきむ爺の役割。ってか、そもゝあたしには出来ないしね。働き始めてから半年ぐらい経つんだけど、最初の頃きむ爺に一度、「あたしは何をすればいいの?」って聞いた事がある。きむ爺の答えは、「カウンタ-に立ってて、お客が飲みたい物を出して飲みたくない物は出さなきゃいいんだ」って、そんだけ。「飲みたくない物は頼まないでしょ」って言ったら、「酔っぱらいってえのは、飲みたくない物も頼んじまうからなあ」って。んでまた、ちょっと考えたあたしが、「それじゃぁ分かんないじゃん」って言い返したら、「そりゃあそうだ。頼んでる本人が分かってねえんだから」なんて、なんだか禅問答みたいになってきたから、それからは仕事の話はあんまり聞かないようにしてるんだ。他に教えて貰った事は…特に無いし、こうやれって決められてる事も別に無い。……この店よくやっていけてんな、とはよく思う。この店は営業許可とか必要な届け出はきむ爺の名前で出してあって、あたしはこれでもバイトじゃなく、いち従業員って事になっているんだからもっと色々頑張らねば…とは思うんだけど…。なんて言うか、手伝おう!って気が無くなる位、きむ爺の庖丁捌【さば】きはあたしなんかの素人が見ても、うまいって言うか、それはもうキレイと言うか何だろう、料理と言うよりは何かこう…上手い事言えないけどなんかもうヤバいんだよね。

 ──下拵【したごしら】えをしたかぼちゃと小豆、梅干しを鍋に入れて火に掛ける。洗い置きしてあったグラスを磨いて棚に並べている処で、耳に馴染んだバイクの排気音が近付いて来た。大きさを増したその音が不意に途切れる。少し間があってスタンドを立てる音、その後に雪駄が砂利を踏む音が続く。

 ──「カラ・コロ・カラン」と、入【はい】り口の引き戸に提げられた小さな鐘の音【ね】が店の中に響いた。

「ただいマイケル」

「おかえり」とあたし。「昨日とおんなじじゃん」と此方【こっち】は双葉。その頭にぽんと手を置いて、作業着姿のまま双葉の横に一樹が腰を下ろす。

「こんにちは!」

 カラコンでピンク色の目ん玉を、更にハ-トマ-クにして挨拶する優。その声はさっき迄とは人が変わったかのような張りのある物に変わっている。

「おう、優。なんだ休みか?」

「はい!一樹先輩、いつもお疲れ様です!」

 なに!なんなのその露骨過ぎる態度の変化は。キモッ!引くわ-。ほんの数分前まで同じ場所に座ってた、酒が飲めなくてブ-たれてた女は一体何処へ行っちまったんだ?え?おい!…コホン、失礼。あたしとした事が少々取り乱しました。え-この際だから、と言うかまあ…隠しておく必要も無いので話しておくけど、中学の頃から一樹と双葉は美男美女の兄妹として、地元じゃメチャクチャ有名だったんだ。そこにあたしの名前が出てくる事は無いんだけど、学校でって言うか、この辺りの中学で二人の事を知らない人なんてほぼゝ居なかったんじゃないかな。三兄妹って知らない人は居たとしてもね。んで、優は中学生の頃から一樹の熱烈なファンで、一樹に色目を使う女子は誰であろうと漏れなく優の敵と成るのは、あたし達の学校では周知の事実だったのだ。

 一応、飽くまで一応だけど補足させて貰うと、冷静に且【か】つ極めて客観的に見た処、あたしはブサイクって訳ではない。何故なら友達からブスだとはっきり言われた事は一度も無いし、パパもじいちゃんもよく可愛いゝって褒めてくれたし、告白だって一回こっきりだけどされた事あるし…。言い出したら切りが無いけど、まあそういうのを全部引っ括【くる】めて、上中下の中の上寄りだと自負してはいるのだけど。


 一樹曰【いわ】く  鳥とか栗鼠とか肩に乗って来そうな顔

     双葉曰く  バックに小川のせせらぎとか聞こえる顔


 ──どんな顔だよ。

 言いたかないけど、取り立てて目立つ処が無いって事なんだろうな、きっと。一重だし、鼻は高くないし、歯並びだってそれほどいい方じゃないし…。だから一樹や双葉の友達に初めて会う時なんか、皆が一様に見せる一瞬の間みたいなもんに気付いちゃって、軽くイラッと来る事も多いんだ。本当言うとね。

 優と初めて会った時は、双葉とあたしの顔を暫く見比べて、その後なにも言わずあたしの肩を叩いたっけ。ポンポンって、労るように優しく二回。その目を見ていたら、あんたは何も話さなくていいんだよって語り掛けてくれてるみたいで、なんだか胸が詰まったなあ。

 あたしを産んで直ぐに死んじゃったママって、写真を見た限りだとかなりの美人さんだったから、きっとあたしはパパに似たんだと思うんだ。…ママが浮気してなければの話だけど…。あたし野球ってあんまり詳しくないんだけど、店に来るオジサン達の話だとどんな凄いバッタ-だって、打率は三割ちょっとだって言うじゃない?そう考えたら一樹と双葉で三分の二、三打数二安打の約六割。充分でしょ。親を恨むなんて筋違いなのはあたしにだって分かってる。それに、どんなにモテた処で結婚出来るのは日本じゃひとりだけだし、そのひとりにさえしっかりと愛して貰えれば他の男にモテる必要なんて無い。そうこれっぽっちも必要無いのだ。そうでしよ。そう思うでしょ?ねえ、どうよ、そこのあなた。

 ──「カラ・コロ・カラン」

 再び引き戸が引かれて、きむ爺と一緒に「ウウゥ-ッ…」と勢いよく消防車のサイレンが飛び込んで来た。

「ちょっとごめんよ」

 早口でそう言うと、入り口に立つきむ爺の脇をすり抜けて一樹が飛び出して行く。

「どこ行くんですか!」

 優の声は一樹の背中に後一歩届かず、返事の代わりに威勢のいい排気音が唸りを揚げて遠ざかって行った。

「鳶か火消しか、火消しか鳶かってねえ…」 

 戸口から首を伸ばして見送っていたきむ爺が誰にともなく呟くと、「段々と親父に似てきたねえ」と笑いながらカウンタ-の中に入って来る。

 地元の消防団の一員でもある一樹は、今までにも火災現場に消防車が到着する前に、家の中からお年寄りを連れ出したり、狭い路地で消防車が入って行くのに邪魔になっている車を数人で持ち上げて移動したりして、感謝状を貰ったりもしていた。

「ねえきむ爺。さっきの鳶か火消しかって何?」

「お、優ちゃん。こんにちは」

「こんちは」

「鳶か火消しかってのはねえ…」

 一度掴んだ前垂【まえだ】れを放して、置いてある丸椅子に座り込むきむ爺。腰に提げた煙草入れから煙管【キセル】を取り出すと、刻み煙草を詰めて鍋の掛かったガス台から火を盗む。

「火消しってえのは昔、『火事だあ』なんて半鐘【はんしょう】がなるってえと、いの一番に駆け付けて、火事場んなってるとこは勿論、周りの家だのなんだの取り敢えず燃えそうなもんはみんな壊して倒しちまうのよ」

 ぷかりと吐いた、思わず魂抜けた?と見紛【みまが】うほど濃い煙の塊【かたまり】が、天に向かって昇って行く。じゃなかった、"天井"ね、天じゃなくて天井。

 「なんてたって、今と違ってホ-ス伸ばして水撒いてってえ訳にもいかねえもんだから、それ以上火が燃え拡がらねえようにってんでね。なもんで、そいつらが町火消しとか鳶の者とか呼ばれるようになってえ…まあ連中は鳶として現場でも働いてたって云うからねえ。で、そこん処から来たのが"鳶か火消しか、火消しか鳶か"ってやつよ」

「へ-、きむ爺物知りじゃん」と優。

「なぁに。一樹のじいちゃんに茶呑みの合間に聞かされた噺【はなし】だから、ちゃんと覚えてるかどうか怪しいとこだけどねえ…。そうゝ噺の序【つい】でにもひとつ並べちまえば、優ちゃんがその肩に入れてる彫り物なんてえのも、その頃ぁ人間様は肌からも空気を吸ってるなんて考えてる時代だから、火消し連中が火事場で腕や足から煙を吸わねえようにってんで入れたのが流行ったんだって噺だったねえ。言われてみりゃあ、柄に龍なんかが多いのも龍ってのは水神様の化身だって聞くし、火にはやっぱり水って事だったのかも知れねえな」

「へ-それって初耳。双葉、あんた知ってた?…あれ、双葉は?」

「二階。お風呂入ってくるってさ。今日は優で最後だから」

「あ-ね。じゃあ、あたしも帰ろ…。オレンジジュ-スごちそうさま」

「毎度。300円です」

「あ-ね…」

 ──その日の夜は、双葉が通っていた警察署の少年剣道クラブの先生方が、同僚の婦人警官の結婚を祝うという事で、店は貸し切りとなった。

 三十人近くいるお客さんの八割が警察官。うちの店に三十人は一杯ゝで、足の踏み場も、これ以上一人として他のお客さんが入れる余裕も無い位に窮屈だったけど、カウンタ-にもテ-ブルにも笑顔が溢れていた。初めは無理矢理座らされた感じの双葉だって、久し振りに先生達に会えて嬉しそうだ。今も酔った先生のおでこにマジックで、いかつい胸割りの刺青いれたピ-ポ君の落書きしてるし。まさか彫ってはいないだろうけど…。てゆうか、警察官の横で堂々と酒飲んでんのもどうかと思うけどね。

 ちょっと太めの新婦さんが最後に言った「もう逃がさないわよ」が説得力のある締めのひと言となって、祝いの宴【うたげ】はお開きとなった。


 何時もより少し早めの十一時頃に店を閉めたその日の閉店後。きむ爺と二人、堤防に造られた遊歩道を並んで歩く。構って貰えず駄々っ子のように点いたり消えたりを繰り返す路傍の外灯と、それを優しく包む柔らかい月明かり。時折思い出したように吹く風にはもう冬の匂いがぷんゝなのに、土手沿いに突っ立ったままの広葉樹達はどれも葉っぱを脱ぎ落としていて、信じらんない位に薄着の健康優良児ばかりだ。

 散歩がてらにきむ爺の家まで歩くのが、あたしの最近の日課。思い込みだけど、川辺とか海辺って、ちょっとだけ空気が澄んでるみたいな気がして好きなんだ。あと、夜見る川のちょっと妖しく不思議な質感で跳ねる光もね。

 ──「クゥゥ-ン…」

 迷子なのか逃げて来たのか、首輪を付けた子犬が小さく巻いた尾を揺らしながら近付いて来る。…柴犬かな?ヨタヨタした足取りがチョ-可愛い。隣を歩くきむ爺が口笛を吹きながら寄って行くと、子犬は鼻を鳴らして覚束ない歩みを止めた。

「おう、どうしたぃ。腹でも減ってんのか」

 腰を屈めてその頭を撫でようと手を──

 ──「グガウッ!」

 噛まれた---っ!!じじいが手噛まれた---っ!!

「痛てえっ!!」

 普段の動きからは想像出来ない素早さで振り払おうともがくきむ爺。それでも噛みついて目をカッと見開いた子犬は口を離そうとしない。きむ爺の言った通り、腹が減っていたのは確かみたいだった。あんなに愛らしかった子犬の形相は、今では獲物を捕らえた獣のそれに一変している。ぶら下がった子犬の重さなど全く感じさせない勢いで、手を振り続けるきむ爺。…しかしそれでも離れない。振る。…離さない。──更に振る。

「この野郎!てめえっ」

 一回転させるように腕を振り回した処で、やっと諦めて子犬が口を離した。

「ふざけやがってこん畜生!」

 走って逃げる子犬に向かって、小石を投げつけるきむ爺。指の先にチラッと見えた赤い物は気のせいだろうか。

「…アハハハハハハッ!」

「笑い事じゃねえや…」

 涙ぐんでるきむ爺見て今日イチ笑った。



        ~ス-パ-マ-ケット~

 ──翌朝。

「昨日の火事で今月に入って三件目なんだってよ」

 起きて来た一樹の前におみおつけを置いて、鮭の焼き具合を確かめる。「誰か怪我したの?」とあたし。

 鮭とご飯をカウンタ-に並べて丸椅子に座る。お新香を切らしてたから、替わりに紅白の蒲鉾【かまぼこ】を二切れ付けてお茶を濁した。

「サンキュ。いただきまっす」

 おみおつけを一口啜って一樹が続ける。

「いや、今んとこ…味噌汁うまっ!…三軒とも、家に誰も居ねえ時に火出してるし、早めに鎮火出来ってっから怪我人は出てねえって話だったけどな」

「そうなんだ」

 …一樹の話に依ると、昨日を含めて火事になった三軒は、同じ町内とは言わないまでも、あたし達の家から一番近い家までが約300メ-トル、他の二軒も1キロと離れていない場所に在るらしかった。あたし達の家は北綾瀬駅と言う東京メトロ千代田線の終点に当たる駅から歩いて10分位の所で、東京都と埼玉の県境近くに在るのね。分かり易く言うと、ギリで東京都にぶら下がっている感じ。家を出て、ちょっと考え事でもして歩こうものなら、5分もしない内にそこはもう埼玉だべ、ってな位置取り。火事に遭った三軒の家は、その千代田線の線路とほぼ平行に流れる川に沿う形で、概ね直線上に在るらしいの。…あ、川って言うのは、夜、きむ爺と歩くあの川の事ね。

 ──外階段を降りてくる控え目な足音が聞こえて、裏口に双葉が顔を見せる。一樹の隣に腰を下ろしたその顔を見て、冷ました緑茶を置いた。

「飲みすぎた…」

 知ってる。ご飯は?って聞く心算【つもり】で目を合わせると、首を振ってグラスに手を伸ばす双葉。

「…お茶うまっ…」

 声ちっちゃ。カウンタ-の中に回った一樹がシンクの中に空いた器と「ごちそうさん」を浸して出て行く。

『いってらっしゃい』あたしと双葉の声が揃った。

 パパ譲りの作業着。背中に咲いた小さな櫻の刺繍が一輪、朝日にキラリと反射してみせる。

「もう一回寝てくる…」

 一樹が使った食器と自分のグラスを洗った双葉が、2分前に降りて来た外階段を軽くない足取りで上がって行く。あたしは煙草を咥えてマッチをすると、スマホの留守電メッセ-ジを再生した。

「…ピ-…ああ…今日ちょっと遅くなっちまうからぁ…晩飯なんか取って先に食ってて…あ、後、一樹と双葉の電話…電源が入ってねえとか電波が届かねえとか情けねえ事言ってから…、頼んだよはなみ…お願いな…ブツッ」

 ──了解。

 今日はいい天気になりそうだよ、パパ。

 裏口から外に出て、真っ青な空を見上げる。微かな暖かさを届けるその真ん中に向かって、大きく躰を伸ばして深呼吸。なんかちょっと元気出てきた。よし、今日もいってみよう!

 そこから冬の貴重な晴れ間を逃さないよう、午前中の内に大量の洗濯物をベランダに飾り付ける。少し昼寝した後、散々苦労して行方不明だった手袋の片割れをポストの中から見つけ出し、買い物に出る事にした。

 30キロカロリ-程消費して、見えて来た四階建ての建物は、一階はホ-ムセンタ-、二階が目指す処のス-パ-って造り。あ、30キロカロリ-は自転車で5分位走った時のカロリ-消費量なんだって。まあ、なんてたって、この店がこの辺りの食材置いてるス-パ-じゃ一番でっかいし、品揃えも豊富なのだ。そんな訳で、平日の真っ昼間だって言うのになかゝの込み具合なのもまあ致し方ない。三階、四階、屋上と3フロアが駐車場になってるから、遠くから来る人も結構居るみたいだしね。この辺りに在った商店街はすっかり廃【すた】れちゃって、きむ爺はよく、「活きのいい魚が見つからねえ」なんて文句言ってるんだけど…。そう言えば、町の魚屋さんて少なくなったと思わない?これも世知辛い世の中の成り行きってやつですかねえ。消費税もまた上がるとか上がらないとかニュ-スで言ってたし、ガソリンの値段は一向に下がんないし…、は-あ…、皆さん元気ですか!?

 ──入口でカ-トにカゴを載せて、冷蔵庫の中をざっと思い浮かべる。…野菜売り場から回って、あれ買ってこれ買って…なんてスケジュ-ルを立てていると…おっと、ちよっと早目の蜜柑!高っ。あたしも双葉も蜜柑は大好き!…なんだけど、果物は高い内は旨くねえってじいちゃんが云ってたしなあ。云うこと聞いてここは我慢、我慢。あっ、そうだお新香漬けるのに白菜買って…と。ひと息つく間もなく、今度は横の鮮魚コ-ナ-で筋子に三割引きシ-ル付き発見。からの即ゲット。しかもラスいち。よし!今日きむ爺が帰る時に持たせてあげようっと。…ん?なんだ?背中に悪寒を感じて周囲を見回すと、斜め後ろにあたしを…正確に言うとあたしのカゴに入っている三割引き筋子を恨めしそうに見詰めるおばさんが居るのに気が付いた。さては…狙ってたのか、YO!

 ♪'ガチ'で都会のル-ルは早い者'勝ち'

  ♪買い物慣れした主婦躊躇し'がち'で体'ガチガチ'

   ♪'用'が済んだら逃げるが'勝ち'YO!

 …とリリックを背中で語って、黙ってあたしは歩き去る。ヤバい、今のこの後ろ姿写真撮ってインスタに上げたいわ。横には筋子三割引きを並べてね。(それじゃあ)とおばさんに流し目をくれて、コンビとトリオでパックされた秋刀魚【さんま】達を横目に鮮魚コ-ナ-を抜ける。あれっ、なんか忘れてる気がするけどなんでだろ…なんだっけ?…「!」そうだ。双葉に食パン頼まれてたんだった。赤、白、青、オレンジ、黒、緑、紫、イエロ-、虹の色よりカラフルなドリンク売り場を過ぎて、お目当てのパンコ-ナ-へ。双葉の好みは厚切りだから、買うのは何時も4枚切りなんだけど、4枚…4枚…4枚切りは…。棚から棚へと探しながら歩いていたあたしの両の目は、食パンより先に通路の真ん中で立ち止まっている小さな背中で止まった。小学校の低学年に見えるその小さな背中の持ち主は、一点を見詰めて固まっている。その女の子の思い詰めたよな真剣な表情に気を引かれて目と一緒に足も止めたあたしは、何の気なしにその視線の先にピントを合わせた。…おっと-、パッと見女の子と背丈もそう変わらない男の子が、お菓子売り場でなにやらごそゝやっているのが見えた。ってか見えちゃった。あたしの視線の先でその男の子は、手にしたブツを乱暴にポケットの中に押し込むと、一目散で此方に向かって駆けて来る。んっ?と一瞬呼吸を止めたあたしの脇で女の子の手を取ると、そのまま立ち止まる事なく走り抜けて行った。

 二人の後ろ姿を見送って振り向いたら、今度はス-パ-のエプロンを着けたおばさんが恐ろしい形相で近付いて来るのが見えた。ってか見えちゃった。どうやらあたし以外にも目撃者が居たらしい。余計なお世話だけど、今のおばさんの顔トプ画にしたら、確実に友達とかフォロワ-の数減りそうですけど…怖っ。

 振り返って、もう一度二人を目で追うと、手を引く男の子のスピ-ドに女の子が付いて行けてないのと、タイムセ-ルコ-ナ-の前に出来た人溜まりに阻まれて、かなりモタついてる様子だ。そこで再びおばさんに目を戻す。おばさんが睨み付けている先には当然、小さなボニ-&クライドが居た。何か厭なもんでも見るみたいなおばさんの険しい眼差し。

 ──決めた。

 おばさんの進んで来る直線上、通路のほぼ真ん中。その場所にあたしは足を少し広げて立つ。

「すいません」

 おばさん、ごめんね。って気持ちも胸の中の半分…いやその又半分位は有る。「はい」と答えたおばさんの目線は、未だあたしの後方に固定されたまま。

「あの-、食パンなんですけど…」

「はい。どうかしましたか?」

 なんだかちょっとイラついてるような感じが伝わって来るのは気のせいでしょうか。でもいいんですか?あたしはお客様ですよ。"お客様は神様です"って有名なあれ、知ってますよね。

「5枚切りを探してるんですけど、見つからなくて…」

 そうだ。4枚でも6枚でも駄目。5枚じゃなきゃ食べられないんだという確固たる決意を言外に込める。

「あ-そうですか、分かりました。少々お待ち下さい…」

 おばさんが二人の方を目で追う素振りを見せる。束の間の逡巡。…諦めたのか、幻の5枚切りを探し始めるおばさん。…ごめんなさい。人混みに消えて行く小さな背中を見送るあたしの頭の中には、小さい頃のあたし達兄妹の姿が浮かんでいた。場所の所為【せい】もあったのかな。そう言えばあの時もこのス-パ-だったっけ…。



        ~鯣と水筒と焼き芋の話~

 その"あの時"は、あたしが小学校三年生の時だった。

 当然、双葉は四年生で一樹が五年。運動会まで後一週間位だったかなぁ、多分。あたし達の小学校って運動会でも一二年生はお昼までだから、基本的にお弁当は無しなのね。まあそれでも、お兄ちゃんとかお姉ちゃんが居る子達は、お父さんお母さんと一緒にお弁当食べてそのまま残ってるし、兄弟がいない子でも、一旦帰ってご飯食べてからなら戻って来るのは勿論自由なんだけどさ。去年まではパパ達とお昼ご飯を食べてたあたしも、その年はいよゝ三年生。クラスの誰と一緒にお弁当食べようかなあとかって、テンション上がってたんだ、今思うと。あれは…運動会の四五日前、確か晩ご飯の時だったと思うけど、何を思ったか突然あたしは立ち上がって宣言したのだ。遠足とか運動会の前のワクワクしてフワフワするちょっと不思議なあの感じ、みんなも覚えてるでしょ。

「運動会に持って行くの、あたしキュアキュアの水筒がいい!」思い返してみても、家の中だっていうのに無駄にでかい声だったわ、あれは。キュアキュアってのは、その当時女の子達に絶大な人気のあったアニメ。一年生から六年生までの女子の間では、嫌いなんて言おうものなら仲間外れ確定の大人気だった。その頃はパパが現場に持って行く馬鹿でかい水筒を除けば、我が家に有る水筒は他に二つ。ひとつはピンクのキュアキュア。もうひとつはじいちゃんが買って来てくれたんだけど、PUMAのPを一樹が油性マジックで塗り潰しちゃったトリッキ-な●UMA【ウマ】の水筒。しかもそれ、プ-マのマ-クの上に競馬の騎手みたいなのが落書きされてるシルバ-の男物。一樹は日曜日になるとよくじいちゃんと出掛けてたから、多分その影響だとは思うんだけど笑えないし、何よりその絵はセンスの欠片【かけら】さえ見付からないひどい出来映えだった。「じゃあ俺は親父の水筒持って行く!」と、嬉しそうな一樹。自動的にシルバ-の水筒を持って行く事になった双葉は、何も言わなかった。パパとじいちゃんもそんな双葉を何も言わず、ただ黙って見ていたっけ。あたしはと言えば、双葉の気持ちを思い遣るにはまだゝ子供過ぎたし、頭の中はキュアキュアの水筒持ってみんなに羨ましがられながら、調子に乗ってる妄想で一杯だった。そんな感じだから、パンチの効いたジョッキ-水筒抱えて運動会に行く姉の気持ちを考える余裕なんて、頭の何処にも無かったんだよね。我ながら情けない話だけど。

 この頃、双葉はもう一人前のお姉ちゃんで、対してあたしは…今もだけど、妹としては半人前だったって事だと思う。──んで、そんな事があった次の日。茶の間には、スト-ブの火で鯣【スルメ】を炙るじいちゃんと、ビ-ル片手にじいちゃんの目を盗んでは鯣をくすねるのに夢中なパパの姿があった。時は夕刻、暮れ六つ。テ-ブルに置いてあった携帯が震えて、ガラケ-開いたパパが「誰だこいつ」って。「はい桜木。──はい。──はい。──はい。どうもすみません。──はい。分かりました。──10分位で──はい。あ、それで一樹は何を──ああ、はい。どうもすみませんでした。じゃこれから──失礼します」謝ってるパパなんて見た事無かったから、何事かと思ったけど、電話切った後のパパは楽しそうに笑ってた。「ちょっと出掛けてくる」って言って、残ったビ-ル一気に飲むと、作業着の上着を引っ掛けてね。「なんだって」って訊いたじいちゃんに「水筒」ってパパ。途端にじいちゃんお茶吹き出しちゃって、暫く噎【む】せてたっけ。それからパパは…パパはバイクの鍵を取り掛けて、少し考えた後、鍵掛から自転車の鍵を選んで外したんだ。「あたしも行く」…何処へ、何しに行くのかだって分かんなかったけど、あたしは当然のように言ったんだと思う。よっぽどの事がなければ、この頃のあたしはパパから離れなかったから。「寒いよ」って顔をしかめるパパにも、マフラ-巻き付けながら「だいじょうぶ」って。双葉はじいちゃんの膝の上で、あの時も黙って鯣齧【かじ】ってた。それから二人して自転車で向かったのが、あたしが今居るス-パ-の一階、ホ-ムセンタ-の方だったんだ。

 入口から一番近くに居た店員さんに「桜木です」ってパパが頭下げて、それ見たあたしも頭下げて。その店員さんの後ろに付いてあたし達が向かったのは、お店の奥。バックヤ-ドって言うの?あのお店の人しか入れないような所。擦れ違うおばさん達が「店長、お先に失礼しま-す」とか挨拶してるの聞いて(ああ、この人偉い人なんだあ)って、子供ながらに思ったのは覚えてる。コウチョウ、テンチョウ、なんか似てるでしょ。

 ──案内された部屋にはあたし達の幼馴染みで、一樹と同級生の太一と力也のお母さん達が先に来ていて、他の店員さんと何かボソボソと話をしていた。「すいません」とか「申し訳ありません」とか、会話の合間ゝに聞こえてきて、それに合わせてお母さん達がロボットみたいに何回もゝ頭下げてた。一樹と太一、力也の三人は長いテ-ブルの前に並んで座らされていて、太一と力也の前には機械の部品…みたいな物がそれゞひとつずつ置いてあった。後からわかったんだけど、それって、その頃男子の間で流行ってた自転車の部品なんだって。レ-ザ-光線みたいな光が出るライト。男の子ってそういうの好きじゃない?何がいいんだか分からないけど。…そんで、肝心の一樹の前に置かれていたのは…キュアキュアの水筒だった。家に有るのと色違いの赤いやつ。それ見たパパは一樹の前に立つと、その頭に黙って触れたんだ。ぽんゝって撫でるように。それから、一樹と目を合わせて軽く頷くと、今度は店長さんの前まで歩いて行って土下座したの。「すみませんでした!!」って、耳が痛くなる位の馬鹿でかい声出して。いきなりだったのと、桁違いの声のでかさに店長さん、ほんとぽか-んって感じで暫く固まってた。ううん、店長さんだけじやなくて何人か居た他の店員さんも。お母さん達に太一と力也、おまけにあたしも。だけどその時、一樹だけが「ガタンッ」って。椅子が倒れる程の勢いで立ち上がったんだ。──泣いてた。土下座してるパパの背中、唇噛んで睨み付けながら。そんな…そんな一樹見て、なんだか分からないけど気付いたらあたしも泣いてた。パパの首の後ろ、作業着の刺繍が段々ぼやけてきて、多分一樹の目にも同じように濡れた櫻の花が見えていたんだと思う。あれってなんだったんだろ。言葉に出来ないあの気持ちって。悔しいようなあの…。一樹の泣き顔見たのもあの時が最後だと思う。もしかしたら、泣かないって決めた日なのかもね、あの日が…。

 初めてって事もあったからか、一樹達は少しだけお説教されてその日はそれでお仕舞い。盗もうとした品物はそれぞれが買い取るという事で、お母さん達にも叱られはしたけど、それ以上のお咎【とが】めは無かったんだ。皆と別れてそれからは…何故だかパパはご機嫌で、帰る時には一樹も太一と力也とお揃いのライト買って貰っちゃって、あたしは焼き芋を手に入れた。家に着くと、玄関開ける前にパパが一樹に水筒の入った袋渡してさ。一樹からその袋渡されて開けた時の双葉の顔、チョ-笑顔でめっちゃ可愛かったなあ。よく小説とかでパッと花が咲いたようなとか言うじゃない、本当にそんな感じだった。ポンコツの蛍光灯も頑張って、あの一瞬部屋の明るさが増した気がしたもん。あ、あたしも食べきれなかった焼き芋が半分入った袋渡したんだけど、それに付いてはほぼゝシカトだった気がする。──でね、これは内緒にしてたんだけど、あたし見ちゃったんだよね。その日の夜中、トイレに起きたじいちゃんが押し入れになんか仕舞ってんの。…それから三年位してじいちゃん死んじゃったんだけど、その後みんなで片付けしている時に、押し入れから多分その時じいちゃんが仕舞い込んでた袋が出てきて、それ見てあたし「あっ」って。なんかいきなりあの夜見た光景がフラッシュバックしてね、袋開けてみたんだ。中から出てきたのは…赤いPUMAの水筒。パパ大笑いしてた。嬉しそうに。

「──様。──様。…お客様」

 …あん?…あっ──

「はい。はい、はい」

 いけねっ。ぼ-っとしてたわ。

「こちらになります」

「へ?」

「こちらが5枚切りになりますが」

 あんのか-い!

 おばさんに丁寧にお礼を言って店を出ると、小さな兄妹の姿はもう何処にも無かった。家に着いてなんて言おうか迷ってたら、5枚切りの食パンを見た双葉が、「どうせなら3枚じゃね」と、独り言のように呟いた。あたしは、「洗濯物乾いたかなあ」と聞こえない振りして階段を上がる。



       ~H.30.12.7 はなみの金曜日~

 珍しく天気予報が外れて雨になった、十二月最初の金曜日。

 明後日に双葉の十七回目の誕生日を控えて、あたしの頭の中では"プレゼント"の5文字が次第に大きさを増していた。と言うのも、双葉と言えば誕生日なんてもんは関係なく普段から、アクセサリーとか、ブランドもんのバックとか、靴とか、etc【センスの欠片もない取り敢えず派手に見える金目の物】とか…。そういった男共からの貢ぎ物が後を絶たない状態だから、あたしとしちゃあ今更欲しい物なんてあんのかい!って感じなんだ。そもゝ身に付ける物は、あたしの好みで選んだもんじゃお気に召さないだろうし…。去年まではケ-キを作ってみたり、手作りのソファ-のカバ-を贈ってみたりと、毎年プライスレスをコンセプトに頑張っては来ましたが、さてゝ今年はどうしたものやら。

 お金と時間。両方共に余裕も無いし…と迷った挙げ句、更に血迷って自分を見失ったその日の営業中、一樹に相談してみる事にしたんだけど…。当の一樹はこんな時に限って現場が早仕舞いしたらしく、幼馴染みの太一と力也の三人で昼過ぎから飲んでいて、結果、8時を回った現在ではもうドロドロになっているのだった。言ってみれば人間同士の会話が成立するのかは、限り無く怪しい状態。

「ねえ、ちょっと一樹!」

「ぁん……と、ぁ…あれ……ブ…レ…マ……ン…」頭がガクンと大きく揺れて、煙草の積もりなのか右手に挟んだ割り箸を灰皿に打ち付け、酔っぱらいの症状としてはなかゝの壊れ方を見せつけてくる。

「ブレ…って何?ねえ!」あ-イライラする。

「ぁ……あれだ…あ…れ…ブ…ブレ……マン…ティ……ス…」そこまで言って、限界が訪れたのか、魂が抜け出たみたいに白眼を剥いてテ-ブルに突っ伏した。

 おいおい…ブブレマンティスって何なんだよ。聞いた事ね-し。大体、日本で売ってるもんなのかそれ。謎は残るものの、頼り甲斐の無い兄には一旦見切りを付けて、期待は全くしてない横の二人にも一応聞いてみた。

「太一と力也は?」

「あ?」と太一。

「え?」と力也。

『ネックレス』太一&力也。

『あん?』太一&力也パ-ト2。

「ふざけんっ──」先に言ったのは太一。

「お前がふざけんな」普段は無口な力也が喰い気味で返す。そこからは顔を伏せたままの一樹を間に挟んで「お前は別のにしろ」、「いやお前が別のにしろ」と、今晩この街で一等下らない言い争いを始める。予想通りとは言え、ほんと何奴【どいつ】も此奴【こいつ】も…、はぁ-あ。こんな奴等に頼ってしまった自分を責めながら、念のためきむ爺にも聞いてみた。

「そうだねえ。やっぱり女の子だから韓紅【からくれない】か紅梅【こうばい】色の羅宇【らう】がいいかねえ」

 …え-と…取り敢えず意味不明なんですけど…。

「何が?」

「煙管【キセル】」

 ──改めて…はぁ-あ、と。もう溜め息しか出ない。そりゃあ確かに珍しいし、十七歳の女の子が煙管吹かしてる姿なんか、滅多にお目に掛かれるもんでもないけどさ。

 ふと、座敷でサラリ-マン風のおじさん達の相手をしている双葉に目を遣る。口紅を曳いただけだというのに、十七歳にはとても見えない仕上がり具合。一時【いっとき】その横顔に目を止めてみる。…しかし、幾ら見ていてもその横顔に欲しい物が書いてある筈も無く…。さあ、どうしたものですかねえ。

 お会計を済ませたおじさん達を入り口の外に見送った双葉がカウンタ-に座ると、今夜、関東全域で一番しょうも無い言い争いをしていた太一と力也がピタリと黙った。二人共、双葉をみる目がなんだかキモい。鼻の下が伸びてると言うか、締まりが無いと言うのか。友達の妹とか関係ないのかなぁ──っておい!だったら今まで目の前に立ってたあたしわい!!…こいつら…。死なない程度の毒でもあったらグラスに入れてやるのにな、ガチで。

「お先」と、横できむ爺が真魚板【まないた】を立てる。

「お疲れ様」言って、カウンタ-を出て行く背中を見送るあたし。お客さんも幼馴染みだけになったんで安心したんでしょう。

「さっきのおじさん達って、前に来た事あった?」そう聞きながら、双葉の前に昆布茶の入った湯呑みを置く。双葉の最近のお気に入り。

「初めてだってさ。最後に出て行った眼鏡のおじさんが住んでるのがこないだ火事んなった家の近くなんだって言うから、話し聞いてたんだ」

「そうなんだ」

「警察もあれから何度か話し聞きに来てて、近所じゃ放火だったんじゃないかって噂になってるって言ってたね」

 テ-ブルに突っ伏してる一樹の頭が有るか無きかの動きを見せる。

「俺も聞いたなそれ」と、ここで横から太一が参加。

「その前に起きた二件の火事も、もしかしたら放火なんじゃねえかってさあ。二件の内の片方の家なんて、火事んなる二三日前から旅行に行ってたから、火が出る筈なんか無いって、家の人は言ってるって話だしな。」と続けて、グラスに付いた水滴を几帳面に拭うと、今度はそのお絞りの四隅を合わせ丁寧に畳む。

『へ-』と、あたしと双葉が声を合わせた。力也は黙って頷いている。

「棟梁がしてた話だから、一樹んとこの親方も多分聞いてるんじゃねえのかな」と言うのも太一は大工で、太一のとこの棟梁と一樹の親方はお友達だからだ。序【つい】でに言っておくと、力也は家業が左官職で、親方は力也のお父さん。みんな地元の大きな工務店を元請けにしてるから、三人が現場で顔を合わせるのも珍しい事じゃないって、一樹が話しているのを聞いた事がある。

「そりゃそうと、双葉。日曜日はどうすんだぁ」

 一樹の頭越しに声を掛ける太一。

「…べつに…優と瑠花が来てくれて軽く飲む位じゃない」

 優と瑠花は数少ない双葉の友達で、瑠花は太一の妹でもあるクロス職人のガテン系女子だ。

「じゃ俺も顔出すわ」力也が右手を挙げた。

「俺も」太一も右手を挙げて、ニヤついた二人の視線があたしに集まる。──しょうがない。

「じゃあ…あたしも」恐るゝ、震える右手を挙げる。

『どうぞ、どうぞ』

 笑ってんのは太一と力也だけ。双葉は仮面を被ったみたいに表情消してるし。あたしか?あたしがスベったのか?…まあ、いいや。仕方ない。

 そうとなったら野郎共、日曜はパ-ティ-だ!気合い入れていけYO!



       ~H.30.12.9 双葉の誕生日~

 そうして迎えた日曜日。天候は朝から生憎【あいにく】の雨だった。しかし、今日ばかりは天気がどうのこうとの言ってっらんない。雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ、あたしは午前中から店の掃除、昼からはきむ爺の手を借りて途中からその全てを任せるという思い切った形を取らせて頂き、オ-ドブルとちらし寿司の準備中。

 座敷の方じゃ優と瑠花がテキパキとセッティングしながら、集まった他の男子と女子に彼方【あっち】だ此方【こっち】だと声を掛け忙しくしている。気温は10℃も無いってのに、エアコンは切ったままの店の中で、今の処は誰も寒いと言い出さない。

「はな-。双葉何時頃帰って来んの?」

 あたしを"はな"って呼んだのは瑠花。太一の妹だから当たり前だけど、あたしとも小学校から一緒で、幼馴染みでもある。優は隣の小学校で中学からの付き合いだけど、優に対する双葉と瑠花の態度に付き合った年数の差を感じた事は一度も無い。

「美容室の後でネイル寄るって言ってたから…、たぶん6時位じゃね」

「じゃ後二時間位だね…」時計を見て、優が手を止める。

「ちょっと休憩しようか」

 優と目を合わせた瑠花の言葉を切っ掛けに、あたしは座敷のテ-ブルに飲み物を運んで行った。双葉の代で今日集まったのは全部で九人。五人が男で、優と瑠花以外の二人の女子は、多分一樹目当てだと推察される。てゆうのも、中学三年生の時殆ど学校に行っていない所為【せい】もあって、双葉は同じ学年の女子には避けられてるような処が有るのをあたしは知ってるから。学校に行ってた頃だって、女友達と話してるとこなんて優と瑠花以外見た事無いしね。

 妹のあたしが言うのも何だけど、双葉って自分から積極的に話し掛けていくタイプじゃないし、かといって黙っていると周りに緊張感出ちゃうんだよね。居るでしょ、そういう子。…みんな絡みづらかったんじゃないかな。好きとか嫌いとかは別にして。

 今日集まった五人の男達の中には見た事あるのもいる気がするけど、あんま印象に残ってる奴は…居ないな、一人も。双葉に寄ってくる男達にも色んなタイプが居るんだけど、相手にされてないのが分かると、長くても四五ヵ月で入れ替わって行くから、いちゝ覚えていらんないんだよね。

 ──20分程の休憩を挟んでからはペ-スも上がり、小一時間で支度は終わり、後は双葉を待つだけとなった。只今の時刻は17時40分。

 ──「カラ・コロ・カラン」

 いきなり浴びせられた幾つもの視線に、戸惑いを隠さず入【はい】り口に立つのは制服姿の凜【りん】。あたしのマブダチ。って、ちょっと古かったかな。ちゃんと言うのは恥ずいけど、大切な親友ってやつ。

 ──ともあれ、

「凜!…なんで制服…なの?」

 重ねて、左手に竹刀袋、右手には傘の二刀流。

「うん。今日は試合があって、今その帰りだから」

 凜の通っている高校の女子剣道部はかなり有名で、去年は全国大会で準優勝。一昨年まではたしか二連覇か三連覇を成し遂げている名門中の名門。更に言うと、凜はその学校に今年スポ薦で入学した期待の新星。十年に一人の逸材というレベルで、今後最も活躍が期待される楽しみな選手。…って、この前読んだ専門誌に書いてあった。ま、そんな事が無くても、凜の友達でいる事は数少ないあたしの自慢のひとつで、滅茶苦茶にいい奴なんだよね、これが。

 あたしの見詰める先、雫【しずく】が落ちるのを嫌って、凜が傘に付いた水滴を、鞄から取り出したタオルに吸わせている。

「まだ雨ふってんだ」

「パラパラ。もう止みそうだったよ」

「今日は双葉に?」

「うん。これから試合の打ち上げが有るから、その前に『おめでとう』だけ言いたくて…」

「カラ・コロ・カラン」──

 凜が最後まで言い終わらない内に双葉登場。てか、醸し出す雰囲気的には参上。──「あ…」、ショ-ト。出掛ける前は肩甲骨の下まであったダ-クブラウンの髪が、今は黒のショ-トヘアにモデルチェンジしていた。それにしても……に、似合ってる。絶対、自分に合ってるのも分かってろよなあ、ちょっとズルい。…でもやっぱ、この人が我が姉というのは、あたしの最大の宝だと再認識させられる仕上がり具合だった。

「うおぉぉぉぉぉう!!」「双葉ちゃん可愛い!!」「つ-か最早カッコいい!!」「ねえ、写真撮っていい?」「きれいだ!ほんとにきれいだ!!」

 声でかっ。

「似合ってる!!」「いいね!それいいね!!」「こっち向いて!!」「ねえ、写真撮っていい?」「かわうぃ-ね!!」

 あ-煩【うるさ】い。「ねえ、写──」

「ありがと。知ってる」と、冷たく双葉。

 あ-あたしもそういうの言ってみたいわ。

「双葉先輩!誕生日おめでとうございます!」

「おぅ、凜!ありがとう」

「あの…これ…」

 言いながら凜が竹刀袋から取り出したのは、黒い……木刀だった。

(マジか…。ガチですげ-な。木刀にリボンって初めて見たわ)

 店の中に居る人間、あたしもだけど、序でに時の流れも纏めて止まったみたいだった。あれね、「シ-ン」って聞こえない筈の音が聞こえちゃうあれ。

「おっ、ありがとう黒檀じゃん。二尺…二尺五寸位?」

 止まった世界の中、双葉と凜だけが動いて喋るシュ-ルな時間が流れてる。

「ブォン。ブンッ」

 二度素振りをしてみて「サンキュ」と凜にハグする双葉。「ねえ、写──」「私もお揃いで一本持ってて…。気に入って貰えて良かった」

 言ってる傍から凜の目が潤んできてやばい。まさか、あんたの方が泣くのか?何を隠そう、凜にとって双葉は本人も公言する憧れの先輩なのだ。それ処か、小学校時代の剣道クラブから中学、そして今日まで凜を以【もっ】てしても一度も勝つ事の出来ない、最早凜にとっては人を超えた神的存在でもある。ここだけの話、中学の時生徒手帳の中に双葉の写真を入れてた事もあたしは知っている。「ねえ、写真撮──」

「まだ時間あるの?」

「いえ。今日は試合だったんで、この後部のみんなと打ち上げがあるんです…親も一緒で。今日は病院の仕事休みだから、うちのお母さんも来るって言うんで」

「そっか。じゃあ忙しかったんじゃないの?ありがとね。また今度ゆっくり遊びにおいでよ」

 女手ひとつで凜を育てる看護師のお母さんは、母親の居ないあたし達を小さい時から何かと気に掛けてくれている人で、何人か居る頭の上がらない大人の一人だ。小学校の運動会の時なんか、あたしだけじゃなくて、クラスも学年も違う一樹と双葉の名前、あたし達の方が恥ずかしくなる位大声で叫んでた、「頑張れー」って。後で凜に聞いたら、声嗄れちゃって二三日元に戻んなかったって、そんな人。

 それじゃと出て行こうとする凜に、双葉が声を持たせる。

「お母さんに宜しく言っといて」

「はい!」

 ちょっとだけあたしと目を合わせると、名残惜しい気持ちを隠して凜が帰って行った。

「双葉おめでとう!」「ねえ写真──」『おめでとう!!』

 重なったみんなの声に「パンッ!!パパンッ!!」と、景気のいいクラッカ-の音が混ざる。

「サンキュ」双葉が笑った。

「パンッ!!」さあ荒くれ共、グラスを掲げろ!パ-ティ-の始まりだ!



           ~サプライズ~

 幕開きから二時間が経った処で、太一と力也を連れて一樹も合流。しかしもうその頃座敷では、双葉にテキ-ラの一気飲みを挑んだ男達がHP【ヒットポイント】を空にして、力尽きた躰を晒していた。他には30分位前に二回程転がりながら、靴の片一方とカメラを通路に残して、トイレに駆け込んだまま戻ってきていないのが1名といった惨状。

 太一と力也が先を争って双葉にプレゼントを渡す。飲み物を作ろうとしてカウンタ-に戻ると、テ-ブルの陰に隠すようにして包みを用意している一樹の姿が目の端に映った。──珍しっ!ここ二年、一樹からの誕プレと言えば、双葉にもあたしにも煙草ひと箱がお決まりだったのに。その前の年は蛇の脱け殻だったし…。もしかしてあれか?女の子の十七歳は特別【スペシャル】ってやつか!?

 立ち上がった一樹が太一と力也の後ろから、双葉に向けて雑に包みを放り投げる。

「何これ?」と、形の良い眉を八の字にする双葉。双葉だって一樹からのプレゼントなんて期待して無かったに決まってる。

「十七歳おめでとう」言って直ぐ、あらぬ方へ顔を背ける一樹。おっ、照れてんのか?

「うっそ!サンキュ-」

 双葉ちょっと嬉しそう。なんだかんだ馬鹿にする事はあっても、あたし達にとっては世界にたった一人の兄貴だしね。

「お前高校行ってないから、やっぱそういうの欲しいんじゃねえかと思ってよ」

「開けてもいい?」

 一樹が珍しく神妙な顔をして頷く。

 袋の中を覗いた双葉が顔を上げる。…あれっ、でもなんだか様子が…

「気に入ったか?」

 なんだ?一樹がニヤニヤしてる。

「何これ」と言った双葉の声は、パ-ティ-には不向きな超低音。

 太一と力也が堪えきれないといった感じで笑い声を洩らす。

 ──男三人が声を揃えた。

『ハッピ-バ-スデ-ブレマンティス!!』

 一樹の顔にブルマが飛んで、黒檀の木刀を握った双葉が宙を舞った。


「んじゃあ行ってくる。後よろしくね」

「はいよ」

 片付けを双葉に任せたあたしは、並べ切れなかった料理を詰めた重箱の包みを提げて、きむ爺と二人店を出る。暖簾を潜【くぐ】る時に視線を感じて座敷を振り返ると、逃げ遅れたのか気を失った力也が裸にブル…じゃなかった、ブレマンティスを穿かされ縛りあげられた姿で放置されていた。視線を感じたのは、閉じた瞼に落書きされた黒目のせいだったみたい。

 きむ爺が住んでいる処は昔の長屋みたいな造りになっていて、同じ格好の建物が六軒並ぶスタイル。軒が重なるって言うのかな。そんな感じ。近所にはきむ爺とそう年の変わらない爺さん婆さん連中が住んでいて、このお年寄り達にあたし達兄妹は、以前から色々世話になっているのだ。そんなみんなに、あたしもちょっとは手伝った料理を食べて貰いたくって、こうして寒い夜に軽くもない荷物を持って歩いてるって訳。

 まだ雨の匂いが残る堤防の遊歩道。冷たくて気持ちのいい風が、少し酔ったあたしの髪を抜けていく。雲の晴れた夜空には、食いしん坊が食べたメロンの皮みたいな薄い三日月が浮かんで、淡い光を届けてくれていた。吐く息が直ぐに夜と混じり合いその色を失くしていくのを見てたら、なんだか深呼吸したくなって、持って来た包みをきむ爺に預ける。ラジオ体操の両手広げた正式なやついってみました。す-は-、す-は-…。「ダッダッダッダッ…」──後ろから堤防の階段を駆け上【のぼ】る足音が近付いてくる。振り向く間も無く背中に「どんっ」と衝撃を受けて、あたしはその場に倒れ込んだ。「いっ…たい…」

「邪魔だ!」

 咄嗟に怒鳴り声のした方を振り返る。(げっ)最初に目に飛び込んで来たのは前歯がキラリと光る骸骨【がいこつ】の顔。続けて立ち上がれないで居るあたしの目に、打つかった男のウォレットチェ-ンに並んだ髑髏【どくろ】達が次々と入り込んで来た。きむ爺の横を擦り抜けた二人の男が、対岸に架かる橋を立ち止まる事無く走って行く。顔を見てやろうと思い暗闇に目を細めたその時、今度は後ろから『ボオォンッ!!!』と、無茶苦茶に大きな音が背中全体を襲った。強制的に(うあっ)と両目を瞑って全身に力を入れる。息を吸い込み振り返ると、弱い月明かりに替わって、熱を持った炎の生み出す光が住宅街の一角を朱々【あかあか】と浮かび上がらせていた。「火事だ-!」誰かが叫んだ声が正しく火種となって、夜更けの町に喧騒が拡がっていく。

 四件目。

 今月に入って最初の火事は十二月九日、双葉の十七回目の誕生日の夜。吹き消すには大き過ぎるキャンドルの火を前にして、無力なあたしはその場に立ち尽くす事しか出来ず、ある種幻想的なその光景を瞳に映していた。



        ~H.30.12.9 診療所~

「いっ……」

 昨日の夜倒れた時に捻った左足は、朝になり洗濯物を片付ける頃になると、靴下の上からでも腫れてきているのが判【わか】る程に悪化していた。あの後、家に戻って来る迄はまだなんとか歩けたのに、今では床に着けてちょっと力を入れただけで動きが止まる。昨晩、騒ぎを聞き付け直【す】ぐ様火事場に馳せ参じたと言う一樹は、あまり寝られなかったのか、今朝は朝御飯も食べずにとび出して行った。優か瑠花の家にでも泊まったのか、珍しく双葉も帰って来てないし、こうなりゃ自力で何とかするしかない。片足で乗れるのか心配だった自転車も、やってみると案外問題ない感じ。大丈夫、いける。「よっしゃ、かかって来い!」気合いを入れて、凜のお母さんが勤める診療所に向け、あたしは右足一本でペダルを踏み込んだのだった。

 パ-カ-の上にユニクロのウルトラライトダウン。十二月にしては薄着の筈なのに、二三分走っただけで、おでこにうっすら汗が滲んでくる。凜のお母さん=【イコ-ル】律【りっ】ちゃんが勤めている診療所は、内科と整形外科が入っていて、歳はきむ爺よりも上らしいけど腕がいいと評判の院長のお陰か、待合室は何時行ってもギュウ混みの満員御礼状態。二階建の建物もそれ程大きくはないんだけど、それでも三四十人は入るだろうか。毎度ここに来る度、変わらぬその患者の多さに自分が健康である事の有り難みを再認識させられる貴重な場所でもある。

 やっとの事で診療所に辿り着くと、駐車場に入り切らなかったのか、一台の車が駐輪場の前まではみ出して停めてあって、自転車を停めるのに足の怪我もありかなり苦労させられた。PUMAのマ-クのあの猫みたいな奴がボンネットに付いたその車に舌打ちしたあたしは、取り敢えずドアが凹む位の蹴りを入れることにした。──嘘。

 診療所の中はと言うと、椅子に座りきれず通路に立っている人が何人も居て、相も変わらぬ盛況ぶり。ケンケンで診察券を出しに行くあたしの為に、受付の前に出来た数人の人垣が勝手に割れてくれた。その様子に優越感にも似たくすぐったい気持ちを感じてしまい恥ずかしくなったあたしは、顔を伏せたままその間を進む。

「あれっ、はなみじゃない。どうしたの?」

 早速、奥から目敏い律ちゃんが声をかけてくれる。

「うん。左足なんだけど…ちょっと捻っちゃったみたい」

「…そう。今からだとちょっと待つかな-。大丈夫?痛む?」

「あ、大丈夫、大丈夫」

 受付から出て来てくれた律ちゃんの視線が、足を看【み】てからあたしの後ろへと動いて止まる。釣られて振り返ると、軽く五人か六人は座れそうな大きなソファ-に、男が三人、幾らか間隔を空けゆったりと腰掛けている様子が見てとれた。三人組の真ん中は結構なじいさんで、左右には律ちゃんと年がそう変わらなそうに見えるおじさんが二人。並びだけで言うなら、水戸黄門的なあの感じ。じいさんの横に助さんと格さんみたいな、あれね。あ-水戸黄門が分かんないって人は、ちょっとググってみて。でも言っとくけど、似てるのは飽くまで並び順だけ。目の前の三人組はどんだけ贔屓目に見た処で、正義の味方黄門様御一行とは言い難い面々。…だって、パンチパ-マとスキンヘッドの助さんと格さんに、そもゝ人間なのか?と疑うような、仁王像を更にVシネマ風にアレンジした人相の黄門様なんだから。もしこの人達が一般人であるなら、あたしは一般人と言う言葉の意味について、今一度考え直さなければならないレベル。「すいません。患者さんも増えてきたんで、悪いんですけど付き添いの方は立って待っていて貰えませんか」その三人に向けた律ちゃんの笑顔ではあるけどはっきりしっかりした口調。そこに怯む様子は微塵も無い。未だ三人の方を振り返ったままだったあたしは、固まってしまった顔面を無理矢理笑顔に変えながら、(そうだ。この人はこういう人だったんだ)と、頭の中で思い返していた。

「外で待ってろ」表情を全く動かさない黄門様の渋い声。

「でも…」と言い掛けたパンチを、黄門様が黙って見詰める。

(怖っ。じいさんのくせにすげえ怖っ)もう一回言うけど、本当に人間か?マジ四分六で違うんじゃないかって気がしてきたわ。「はい」と一礼して、パンチとスキンヘッドが外に出て行った。

(あたしは別に立ったままで大丈夫ですけど)ってアピ-ルの心算【つもり】で恍【とぼ】けた顔して近くの壁に寄り掛かる。ここは序【つい】でに口笛でも吹いといた方がいいのかしら。

「何してんのよ」

「は?」

「『は?』じゃないでしょ。何してんのって。せっかく空けてくれたんだから座んなさいよ」

「あ-…」

「『あ-』でもないでしょ、ほら」

「…どうも…」

 これ以上座り辛いソファ-、今まで生きてきた中でちょっと思い出せそうも無いわ。

 いざ座ろうとすると拒絶反応からか、躰中の関節が(ギッギッ)と厭な音を立てる。そんなあたしを見て気が済んだのか、受付の中に戻って行く律ちゃん。あたしは…と言うと、隣の黄門様から発せられる威圧感という名のオ-ラに耐えきれず、秒でスマホの世界へと逃げ込んだ。

 そこからは、針の蓆【むしろ】に座り躰を動かす事も無く、無論声は発せず呼吸の数も最低限に抑えるという、修行というより最早、苦行と呼ぶ方がしっくりくる悪夢のような時間が始まったのだった。

 体感的には半日にも感じられる、長いゝ37分間が過ぎた頃、

「…カラキさん。カラキセイジュウロウさん。三番にお入り下さい」

 というアナウンスに続いて、隣で立ち上がる気配が在った。下を向いてスマホに角度を固定しているあたしの目線の先を、ゆっくりと黄門様のスリッパが横切って行く。(セイジュウロウって…)唯【ただ】只管【ひたすら】に意味の無いスクロ-ルを繰り返していた手を止めて、深い、深-い安堵の溜め息を吐く。あたしにとって、こんだけ緊張しながらスマホを弄ったのも、人生で初めての経験だった。あたしが修行僧だったら、この37分で一段か二段ステ-ジ上がったと思うわ。コップンカ-。

「…キムラさん。キムラハナミさん。二番にお入り下さい」

 どうやら、あたしが受け付けをしたのは、せいじゅうろうの次だったみたいだ。今度来る時はこの時間帯だけは何が何でも避けようと、固く心に誓う。

 壁伝いにケンケンしながら入って行った診察室。待っていたのは院長先生の息子さん。──(ゲフッ)なんてこった。一難去って又一難。お年寄りや看護師さん達から"若先生"と呼ばれている熊みたいに大きな躰のその先生は、あたしを見ると、顔の半分を占める髭に囲まれた大きな口を開け豪快に笑った。

「はっはっはっ。はなみちゃんかあ、大きくなったねえ。どうぞ」

「お久し振りです」

 勧められた椅子に腰を下ろす。前に来たのは小学校四年生の時。フォ-クダンスでペアの男の子とあたし、ダンス中倒れて二人一緒に腕を折るという神憑り的な怪我をした時以来だった。

「今日はどうしたの?」

「昨日の夜転んだ時に、左足をちょっと捻っちゃったみたいで…」

「またフォ-クダンス?」

 んな訳ね-だろ。

「…いや、ぼ-っとしてたら人と打つかっちゃって…」

「ちょっとこの台の上に足載せてみようか。台壊さないように、ゆっくりでいいからね」

 空いてる右足で減らず口を叩くその顎に思い切り蹴りをくれてやった。嘘。願望。

 ──診察の後に撮って貰ったレントゲンの結果、骨には異常無し。「電気でマッサ-ジ治療してから軽く固定しよう」という若先生の見立てで、貸して貰った松葉杖を手に、治療室に向かい廊下を進んで行く。…成る程。バリアフリ-って確かにこういう時有り難い。普段は気にも留めず見過ごしているたった数ミリの心遣いに助けられ、自然と目線は下がる。

 治療室に続く最後の角を曲がると、先を歩く男の後ろ姿が目に入った。──残念ながら、まさかのせいじゅうろう再びである。(まだ居たのかよ…)間の悪さを呪って舌打ち。ならば少しでも距離を置かねばと、立ち止まり暫【しば】し壁に躰を預ける。そのまませいじゅうろうの背中が離れて行くのを待っていたら、小さな男の子が二人、治療室から勢いよく飛び出して来るのが見えた。先頭のひとりが、勢いそのまませいじゅうろうに打つかって転ぶ。尻餅をついた男の子が、出会い頭に自分の身に起こった事態を飲み込めず立ち上がれないでいると、せいじゅうろうがその躰を掴み上げた。……ううっ、窓から放り投げるのか?それとも頭から喰っちまう気か!?息を呑むあたし。……ところが…、意外にもせいじゅうろうは男の子をすんなりと廊下に立たせると、人の言葉で「大丈夫か」と声を掛けたのだった。「殺すぞ」の聞き間違えではない。声を掛けられた男の子は黙ったまま小さく頷くと、もう一人の男の子と一緒にかけだして行った。きっと急いで帰って、診療所に鬼が出たってお母さんに話す心算【つもり】なんだろう。怖かったよね。気を付けて帰るんだよ。せいじゅうろうの背中が治療室に消えて行くのを見送って、更に10を数えてから後ろに続く。

 入口に用意されたホワイトボ-ド。五番の場所にあたしの名前を見付ける。せいじゅうろうは三番。三番──唐木征十郎。(良かった-。隣じゃない)ほっとひとつ息を吐【つ】いて、五番の低周波治療器の前に座る。小学校で骨折した時にも散々お世話になった機械だから、使い方はまだ覚えている筈…。

 …え-と、確かコ-ドの先に丸いオセロ位のシ-トが付いてて……って、──ない。あれっ?…と思ったら、治療器のフックに架けてある筈のコ-ドとシ-トは、テ-ブルの下に落ちたままでほったらかしにされていた。多分さっきの男の子達のどっちかだろう。…ったく、ちゃんと片付けて行けよな、今時の子供はこれだからブツブツブツ…。機械の配線が何本も絡み合ったカ-ペットの上からコ-ドを拾い上げる。その拍子に、あたしと征十郎の間に座っているおばあちゃんと目が合って、何方【どちら】からともなく挨拶をした。(大変ねえ…)、(いえいえ…)。なんて、そんな感じ。

 シ-トを足に貼り付けてバンドで固定。我ながら慣れたもんだ。スイッチを入れて…と。

 只今目盛りは"2"の位置。目盛りは最大"7"迄あるんだけど、一度"4"にした時、想定外のパワ-にビビっらされた事を覚えていて、目盛りは動かさずそのままにした。あたしにも、一応付いていました学習機能。

 それでは改めまして、スイッチオン。渡されたカ-ドに書いてある治療時間は20分。その時間で酒屋の注文を済ませちゃおうと、スマホを開く。

 ──ん?……あれっ?…おかしい。電気が弱い。久し振りだけど、こんなもんだったかなぁ?腑に落ちない気持ちを抱えながら、更にツマミを回す。"3"……う-ん、まだ…弱い。つ-か変わってないし。歳を重ねた事によって、面【つら】の皮だけじゃなく足の皮も厚くなるんだろうか。ちょっとビクつきながらの"4"。──変化無し。……"5"、これでも全然。え-壊れてんのかなぁ。一応"6"。からの……"7"。いやゝ、そんでも全く。全然変わらない。電気は来てるけど、これぽっちも強くなってない。あたしが左足だけ電気に鈍感なんて特異体質でもない限り、壊れてるとしか思えなかった。

 律ちゃんにでも言うしかないかと諦めたその時、左隣に座っているおばあちゃんの顔が尋常じゃない事に気付かされた。真っ昼間から幽霊でも見ちまったみたいな、言葉にするならそんな感じ。ビックリし過ぎたのか、せり出した目ん玉押して戻してやろうかと思った位。とにもかくにも、ハチャメチャに驚いた顔を左へ向けている。あたしも当然その視線を追った。その先には──

(あう……あう…あぅぁぁぁああ…)

 其処には……肘にシ-トを貼り付けた右腕を、まるで別の生き物のようにのたうち廻らせて尚、真顔の征十郎が座っていた。

 ビタンッビタンッビタンッ──

 治療器の本体とテ-ブルの間で、行ったり来たり何度も打ち付けられる征十郎の右腕。

 ビタンッビタンッビタンッ──

 それでも顔色ひとつ変えない征十郎が余程恐ろしいのだろう、婆さんは今にも口から泡でも吹き出しそうだ。この様子だと、三途の川に膝、いや腰まで浸かってるかもしれない。

 ビタンッビタンッビタンッ──

 三回に一回は、跳ね返った自分の右腕が自分の顔面を殴り付ける征十郎。──なんだ。何者なんだ征十郎。

「あっ!」閃いた!あたしは音速を超える素早さで、目の前にある治療器のスイッチを切る。

 ──ビタン…。

 征十郎の右腕が、もののけじみたその動きを止めた。婆さんは止まったまま。心臓まで止まっていないだろうなと心配して、AEDを探し始めたとこで、婆さんは瞬【まばた】き開始。戻られました。

 ──さてはあのガキ共…やりやがったな。

 今更考えを巡らせてみても、時は遅きに過ぎた。コードの行く先を目で辿ると、案の定あたしの左足に付けられたシ-トの先は征十郎が座る三番に、征十郎の腕から伸びるコ-ドの先は目の前の五番の機械へと繋がっていた。あたしは無言で足に付けたシ-トを外すと、律っちゃんに挨拶もしないで診療所を飛び出した。──な…なんなんだ、この先の大凶何年分かを纏めて先取りしたこの感じ。「祓【はら】え給【たま】い浄め給え、祓え給い浄め給え…」口ずさみながら、あたしは一心不乱に自転車を漕いだのだった。

 結局、…と言うか当然。その後支払いと薬を貰う為にもう一度診療所に行く事になって、律っちゃんの小言を足首を固定して貰いながら聞く羽目になったあたし。頭を下げて家に戻ったらもう四時半。帰り際に持って行く様に言われた松葉杖は、恥ずかしくて断る事にした。靴は履けないけど、サンダルならなんとか履けるし、固定して貰ったから体重掛けなきゃ足も着けるしね。なんだかあ-ゆうのって、怪我が長引くような気がしてさ。そう言えばパパも病院から帰って来ると、自分でギプスとか外してたっけ。

 まあ…そうは言っても素早い動きが出来る訳じゃないし、今日はあんまり混まなきゃいいなぁなんて、商売人失格のモチベ-ションで冷蔵庫を開ける。あれっ…いっけね、玉子が無い。昨日は双葉の誕生日で貸し切りだったから、途中で入る事も殆ど無かったし、加えて今日は月曜日だから大丈夫じゃね、なんて考えて勝手に弛【だ】れてたけど玉子が無いって…あ、なんてこった、よく見りゃキャベツも無い。…しくじった。こんな事なら診療所の帰りにス-パ-寄ってきちゃえば良かったなぁ。しゃ-ない、片足自転車でもうひとっ走り行ってきますか。今ならきむ爺が来る迄には戻ってこられるでしょ。──財布を手に取り、電灯のスイッチに指を掛ける。

 カラ・コロ・カラン──

 振り返ると、引き戸を開けて立つ買い物袋を提げたきむ爺と目が合った。

「あれっ。きむ爺早いね」

「長屋の婆さんがお客さん連れて来るなんて言いやがるから、ちょいとス-パ-寄ったら鰤が安く出てたもんだからねえ」

「お刺身?」

「ちょいと刺身じゃなあ…。煮るか焼くかしてやりゃあ、そこそこ食える様にはなるんだろうけどねえ。7時位には来るような事言ってやがったから、支度の手間考えて早めに来てみたって訳よ」

「あ-そうだったんだ」

 真魚板【まないた】の横に置かれたス-パ-の袋からは、中に入っている玉子とキャベツが透けて見えている。

「あ…そうだったんだ…」

 自分でも何故だか分からないけど、もう一度同じ言葉を口にする。それから胸の中で(ありがと)って。束の間、心地好い音の無いひととき。

 外階段を降りて来る双葉の足音が聴こえてきた。



       ~H31 新年明けまして16日目~

 師走というだけあって、年末から大晦日へと地球の自転速度は上がり続け月日はあっ──ちゅう間に過ぎ、新しい年を迎えると十二月三十日生まれのあたしは芽出度【めでた】く十六歳と成り上がっていた。今年も大人への階段を転がり落ちる事も無く、無事に又一段上【のぼ】れた事を嬉しく思う。去年の十一月から連続していた火事も双葉の誕生日の夜を最後に一件も炎上していないし、新年も成人式を過ぎる頃になると原付免許をゲットしたあたしの頭の中は「どんなバイクを買おうかな♪」の素敵なタイトルで隙間無く埋められていて、日々、スマホの画面に色んなバイクを取っ替え引っ替え引っ張り出してはえへらゝするという奇行を、飽きる事無く繰り返していたのだった。

 ──カラ・コロ・カラン

「見てこれ!ヤバくない!」

 バタバタと慌ただしく入って来るなり息を切らせた優が、左手に握った携帯をあたしの顔面ギリギリまで近付ける。

「ちょっ…、近いし。見えてないから」

 カウンターの中で唐揚げにする鶏肉をたれに漬け込んでモミモミしていたあたしは、目の前に突き付けられた携帯から顔だけを離した。

「…ったく。何事?」

 ちょっと待ってと言った優は、スティッチカラ-のネイルの付いた人差し指で液晶を幾度かタップすると、今度はその携帯をカウンタ-の上に置いた。

 手を止めて携帯を覗き込むと、液晶には夜の街が写し出されていて、バックには動画を撮影しているのであろう人間の息遣いと、車の排気音だけが聞こえている。足音のばらけ方を注意して聞いてみると、なんだか動画を撮っている人間の他にもう一人誰かいるみたいだった。歩いているのは多分だけど二人…かな。足音と同じリズムで揺れていた画面が、一軒の家の前で止まる。ぼそゝと聞こえる話し声の中に「ギィ-ッ」と、鉄の門を開く時特有の軋んだ高音が重なって、画像は家の正面から脇へと回って行く。くごもった話し声は変わらず続いているんだけど、何を喋っているのか迄は…無理、上手く聞き取れない。二三秒の間があって、家の脇に置かれたゴミ箱みたいなプラスティックの入れ物に画面が寄っていく。それまで小刻みに動いていた画面のブレがピタリと止まった。──何処かに携帯を置いたのだと分かる。ゴミ箱の蓋が取られて、画面の右側から伸びた手が箱の中に何か液体を入れている。ジッポオイルの入れ物のようにも見えるけど…、暗くてはっきりとしない。全く躊躇の無い動きで、今度はその箱の中に火の点いた紙屑が落とされた。──止めた息を吐く間も無く炎が揚がる。画面全体が炎に覆われて、映像はそこで止まった。

「…何これ?」

「最初はYouTubeにupされたみたいなんだけど、直ぐに削除されちゃったみたいなのね。で、これは削除される前にどっかの誰かがツイッターに飛ばした画像が拡散されて回ったやつ」

「…うん。そんで?」

「にぶっ。んじゃ第二ヒント。この動画のリンク先に跳ぶと…」

 話しながら液晶をタップする優の呼吸も、ようやく整ってきた。切り替わった画面の中、スクロ-ルしていく夜の街並み。バックには今度も複数の足音と息遣い。足音が止まったのはさっきとは違う家の前。画面はその家の一階の窓をズ-ムアップしていって…。カメラか携帯を何処かに置こうとしているのか、画面の中に指が時々見切れる。──「ガシャンッ」という音と一緒に、その窓にグレ-プフル-ツ位の穴が開く。真っ黒の穴からは蜘蛛の巣みたいな罅【ひび】が拡がっているんだけど、窓の内側はそれでも静かで真っ暗なまま。人が居る感じは無い。画面の右側から又腕が伸びてきて、メガホンのように丸められた先に火の点いた雑誌を、その穴から投げ入れた。真っ暗だった部屋の中が少しずつ明るくなってきて…。画像とあたしがフリ-ズした処で動画が終わった。

「これって…」(放火の)と続けようとした言葉が喉に貼り付いて出ていかない。バイクの事で頭が惚けていたあたしにも、さすがに優の言いたい事が分かった。

「他にもあんの」

「あるよん。後二つ。…見る?」

「う-ん…。今はいいや。スマホに送っといて」

「りょ」

 カウンタ-に座り直すと、指一本で四つの動画全てを送ってくれる。あたしは手を洗うと、ミルクティの入ったグラスを優の前に置いた。

「ん?」

 走って来たみたいだったから、ここは敢えて冷たいのにしてみた。ちょっと攻めてみた冬の日。

「良かったら飲んで」

 あたしの言葉にニンマリとして、優は氷の入ったグラスに口を付けた。それから、そう言えばという感じで「双葉仕事中?」と、座敷に目を向ける。「うん」と頷いて時計を見ると4時30分。店に入るのちょっと早かったかな。

「これで今日はお仕舞いの筈だから、後30分位じゃない」思い出して「お客さんみゆだよ」と付け足すと、カ-テンの向こうから「久し振り~」とみゆの声が聞こえた。

「みゆ先輩こんちはっす」

 ボウルに入った鶏肉をタッパ-に入れ替えて冷蔵庫の中へ。

「でもさあ、これで放火の犯人も捕まんじゃね」と、ネイルした爪でグラスの中の氷をかき混ぜながら、優の軽い調子。

「なんで放火の犯人が捕まんの?」

 考え無しに頭の中をそのまんま口にしたあたしに、(しょうがないなあ)と姉さんぶった感を全面におしだして優が続ける。

「だってさぁ、ほら、あのス-パ-の食材に楊枝刺してイタズラした奴とか、走ってる車のボンネットの上に乗ってる動画とか、法律に違反するような動画をupした奴等は警察も探すから、今までだって捕まってんじゃん」

 その位常識だろって感じで、横目であたしを見たままグラスを持ち上げ、氷を口に含む。──なんかこいつ、ちょっとカッコつけてんな。…でも、動画が四本に火事も四件。太一が話してくれた通り、やっぱり放火だったんだ。

「なるほどね」

 いわれてみれば、ネットニュ-スでちょっと前にそんなのを見た気もするし。四件目の火事があったあの夜、炎の揚がる直前に堤防の上で打つかった二人組が何となく気にはなっていたんだけど、放火の犯人が捕まるって優の口から聞いたら、なんだかほっとした。…あの夜から1ヶ月とちょっと。左足の固定も取れて今では湿布だけだし、なんだか胸の中も左足もちょっと軽くなった気までしてくる単純なあたし。

 ──「氷うまっ!」

 つけまバッチリの目をこれ以上無いほど見開く優。今日のカラコンはブル-。この人は一体何を基準にして毎日のカラコンの色を決めてんだろ。

「氷の溶けたミルクティって飲む時上の水だけくるからさ、濃いめのミルクティで氷作ってみたんだけど。

「い-じゃんこれ。店で出すやつ?」

「面倒くさいし、夜は頼む人居ないっしょ」

「それな」と返して、又ニンマリする。優はこう見えてって言い方も失礼だけど、SEの仕事をしていて、あたし達の周りでは唯一のIT系女子。仕事はほぼゝ在宅で、会社に顔を出すのは月に1度か2度の筈だ。小さい頃からパソコンで遊ぶのが好きだっただけだから、なんて優は言ってるけど、顔に似合わずって…あ、これも失礼だけど、地頭がいいんだろうなっていうのが、あたしと双葉の共通の見解。自分の家の事はあんまり話さないけど、双葉からはお父さんもお母さんも働いていて、二人共滅多に家に帰って来ないって話を聞いた事がある。優は隣の小学校で、双葉とつるむようになったのは中学に入ってからだから、当然あたしとの付き合いもそっからで、まだ三年位のもんだけど、卒業してからこっち、2日と置かず殆ど一緒に居るおかげで、最近じゃ家族の一員のような気さえしている。飾らなくて気取らない優が、あたしは結構好き…なのかも知れない。

 優が二つ目の氷をガリガリ噛んでいると、仕切りのカ-テンが開いてみゆが座敷を降りて来た。

「ちゃっす」

「ハッセナバシ~、優」

 舌ったらずで甘える様な話し方をするけど、みゆは双葉と優のひとつ上で一樹と同い年の中学からの先輩。イラン人のお父さんと日本人のお母さんを持つMix【ハ-フ】で、さっきの「ハッセナバシ~」はペルシャ語で「お疲れ様」って意味だとか…言ってた気がする。…確か。…いや、多分。彫りの深い顔立ちで、街を歩いているとよく英語で話し掛けられたりするらしいんだけど、れっきとした日本生まれの日本人。今はパブスナックで日々真面目に働く現役のキャバ嬢なのだ。あ、キャバクラじゃないからキャバ嬢とは言わないのかな?そこら辺良く分かんないけど。

「はなみ~何かちょうだい。喉渇いた~」

 優の隣に座ったみゆの前に、ジャスミン茶にミントの葉を1枚浮かべて置く。

「ありがと~」と、一息で半分ほどグラスを空けるみゆ。今はシャワ-でも浴びるのか、裏口から出て行こうとする双葉を目で追いながら顔を振ると、鍋が吹き零れているのに気が付いた。慌てて火を消し、用意しておいた笊の中にじゃが芋を空け、湯上がりで盛大に蒸気を揚げほっと一息ついてる処を委細構わず皮を剥いていく。ツルツルお肌に生まれ変わったじゃが芋達を、今度はピカピカに磨かれたボウルの中から此方を見返す自分の顔の上に置いていく。今日の突きだしはポテトサラダと山葵風味の柿の種。湯気の揚がるじゃが芋を見ているとバタ-付けて齧り付きたくなるのってあたしだけかな?先天的にDNAに組み込まれているんだろうか。一度もそんな食べ方した事も無いのに不思議だ。

「い~な~、優は自由で~」

 カウンタ-に背を向けているあたしの後ろから、みゆのハスキ-な声が伝わる。

「それがぁ、っぽく見えるだけで、実際そうでもないんですって」

「だって~、遅刻とか無いし~時間に縛られないじゃ~ん」

「まぁ、そう言っちゃそうなんですけど…って、みゆ先輩、今日は出勤ですよね」

「うん。昨日は休みだったんだけど~、今日は9時から~」

 ダルッと呟いてカウンタ-に顔を伏せると、そのままの姿勢で「あたしにもさっきの動画送って~」と優におねだりしている。

「いいですよ。あれ?…じゃあ今日は店出てもお酒飲まない方がいいんじゃないですか」そうやって喋りながらも、優は片手で携帯をタップ。刺青を入れた当日のお酒云々は、この前双葉に言われたのを覚えていたに違いない。

「そう。だから~、ホントは昨日来たかったんだけど~ママとディズニ-ランド行ってたから~」

「お母さんとディズニ-ランドって、どんだけ仲良いんですか」

 みゆのお母さん、千枝ちゃんはディズニ-好きが高じて、お店の名前も"魔法の絨毯"にしてしまった程。察しの通りみゆの働くパブスナック"魔法の絨毯"はみゆのお母さんがオ-ナ-。みゆからしたらママで"ママ"って訳。

「そう言えば優、塚本って知ってる~?」

「塚本って…、どこの塚本ですか?」

「南中~。あたし達が三年の時とか~、うちの学校の周り単車で何回か走りに来た事もあって~、一樹とよく喧嘩したりしてたんだけどな~」

「あぁ-、塚本って名前は知らなかったけど、その件なら知ってますよ。バイクに乗ってるとこ一樹先輩にラリアットされて、のびちゃった奴ですよね」

「そう!そいつ~。あたしラリアットされて一回転すんの初めてみたもん」そう言ってみゆが笑うと、優も大笑いして続く。

「一樹先輩プロレス好きですもんね」

「そうそう一樹も~、思いっきりプロレス出来て喜んでたんじゃない。いつも塚本が帰る時は~、又遊びに来いよ~とか言ってたもん」

「ハハッ。そんでそのラリアットがどうかしたんですか?」

「最近よく五六人で飲みに来ててさ~。なんかお金持ってそうだったから~、何の仕事してんのかな~と思って、優って南小学校じゃなかった~?」

「あ、そうですよ。南小ですけど、一コ上で塚本…?覚えてないなぁ…」

「いや別にいいんだけど~。あいつら酔っぱらうと酒飲ませようとしてしつこいんだよね~」

「あんましつこかったら、ロ-プに飛ばしてラリアットじゃないっすか」

「やってやりたいけど~、店にロ-プ張ったらママ怒んないかな~」とみゆが言って、二人が又笑う。

 潰したじゃが芋に塩とマヨネ-ズで味付けして、軽く黒胡椒を挽く。隠し味にフレンチドレッシングを少々。

 外階段を降りて来る足音が聞こえて、双葉が戻って来た。店に入って来ると、缶ビ-ルを片手にカウンタ-じゃなく小上がりに腰を下ろす。

「双葉~。次は今月末の木曜日なんだけど~、大丈夫~?」

「時間だけメ-ルで送っといてくれれば」

 双葉の言葉が途切れるタイミングに合わせたみたいに、空気が震える程の派手な単車の音が近付いて来て、店の前でピタリと止まった。

「来たんじゃないっすか」今度は優のその言葉が終わると同時に引き戸の鐘が鳴って、みゆママの御登場。「おはよ!」

「おはようございます」と、あたし達三人の声が揃う。

 じゃあね~と、カウンタ-の上に小銭を並べて、みゆが椅子を降りた。

「一樹にたまには飲みにおいでって言っといて」早口で手を振り、重ねて「ショ-ト似合ってんじゃん」と双葉に微笑みかけ、みゆママが出て行く。引き戸の向こうで、みゆの「余計な事言わないでよ~」って、ちょっと怒ったような声がした。みゆママが何か言い返したみたいだったけど、直ぐに雷様が怒ったみたいな凄まじい爆音が重なって聞き取れなかった。あ、ひとつだけ忘れちゃならない内緒の話。みゆママに"千枝ちゃん"って名前呼びは禁止。何がお気に召さないのか、それこそ雷様が逃げ出す勢いで怒り出すんだから。

 ──カラ・コロ・カラン

「べらぼうな音だったねえ。みゆちゃん達かい」

 入れ違いにニコニコときむ爺が入って来る。「仲良いよなぁ」と呟いた優の声は、何の色付けも無く素直で、羨ましそうな響きを少しも隠していない。

「誰かと思えば優ちゃん。こんにちは」

「こんちは」

 じゃあ…あたしも帰ろうっと、誰にとも無く言って、優が椅子を降り、座敷でテ-ブルの位置を直していた双葉の「送っていこうか」という声を、振り返らず「大丈夫」と打ち返した。引き戸を開けたところです一旦振り返ると、きむ爺に全力の変顔を噛まして、ウィンクを置き土産に帰って行く。

 その後、一樹に見せるのは犯人が捕まってからにしようと言う双葉の意見で、動画の件は一樹に内緒にする事にした。「仕事放り出して犯人探しとか言い出したら面倒だからね」と付け加えた双葉の説明には、あたしも激しく同意だったから。



          ~指輪と双葉の言葉~

 残念だけど優の予想は外れて、1月最後の1日になっても放火の犯人が捕まったという報せがあたし達の耳に届く事は無かった。

 ──1月31日。木曜日の黄昏【たそがれ】時。お天気キャスターは夜には雪になると予言していて、朝からずっと、ぱっとしない薄曇りの空。

 双葉の仕事場で二時間背中を傷つけ、血を流す痛みに耐えて、みゆがカウンタ-に座る。片付けでもしてんのか、双葉はまだカ-テンの向こうから出て来ない。

「はなみ~。この前とおんなじのちょうだいよ~」

「はいよ」と、みゆの前にミントを浮かべたグラスを置いて、お絞りも添えた。軽く指先でそのお絞りを撫でると、今日もグラスを一息で半分ほど空ける。「双葉にもさっき話したんだけど…」と前置きしてみゆが話し出したのは、上手く拭き取れない角の汚れみたいに頭の隅っこに残っていたあの件についてだった。

「あれからね~、優に送って貰った動画見たんだけどさ~」

 みゆの店"魔法の絨毯"でも、あの火事の事はお客さんと店の女の子の間で共通の話題になっていたから、四件目の火事から二ヶ月が経つこの頃はそうでも無くなったとは言え、少し前迄は取り敢えずと言った感じで、どの席でもビ-ルより先にテ-ブルに並べられていたと言う話だった。

「それでね~、あんまりはっきりしないんだけど~」言葉とは裏腹に得意顔のみゆが、あたしに向けてスマホを置く。

 カウンタ-の上に置かれたキラッキランのカバ-の付いたスマホからは、足音と息遣いが流れて来る。グラスを磨く手を止めて、液晶を覗き込んだ。瞬間、「ガシャンッ!」という音に、思わず持っていたグラスを離しそうになる。危なっ。優の携帯で見たのと同じやつ。動画はガラスに開けられた穴の中に、火の付いた雑誌が投げ入れられる処。其処でみゆの指が液晶をタップして画面が止まった。

「ほら、ここ~」

「はぁ?」

 この動画は優にも見せて貰ったし、なんなら他の三つと合わせて全部通しで三回は見ていたあたしは、知ってる感全開、そして今更それがどうしたの?感満載の「はぁ?」からの、「だから何?」と続ける。

「これ~」

 目を細めて、ラスタカラ-に染められたみゆのネイルが指す先を睨む。…あれっ?よ-く見るとみゆの爪の先、雑誌を握った右手の薬指に銀色の指輪が見えた。

「…あ」

「でしょ~」と、勝ち誇ったみゆの声。

 でね…、と言いながら、今度は二本の指で画面をスワイプ。液晶の中で、薬指に填【は】められた指輪が拡大される。

「指輪でしょ」とあたし。

 後ろでドアの閉まる音がして、双葉が階段を上がって行った。

「指輪は指輪なんだけどさ~、これって髑髏【どくろ】に見えない?」

 言われて、スマホを手に取る。目を凝らして見てみたものの、どうだろう?髑髏と言えば髑髏に見えなくも無いし、違うと言われれば違う気もする。だって、画像は荒いわ小さいわ、おまけに暗いときたら、もうはっきりしない。どちらとも言い切れずに、スマホをカウンタ-の元の位置に戻す。

「う-ん。でも、これが髑髏だとしたら何かあんの?」

 そこからのみゆの話はこんな感じ。

 ──こないだの話に出てきた、みゆの店に来る一樹とタメの塚本達のグル-プの中に、右手に髑髏の指輪をしている奴が居て、あたしは知らなかったんだけど、そいつの填【は】めてる髑髏の指輪"ラ・エスケレト"は、シルバ-アクセサリ-のブランドの中では、若い子の間で今一等人気があるんだって。しかも指輪ひとつが安い物で七八万、ネックレス、ブレスレット、ピアス、バックル高い物なら百万を超える物もざらにあって、誰でもお手軽に…って感じの物じゃないらしい。なのに、十八歳そこゝの塚本のグル-プの連中は、まるでそれが仲間の印みたいに、ひとりゝが何かしらその"ラ・エスケレト"のアイテムを身に付けているらしいんだ。若いのに金持ってるよねぇ。で、みゆはこの辺りの下町じゃそんな洒落た物身に付けてる奴なんて滅多に居やしない筈だから、この動画に映っているのはそいつなんじゃないかって疑ってるって訳。

 ──カラ・コロ・カラン

「わおっ、ハッセナバシみゆ先輩」

「ハァ~イ優。ハッセナバシ~」

 真っ白のPコ-トの優が、手袋を外しながらみゆの隣に腰を下ろす。それから「何見てんの?」と、カウンタ-に置かれたままの携帯を覗き込むと、今度は帽子を脱ぎながら、自分の携帯を弄り出す。あたしのエプロンのポケットとカウンタ-の上、二台のスマホが同時に震えた。

「その放火事件の新しい情報。二日前にネットの掲示板で見付けたんだ。二人の携帯に今送ったのがそうだから、見てみれば」

「え-、あたしまだやる事あるから、口で説明してくんない?」言葉にしたのはそこまでで、(面倒臭いし)の部分は口から出さずに飲み込んでおく。

「いいけど、なんか温かいのちょ-だい。…双葉は?」

「二階。シャワ-じゃない」

「あ-ね」

 カップの中、気持ち多目の粉末にゆっくりとお湯を注ぐ。湯気のの中にいい薫りを立てているココアの上にフレッシュクリ-ムを浮かべたら受け皿に載せ、スプ-ンを添えて出来上がり。

 小さめの角砂糖をひとつだけ落とした優が、右手にスプ-ン、左手に携帯を持った格好で話し始めた。

「掲示板に上がった書き込みだとね、警察のサイバ-パトロ-ルもあの動画の事は当然調べたみたいで、都内にある大学の中のパソコンからupされたとこ迄は直ぐに判ったみたい。でも実際に動画がupされたその日、その大学は学園祭の真っ最中で、一般の人達だけでも七百人以上の来場者が有ったんだって。それに生徒の数を足した千五百人。問題のパソコンはその中の誰でも触れる場所に置いてあったから、使用者…え-と、直接upしたUSER【ユ-ザ-】って事だけど、そいつには辿り着けなかったみたい。メディアがニュ-スとして流さないのも、警察の捜査にその辺の事情が関係してるからじゃないかって…」

 そこまで一気に話して、携帯から顔を上げる。うおぃっ、今気が付いた。今日のカラコンはグリ-ン。濃い緑色の瞳って、逆に人間らしさは薄くなるのね。新しい発見。

「え~。じゃ~さぁ~、犯人は大学生かも?ってこと~?」

「ん-、その可能性も在るっちゃぁ在るんでしょうけど、一般の人もパソコンには触れる状態に在ったみたいだし、そうとは限んないんじゃないですかね。もっと言っちゃうと、upした奴が犯人じゃ無い可能性だってあるんだろうし」

「そっか~」

「でもみゆ先輩。そんなに興味あるんですか?」

 聞かれたみゆは、さっきあたしに説明した髑髏の話をもう一度最初から話す事になった。

 ──ひと通り話を聞き終わると、優は来週迄にパソコンで画像をもう少しクリアにしてから引き伸ばして、ディスクに起こして来るとみゆに約束したのだった。

「ごめんね~優。なんか気になるんだよね~」

「全然、全然。言うほど手間掛かんないと思うし…。まっ、楽勝だと思うんで」

 裏口が開けられて、戻って来た双葉がカウンタ-の上、二人の間に一冊の本を置く。

「何これ~」と手を伸ばすみゆ。

「ラ・エスケレトのカタログ」

 パラパラとペ-ジを捲る手が止まって、カタログに顔を近付けたみゆが大声を出した。

「ウッソ~!あの指輪128000円もすんの~!」

 カウンタ-に投げ出されたカタログの中で、歯にダイヤを光らせた髑髏があたしを見詰めているのに気付く。目が合ったあたしのこめかみの辺りがドクンッと大きく脈を打った。

「へ-これっすか。でもそいつら何の仕事してんですかね。金持ってるよなぁ。…もしかしてボンボンだったりして」少し声を落として「いい男居ます?」と優が続ける。

「あれっ?どうしたの~はなみ~?」

「えっ…」

「えって~、どうしたの~?ぼ~っとして~」

 みゆの声で正気に戻ったあたしは、無理に髑髏から視線を剥がす。一瞬、足元が覚束なくなって、双葉にビ-ルを出すのを言い訳にしてカウンタ-に背を向けると、冷蔵庫のドアに掛けた手で躰を支えた。

 ──カラ・コロ・カラン

「おっ。お嬢さん方、お揃いだねえ」

 何時もと変わらずニコニコしたきむ爺の登場にコロッと空気が変わって、この話の終わりを告げるみたいに、双葉がカウンタ-の隅にカタログを片付ける。優も「じゃあ、来週の木曜日」とみゆに念を押して、携帯を置いた。

 ──カラ・コロ・カラン

「三人なんだけど空いてる?」

「いらっしゃいませ-」

 言っちゃってから時計を見ると、まだ6時20分。どうしようか迷って「お店は7時から…」といい掛けた処で、「今日は特別。座敷でいいですか」と、双葉が後を引き取った。

「悪いね」と言いながら、作業着姿のおじさん達が悪びれた様子を微塵も見せずに入って来る。飲み物を運んで行った双葉がそのまま話し込んでいる間に、みゆと優は帰って行った。きむ爺が「悪いと思うなら他行きゃいいじゃねえか」と言いながら、前垂【まえだ】れを締める。

 大して混む訳でも無く、かと言って客足が途絶えるでも無く、11時半過ぎ、ひとりで呑んでたおじ様が腰を上げた処で本日は店仕舞い。きむ爺を店の外まで送ってカウンタ-に戻ると、双葉が持ってきたカタログを手に取る。──昼間みゆと優が居た時は、一瞬で足を怪我したあの日の事がフラッシュバックして、鼓動が早くなった。堤防の階段を上がって来る足音。「邪魔だ!」と怒鳴った声。足に感じた痛み。きむ爺の横を擦り抜けて行く後ろ姿。炎が生み出す熱を持った朱い光。次から次へと頭に浮かんで…。一度思い出した事で色付けし直したみたいに鮮明になったあの日の記憶を、頭の真ん中から端に寄せる為、二度三度と頭を振る。──4ペ-ジ、6ペ-ジ予感を持って手繰った8ペ-ジ。

 あの時見たウォレットチェ-ンに並んだ髑髏達が、が剥き出しにした歯を光らせていた。

 何故だか、驚きよりも残念な気持ちの方が強かった。もしかしたら、載って無い方が驚きが大きかったのかも知れない。

 ──「趣味わるっ…」

 止まりました…心臓。

 二階から降りて来ていた双葉が後ろに立つまで、全く気が付かなかった。

 …二秒…三秒…四秒。心臓が再び動き出すのを待って、恐るゝ声を出してみる。

「一樹はもう寝たの?」

「寝たんじゃない。なんで?」と答えて、双葉はカウンタ-の上から灰皿をひとつ手元に寄せた。あたしはあの誕生日の夜、きむ爺と堤防を歩いていた時に打つかった二人組に付いて話す事にしたんだ。

 あたしが話し終わる迄、一言も口を挟む無く聞いていた双葉が最初に口にしたのは…「で」、だった。皆さんご存知、"だぢづでど"の、"で"。これが"だ"とか、"ぢ"、"づ"なら、こっちだって「は?」とか「え?」とか返せるんだけど、「で」って言われちゃうと咄嗟に返す言葉が見付からない。

「…いや、だから…あれが…その…」

 口の中で動き回る出来損ないの単語達は、唇から外に出て行く事を躊躇【ためら】って縺【もつ】れ合う。溜め息の替わりに煙草の煙を吐き出して、双葉があたしを見詰めてる。あまりの眼力の強さに躰の自由を奪われ、もう声を出す事も出来ないあたし。

「先【ま】ず、はなみが見た二人組が放火に関係あるかどうか分かんないし、顔も見てないんじゃ、もし関係が有ったとしても誰かに…例えばだけど、警察とかに話を持って行く事だって出来ないだろ」

 ここ迄は分かる?と言う様に一旦言葉を止め一度目を瞑【つぶ】ると、もう一度あたしの目を見詰め直す。あたしはと言えば、"理解してます"という気持ちが精一杯伝わるように、二度、三度と、頷く事に全力を傾けた。

「それとさ…、あんたはみゆの店に来る連中の中に、そのウォレットチェ-ンを付けた奴が居るんじゃないかって思ってるみたいだけど、もし居たとしても、それだけじゃ放火に関わってる事にはならないし、今の時点じゃみゆが勝手に疑ってるだけで、その指輪してる奴が動画に映ってる本人かどうかだってまだ分かんないだからね」

 確かにそう。双葉の言ってる事は順序立っていて、夏から春への理解出来ない話じゃない。

 でも…と言い掛けたあたしの頭に、双葉がぽんと触れる。「ビンゴっぽいけどね」と今度は、吸い込まれそうな笑顔。それから新しい煙草を咥えて真顔に戻ると、「でもまだ、はっきりした事が判る迄は誰にも話さない方がいいね」と言って、「特に一樹にはね」と付け加えた言葉は、少しだけその声を強めた。

「まあ、後は優が持って来るディスクを見てからだね」

 言い置いて立ち上がった双葉は、カウンタ-の中に入って行くと冷蔵庫から缶ビ-ルを出してあたしの前に置く。久し振りに飲んだビ-ル、苦いけど躰に染みるように消えていった。その味に自分が緊張していた事に気付かされる。

「…うまっ」

「はなみ」

「…何?」

「それよりもね、あんたが考えなきゃいけないのは、もし今頭ん中に在る事が全部そのまんまだった時、はなみ自身がどうすんのかって事なんだよ」

 電気の消えたカウンタ-の中で、双葉がどんな顔をして話しているのかは見えない。

 その夜は、いつの間にか降りだした雪も気を遣ってか、音も無く街を染めていた。



       ~H31.2.7 はなみの決心~

 一週間後の木曜日。

 時計の針はおやつの時間だと告げる、三時丁度。暖冬だとは言ってるけど、昼間この時間になっても気温は10℃に届いていない。壁一枚、15センチ程向こう側の外界では、春の訪れを少しでも遅らせたい北風が騒がしく抵抗を続けている。

 一方、壁の此方【こちら】側では、昆布茶の入った湯呑みのの温もりを手の内にした、あたしと双葉とみゆの三人と寒そうな顔ひとつ見せない無表情なテレビが、優の来訪を今や遅しと待っていた。あたしの隣に座っているみゆは、数分前から自身作詞作曲の"もしもおこたとみかんがあったなら"と題された新曲を歌い続けている。

 一週間の間、何度も見返した動画。特に四番目の動画には物置の中の新聞紙にライタ-で火を点ける処までが残されていて、翌々日の新聞の記事にも四件目の火事は物置の中が火元で、そこに置いてあった灯油の入ったポリタンクに引火後、家に隣接した物置の屋根を吹き飛ばすと、その勢いで一軒家を半焼させた模様と書いてあった。

 記事を読んでからもう一度動画を見直すと、確かに物置の中に積まれた新聞紙の奥に赤いポリタンクが見える。あたしの少しばかり足りない頭で考えてみても、新聞紙からポリタンクに火が引火する間にあの堤防まで走って来るのは、それ程無理が無い事のように思えた。あの夜、あのタイミングであたしが聞いた『ボオォンッ!!!』という轟音も、ポリタンクに引火して物置の屋根が吹っ飛んだ時の音だとすれば、記事との辻褄も合って矛盾の無い考えのような気もする。

 ──カラ・コロ・カラン

「ごめんね、遅れちった」

 丁度みゆが「どうせなら猫も一匹居て欲しい-♪」とサビ?に掛かったタイミングの午後3時4分。

「Out【アウト】-」

 時間に厳しいのか、いい処で歌を邪魔されたからか、優に向かってみゆが親指を立てた。ネイルの先にはチョコレートの飾りが揺れている。そうかもうすぐバレンタインだもんな。

「すんまそん」

 今日の優は眉毛を描いてるだけで、カラコン無しの黒縁眼鏡という出で立ち。

「どうだった?」

 あたしが腰を上げるのと同時に双葉が声を掛けた。「う-ん…」と、話し始めた優の声を背に受けてコンロにケトルを掛けると、「ミルクティがいい」とのリクエスト。仰せの通りにお盆に載せたミルクティを座敷に運んだ頃には、さっき迄真っ暗だったテレビの画面一に例の指輪のアップが映し出されていた。40インチのテレビ画面一杯に映る、歯にダイヤを輝かせたシルバ-の髑髏。それは間違いようも無く、"ラ・エスケレト"のカタログに在った、あの指輪だった。

「え-とね、元の動画を撮った携帯が、たぶんだけど画素数が600万から800万だから引き伸ばしてもあんまり良く分かんなくてね。警察とかも使うような画像解析ソフトとか引っ張ってきたりしてたら、思ってたより手間喰っちやって…」

 何喋ってんだかさっぱりだけど、取り敢えず「お疲れ様」を添えて、ミルクティを渡す。画面から双葉に視線を移すと、お宝見付けた感を振り撒く優とみゆとは対称的に、その目には暗い翳【かげ】が差していた。

「みゆ…」カタログを捲りながら、あたしは思い切って口を開く。

「な~に~?」

「こないだ話してたやつらの中にさ、このウォレットチェ-ン着けてる奴居ない?」

 開いたカタログを優からみゆへと回して貰う。受け取ったみゆが軽い調子で口にしたのは、この季節に合わせた体温を二三度下げるお寒い台詞だった。

「あ~これね。て言うか~、これぶらさげてんのが~塚本だよ~」

「うっわっ、三十万!エグッ!」

 カタログを横から覗き込んだ優のテンション高めの声と相反して、双葉の醸す空気は益々暗く沈んで行く。

「でも~、なんではなみが塚本知ってんの~?」

 なんにも喋らない双葉が気にはなったけど、あたしはあの火事のあった夜の出来事を二人に話す事にした。と言うよりも、みゆがそう答えたら話そうと決めていたんだ。

 ──あたしの話を最後まで聞いた後、最初に口を開いたのは優だった。

「え、じゃあそのラリアットが放火の犯人って事?」

「ガチでダメダメじゃんね~。て言うか、ラリアットはやめてよ優~、思い出したら笑っちゃうし~」

 他にも何で放火なんかすんの?とか、なんですぐ削除するよな動画UPしたんだろ?とか、色々疑問はあったんだけど、最後に優の口から出たのは双葉と同じ意味を持つ言葉、「でさぁ、はなみはどうしたいの?」だった。

 あたしは先週の夜の双葉の問い掛けにも答える心算【つもり】で、この一週間自分の頭だけで考えた答えを口にしたんだ。途中で紙に書いとけばよかったなって、ちょっとだけ後悔したけど…。

「双葉にも言われたけど、今の段階じゃ警察に話しても相手にされないと思うんだ。実際顔もちゃんと見てない訳だし、あの時ぶつかったのがもし塚本っていう人だったとしても、放火に関わってる証拠になんてなんないし、動画に映ってるのがそのグル-プの人だっていうのも今の時点じゃあたし達が勝手に言ってるだけだから…。それにね、そもゝあたしは警察の手伝いがしたい訳じゃ無いの…」

 そこまで話して双葉に目を遣ると、まだ暗い目をしたまま煙草を咥えていた。

「そう言ったらさ~その通りだけど…、ねぇ~」

 みゆが水を向けると、優はそれを避けなかった。

「そうだよ。もうそんなの、ほぼゝラリアット野郎…ツカモットだっけ?そいつとその仲間達で間違い無いじゃん。だって怪し過ぎるでしょ」

 ラリアットって言う時なんだか嬉しそうだし、塚本がラリアットに引っ張られて、ツカモットになってんだけど。

「だからこれは、みゆにお願いなんだけど、今度その塚本って人が店に来たら…て言うか店に来る日が分かったらあたしに教えて欲しいんだ」

「そんなの簡単だけど~、それでどうすんの~?」

「会って本人に聞いてみる」

『はあ!?』優とみゆ、二人のデュオ。止まらないのは優。

「はなみ、そりゃ無茶だよ。そんなの、はいそうです、わたすが放火の犯人ですなんて言う訳無いじゃん」

 みゆが横で深く頷いた。

「それでも、ホントの事言ってるか、嘘ついてるのか位はあたしにも分かると思うから」

 これには、二人共が無言で答えた。窓の外に向け視線を外したみゆが、言葉には何の気持ちも載せずに口を開く。

「でも、そんでさ~、塚本達が放火の犯人だったとして~、それが判ったらはなみ、あんたどうすんの~」

「…放火なんて二度としないように頼もうと思ってる。…そんで、約束もして貰う。こ先も止めてくれないなら、判ってる事全部警察に話しますって言って」

「無理だ…」

 そこで初めて、今まで黙っていた双葉がやっと聞こえる位の小さな声で呟いた。

「はなみ。そんなの…そいつらがもしやってたら絶対に認める筈ないし、放火なんかするような男が、あんたの言う事なんか真面【まとも】に聞く訳無い。大体そんな奴等に関わったって良いことなんかある筈無いんだし、逆恨みされてお仕舞いだよ。そんな事するのに、何の意味も無いだろ。正義の味方も立派かも知れないけど、あんたにもしもの事が有ったら、その時悲しい思いをすんのはあんたじゃなくて、周りの人間の方なんだ」

 指に挟んだ煙草の先を見詰めながら、淡々と静かな口調で言い切る。

 三人共黙っていたけど、あたしが黙っていたのは、双葉があたしの事を心配してくれているのが伝わって来て、その事が嬉しくてちょっとだけ恥ずかしかったからなのと、双葉の胸の中に残るパパが置いて行った傷が、未だ完治していないのが厭って言う程分かって、あたしのしようとしてる事が結果として、もしかしたらその傷を深くしてしまう事もあると気付いたからだった。

 優もみゆも何も言わない。

 音が消えた部屋の中で、空気を読まない煙草の煙だけが自由に動き廻っている。

 あたしは顔を上げて、真っ直ぐに双葉を見た。

「でも…」と、あたしが話し始めても、まだ双葉の視線は手元の煙草から動かない。

 ──言わなきゃ。…ここで、

「でも…怪我した人は確かに居なかったみたいだけど、家とか…大事な物が燃えちゃって悲しい想いをした人がそこに居て…。もし…もしその犯人がどんな奴か知ってるのがあたししか居なくて…、そういう事全部を見て見ぬ振りをするような──」

 双葉が灰皿で煙草を消す。

「見て見ぬ振りをするような野暮な真似、あたしには出来ないから」

 双葉の視線がゆっくりとあたしに向けられた。怒られたら、即謝る準備は出来ている。よし来い。一、二、三……一秒一秒が長っ、誰か-!

「…しょうがないねえ」

 何時の間にやら目を瞑っていたあたしが最初に見たのは、何時もと変わらないあの吸い込まれそうな双葉の笑顔だった。見れば、みゆと優も笑ってる。

 ガラリと密度の変わった空気の中、そこからは、「そうなりゃさ…」と話し始めた双葉の説明に三人で聞き入った。さっき迄はあんなに温度が低かったのに、まるでこうなる事が判っていたみたいに、双葉の説明には呆れる位無駄が無い。それゞが自分に振られた役割を確認すると、次に塚本達がみゆの店に来る日が判ったタイミングで、みゆからみんなにメ-ルを回すという事で双葉の説明は終わった。

「一樹にはどうすんの?」と、一応聞いてみる。

「内緒。…今ん所はって話だけど。塚本達の…出方次第ってとこかな。どうせ今話したって、塚本とその仲間何人か殴ってお仕舞いってとこでしょ。殴られたからって放火したかどうか認めるかなんて分かんないし、下手したら一樹の方が傷害とかで捕まる可能性だって考えられる。第一、この件に関係してる連中がその時都合良くみんな一緒に居るかも分かんないしね」

 あたし達三人がシンクロして頷く。極めて御尤【ごもっと】もな意見であった。

 その後もあたし達は一時間程悪巧みを続け、あれやこれやと細かな事まで話し合った。みゆの御飯の誘いに、優と双葉が出て行ったのは、そろゝ五時になろうかという頃で、あたしは時計の針に追いたてられるようにカウンタ-に入る事になった。──やっば。

惡ガキノ蕾 (い) ~火事と喧嘩は江戸の華篇~ (い)の2に続く。

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