婚約破棄をお願いしまして
「ミランダ! もう、体は大丈夫なの!?」
家に戻った私を母が迎えた。リビングで暖をとっていた私の体を触り、無事を確認する。
「心配かけて、ごめんなさい。私は大丈夫です。それより、お父様は?」
「あなたのことでバルテルミー伯爵の屋敷に出かけていて、まだ帰っていないの」
「バルテルミー伯爵……私がいない間になにかありました? 婚約の話とか」
「それは大丈夫よ。バルテルミー伯爵は婚約者はあなた以外に考えられない、とずっと待っていてくださったの。これで、みなさんにお披露目できるわね」
お母様は私が婚約破棄されていないか心配したと思ったらしい。でも、私は婚約破棄してもらったほうが良かった。
沈む私にお母様が優しく声をかける。
「今日はもう疲れたでしょう? 自分の部屋でお休みなさい」
そこに激しくドアが開いた。
「ミランダ! ミランダが帰ったというのは、本当か!?」
「まあ、あなた。おかえりなさい。ミランダはここよ」
「あぁ、ミランダ! 無事で良かった!」
お父様のあまりの慌てぶりに私は首をかしげた。
「なにかありました?」
「おまえが療養している屋敷にジスラン様が行ったらしいのだが、相当ひどい扱いをされたそうでな。あんな場所におまえを置いておくのは危険だと言われたのだ」
「それは誤解です!」
否定する私の肩にお父様が手を置く。
「とにかくおまえが帰ってきて良かった。あのままだと、おまえを救出するために警備兵が出るところだった」
「救出? 警備兵? どういうことです?」
「あぁ。ジスラン様が早くミランダと結婚をしたいと言われてな。今回のことで、かなり心配されたみたいだ」
(そういえば、なぜジスラン様はあそこまで私に会おうと? 浮気相手に私のことを酷く言っていたのに……)
思い出したくない記憶。でも、それから逃げるわけにはいかない。
私はグッと奥歯を噛んだ。
「あの、お父様。そのことで、お話が……」
「話は後だ。おまえは休んでいなさい。さあ、これから忙しくなるぞ。まずは、婚約お披露目の招待状と結婚式の準備を……」
お父様が執事を呼んで話を進めていく。蚊帳の外にされた私は思わず叫んでいた。
「お父様! 聞いてください!」
私も聞いたことがないほどの大声。お父様やお母様、屋敷の使用人たちまで驚きで動きを止めた。
私は一斉に集まった視線に怯えながらも、必死に訴えた。
「ど、どうしても、今、聞いていただきたい話があります」
お父様と執事が顔を見合わせる。そこにお母様が私の側に来た。
「ミランダがここまで言うのは、とても珍しいことですわ。お話を聞いてあげましょう」
「お母様……」
「あまり時間がないからな。少しだけだぞ」
私はお父様とお母様を前にしてリビングのソファーに腰をおろした。
「お父様、お願いがあります」
「……珍しいな。なんだ?」
「ジスラン様との婚約を白紙にしていただけませんか?」
「はっ!?」「なっ!?」
お父様とお母様が同時に声をあげる。私は深呼吸をして、オンル様と考えていた設定を話した。
「私は記憶喪失で療養していた間、体調が良い時は何度か散歩していました。その時、公園でジスラン様が浮気しているところを目撃しました」
「そ、それは見間違いとかではないの?」
驚くお母様に私は首をふった。
「残念ながら……その時、私のことは家の関係で無理やり婚約した、そうでなければ地味な私と婚約などしない、とハッキリ言われ、相手の女性に指輪を贈られました。私は……私は、ジスラン様から手紙以外をいただいたこともありません……花の一つでさえも……」
話していて、とても惨めになる。でも、ちゃんと全部言わないと。
私はギュッと唇の端を噛み、涙をこらえた。
「あと、数人ほどの女性にも、この婚約は建前で心は君のもの、と言われ……それに、メイドにも手を出されていると、ジスラン様の屋敷の使用人が話していました」
「まぁっ!?」
心底驚いたような声をあげたお母様がお父様を見る。私は震える声を必死におさえて訴えた。
「そんなジスラン様と結婚など考えられません。お願いします。どうか、婚約を白紙にしてください」
「……あなた」
すがるようなお母様の声。しかし、お父様は唸るだけ。
「……だが、証拠がないだろ?」
その一言に私は頭を殴られたような衝撃をうけた。
(私の言葉は信じてもらえなかったの?)
私は俯き、涙が溢れる目を髪で隠す。そんな私にお父様は淡々と説明をした。
「証拠がなければ、こちらが一方的に婚約を破棄したことになり、場合によっては莫大な慰謝料を請求される。しかも相手は格上の伯爵家。私の力では、どうしようもできん。政略結婚と諦めるしかない。おまえも貴族なら分かるだろ?」
それは分かる。貴族ならば愛のない政略結婚があることも。
ただ、恋愛結婚だと思っていたのに、いきなり政略結婚でした、と言われても心がついていかない。
顔も見たくない相手と、これからどう生活をしていけばいいのか。
絶望しかない未来。
それでも、なんとか声は出さずに、ただただ静かに俯いたまま。目からはボロボロと涙が落ちる。
そんな私の隣にお母様がきた。
「今日は休みましょう。一晩寝たら、気持ちも少し落ち着くわ」
私は無言で立ち上がり、自室へ移動する。
部屋に入るなりベッドに倒れ込み、大声で泣いた。声が廊下に漏れているかもしれない。
以前の私なら気にしていたけど、今の私には気にする余裕なんてない。
私のすべてを否定されたようで。道具として扱われているようで。
言葉にならない感情が溢れ出す。ひたすら、ひたすら泣き声とともに吐きだす。我慢していたものも、抑えていたものも。
いつしか太陽が傾き、影が伸びる時間。
声も涙も枯れた私は枕に顔を埋めていた。ヒック、ヒックと、意味のない声だけが出る。
そこに様子を窺うようなノックの音が響いた。
「ミランダ、いい?」
お母様が申し訳なさそうに部屋に入る。
「あのあと、お父様があなたが帰ったことを報告するためにバルテルミー伯爵のところへ行ったの。そうしたら、すぐにでも婚約者のお披露目パーティーをしたいと」
「……」
「お父様はあなたの調子が悪いから少し待ってくれ、とお願いしたそうよ。でも、身内だけの小さなパーティーだからって明日の夕方に」
「……」
「辛いでしょうけど、最初に顔を出すだけでいいわ。それで、あとは体調不良を言い訳に帰ればいいから……」
「お母様」
私が話すと思っていなかったのか、お母様がビクリと体を小さくした。
「な、なあに?」
「一つ、お願いがあります」
「どうしたの?」
私は枕に顔を埋めたまま言った。
「今から書く手紙を至急届けてほしいのです」
「手紙? それぐらいなら、使用人に届けさせるわ」
「いえ、郵便でお願いします。明日の朝には届くよう」
「わかったわ。外にメイドを控えさせておくから」
「ありがとうございます。手紙が書けたら渡します」
お母様が部屋を出る。私は起き上がり、机に座った。引き出しから一番シンプルな封筒と便箋を三通、かすみ草が描かれたお気に入りの封筒と便箋を一通、取り出す。
(婚約を白紙にしてバーク様のところでお仕事を、と考えていたけれど)
こうなれば、私も覚悟を決めます――――――――