浮気した婚約者が訪ねてきまして
すっかり忘れていた名。というか、思い出したくなかった名前。
全身の血の気が引いて、倒れそうになる。けど、ここで逃げたら解決にはならない。ちゃんと向き合わないといけない。
それは、わかっている。でも……
私の変化を感じ取ったのかバーク様が立ち上がる。
「ミー、知り合いか?」
「……知り合い、ですが……あの、できれば今日は、会いたくない、と……」
「それが、会えるまで帰らないと。その、婚約者だと言い張っておりまして」
その言葉に私は吐き気がした。
(あれだけのことをして、私の婚約者だと言うのか……)
目眩がして足元がふらつく。バーク様が駆け寄り支えてくれた。
「どうした、ミー? 気分が悪いのか?」
バーク様が心配そうに私を覗き込む。返事をしたいけど、言葉が出せない。両手で顔を隠し、立っているだけで精一杯。
そこにオンル様が立ち上がる気配がした。
「私が対応しましょう。ミランダ殿、彼はあなたの婚約者で間違いないのですか?」
私は小さく頷きかけて、大きく首を横に振った。婚約者だと認めたくない。
私の複雑な心境を察したのか、オンル様が少し考えた。
「では、彼のことは忘れていることにしましょう。それで追い払いますので。よろしいですか?」
私はしっかりと頷いた。バーク様が私を椅子に座らせて歩きだす。
「オレも行く」
「あなたが来たら余計にややこしくなりそうなんですけど……仕方ないですね」
静かにドアが閉まる。力が抜けた私は机に突っ伏した。
(やっと自分の居場所を見つけられたと思ったのに……)
少しして、怒鳴るような声が聞こえてきた。
そういえばバーク様がどのような地位で、どのような仕事をしているのか、まったく知らない。一方のジスラン様は伯爵家。権力もあり、人脈も幅広い。
伯爵家に睨まれたら、バーク様に迷惑がかかる。
(どうして気づかなかったの!?)
私は震える体を無理やり立ち上がらせ、執務室から出た。
怒鳴り声は広い玄関から。急いで行こうとして、玄関の手前で使用人に止められた。
「心配ありません。こちらでお待ちください」
大きな体を使った通せんぼ。なにがなんでも通してもらえそうにない。でも、体をずらせば玄関を覗ける。
私が通せんぼの隙間から玄関を見ようとしていると、ジスラン様の声が響いた。
「だから、私はミランダの婚約者だ! 私を忘れているというなら、なおさら会わせろ! 思い出すかもしれないだろ!」
「ミランダ様はここ数日で様々な記憶を思い出され、混乱状態です。これ以上の混乱はミランダ様の負担になります。医師からも安静に、との指示です」
ジスラン様と対峙して、淡々と説明するオンル様。低い声と無表情が相まって美麗すぎる。その美しさに見惚れてしまいそう……って、ジスラン様は見惚れていますね。
白い目になっていると、バーク様が一歩前に出た。褐色の肌に立派な体格。ジスラン様より背が高く、自然と見下ろす体勢に。
その迫力だけでジスラン様が後ずさる。
「婚約者というのなら、なぜ見舞いに花の一つも持ってきていない?」
バーク様の鋭い指摘にジスラン様がたじろぐ。
「そ、それは、その……慌てて来たからだ! 知らせを聞いて、すぐに来たから!」
「では、時間があったら、どんな花を買っていた? 婚約者ならミーが好きな花ぐらい知っているだろ?」
「そ、それは、その……バ、バラだ! ミランダは真っ赤なバラが好きだ!」
私はその答えに心が冷えた。バラが好きだと一度も言ったことはないし、特別好きでもない。
バーク様がジスラン様を鼻で笑った。
「帰れ。おまえに婚約者を名乗る資格などない」
「な、なにを!?」
憤慨するジスラン様に対して、バーク様が腰を軽く屈め、正面から視線を合わす。
「ミーはな、かすみ草が好きなんだよ。婚約者、婚約者って言うくせに、なぁーんにも知らないんだな」
「ぶ、侮辱するのか!? 私は伯爵家の次男なんだぞ!」
「侮辱じゃねぇ、事実だ。それに伯爵家とか家柄なんて、もっと関係ねぇよ」
スッと黄金の瞳が鋭くなる。
「ミーのことを一番に考えられないヤツに用はない。さっさと帰れ」
「な、なにを……」
「三度は言わねえ。さあ、どうする?」
「……こ、こんな脅しをして、タダで済むと思うなよ!」
ジスラン様が転がるように玄関から飛び出した。
「小者だな」
「ですね」
二人がこちらに歩いてくる。私は慌てて執務室へ戻った。
※※
執務室に二人が戻る。私は礼状を書いていたペンを置き、ここでずっと待っていたフリをして訊ねた。
「あ、あの、どうでしたか?」
「無事にお帰りいただきました」
いつも通りの良き笑顔で答えるオンル様。美麗すぎて眩しいほど。でも。
(あれは全然無事ではないと思うのですが!?)
これを言葉にしたら覗き見していたことがバレてしまう。私はなんとか他の言葉を考えた。
「ですが、ご迷惑をおかけしたのでは? 相手の方から怒られたり……」
「ミーが気にすることじゃねぇ」
「ですが……」
「終わったことだ」
バーク様が自分の席に座り私の話を切る。いつもの強面に不機嫌がプラスされ、どこか怒ったような投げやりな言い方。
それ以上、なにも言えなくなった私は両手を握りしめた。
その夜。
私は借りている客室のベッドに座り悩んでいた。
人の姿に戻ってから、私は専用の客室を一部屋借りている。人の姿でバーク様と同室というわけにはいかない。
クイーンサイズのベッドに、木枠の窓。レンガを積み重ねて造られた暖炉と、シンプルで落ち着いたデザインの部屋。
「私って迷惑ばかり……」
暖炉でしっかり温められた部屋。なのに、寒さを感じる。
私は広いベッドに潜り込んだ。
「バーク様と一緒に寝ている時は温かかったな……でも、あれは猫だったから。今は猫になっても中身が……」
女だとバレたら追い出されると思っていた。でも、オンル様も使用人の方々も今までと変わらずに接してくれて……
「バーク様は女嫌いだから、距離を空けられるのは……しょうがないよね。それだけ、無理をさせているってことだし」
キュッと胸が苦しくなる。
強面の裏にある優しさを知っているからこそ余計に。
「……もう、撫でてもらえることもないのかな」
自分の呟きを否定するように私は首を振った。
「ダメよ、ダメ。これ以上、バーク様に甘えたら。迷惑もかけられない」
私はベッドから起き上がり決意する。
「せっかく私に代筆とサイン確認の仕事をくださったのだから。私の問題は私がちゃんと解決しないと」
翌日、私はこっそりバーク様の屋敷を抜け出して家に戻った。
一通の手紙を残して。