オソバの解答
エスカレーター理論。その問題の肝は、提示した答えが否応なく、回答者の人生観と関連付けられてしまう点にある。ただエスカレーターの手すりを飛び越えるような迷惑行為をすれば良いわけではない。もちろん、人を煽動して流れを操るようなことも、問題の解にはなり得ない。というか、あまりにも身も蓋もない話なのだが、この問題には答えが無い可能性が非常に高い。元を辿れば精神的に疲弊した飯塚さんが周囲との隔絶を表現するために生み出した概念こそがこの問題である以上、この理論によって導きだされる結論は一つであると僕は結論づけた。
飯塚さんは、エスカレータを見てこのような得体の知れない命題を思いついてしまう程に、精神的に追い詰められている。
理論を聞いて、実際に検証してみた上で、僕の見解は最初にこの話を聞いた時と寸分違わず同じ場所に落ち着いた。鮭が生まれ故郷の川に戻り、鳩が番の居る場所を性格に把握しているように――なんて、それっぽい比喩を使わなくても、なんとなく最初に抱いた印象が概ね正しいなんてことは往々にして起こり得ることである。
この理論に正解はない。理論に対する回答は、そのまま「周囲に適応できない人間はいかにして生きるべきか?」という命題に対する解としても扱われる。結局のところ、本人がその答えに納得するかどうか、が重要なのだ。そして飯塚さんは、納得のいく答えを提示することができなかった。自分に対して、あるいは拒絶すべき周囲に対して。
1番線のホームに繋がるエスカレーターには、絶えず段が現れ駅のホームへと人々を運んでいる。これからの人生、この光景を見る度に例の理論を思い浮かべることになると思うと、少しばかり憂鬱な気持ちになってしまうのは、決して僕に非があるわけではないだろう。
「まあ、僕もこの場で答えが出るなんて思ってなかったから、別にいいよ。とにかく飯塚さんを発見、保護及び社会復帰させることさえできればいいわけだし」
階段の中腹でツヅキが総括する。実際その通りである。まずは彼女の身の安全を確保することから始めよう。理論の解決は、その後でゆっくりと進めれば良い。今取り組むべきは、彼女の捜索。それただ一つである。
そういうわけで、僕達はそれぞれのタスクをこなすことにした。ツヅキは知り合いの事件の解決に、僕は小野教授に聞き込みに。オソバは……まあ、好きなように。それぞれの役目をさっさとこなして、早いとこ平穏なキャンパスライフを取り戻すとしようじゃないか。
そう決めて階段を降りようと振り向いたとき、僕達は一人の男の仁王立ちを目撃することになった。
ローファーと見紛う程黒く染められたスニーカー、傲岸不遜な性格を感じさせる堂々とした佇まい、何より、そのTシャツに刻印された数々の犠牲者の肖像画。
そう、オソバである。僕達よりも一足先に階段を降り切った彼は、そのまま何処へなりとも迷惑をかけに辺りをブラつくのではと思われたが、おもむろにその向きを変えエスカレーターの前に陣取る。
「お前らなあ、こんな問題に手間取ってんじゃねえぞ」
放たれた矢のように鋭い視線が、僕とツヅキを貫いてくる。怒っている、というよりは呆れていると言ったほうが正しいだろうか。なんにしても、眼力だけでここまで人にプレッシャーをかけることのできる人間を僕は片手の指の本数も知らない。ましてやそれが、自分と同年代の人間が持ちうる類の物であるなんてことは、想像も及ばないことだったのだ。
「どいつもこいつも、ここ1年ですっかり腑抜けちまって、張り合いが無いったらありゃしねえ。まあ、俺も人のことを言えた義理じゃねえが、こんな下らねえ謎かけに手間取る程衰えたつもりではねえつもりだ。お前ら二人とも、人生落単寸前だ、さっさと勘をとり戻せ」
衰えただの、人生落単だの言いたい放題言われたことはとりあえず置いておこう。置いておかざるを得ない。エスカレーター理論という命題を、下らない謎かけと言い放ったオソバは、あの傍若無人の擬人化、饕餮の化身と呼ばれたオソバはこの理論にどのような解を提示するのか。この疑問を前にすれば、僕に向けられたどんな罵倒の言葉もまさしく馬耳東風、左耳から入って右耳から出ていくだけのことである。
「そりゃあ、加藤も僕も挑戦したわけだし、オソバが挑戦するのは自由だ。むしろ僕の望む公平な営みとすら言える。だけど一つだけ。このエスカレーターを木っ端微塵にするってのは無しだぜ、オソバ。そんなのは君にしかできないんだから。身体的にも、倫理的にもね」
ツヅキがいかにも面倒臭い、困ったことになったという風にオソバに釘を刺す。もちろんそんなものは演技で、彼もオソバの解答への興味を隠しきれていないのが傍からでも丸わかりなわけだが、それでもその忠告は全くもって正しい。先ほどのオソバの視線と同じくらいに鋭く、正鵠を射ている。再三言ってきたことだが、この問題が生き方そのものに影響する以上、ただエスカレーターを破壊するわけにはいかない。それはそのまま社会への宣戦布告を意味するのであって、飯塚さんに適した人生であるとはとても言えないだろう。
「んなこたわかってる。要するに、つーちゃんの身の丈に合わせて、つーちゃんのできる行動の中から解を導きだせばいいんだろ」
そう言って、オソバはエスカレーターの搭乗口に近づき、あらゆるものを破壊してきたその右手の人差し指(人刺し指)で――
緊急停止ボタンを押した
不穏な気配を察知して階段を駆け下りたが時すでに遅し、光沢のある小ぶりなボタンはしっかりと奥へ引っ込み、課された使命を果たさんと作動し始める。
当然の帰結として、甲高い警報が鳴り響き、空き缶を潰したような音を立ててエスカレーターが止まる。既に乗っていたサラリーマンは何事かと慌てふためき、周囲の人間も、オソバとその一味、つまり僕達に視線を向けてくる。
「やりやがった!」
僕は駅の構内に膝をつき点を扇ぎ、ツヅキも同じように膝をつき、しかし彼の場合は両足だけでなく両手までも地に落とし、がっくりと項垂れる。見ようによっては、オソバという神に祈りを捧げているようにも見えただろう。不本意ながら。
そんな僕達を見やりながら、神は神でも荒神であるオソバは観衆の視線も意に介さず浩然と言い放つ。
「これならつーちゃんにもできるだろ、その気さえあれば、だけどな。周囲が気にわねえならその環境ごとぶっ壊しちまえばいいんだ、簡単な話だろ。人間何が大事かって、何を作り、何を壊すか以外にあるわけねえ。銃を渡されて誰かの言うがままにぶっぱなす人間よりも、世界で最初に棒を拾った猿のほうが偉大なんだよ」
駅の構内を駅員や警備員がこっちに走ってくる。速いところ逃げ出さなければ、またまた面倒なことになるだろう。今にして思うのだが、何故僕はこの男を同行させることを許してしまったのだろう?いくら吉田さんたっての希望であるとは言え、である。僕はあの時、どうあっても言われるがままにオソバを呼び出すべきではなかったのだ。これもまた、ただ周囲に流され運ばれるだけの僕に対する罰なのかもしれない。
「まあ、俺もつーちゃんを助けるって言っちまったしな、つーちゃんが無事大学に来れるようになったとして、またエスカレーターを見たくらいでふさぎ込んじまってもつまらねえ。お前が例のクソ教授に話を聞いている間に、俺は町中のエスカレーターをぶっ壊しておいてやるよ。まあお互い上手くやろうぜ。ただ、一つだけ覚えとけ、加藤。落単したら、壊す」
僕は颯爽と駆け出し、座興大学の小野教授の研究室へと向かう。駅員から逃げ出そうとしたのかオソバから逃げ出そうとしたのか自分でもわからないが、兎にも角にも、かくして僕は三大名誉教授の一角、小野教授との相対へと歩を進めることになったのであった。前門の小野、後門のオソバである。さあ、絶望の準備をしよう。いや、もうとっくに絶望してるんだけれども。