エスカレーター理論(後編)
第4話「エスカレーター理論(後編)」
三大名誉教授が一角、小野教授。
その言葉を聞いた瞬間自然と肩に力が入り、脹脛が張り詰める。名前を聞いただけで戦闘態勢に入るなんて馬鹿なことが、と思うかもしれないが、座教大生ならばむしろ警戒しないほうが異常である。小野という名を聞いてなおドッシリ構えていられるなんてのは、それこそオソバくらいのものだろう。一瞬眉を顰めただけで、後は全くの自然体で変わらずベンチに身を持たせているところを見ると、やはり彼は別世界の人間なのだと思い知らされる。
その別世界の人間を、一瞬だとしても意識させる小野教授、彼の異常性もまた際立ってしまっているわけだが。
「よりにもよって『定命の定量使い』かよ…つーちゃんも、とんでもない男に引っ掛かっちまったもんだ」
あくまでもリラックスした様子でオソバはそう呟くが、その台詞はともすれば弱音ともとれる内容だった。小野教授と同格にあたる三大名物教授の一角、沼地教授を撃破しているオソバからすればそれ程の恐怖ではないのだろうが、それでも当時の記憶は辛い物として彼の心に刻まれているようである。
「まあ、まだ教授が敵と決まったわけじゃない。たまたま飯塚さんが好き好んで通っている授業ってだけかもしれないし、まずは話を聞いてみないことには始まらないだろうね」
緊張した面持ちでツヅキは次の一手を提示する。確かに、学内で自警団を結成し積極的に治安維持に努めていた沼地教授と違って、「自望自叶」をモットーとし、あらゆる事態に中立の立場を維持している小野教授ならば、多少は話し合いの余地があるだろう。もちろん、小野教授自身が今回の事件の首謀者、中立どころか中心であるならば、その限りではないだろうけれど。
「なら俺はパス。あの教授、俺に会いたがらねんだよな。まあ最強だった頃ならばいざ知らず、一線を退いた今の俺からすりゃあ願ったり叶ったりなんだけど。自願自叶なんだけど」
確かに、あくまでも話し合いをするという体裁を取るのならば、武闘派として知られているオソバを連れていくのはなにかと不都合を呼び寄せるだろう。それに何より、彼がさっき自分で言ったように、小野教授は彼と絶対に会わないのだ。いや、会わないというよりも、合わない運命にあるのだと言うのが正確なところかもしれないが。
座教大学に入学した当初、オソバは学内の有力者を次々と撃破していき、ダークホース、スーパールーキーの名をほしいままにしていた。彼はその自由奔放さと持ち前の戦闘能力を十全に開放し暴れまわっており、その異常性と凶暴性はもはや個人では対抗しようのないレベルにまで達していた。
大学当局は治安維持部隊「座案会」を動員し彼の鎮圧に力を注ぎ、その抵抗運動は最終的に「Teaching platform kicker」、沼地教授の出動にまで発展することになるのだが、彼の目的は「座案会」でなく、沼地教授でさえなかった。あくまで彼は最強を、三大名誉教授という要職の中の要職に就いた秀才にして天才にして神才、小野教授を見据えていたのである。
しかし、若き日のオソバの台頭、快進撃はここで一度暗礁に乗り上げることになる。
オソバは小野教授を撃破せんと、彼の影を追い続けた。彼の授業時間に教室に乱入し、帰宅時間になると教授の家の前で仁王立ちを決め帰宅を待った。しかし、遂に教授と対峙するどころか、あのトレードマークである深緑色のスーツを視界に入れることすらできなかったのである。
オソバが乱入する教室はことごとくもぬけの殻であり、その日は特例として別の教室で授業が行われていたりした。そのことにオソバが感づき、変更先の教室に踏み込むとそこもやはりもぬけの殻であった。そう、あの教授はオソバに追われながらも生徒を守り切り、授業時間の九十分をそんなこんなでやり過ごした上に結局テストを含めた全課程の過程を完遂してしまったのである。こんな芸当をこなしてしまう相手に自宅前の待ち伏せなどが通用するはずもなく、当然のように両者が出会うことはなかった。
まるでそれが神によって約束されているかのように。まるでそれが何者かに「定」められているかのように。
よって勝負は不成立、オソバの戦績に初めて「勝利」以外の数字が刻み付けられることになった。いや、これが小野教授とオソバの壮大な追いかけっこだと仮定するのならば、持久戦の末オソバの根負け、「敗北」、と言うことすらできるかもしれない。無論そんなことを本人に言える人間なんて座教大学に数えるほどしかいないけど。せいぜいツヅキがからかい交じりに軽口として使うくらいである。
オソバ曰く、
「あの野郎、どれ程襲おうとしても、どれ程追いかけようとしても、常に手の届かない位置にいやがる。何かしらの技術を使ってることは間違いねえが、種も仕掛けも、それどころか思考の取っ掛かりすら掴めねえ。証拠とか考察の材料とか、そういった全部ひっくるめて、手の届かねえ位置にポジショニングする卓越した推論能力とそれを可能にする要領の良さこそが、アイツの本質ってわけだ。悔しいが、入学当初の俺じゃあどう足掻いても勝てなかったろうよ。だから教授が俺と戦おうとしなかったのは、温情だ。俺に情けをかけたんだよ。本当にムカつく野郎だ、いつか殺す」
とのことである。
それにしても、まったく、なんでよりにもよって小野教授なのだろう?大学生活も三年目、ここにきて逃げに逃げ続けてきた真打が参戦してきた、ということなのだろうか?なんといっても、もう大学生活も半分を過ぎたのだから。僕達もそろそろ、やり残したことにケリをつける時期だろう。悔いの無いように、禍根の残らないように。今回の一件は、僕達が卒業へ向かうために行うべき最初の一歩、こなさなければならないタスクの一つなのかもしれない。
なんて、そんなこと全然思ってないのだけれど。僕はただ、面倒事を早めに片づけたかっただけなのに、既に大分面倒なことになっている現状にうんざりしているだけである。火の粉が服に移る前に、なんて言ったけど、この様子では既に燃え移ってしまっているような気もする。本格的な家事になる前に、いよいよ本気で消火活動に走り回らなければならない。
まあ僕達の卒業の話とか、入学当初の話とかはここまでにして、小野教授の話である。あの傑物と対面する以上、露骨に避けられているオソバを連れていくわけにはいかないだろう。となると、ここはツヅキと僕だけで会いに行くのが正解のようだ。なんなら会話術に秀でているツヅキ一人で行ったほうが良いくらいだが、まあ念には念を入れたほうがいいだろう。教授が真犯人の可能性がある限り、単独で相手のテリトリーに踏み込むのは避けるべきである。
しかし、非常に不本意なことに、今回は僕一人で踏み込まなければならないらしい。
「ごめん加藤、手伝いのは山々だし、手伝うって言っておいてなんだけど、俺この後用事があるんだよね。テニスサークルの連中にも、話を聞いてほしい人が居るみたいでさ」
人当たりが良く、交友関係の広いツヅキ。彼の長所がまさか短所として機能することになるとは夢にも思わなかったが(長所、短所と人の特徴を安易に判別すること自体がそもそも間違っているのだけれども)、まあ仕方ない。元々ツヅキはオソバと吉田さんの二人だけでは不安だからと僕が急遽呼ぶことになったいわば助っ人であり、ここまで付き合ってくれただけでも、そしてこの先手伝ってくれると約束してくれただけでも御の字というものである。オソバがカフェを壊し、ツヅキが話を聞き纏めてくれた。ツヅキが「聞」と「話」のバランスを取ることを信条としているように、人に助けてもらったならば自分も何かを為すべきだろう。次は僕が一肌脱ぐ番、やってやろうじゃないか。座教大学ハイキングクラブサークル代表加藤、いざ参る!
……ホントに?ホントに僕一人で小野教授と話すの?嫌なんだけど。
というか、一体全体オソバは何をやってるんだ。呼ばれたのも吉田さん始め下級生の誤解、間違いが招いたことなら、森barをいきなり蹴り壊すのも人間として間違っている。今んとこコイツ、間違ったことしかしてないんだけど。コイツがいなきゃツヅキと一緒に話を聞きに行く時間もあったかもしれないのに。まあ、オソバがめちゃくちゃなのは今に始まったことじゃないけどさ。
どちらにしろ、吉田さんの話を聞き終え次なる目標が定まった今、駅のホームにいつまでもたむろしているわけにもいくまい。僕達三人は、それぞれの行く先に向かわんとベンチを発つ。やけに足が重かった。これは絶対、警察から逃げるために走ったことだけが原因ではない。
女子高生と外国人、それに僕達野郎三人衆ののんびりとした空間に別れを告げ、何かを思案しながら黙々と歩くツヅキ、無駄に元気に歩を進めるオソバの後ろを、重い足取りでのっそりと歩く。足が進むことを拒否している。なんなら心も頭も僕自身も拒否している。しかし困ったことに、人には立場というものがあるのであって、時にはどんなにしたくないことも涙を呑んで為さなければならないことがあることを、サークル長としてある程度経験を積んだ僕は知っている。責任ある立場として、人は立場に準じなければならないこともあるのだ。この場合、そのまま殉じる可能性もあるわけだけれど。準じて、殉じる。辞世の句にするには、あまりにも下らない言葉遊びだ。
気が滅入る理由は他にもある。
小野教授に会いに行かねばならない以上(行きたくない)、池袋駅の内部を進み、西口C3出口から出た上で学校へ向かう必要がある。新宿駅程ではないが、池袋駅も駅の中ではかなりの広さを誇り、一番線のホームから西口まではそれなりの長さがある。その広さがあったからこそ潜伏場所にここをえらんだのだが、ツヅキと同様、今回もその長所があだとなってしまったようだ。つくづく長所と短所は表裏一体であり、安易にメリットだのデメリットだのと分別することの愚かさを思い知る。
だからこそ、飯塚さんは救われるべきである。
自分に厳しくて、他人にも厳しくて、そんな自分に苦しんで、そんな自分を恥じてさえいるかもしれない飯塚さん。
でも、少なくとも彼女のそんな短所が吉田さんを惹きつけた。少なくとも、荒神として畏れられているオソバに相談を持ち掛けるくらいには、吉田さんは彼女を大切に思っている。
災い転じて福と為す、短所転じて長所と為す。
彼女が短所だと思っているそんな気難しさも、きっといつかのどこかでは長所となり、また見知らぬ誰かの救いとなるのだろう。
だから、救われなければならない。救わなければならない。
まあ、面倒くさいが、付いた火を消す理由付けとしてはこんな感じでいいだろう。
なんと言っても、もう火は広がり、服に燃え移ってしまったのだから。 燃えている服なんて、着続けているわけにはいかない、さっさと脱ぐに限るというものだ。
仕方ない、一服脱いで、一肌脱ごう、と僕は覚悟を決める。
準備はできた。さあ、準じて、殉じようじゃないか。
この後僕は単身小野教授のゼミに殴り込み教授をぶちのめし、そこに囚われていた飯塚さんをお姫様だっこで持ち上げ単身脱出し、事件は解決した。
めでたしめでたし
とはならなかった。いや、なるわけがないんだけれども。そんな執筆に飽きた素人が雑に考えたような簡単で単純な結末は、この話の先にはどうやら待っていないらしい。残念ながら。
さあやるぞ、と覚悟を決め一番線ホームを降りた直後、ツヅキが立ち止まりこんなことを言い出したのである。
「そういえば、吉田さんの話で、一つ気になることがあったんだ。本来ならさっき言うべきところなんだろうけどさ、ここで言ったほうが理解しやすいだろうと思って」
今まさに降りてきたホームの階段、その横で流れているエスカレーターを指さしながらツヅキは言葉を続ける。
「エスカレーターってさ、本来は真ん中、中央に立って乗るものらしいんだよね。片方にだけ負担がかかりすぎるといけないから、注意喚起を行っている駅もあるらしい。でも大抵の人間は左に寄って、急いでいる人のために右に追い越し車線をつくるよね?でも、今これを知った僕らは、仮にこのことを覚えていたとしてもこの後エスカレーターを使う時、周りの流れに乗って、多分左に寄ることになると思うんだ」
何分急に言われてことなので判断に手間取るが、概ねツヅキの言っていることは正しいように思える。仮に僕がこの情報を以前から知っていたとしても、左に人が寄り続けているエスカレーターを見て、堂々と中央に陣取ることはまずできないだろう。きっと、他の人を同じように左側に寄ることになると思われる。それが間違っていることだと知りながら。いや、そもそも、大勢の人間が左に寄っている以上、社会ではそれが正常な行為であるとされていると考えるのが自然だろう。
なるほど、話しが見えてきた。
きっと、飯塚さんの中ではそうではなかったのだろう。彼女にとっては、いくら周囲がしていることだとは言え、正しくないことは正しくないことだったのだ。
――周りがやっているからと言って、自分がしていいことにはならない――
至語ではあるのだが、あまりにも使い古されていて現代ではあまり顧みられない言葉だ。
「飯塚さん、つーちゃんはさ、エスカレーターを見る度にこの問題に苦しんでたんだってさ。『正しい乗り方をしたいのならば、堂々と中央に立ち、仁王立ちを決めるべきだけれども、私にはその勇気が無い』ってさ。それで結局自分も寄ることになれば、他の誰かが自分と同じように正しい乗り方に気づいていたとしても、周りに流されて同じように左に寄ってしまうかもしれない。『もしそうなったら、その人を誤った道に進めた原因と責任は私にもある』、って感じにね」
僕は考える。確かに、周りの人に合わせて間違っていると知りながらそれに加担してしまうことはあるかもしれない。赤信号、みんなで渡れば怖くない、というやつだ。極端な話、エスカレーターに乗っているすべての人間が正しい乗り方を知りながら、流れに逆らえずに左に寄っている、という状況もあり得るのかもしれない。
「つーちゃんはこのエスカレーターの問題を、『エスカレーター理論』と名付けて人生全般に当てはめていたらしいんだよね。即ち、『私は正しいことをしたい。正しい人として生きていきたい。しかし、間違ったことをしなければ生きていくことができない。私はこの矛盾をどうすれば良いのだろう?』って感じかな。俺からすると、考えすぎも甚だしい話だけどね」
ツヅキでなくとも、大抵の人間は考え過ぎだと思うだろう。多少の矛盾や間違いは肯定していかなければ、とても生きていくことなんてできないのだから。まさに潔癖症とも、もはや病的とまで言える繊細さである。この辺りに彼女が半失踪した要因というか、原因に繋がるものがあると言えるかもしれない。というかそうとしか考えられない。
生きていく以上、間違うことから免れることはできない。罪を被ることから、免れることはできない。他の正しい人を、間違った道へ突き落すことから、免れることはできない。
それこそ、かの夏目漱石大先生の言葉を参考にすべきなのかもしれない。
人は自分の意思で左に寄ることを選択しているのか、それとも何も考えずに、ただ左に詰め込まれ(寄せられ?)、運搬されているのか。
自分の意思で生きているのか、ただなんとなく、周囲に合わせて生きているのか。
汽車ほど、エスカレーターほど、そして社会ほど個性を軽蔑したものはない。
そして、間違いに気づいた時、人はその流れに逆らうことが果たしてできるのか。
彼女は、つーちゃんは、どうするべきだったのか。
「エスカレーターなんてのに乗るのは甘えだろ」
と相変わらずのオソバを華麗にスルーし、ツヅキは話の続きを続ける。
「まあそれで、つーちゃんの気持ちを理解するという意味でも、一度体験してみようよ。実際にエスカレーターに乗ってみて、どんな気持ちになるか。同じ立場に立ったとして、俺達はどう振舞うのか。一考の価値はあるんじゃないかな」
飯塚さんの、つーちゃんの気持ちの追体験。確かに、この先の展開が一切読めない以上、どんなに無意味に思えることも試しておいて損は無いだろう。僕はエスカレーターの前に立ち、さっき自分たちが降りてきた階段と、その横のエスカレーターを見上げる。さっきまで何気ない風景に見えていた階段が、明確な意味を持った物として視界に写り込む。同時に、僕は先ほどの『エスカレーター理論』を「変な話」としてしっかりと記憶してしまったことを自覚する。どうやら、また変な癖が出てしまったようだ。電車に続き階段も、か。駅そのものを嫌いになってしまう日も近いかもしれない。
そんなわけで、搭乗口というと大袈裟だけども、まあ乗り口から普通に踏み込んで、僕は今一人でエスカレーターに乗っている。自動で上に運んでくれるからといって、さっき降りてきた道をもう一度登るというのはどうにもアホらしいと思わざるを得ないが、これもつーちゃんのため、吉田さんのため、ひいては僕の平和なキャンパスライフのためである。それに、小野教授と話すことに比べればこのくらいお茶の子さいさいというやつである。
平日の真昼間、混雑しているというほどではないが流石東京の駅というべきか、貸し切りというわけにもいかず(エスカレーターを貸し切っても全く嬉しくないけど。せいぜい大掛かりな流しそうめんができるくらいのものだ)三段開けて僕の前後にそれぞれサラリーマンが立つ。営業周りだろうか、この暑い中ご苦労様である。しかしつーちゃんからすれば、彼等は自分を間違った道へ追いやらんとする悪しき存在なのである。無知蒙昧の愚民なのである。憎まなければならない存在なのである。
なるほどこれではさぞ生きづらかろうと思いながら、僕は追い越し車線(?)側に移動し、掃除の人が熱心なのだろう、光沢のある手すりに左手をつく。そしてその手を支えに胴体を地面と平行になるように浮かせ、手すりを飛び越え横の階段側に着地した。後ろのサラリーマンがあっけに取られた表情で僕を見てきたが、これくらい恥ずかしくもなんともない。オソバやツヅキと付き合っていくのなら、これくらいのことは平然とできなくては話にならない。いや、そもそもなんでこんなとんでもない奴らとつるんでるんだって話だけど。話にならないとんでもない話だけど。
もちろん、僕だってこんな非常識を好き好んで行ったわけではない。このダイナミックかつアクロバティックな振る舞いが、この『エスカレーター理論』の解法の一つになりうるのではないか、という目論見あってこその奇行である。
すなわち、
「周囲が間違っていて、それを正すことができないのならば、そんな集団は見限り自立すれば良い」
というわけである。皆が皆、間違った乗り方をしている空間になんて執着する必要などこれっぽっちもない。だったら、多少負担が増えようとも自分の足で、誰の目も気にせず誰にも干渉されることのない、孤独の道を、階段をひたすら登っていく、というのが一つの答えになると思ったのだ。
しかし――
「これは……違うな」
思わず否定の言葉が口に出る。迷惑行為をしておいてなんだが、この解法が間違っていることは間違いないようである。他人に厳しく、自分にも厳しかった飯塚さんが、主義を曲げてエスカレーターに乗っていたとはとても思えない。おそらく、どんなに疲れていたとしても階段を一段一段踏みしめながら移動していただろう。僕が思いつくまでもなく、とうの昔に彼女がこの答に辿り着いていたであろうことは論を待たない。
そして、その上で彼女は苦しんでいた。この解に思い当ってなお悩み続けていた。ということは、彼女はきっと無視できなかったのだろう。自分に責任が無くとも、もはや自分と全く関係の無い、絶縁したはずの世界でも、間違っていることを見逃すことは、彼女にはできなかった。
自分に関係があろうと無かろうと、視界に入る物全てを正そうとする飯塚さん。彼女にはきっと、テレビに流れる紛争地帯の中継映像も、無力な自分を責め立てる罵声となって耳に入ってくるのだろう。薄々感づいていたが、これは本当に、つくづく、大層、大概に厄介で面倒な短所で長所である。
「うん、俺もそれは間違いだと思う」
視線を下げ、どうしたものかと呻吟する僕に向かって、ツヅキが話しかけてくる。この難問に対してツヅキはどう立ち向かったのかと、未だエスカレーターに運ばれているツヅキを見やる。まさかこの後、今日一番の驚愕が僕を襲うことになるとは夢にも思わずに。
普通に真ん中に立っていた。そして、彼の後ろに並んでいる十人あまりのサラリーマンや観光客、女子高生も全員列の中心に陣取っていた。
唖然とする僕に向かってツヅキはこれまた今日一番の爽やかな笑顔で(初対面の人と話す時の余所行きのツヅキの顔である)
「ちょっと待っててね、全員が上がりきってからそっち行くから。それにしても、降りて登って、また降りるなんて、二度手間もいいところだ。本当に君達と一緒に居ると、効率的だとか無駄を省くとかの言葉が酷く下らないものに思えてくるよ……まあ今回ばかりは、俺が自分で蒔いた種だけどさ!」
アハハハと笑いながら、ツヅキは中央に堂々と君臨したまま、地上への等速直線運動を続け視界から消えていった。
まさかこんなところでお目にかかるとは露にも思っていなかったが、まあ、要するにこれが、ツヅキがオソバと同じく「向こう側」の存在たる所以、人心掌握と煽動の実用例である。
おそらく、気さくで接しやすい人間を選んで「一緒にエスカレーターの中央に乗ってくれ」とでも頼んだのだろう。快く快諾(頭痛が痛い?)してくれるような優しくてノリの良い人なら、この短時間でも一人くらいは見つかるかもしれない。……この短時間で十人あまりというのは、どんな手段を使ったのかちょっと想像したくもないけれど。
なるほど、ツヅキのようなコミュニケーション能力を持ってして臨めば、集団の流れやルールを変化させることは容易いだろう。もしかしたら、これが一つの解法と言えるのではないだろうか。
と、思われたのだが。
「うん、俺のも間違いみたいだね。いい線行ってたと思うんだけどなあ」
登り終えたツヅキが、頭を掻きながら下ってくる。その後ろには、両手をポケットに入れ傍若無人を絵に描いたような態度で階段を下るオソバの姿もあった。
なるほど、協力してくれた人達が何か言われたらどうするのかと思っていたが、最後尾にオソバを配置していたのか。人の顔をプリントされた、明らかなバーバリズムを感じさせるTシャツを着ている不審者に文句を言える人間はそう多くは無いだろう。仮に言われたとしてもオソバのこと、拳骨一つで話は終わりである。相変わらず、抜け目の無い男である。
しかし、それでも――
「うん、それでも、俺の解答は間違っている。ほら」
ツヅキがエスカレーターのほうを指し示すが、見なくても大体の想像はつく。たった十人程度の抵抗では、流れを変えることなどできるはずもない。案の定、僕達の目の前にはさっきと同じような、『エスカレーター理論』を体現した風景が聳え立っていた。
「まあ俺も、本当になんとかできるとは正直思ってなかったけど。ただまあ、友人というか、仲間が居れば、ほんの少しとはいえども抵抗することはできるよね。飯塚さん、つーちゃんって話しを聞く限りあまり社交的なほうじゃないみたいだから、そういう手段もあるんじゃないかな、ってこと。それに、理解者が増えればつーちゃんもきっと生きやすくなると思うんだ。なんといっても、この『エスカレーター理論』は人生にまで問題を拡大して考えるべきなんだろう?だったら、今の俺みたいに即興で人と仲良くなる必要はない。エスカレーターに乗る時と違って、人生において、自分の前後に立つのは友人とか家族なんだからさ。他人じゃなくて」
そう、そこである。僕の解が不正解であったもう一つの理由も、「『エスカレーター理論』は人生に発展させて考えなくてはならない」という点にある。「間違った乗り方」に反抗したいだけなら、なるほどただ階段を使えばいいだけの話だろう。しかし現実問題、周りの人間と合わせずに人生を歩むのは至難の業である。人間は孤独で生きていけるようにはデザインされていない。僕達の視界に入る物で、他人の手の加わっていない物が一体どれほどあると言うのだろう?オソバのような、吹っ切れに吹っ切れた傑物ならばまだしも、少なくとも能力的には常人である(だと思う)飯塚さんが、僕の解答で満足するとはとても思えない。
だとすれば、ツヅキの提示した「理解者を増やす」という回答が、現時点での最良の妥協点であると言うしかないだろう。しかし、このような結論が正解になるとはとても思えない。
『エスカレーター理論』、中々の難問である。思考を続ける準備をしよう