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K.K奇譚   作者: R4
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エスカレーター理論(前編)

第3話 「エスカレーター理論」(前編)


 人は汽車へ乗るという。余は積み込まれると言う。人は汽車で行くという。余は運搬されると言う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。


 この文は日本を代表する大文豪、夏目漱石の中編小説、『草枕』の一節である。僕は電車を見ると、特に思い入れがあるわけでも感銘を受けたわけでもないのにこの文章を思い浮かべずにはいられない。僕には少し変な癖があって、本を読むときに話の筋や重要な伏線よりも、作者の思想や価値観の透けて見える箇所にどうしても注目してしまうのだ。だから読書を始めても少し読み進めただけで集中力が切れてしまうし、かろうじて残った微小な集中力ではそう読み続けられるわけもなく、数十分を無為にしてしまうことがしょっちゅうある。

 こんなにも厄介な癖(もはや持病と言っても差し支えないだろう)を抱えている上に、読んでいて気になった、気になってしまった部分だけはいつまでも無駄に覚えているので、件の電気で動く鉄の箱を見るたびに(漱石の時代には蒸気だっただろうけど)、かの大先生がお書きになった名文を思い出してしまう、というわけなのだ。

 そんなわけで、僕はあまり電車が好きではない。鉄道会社からすればあまりにもめちゃくちゃな嫌われ方だろうと思われるが、好きではない理由は他にもある。いやまあ、ただの交通手段に好きも嫌いもないのだけれど、やはりお金を払って他人にパーソナルスペースを侵されざるを得ない程狭い空間に閉じ込められるのを好む人間は存在しないだろう。存在しないと僕は信じている。それこそ漱石先生が言っている、積み込まれ運搬される、というやつだ。だから僕は少なくとも、電車が好きではない。当然の帰結として駅もそれほど好きではない。座教大学が誇る三大庭球神が一柱を占めるオソバ曰く、

「自分の足で歩かない奴は甘え」

とのことである。これを読んでいる読者諸氏にも今後電車に乗る機会があると思われるが、その時は自分の乗っている車両に人の顔がプリントされた意味のわからないTシャツを着た少しパーマ気味の男が乗り合わせていないか一度確認することを推奨する。もし乗っていたのなら今すぐ逃げよう。きっと脱線するから。

 身を隠すためとは言え、高校生やサラリーマンの足音、ホームに来る電車が数分置きに起こす豪風や甲高いブレーキ音の中で吉田さんの話を聞くのは中々に過酷な事情聴取になると思われた。しかし、僕のそんな嫌な予想は杞憂に終わることになった。僕は、駅のホームで、吉田さんの話を聞いていない。

 いい加減、「いい加減にしろ」と罵声や抗議文が飛んできかねないので補足させてもらうと、話自体を聞くことはできた。吉田さん本人からではなく、ツヅキからの又聞きという体裁をとることにはなったが。

 何故そのような二度手間を取ることになったか、理由は至極単純である。

「吉田さんの話は僕が聞いておくからさ、終わるまでどっか行っててよ。二度手間って言うけどさ、君達と一緒にいて二度手間で終わるならマシなほうだからね」

と、ツヅキに追い払われてしまったのだ。「僕達」のせいではなく、殆ど、というか全てオソバのせいなのだが、先ほどの山barの目も当てられない惨状を思えばぐうの音も出ない。そして、オソバの見張り役を僕かツヅキのどちらかが担わなければならない以上、聞き役に回れば無類の才覚を発揮するツヅキを見張りに回す選択肢はあり得ない。だから、ここから先の話はツヅキからの又聞き、伝言ということになる。


「そもそも人の話を聞かないオソバよりはマシだけどさ、加藤は人の話の変なところだけ覚えてるよね。駄弁るだけなら、仲良しごっこをしたいだけならそれで充分だけど、会話をしたい、相手を理解したいと思うならそれじゃダメだ。まずは相手の話を何も考えずに受け入れること。相手の言葉を一言一句、自分の心に刻み付けるんだ。そうすれば、ほんの少しの会話からでも相手の人格が見えてくる。何を大切に思っているか、何を憎んでいるか、朝食べるのはご飯かパンか、弟はいるか妹はいないか、芸能人なら誰がタイプか、人生で一番恥ずかしい出来事は何か、論理的か情動的か、知能指数はどれくらいか、実家は太いか細いか、両親の仲は良好か、気の置けない友人はいるか、恋をしたことがあるか、月に何冊本を読むか、部屋は散らかっているか、ウィスキーとワインならどちらが好きか、そして何より、嘘をついているかどうか、とかね。文字として書かれていなくても、行間が読めなくても関係ない。一度相手を理解できれば、相手を構成している公式さえわかれば、あとはその式に当てはめればいい。シチュエーションを代入して、解を導き出してしまえばいい、ただそれだけのこと。みんな無意識にやっていることを、大げさに言っただけだけどね」

 案の定電車に苛立ち、緊急停止ボタンを連打しようするオソバをなんとか止め疲労困憊のまま吉田さんとツヅキの居るベンチに戻ってくると、既に話は終わっていたようで、吉田さんは大事な用事が、例の失踪事件と関わりのある用事があるので帰っていったとのことだった。

「勿論、ここで吉田さんの人柄を赤裸々に開けっ広げにするような、質の悪い週刊誌みたいな真似はしないよ。自分の知らない誰かが、自分の個人的な事情や性格を把握していたら嫌な気持ちになるだろう?特にその内容が、自分が信頼する人にしか話さなかったはずの秘密とかだったなおさら、ね。だからまあ、吉田さんの口調を真似て、彼女の話したことを丸々同じように話すことにするよ。さながらテープレコーダーのように、人の自伝を朗読するかのように。一つだけ釘を刺しておくと、彼女は嘘をついていない、これは確かだ、間違いない。まあ当たり前だけど。ミステリー小説を読んでて、『そもそもの証人の言葉が嘘でした』、なんてトリックがあったら、そんな本は古本屋にすら持って行かずに、その場で破り捨てるべきだろうね」

 ヘナヘナとベンチに座り込む僕に向けて、ツヅキは立て板に水、どころか立て板に洪水といった具合に言葉を次々と投げかけてくる。初対面の人に対しては気さくな態度で聞き役に徹することが多いツヅキだが、それは彼の被っている「カバー」の一つに過ぎない。  

 彼は気さくで人当たりが良い。人と人との繋がりを重視しているから。なるべく人と誠実に関わりたいと思っているから。だから、話を聞いたらその分だけ、自分も何かを話すべきだと考えている、のだと思う。僕の未完成かつ限定的な会話術では、これが正しいのか断定はできないが、「カバー」の有無に関わらず、ツヅキが「聞」と「話」の平衡を取ろうとしていることは事実であるように思われる。

「じゃあ話すけど、ちゃんと聞く気ある?知ってると思うけど、人の話を聞かない人、結構苦手なんだよね」

 問題ない、と僕は返答し、ツヅキに話の続きを促す。山barから走って逃げて、駅でも東奔西走し、ようやく本題に入れるのだ、聞かないわけがない。人の口から発された言葉は、語り手から紡ぎ出された音はすぐに空気に混ざり消えていく。ならば、それを現実に繋ぎ止めるのが聞き役の役目だ。言葉を記憶する、人の役目だ。さあ、聞き役に徹する準備をしよう。


「飯塚さん、つーちゃんは、とても真面目で繊細なひとでした。

「あまりに繊細すぎて、もう潔癖症とか、病的って表現が似合う程度には真面目で正しくあろうとするひとでした

「街中で知らない人が知らない人の陰口をしているだけで自分のことのように傷つきましたし、授業は常に教室の前の方で聞いていました。バイト中は『仕事だから』って心配になるくらい肩を張って、緊張でガクガクに震えて……他にもあります、私が初めてつーちゃんに会った時、あの子、大学でゴミ拾いしていたんです、ビニール袋とトングを持って。それで私、『なんでそんなことしてるんですか?』って聞いたんです、そうしたらあの子、『大学が汚れているのだとしたら、それは在籍している私の責任でもありますから』って、本気でそう言ったんです

「最初は何かの冗談だと思ったんです、ほら、私達の大学って、傾いてるというか、変な人が多いじゃないですか。つーちゃんもその一人で、常人も変人もなんだかんだ十把一絡げに受け入れてくれる座教大学のことだから、まあつーちゃんも楽しくやってるのかなって

「でも違いました

「つーちゃんは本気で葛藤して、苦しんでいました

「どこまでも自分に厳しくて、授業を不真面目に受けたり、道にゴミを捨てたりする、正しくあろうとしない人間を激しく憎んでいました

「そして、『人を憎んでしまう心の汚い自分』を、何よりも憎んでいるようでした

「だから、つーちゃんが授業を欠席しはじめたとき、『ああ、疲れちゃったんだな』って、そう思ったんです。もう限界だったんだな、って。

「だから、そっとしておいてあげようと思ったんです。しばらく休めば、また一緒にカフェにでも行って本の話でもしよう、って。つーちゃんにとって、『本』っていうのは聖書のことだったみたいですけれど

「だけど、話はそれで終わりませんでした

「つーちゃんがサボり始めてから一週間経った頃、大学で廊下を歩いているつーちゃんを見かけたので私、話しかけたんです。最近大丈夫?って。私ノート取ってるから、もうしばらく休んでいても大丈夫だよ、無理しないで、でもなるべく早く良くなって授業に来てね、って

「そう言ったら、つーちゃんは言いました。以前よりも目つきが悪くなって、隈のできた虚ろな瞳でこう言ったんです。『ありがとう、でも大丈夫。もう私、自分にとって大切な物しか大切にしないことにしたの』って。そう言って、おぼつかない足取りで授業を受けに行ったんです。

「明らかにおかしな様子だったので後々調べたらやっぱり、私と同じだった授業の他にも、ある一つの授業を除いた全部の授業を欠席していて、アルバイトも辞めちゃってるみたいなんです。家賃は大丈夫なのかってつーちゃんのアパートの大家に問い合わせたら、親戚の家に住むから、って出て行っちゃったらしいんです。でも彼女、前に話した限りでは親戚は全員東北地方に住んでて、近所に親戚なんて居ないはずなんです。

「私が何より悲しいのが、『彼女が嘘をついたこと』なんです

「他人に厳しくて、それ以上に自分に厳しいつーちゃんは絶対に嘘をついたりしませんでした。どんなに自分が不利になるようなことでも、聞かれたら絶対に本当のことを話しました。

「そんなつーちゃんが、人に嘘をつくなんて、つくようになるなんて、私にはとても信じられません

「どこで生活しているのか、彼女の身になにがあったのか、大切なものってなんなのか、それは嘘をついてまで、そして授業をサボってまで、つーちゃん自身が今まで一番嫌っていたことをしてまで優先すべきものなのか。

「お願いします、つーちゃんの身に何があったのか、調査していただけませんか?私の友人を、どうかよろしくお願いします」


 池袋駅の一、二番線、即ち埼京線・新宿湘南ラインのホームで、僕とオソバはベンチに座りながら、ツヅキの話を、というよりはツヅキを介した吉田さんの話を聞き終える。平日の昼間だというのに乗客はひっきりなしにホームに表れ、流れてくる電車に乗り流されていく。誰も彼もが白線に並んでは詰め込まれていく中で、のん気にのんびりしているのなんて僕達とその真後ろの椅子に座っている外国人、あとは向かいの3番線ホームに居る文学少女くらいのものである。電車に乗る時くらい本なんてしまえばいいのにと思うのは、きっと集中力の無い人間の発想なのだろうなと僕は心中で独り言ちる。

「なるほどな、失踪者の生存の確認は取れている、しかし失踪者当人の様子はおかしいし、どこでどんな生活をしているのか見当もつかない。ある日を境にまるで消えたかのように社会との繋がりをぶった切っておきながら、その理由もやっぱり見当もつかねえと来た。飯塚ちゃん本人が曲がりなりにも大学に来ている以上警察に言うわけにもいかず、さりとて不穏な気配が無いわけでもない。あくまで自主的かつ緩やかな孤立、まさに犯罪みたいな、過激な感じじゃない中途半端な失踪事件。そしてその中途半端さが事件の解決を阻んでやがる。面倒だな」

 横に座っていたオソバが率直な感想を口にする。確かに、腕っぷしの強さで大抵のことを解決してきたオソバに依頼するにしては、この事件は少々入り組みすぎていやしないだろうか?それこそ、情報収集能力に長けているツヅキに相談するのが最適解であり、どれ程切羽詰まっていたとしてもオソバに持ち掛けるような内容の話とは思えない。

「俺も疑問に感じて聞いてみたんだけど、どうやらオソバは下級生の間では荒神みたいな存在として知られてるみたいなんだよね。基本的には災いしかもたらさないけれど、神だけにその御業は霊験あらたかで超万能。だから吉田さんも、その噂を信じ込んでダメ元で頼みこんで来たってわけ」

「俺に地道な調査なんて求められてもなあ。神が探偵役のミステリー小説なんて読んだことねえぞ」

 オソバはお手上げといった様子で額に手を当て天を仰ぐ。解決すると請け負った以上、絶対に引くことはないオソバである。行動が読めず、何をしでかすのかわからないことで有名な彼だが、した約束は必ず守るという主義を掲げているということはあんまり知られていない。それにしても、弱気な態度を見せておきながらも自分が神であることを自然と受け入れているあたり、人斬りの面目躍如といったところだろう。

「まあいいわ、やるだけやって、できるまでやるだけだな。ツヅキ、お前も手伝え。まずはその、殆ど失踪状態にある飯塚ちゃんが唯一聴講してる授業ってやつを調べようじゃねえか。で、なんの授業なんだよ?」

 そこは僕も気になっていた。飯塚さんが彼女の価値観よりも大切なものを、半失踪するほど大切なものを見つけたのだとすれば、それは今もなお受け続けている授業にある可能性が非常に高いと考えるのは、当然の帰結だと言えるだろう。

「うん、俺もそれを言うつもりだったんだ。本当は伝言役だけ務めて、あとはオソバと加藤に丸投げしようと思ってたんだけど、今回ばかりは、というか今回も手伝わざるを得ないみたいだ」

 ツヅキはそういうと、一旦間を取ってから僕とオソバに重要参考人、あるいは容疑者の名を告げる。その名は僕にとって、強い衝撃を受けるには充分と言うにはあまりにも充分すぎる名前だった。

「飯塚さん…つーちゃんが心酔している授業は宗教学概論。担当教授はあの、三大名誉教授の一角を担う定量使い、『定命の定量使い』の小野教授だよ」

 定命に抗う準備をしよう。しかし、小野教授が関わっているとなると準備なんて無駄かもしれない。


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