人当たりの良い凡庸な善人
通称「留年確定ツヅキ」、略称「ツヅキ」。オソバと対等に接することのできる数少ない人間の一人にして、大学3回生きっての優男である。少しふさついた、適度な適当さを感じさせる茶髪は見る者に親しみを覚えさせ、軽いユーモアを交えたそのトークは相手の警戒心を容易く溶かしつくしてしまう。彼に会った人間はどれほど人付き合いが苦手な人物でももれなく同じ印象を彼に抱くことになる。
「なんと人当たりの良い、接しやすい人なんだろう。少なくとも悪人でないことは間違いない!」といった具合に、である。
今思えば、あまりにも早急で粗雑な断定であったと言わざるを得ない。僕も皆も、まだまだ判断が足りなかったのだ。あのオソバと渡り合える人間が、当たり障りの無い凡庸な人間である筈がないというのに。
彼の異常性が公然の物となったのは、大学での生活も1年が過ぎ、それぞれのライフスタイルも大分確立されてきた頃のことだった。当時のツヅキは学年学部問わず多くの生徒に好かれており、またオソバとつるんでいるのもその人当たりの良さがあってこその偉業であるとされていた。大学当局もオソバの手綱を握りうる唯一の人間として多大な期待を寄せており、一時は特別奨学生の認定も打診されていたが、いかんせん本人の態度に問題があったため優遇の話はお流れとなってしまっていた。
問題があるというのは、別にオソバのように過激な振る舞いをしていたわけではない。その真相は単純明解、授業をサボるのである。座興大学は必修科目に「円形代数」、「物質学概論」という科目があり、これを取らねば卒業要件を満たすことができないのであるが、彼はこれらの授業が行われていた一年間「眠い」「ダルい」「心臓に毛が生えた」等々の理由で授業をボイコットし続け、ついに一度も出席することはなかった。当時彼を慕う多くの人間は同じ台詞を彼に投げかけることになる。すなわち、
「ツヅキ、再履修の準備をしろ」と。「留年確定ツヅキ」という通称は、この時期に作られたものである。
しかし、大学生活2年目、果たして彼は何食わぬ顔をして両授業の単位を取得し、2回生に進級してきたのだ。いくら人気者のツヅキといってもこのような不公平を看過できる生徒は流石に少なく、学年の中でも真面目な女学生数人が代表して教授に直談判を持ちかけた。問い詰められた教授は卑屈な笑みを浮かべ、視線を落とし冷や汗を流しながらこう返答したという。
「い、いやあぁ、ツヅキ君は、いやツヅキさんはねえ、しょうがないんだよ。私もまだもうちょっと生きていたいしねぇ。まだ娘も中学生だしねぇ。せめて孫の顔を見るまでは死ねないからねぇ、仕方ないんだよ。ハハハ……」
この日を境に、ツヅキに対する周囲の評価は一変することになる。なんのことはない、彼がオソバと仲良くやってこれたのは、彼が人当たりの良い人間だからなんていう甘っちょろい理由なんかでは決してなく、彼もまた、オソバと同じ「向こう側の人間」であったからなのだ。今現在、彼に対して周囲が抱いている印象はこうである。
「人当たりが良く、少なくとも悪人ではないが、決して敵に回してはならないことは間違いない」
オソバ曰く、
「ありとあらゆる欠点を人当たりの良さでカバーする男」
「留年確定ツヅキ」
「留年確定(のはずが何故か単位を貰い進級していることで有名な)ツヅキ」
「留年確定(させないためならどんな手段も厭わないことで有名な)ツヅキ」
「露と消えた留年」、「ある筈のない単位」、「故もなく続くキャンパスライフ」、「誰も望まない続編」、「ツヅキのツヅキのそのまたツヅキ」、「終わらないエピローグ」…オソバほどのインパクトがないので新入生にはそれほど知られていないが、僕と同回生、もしくはそれ以上の学年の人間はむしろツヅキを警戒している。オソバなんてのは天災と同じで、理由もなく目をつけてくる上に対策法も存在しないときているので、あれこれ考えるだけ無駄だというのが有識者の見解である。ではオソバは諦めるとして、平和なキャンパスライフを送る上で敵に回してはいけない人間は誰だというところにまで思考が行き着いた時、間違いなく候補に上がるのが彼、「留年確定ツヅキ」であるということだ。
そんな彼の人心掌握術の真髄を、僕は前述したカフェ「山bar」で目撃していない。その惚れ惚れとするような手口を、ツヅキは山手線池袋駅1、2番線のホームのベンチで披露していた。こう書くと、何故話をさっきのカフェで続けなかったのかと疑問に思う諸氏が居るかもしれないが、そう思った面々は僕達の面子を今一度思い出していただきたい。そう、僕達4人の中にはあの「オソバ」がいるのだ。
吉田さんが話を始めて5分も経たない頃、オソバが我慢ならないという風に立ち上がり、ノートパソコンをいじるサラリーマンや猫背で読書をする女学生に向けてこう言い放った。
「お前ら、全員人生落単だ。再履修の準備をしろ」
そう言うが早いか、例のTシャツの懐からスニーカーを取り出し、履き替えた後店の四隅の一角に向けて大振りの踵落としを放つ。分散されている重みを支えていたはずの柱はあっさりと風穴を開き、自重に耐えきれなくなった建造物はあっさりとその生涯に幕を下ろすことになる。
あの靴には見覚えがあった。我が座教大学が誇る名物教授、「Teaching platform kicker」、
「独行の教壇蹴り」と名高い沼地教授との一件で、彼が教授から奪取したものである。ナノテクノロジーを駆使し、鋼以上の硬度と絹糸をも凌ぐ柔軟性を持つ素材で構成されたあの靴と、オソバの身体能力が合わされば生半可な建造物の柱を突き破ることなど赤子の手を捻ることよりも容易であることは想像に難くない。というか、無抵抗な赤子の手を捻るという行為をさも簡単なことのように例えたあのことわざを作った人間は間違いなくオソバやツヅキと並び立つに足るサイコパスであると僕は思うのだがどうだろうか?
それはともかくとして、オソバのことである。オソバは陰気な人間や生気のない空間が嫌いである。彼は生粋の破壊者であるからして、「襲刃」を執行するにあたって危害を加える対象にはなるべく強敵でいてほしいという願望がある。強靭でかつ、偉大な相手を標的に指定し正々堂々乗り越えてこそわざわざ苦労してユニクロにオリTを注文した甲斐があったというものだ(https://utme.uniqlo.com/)。だからこそ全人類、全物質は無条件で強くあらねばならない。弱い人間には、脆い人間には、陰気な人間には、日々を全力で送っていない人間には我慢ならない。だから襲う。その腑抜けた魂を刃で切り刻む。強く生まれ変われるように。強く生まれ変わった相手を、気持ちよく葬ることができるように。
先ほどの虚ろな瞳はどこへやら、必死の形相で店を飛び出す人々を見て、破壊神は満足そうに独り言ちる。
「よしよし。やっぱり人間は元気じゃねえとな。でないと襲い甲斐がねえってもんだ」
あっけにとられたまま固まってしまった吉田さんの手をとり、4人で店を後にする。刺激が強すぎただろうか?少し気の毒だが、払われるべき犠牲というやつだ。オソバと付き合っていくのならば、このくらいのことは日常茶飯事であると受け入れなければならない。全盛期のオソバならば駆け付けてきた警官とも一悶着起こしていただろうことを考えれば、これでも大分マシになってきているのだ。もはや彼にそこまでの力はない。もう2年以上もこんなことをやってきたのだ。効果はでてる、そろそろ僕達も報われてもいい頃だろう。
もはやドアの体を成していない入口をくぐり、池袋駅へと足を向ける。騒ぎが収まるまで暫く地下鉄に身を隠そう。色々事情があってあまり適した場所とは言い難いが、別にあそこでも話はできるだろう。
「ご馳走さまでした、店長。色々とごめんなさい、僕は三杉大学の愛波っていいます、賠償金等々の話はそちらの方に」と高校時代の旧友に責任を押し付ける僕。
「いやー、大変でしたねえ店長、さっきまでも締め切り前のサラリーマンが虚ろな目をしながらキーボードをカタカタ言わせていまして、つまり仕事の『山場』を迎えていまして、まさに『山bar』、名は体を表すを体現している店だなと感動していたんですが、この様子じゃあ『修羅bar』とかに改名したほうがいいかもしれませんね!って、もう店なんて無えから改名しても意味ないっすね!」ハハハ、と放心状態の店長に追い打ちをかけるツヅキ。
「いや、むしろ俺の名前にしろ!今日からこの店の名前は『おそbar』だ!」と、自ら破壊した店の名前を勝手に決めるオソバ。
まあとにかく、色々あったのだ。ようやくこれで話を進められる、さっさと話を進めよう。書き始められ、途中で投げ出された物語ほど惨めで憐れな存在は無い。哀しみはいつか美しい愛に変わらねばならないように、あるいは生まれた波はいつか砂浜に消えねばならないように、始められた物語は終わらねばならない。終わらせなければならない。
さあ、おそbarのせいで修羅barと化した山barとおさらbarする準備をしよう。