真打登場
池袋駅西口C3番出口を入った先は、喫茶店やファストフード店の立ち並ぶ一本道になっており、数分間真っすぐ進んで行くと改札のあるエリアに続く階段に行き当たる。その階段を登ってさらに直進することでようやく、利用者は丸の内や山の手線の改札へ辿り着き、望みの場所へと運ばれることになる。
とは言っても、階段を登ってすぐの所に、いきなり改札が設置されているわけではない。階段のすぐ左手にはパン屋のある脇道があるし、右手にはC8番と呼ばれている別の出口も設置されている。そういった諸々の施設に用の無い、単純に移動の手段として電車を利用しようと駅を訪れた人は、迷わず直進するのが良いだろう。最短の道を進んでいるはずなのに改札が見えないのは、上の階へとつながるエスカレーターが大通りのど真ん中に陣取ってこちらに背を向けているからであり、その横を通り抜けてしまえば改札は目と鼻の先である。
ツヅキの横を走り抜け、エスカレーターの右脇を過ぎる。その後ろに飯塚さんが続く。キャリーバックを持っていながらも、その走る速度は僕に遅れをとらないどころか、二人の距離はどんどん縮まっていく。登山をするために日頃から鍛えているので、決して僕が遅いと言うわけではないのだが。
飯塚さんは緑のケープの他に、苺がプリントされた薄紫のマスク付け紺に白いフリルを付けた足首までのドレスを着て、靴は大正時代の女性が吐くような黒色のブーツを履いている。いわゆる、ゴスロリファッションというやつだ。
僕の視線に気づいたのか、彼女はちらと自分の服に視線を落とす。
「ああ、これですか。お店のお姉さんに、見繕ってもらったんです。着たかったから。気になってたけど、目立つから見ないように、憧れないようにしてたんです。もう、違います。着るんです。着たいから」
服の説明に気を取られ、少し二人の距離が開く。いくら出奔し、内心に多少の変化があったとしても、聞いていた律儀な性格は変わっていない。
「飯塚さん、僕は君をずっと探していたんだ」
僕は少し、気取った風で飯塚さんに語りかける。何を言っても無駄な気がするけれども、話しくらいはしてくれるだろう。
「元の生活に戻ろう。吉田さんも、心配しているよ」
吉田さんの名を聞いた途端、彼女の顔が歪み、速度が上がる。キャリーバックの車輪が熱を帯び、床に黒く焦げた跡を残す。耳をつんざくような甲高い摩擦音が、ほぼ無人の駅内に反響する。やはりと言うべきか、彼女の身体も既に人智を越えた領域に侵入してしまっている。このまま直線勝負になれば追いつかれるのも時間の問題だが、僕には秘策があった。
エスカレーターを通り抜け、そのまま直進すれば丸の内線の改札へ行きつく。飯塚さんは、僕が改札へ逃げ込もうと考えているのだろうが、それは違う。改札とエスカレーターの間にある、数多の柱が立ち並ぶ池袋駅屈指の柱廊こそが、僕の目的地だ。
普段ならば、柱の四辺に設置されている電光掲示板には様々な広告が表示されているはずだ。最近は有名な動画投稿者が広告塔となって商品を宣伝している映像が映っているのだが、今は駅の暗闇と、必死に逃げ惑う僕を映し出している。
柱の角を左に曲がり、その先の柱を右に折れる。いくら足が速いとて、いや速いからこそ、キャリーバックを引きずったままで急なカーブを曲がり切るのは難しいだろう。狙い通り、飯塚さんは柱を曲がるたびに外側へ大きく膨らみ、縮まっていた距離を再び離すことに成功した。ダメ押しとばかりに、柱の陰に持っていたバッグを仕込む。猛スピードで曲がって来た飯塚さんは、足元の罠に気づかずに踏みつけ、床に頭をしたたかに打ち付ける。他の人間が転んだのならば慌てて駆け付ける所だが、相手は飯塚さんである。オソバや教授と同じ、突き抜けた人間になりつつある存在。案の定、怪我ひとつなくあっさりと起き上がり、ピンクのキャリーバックを拾って投げつけてくる。その放物線は僕の真横をすり抜け、激突した柱には砲弾が激突したようなへこみが生まれる。
「飯塚さん、乱暴はやめてくれないかな?僕は別に、無理して戦うことも無いと思うんだけど」
僕は柱廊を抜け出し、丸の内線ではなく、山手線の改札へと向かう。背後から、地の底から響いてくるような足音に乗せて、怨嗟のような声が響く。
「そちらに無くても、私にはあります」
丸の内線の改札、及びホームへと続く階段を横目に通り抜けると、中央1改札が見えてくる。改札脇のクリームパンの店は、悪くはないけれども食べすぎると少しお腹が緩くなるのに注意だ。
「吉田さんは、私みたいな人間にも優しくして下さいました。だからどうあっても、吉田さんを見守ろうと決めました」
クリームパンの店の横を通り過ぎる。一個250円、気軽に買うには少々応える値段設定だと言わざるを得ないだろう。新商品のシークレット味は、店員に話しかけなければ詳細がわからないらしい。商売上手だ。
「吉田さんは、私を探しました。すぐにでも出ていきたかったけれど、決めたことだから我慢しました。そうしたら、貴方達が彼女に取り入ってきました。怪しい男三人組です」
中央1改札、最初の入り口をスルーして、奥の改札へ向かう。変に曲がるよりは、真っすぐ走っていたほうが彼女が何か投げてきた時に都合が良いだろう。何より、もう彼女はキャリーバックを転がしていないのだ。つまり、さっきよりもずっと速い。
「私は、ずっと見ていました。カフェでも、駅でも。友達を守るのは、きっと正しいことだから。でも、正しいからじゃなくて、したいからするんです。したんです」
奥の改札に近づくと、エビやタコのスナックを売っている店が視界に映る。こっちの商品は一度も買ったことがない。あまり海鮮物は好きではないのだ。
「観察して、聞いて、話してみて、確信しました。本当は、あまり言いたくないけれど。いままで、良い部分だけを見るように努めてきましたから。でも、これからは、心の赴くままに。消えるべき物は、消していかなければ。傷つけるべきものは、傷つけなければ。躊躇も、譲歩もありません。私は、貴方が、嫌いです」
右に曲がり、エビの店の奥にある改札を通りぬける。もちろん、電車に乗るためではない。逃げるためだ。小規模なユニクロの店が置いてある地点を左に曲がる。と、同時に飯塚さんが改札を文字通り押しつぶしながら直進してくる。ついさっきまでと比べても、思考や発送が明らかに荒っぽくなっている。まるで、全てを壊してやる、という気概がにじみ出ているようだ。
もう、僕と彼女との距離は20メートルも無い。しかし、僕はどうにかこうにか、池袋駅の1、2番線、埼京線、湘南新宿ラインの階段へとたどり着き、一段飛ばしで地上へと駆け上る。登り切った先は5号車登場口となってはいたが、当然電車は来ない。線路に降りて逃げても追いつかれるだろう。だったら、少しでも可能性がある方に賭けるしかない。
僕は1番線のホームを走り、6号車搭乗口付近の階段へと向かう。頼む、間に合ってくれと心の中で強く念じながら。当てが外れないでくれと、僕にしては珍しく、本気で神頼みをしながら。
階段へとたどり着き、降りようとした僕の背中を飯塚さんの蹴りが襲う。ついに追いつかれてしまったわけだ。咄嗟に振り向き両手で防いだが、所詮一般人の域を出ない僕の腕が彼女を止められるわけがない。僕は大きく宙へ投げ出され、踊り場へと背中から叩きつけられる。立ち上がろうとするが、どこかを痛めてしまったようで力が入らない。肺が強く圧迫されてしまったようで、呼吸すらおぼつかない。折れてなければいいのだが、とは考えない。このままでは、骨どころか命すら危ういのだから。
「私は、見ていました」
飯塚さんは息を整えながら、ゆっくりと階段を降りてくる。
「私がエスカレーターを嫌いな事。知っているんですよね?エスカレーターのこと、どうにかしようとした、そうでしょう?そして、できなかった。貴方は、弱い。弱さは、否定しなければ。だから、嫌いです」
「僕が不正解なのは別に良い。だけど、別に飯塚さんが道を踏み外すことはない」
仰向けのまま、浅い呼吸しかできないままに言葉を発する。時間稼ぎという側面もあるが、これは僕の本心でもあった。
「例えばツヅキのやったように、少しの間でも流れを変えることができれば、人生大分違うと思うんだけど」
飯塚さんは足を止め、顔を歪ませる。感情を殆ど見せなかった彼女が初めて見せた表情は、失望と悲嘆の入り混じった顔だった。
「確かに、あの方のやり方なら、壊れる必要も、壊す必要も無いのかもしれません。しかし、それは貴方を否定しない理由にはならない。私と同じ、何の解答も得ることのできなかった貴方は、かつての私と同じです。何も成すことのない凡人。今の私が、この世で最も忌み嫌う者」
なるほど、そうかもしれない。彼女があの時、僕達がエスカレーター理論に挑戦していたのを見ていたのだとしたら、一番個性にかけて、面白みの無い人間は間違いなく僕だろう。ツヅキや教授がどう言おうが、結局のところ、僕は凡人の域を出ない一般人なのだ。場違いなことに、僕は今にも自分を仕留めようとしている相手に感謝の念を覚えていた。思えば今回の件もそうだ。僕は吉田さんとオソバの話の場を設けただけで、あとは流されるままに逃げて、話して、また逃げていただけだ。
結局のところ、僕はただの人間だった。オソバやツヅキ、飯塚さんのようにはなれない。
「飯塚さん、君は自分が何をしようとしているのか、わかってるのか?」
飯塚さんは遂に階段を降り、未だ動けないでいる僕の前に立つ。新品の黒のブーツが、暗闇の中で艶やかな光沢を纏っていた。
「これはれっきとした暴行罪で、殺人未遂だ。警察に捕まりたくないのなら、今すぐにこんなことはやめたほうがいい」
「犯罪?警察?何を今さら」
飯塚さんは明らかに気分を害した様子で、荒々しくブーツを踏み鳴らす。床にひびが走り、その亀裂が壁の中腹あたりにまで伸びる。
「もう、そういったものを気にするのは止めたんですよ。もういいですか?私も、暇じゃないので」
話を切り上げ、足を持ち上げる。止めを刺すつもりなのだろう。僕は説得を諦め、目を閉じる。
「それじゃあ飯塚さん、降参だ。どうか、命だけは助けてくれ」
「申し訳ありませんが、それはできません。少しでも容赦をかけてしまうと、元の自分に戻ってしまいそうなので」
そう、結局のところ、突出した人間が他より優れているのは、心の極まり具合なのだ。他人に厳しく、それ以上に自分に厳しい。自らに課した掟を何が何でも守ろうとするバカ正直さと、ブレない精神。絶対に譲れない自己を確立した人間は、良くも悪くも、突き抜けた人間になるのだろう。端的に言って、ヤバい奴ほど強い。
そして。
「ところで飯塚さん、そこのエスカレーター、なんで直ってるんだろうね?」
「エスカレーター?一体何のことを――」
瞬間、地響きのような轟音が駅構内に響き渡り、僕と飯塚さんが降りてきた階段の横、凡人の象徴(飯塚さん曰く)たるエスカレーターをホームから走って来た亀裂が両断する。その断絶は駅の床に行きついてさらに進み、飯塚さんと僕の間をも一刀両断する。
「なんかよお、俺が壊したはずのヤツが直ってやがるから戻ってきたら、知らねえうちにクライマックスじゃねえか。俺を置いて、何やってんだお前ら?」
オソバは僕が知る中で、断トツで一番ヤバい奴だ。