飯塚さん
「頼む、加藤。ここで終わってくれ。」
話をする間も無かった。説明を終えたツヅキは、半身になり、左肩をこちらに見せる。左足に重心を乗せ、テニスボールを地面に落とし、掴んで、落とし、掴んでを繰り返す。テレビで幾度も見たことのある、テニスプレーヤーがサーブを打つ時のルーティーンだ。完全に、臨戦態勢に入っている。バウンドするボールに視線を向けるため、うつむいている表情を窺うことはできないが、そこには確かな、拒絶と覚悟を読み取ることができた。
「別に、悪気があったわけじゃないんだ」
僕はまだ、ツヅキと一戦交える覚悟を持てず、無為な言い訳を重ねる。この状況にも、僕の体質にも、今までの人生にも。
「僕のこの体質は、持病のようなものであって」
バウンドが止み、黄緑色のボールが完全に手の内に収まる。精神統一が終わったらしい。
「そりゃあ、なるべく人に迷惑をかけないように、気をつけたんだ」
下から上へ、左手が綺麗な直線を描き、ボールが宙へ放られる。暗い駅構内で唯一動く、一片の角もない完全な球体。
「今まで、我慢してくれてありがとう。大学の皆には、迷惑をかけたと思う」
膝を曲げ、腰を捻り、ラケットを握った右手を90度に曲げる。捻りと、伸びの余地を残した、この空きこそが、打球の威力を底上げする。
「でも、ツヅキに思惑があったように、僕にもしたいことができたんだ」
ボールが、落ちてくる。理想的なフォームで振られたラケットのインパクトが、最も強くなるであろう地点へ向けて、真っすぐに。
「だからごめん、僕も黙って終わるわけにはいかない。本当にすまない、ツヅキ」
数秒の弛緩の後、線が切れたように、膝が伸び、腰の捻りが戻り、伸びた肘が振り下ろされる。地面から膝、太腿、腰、背中、腕、肘、そしてラケットへと伝わった力のベクトルは、向かうべき球体、テニスボールへと――
「『定』量的に言って、迂闊だったと言わざるを得ない、ですね。」
トン、トン、と、音が駅構内にこだまする。バウンドの間隔はどんどん短くなっていき、最後にはボールが放たれる前の、ある種の荘厳さを感じさせる静謐さが、再び周囲に広がっていく。
ツヅキは、球を打たなかった。インパクトの直前、ラケットの軌道を変え、駅床のコンクリートをかすめるようにして勢いを誤魔化した。ラケットが掠った個所から、焦げ臭い煙が立ち上っている。どうやら、本当にアレを使いこなしているらしい。恐ろしいことだ。
「凄まじい威力ですね、これがテニスサークルの神器ですか。『定』量的に言って、これの本来の持ち主であるオソバさんとは、どうあっても敵対したくないと言えるでしょうね」
「……なぜ、貴方がここへ?」
池袋駅構内、丸の内線や西武池袋線へと向かう大通りの右の壁、東部販店の自動ドアの前に居たのは、もう言うまでもないだろうが、妙な口調で人を混乱させることで有名な、座興大学の三大名誉教授の一人、小野教授だった。
「『定』量的に言って、愚問であると言わざるを得ないですね。プロを舐めるな、といっておきましょうか」
小野教授は、よれよれになった緑のスーツを小脇に抱え、ネクタイを緩めながら話を続ける。言葉に反して、多少は無理をしていたらしい。
「あなたが襲った私のゼミ生は、全員教務棟内に保護済みです。傷らしい傷の残っていないところは、流石の手腕といったところでしょうか。今の私の『定』命は、駅に倒れている我がゼミ生を追加で助けることです」
どうやら、さっきまでの一本道で倒れていたのも、小野教授のゼミ生だったらしい。話の流れからして、大学の帰り道をツヅキに襲われた、ということだろう。今のツヅキを見ていなかったら、きっと即座に否定していただろうことは想像に難くない。
「もう少し、時間がかかると思っていたのですがね」
本日幾度目かのため息をついて、ツヅキは再びボールを手に取る。
「加藤と、小野教授ですか。一気に旗色が悪くなりました」
弱気な台詞とは裏腹に、あくまで戦う姿勢は崩さず、ツヅキは半身の構えを取る。その姿は、軽薄なノンポリシーといった、僕がツヅキに描いていたイメージとはかけ離れたものだった。ここまで彼が使命感と義務感とを持ち合わせている人間だったとは。
「『定』量的に言って、そんなことにはならない、と言わざるを得ないですね」
教務棟で見せた、突き刺すような威圧感を出さずに、あくまで肩の力を抜いてツヅキに語りかける。
「何故なら、私はアナタ方と敵対しないからです」
ボールを左手に持ったままで、ツヅキは訝し気に教授を見つめる。
「……何ですって?」
「『定』量的に言って、アナタ方のような人間が居る情勢下での学園改革など、土台無理な話であると言わざるを得ないですね。仮に為されたとしても、こちらの被害もただでは済まないでしょう」
教授は海外ドラマのように、両肩を上げ顔を左右に振り、「やれやれ」といった風を装う。
「今回のことで、はっきりとわかりました。アナタ方理学部に対する最も適切な対応は、制圧ではなく静観である、どうせあと二年弱待つだけのこと。私はアナタ方が卒業してから、ゆっくりと理想の学園を作り上げることにします。それに今は、何よりも早く、私のゼミ生を保護せねばなりませんから」
「……」
少しの間を置いて、ツヅキはラケットを下ろした。心なしか、駅構内に張り詰められていた、緊張感が少し薄れたような気がした。
「……嘘ではないようですね。だとしたら、僕には貴方と戦う理由は無い。『定』量的にも、常識的にも」
「ツヅキ、僕からもお願いする」
ここぞとばかりに、僕はツヅキに交渉する。何も僕だって、好きで滅茶苦茶をやっているわけではない。何事もなく、平穏なキャンパスライフを送ることができるのなら、それに越したことはないのだ。勿論、ツヅキと戦いたくもない。
「あとほんの少しだけ、待っていてくれないか?必ず、君の友人には危害を加えない。あと少しで、ケリをつけられそうなんだ。あの子のことに関しても、僕自身のことに関しても」
今日一番の誠実さと真剣さを持って、僕はハッキリと宣言した。そう、これだけは譲れない。のらりくらりと意見をころころ変えることの多い僕だけれど、ことこれに関してだけは座興生になってからの二年と半年、一度もブレたことはない。
ついさっきまで、すっかり忘れていたわけだけど、今思い出した。
僕は、この大学に入って、自分の体質に決着を付けたかったのだ。
「……わかった」
ツヅキは渋々と言った様子で頷く。流石に、もう戦うような空気では無くなっていたので当たり前と言えば当たり前だけど。なんだかんだで、空気を読むことは誰よりもできるわけで、そんなツヅキの性質に上手く取り入った形になった。
さて、不測の事態が建て続きに起こりまくったけれども、なんだかんだで小野教授は僕達が卒業するまでは身を引き、ツヅキとの衝突は免れた。
だから、あと残っているにはただ一つ。
「加藤、僕は君を信じることにした」
ツヅキがそう言った直後、池袋の駅構内、その暗闇の奥から、何かを引きずっているような音が聞こえてくる。
「けれどやっぱり、口だけの言葉よりも、態度で示したもらったほうが、僕としても気が楽になることもまた確かな事だ」
音が近づいてくるに従って、その音が、左手に見えるパン屋のある通りから響いてくることがわかる。階段を登って、すぐの脇道だ。
「だから、証明してくれ。君が言葉通りの信用に足る人物であると」
真っ暗な通路に、ほのかに赤やショッキングピンクといった、刺激的な色が浮かび上がる。
「飯塚さん、僕はもう、君と戦うつもりは無いよ。代わりに、加藤が相手してくれるそうだ」
ピンクのキャリーバックに、緑色のケープを着た、中学生にしか見えないほどちんまりとした飯塚さんと呼ばれた女性は、虚ろな視線をツヅキに向け、数秒の沈黙の後興味を失ったのか不意に視線を逸らす。逸らした視線が僕の目線と直にぶつかる。
飯塚さん、と呼ばれた女性は、大きく息を吸い込み、深い深呼吸を何度か繰り返し、意を決したような表情で僕を見据え、毅然と言い放った。
「初めまして、飯塚と申します。私は貴方が嫌いです」