普通の、大学生活
矯正歯科の看板、薬局、海鮮丼物屋。歩きなれた道、言わずとも知れた立教通りを歩く。当初こそ走っていたが、この期に及んで急ぐ必要も無いだろうと、むしろのんびりと歩く。誰の、何の影響なのか、暗いとはいえたかだか21時だというのに、人通りは全くない。街灯も、信号も、年中無休のファミリーマートですら沈黙を貫いている。月並みな表現だが、町全体が眠ってしまったかのようだ。
ファミリーマートのお隣さん、バーガーキングを過ぎ、「柿本ビル」と書かれたビルの真正面。道路を隔てた先にあるのが、池袋駅C3番出口。この三年間、数えきれないほど通って来た道だ。だが今は、その道がなんだか恐ろしい。刑の執行に向かう囚人は、あるいはこんな気持ちなんじゃないだろうか。一度も見せたことの無い、冷徹で残酷な一面を、この道もまた内包していた、ということかもしれない。
僕の罪?罪を贖え?何のことかさっぱりわからない。よく考えればわかるような気もするけれど、考えてはいけないという思念が、僕の内からふつふつと湧いてくる。とうの昔に、このことに関しては考えないように、と堅く誓ったような気がする。わからない。僕には、よくわからない。
わからないけれど、僕は悪くない気がする。だって、僕にとっては僕が一番大切なんだから。だから、今までのあれもこれも、全部必要な犠牲だったんだ。僕が損害を被るくらいなら、他の奴が傷つけばいい。そんな気がする。よくわからないけれど。そう、僕にはよくわからないんだ。
事件の全容、ツヅキの動機、飯塚さんの行方、吉田さんの安否、僕の罪。僕。わからないこと、知らないことを幾つも抱えながら、僕は階段を降りる。C2番出口に、壊すべきエレベーターは無い。
エスカレーター理論は、人生の縮図だ。この世の誰もが、生まれた時から存在している何か大きな流れの中で右往左往している。どうしようもなく、流れに身を任せなければならないこともなる。今の僕のように。
どこもかしこも、エスカレーターばかりだ。
池袋駅は広い。階段を降りて改札、とそう都合よくはいかない。電車に乗りたければ、運ばれたければ、まずは直線の地下道を進んでいく必要がある。朝早い時間にここを走っている若者が居たら、十中八九は授業に遅れそうな座興大生だろう。赤、灰青色、ベージュ。様々な色のタイルが床を彩り、通りにはコーヒーチェーンやハンバーガーチェーンが並んでいるのだが、立教通りと同様、照明を全て落とされている。月の光も届かない地下のこと、目が慣れるまで壁に手をつきながら少しずつ進まなければならなかった。彩り豊かな床の中で、赤のタイルだけが静脈血のような濁った暗褐色で存在を出張している。
壁から手を放し、地下道をひたすら進んで行く。一本道なので、迷うも何もない。
つま先に、なにか柔らかくて、生温かい物が当たる。落とし物があるとは思っていなかったので、危うく顔から地面に倒れるところだった。躓きかけ、一体何を蹴ってしまったのかとおそるおそる触れてみる。
人だった。視点を低くして、改めて見回すと、この先の道で何人もの人が倒れているのがわかる。そのどれもが、僕と同世代の、大学生の若者だった。
すぐに抱き起し、脈を見る。生きてはいるが、意識は無い。スマホの照明アプリを起動して、体を調べる。教務棟の前で見つけた時のように、目立った外傷は無いと思われたが、腹部に何か球状の物が強く当たった跡と、顔面に網目状の圧迫痕があった。
この網目模様は……ラケットだろうか?だとしたら腹部の傷跡は……。
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地下道の先から、風船が破裂するような音が鳴り、間髪入れず何かが削れ、崩壊するような振動と音が響く。
駅の普請を揺るがすほどの衝撃である。僕はなんとか立ち上がり、倒れている人に足をとられないように気をつけながら改札のあるエリアへと歩を進めた。副都心線への改札ならこの辺りにもあるけれども、生憎の暗闇である。そもそも利用したこともない。
地下道の一番奥、横幅のある階段を登れば、ようやく改札のあるエリアに出る。丸ノ内線、副都心線、山手線、埼京線、有楽町線。数多くの路線をその構内の抱えている池袋駅にとっては、むしろここからが迷いどころである。
しかし、僕はこのだだっ広い駅の中で、ツヅキを探してあちこちさ迷い歩く必要に迫られることはなかった。それが果たして僥倖だったのか否かは、今となってはわからないけれど。
階段を登り切った先、池袋駅の深部へと一本、太い道が続いている。右手にはC8番出口、左には側道があり、フランスチックなパン屋があるはずだ。いつもと同じ、うんざりするほど通いなれた景色が目の前に広がる。
その代わり映えのないはずの道に、今までよりも遥かに多くの人が倒れていた。やはり同世代の大学生のように見える。ある意味、この光景も見慣れた物と言えるかもしれない。
だから、これまで以上に異常だったのは。通りの壁や床、天井にも。所構わずに、何か思い球体で抉ったような跡が付いていることだった。削られてできた穴の直系と、その威力。地下道で得た確信が、更に深まる。僕はこの武器を知っている。暴虐の限りを尽くし、ありとあらゆる物を壊して再建を促す、神の御業とも言えるほどの絶対的な侵略。忘れたくても、身心に刻まれた恐怖が忘却を決して許さない。
瞬間、僕の顔のすぐ横を、何か丸い物が高速度で通り過ぎて行ったかと思うと、一瞬の間を置いて轟音が鳴り響く。後ろの様子が気になるが、よそ見をしていたら命が危ない。まあ、見なくてもわかるけども。階段の天井に穴が開いているのだろう。大体、テニスボールくらいの。
「ああ、ちょっとごめん。友人が来たみたいだから、少しの間、待っててくれるかな?」
「……」
よく知っている声が、駅の奥から反響を伴い届いてくる。暫しの間を置いて、車輪が転がるような音がする。普段は人通りがあるので意識していなかったが、池袋駅は広大なトンネルのようなものだと言ってしまって差し支えない。人通りの無い、雑音の消えた池袋駅はこんなにも音を容易く伝える建造物だったのかと、通いなれた場所の変容に僕は狼狽える。夜の小学校とか図書館が、生半可な心霊スポットよりも恐ろしく見える、あの感覚。この先には、丸の内線の改札だの、クリームパンの店だの、東部インフォメーションなる案内所だのがあるはずだ。あるはずなのに、今はとてもそんな風には思えない。
「待たせて悪かったね。ちょっと、不測の先客があってさ」
ツヅキが暗闇の中から静かに姿を現す。普段身に纏っている気さくな印象を鳴りを潜め、今はただただ、冷徹な印象を受ける。彼にとって、何かしらのイレギュラーが発生したようだが、彼がここで登場してきたことは、僕にとっても不測の事態だった。
明らかな矛盾。考えるまでもなく、一目でわかる決定的な瑕疵を、ツヅキはその右手に携えていた。
何故、ツヅキがオソバの武器を持っているのだろう?
力を抜き、いかにも自然体といった風に垂らした右手に握られているのは、硬式用のテニスラケット、のはずだ。少なくとも、外見にはそう見える。
だが、あれは本来オソバの所有物であり、彼が暴虐の限りを尽くす以前から座興大学にて受け継がれてきた、理学部テニス会の隠し玉である。
張ってあるガットは「ミクロパワー」。数あるガットの中でも最も反発性を高めたものだ。つまり、回転ではなく純粋な直線速度を追求した超上級者向けのガットである。初心者が扱えば、ボールを制御できずにバックアウトを繰り返すこと請け合いの、扱いの難しいガットだ。しかし、ここはテニスコートではない。狙いを定めるべきは、白線の内側ではなく、相手の――つまり僕の体である。
そしてあのラケットは、その威力にのみ特化したガットを、テンション200で張っている。平均の実に4倍であり、それだけの張りを実現するラケットのほうもまた、普通の素材ではない。
僕が知っているのはここまでである。とにかく、異常な性能を誇る、門外不出の神器であると考えて問題ない。だから、やはり問題は、何故ツヅキがそれを持っているのか、という所に行きつく。
「ああ、これ?僕が持っててビックリしたかな?別に不思議じゃないでしょ?僕だって理学部テニス会の一員なんだから、別に扱えてなんの疑問もない。もちろん、あのオソバが貸してくれるはずも無いから、彼には黙って持ち出すことになったけどね」
ラケットを揺らしながら、ツヅキはあくまで軽い調子で語りかけてくる。しかし、やはりそこに、いつもの親しみを感じることはできない。
「説明してくれ、ツヅキ」
さっき聞こえた、何かの車輪の音とか、辺りに倒れている人達とか、諸々の疑問を全て込めて、僕はツヅキに問いかける。
「なんでこんなことを?」
電話した時に聞こえた、重いため息を一つ吐き、かの善人は話し始める。
「いいよ、あんまり時間も無いけど。一応、物語だとしたら、今が解決編だろうしね」
「加藤、僕は普通の大学生だ。君も、オソバも、座興大学の面々も、普通の大学生で、小野教授と沼地教授は普通の、って言うと失礼かもしれないけれど、とにかく大学で教鞭をとっている普通の教授のはずなんだ。間違っても、教壇を蹴ったり、学園に革命を企てるようなことはしない、そのはずだ。
「僕は座興大学に、普通の大学生として入学した。多少面白みに欠けていようとも、人並みに大学生活を楽しむつもりでいたし、人並みに何かをつかみ取ろうと考えて門戸を叩いた、そのはずだった。
「でも、ここに普通の大学生活は無かった。
「最初の数か月は、僕もまだ異常に気付いてはいなかった。まだ、君の影響力が低かったのかもしれないし、学園全体に広まり切っていなかっただけかもしれない。本当のところは、今となってはもう誰にもわからない。
「でも、ある日突然気づいたんだ。これはおかしい、って。なんでオソバは、警察に捕まらないんだ?なんで誰も大学の歴史を知らないんだ?なんで一介の教授に過ぎない人間が多大な権力を持っているんだ?学園のところどころで、凄惨な衝突が毎日のように起こっている。そしてそのことに誰も疑問を抱いていない。学生にも教員にも職員にも変な人が多すぎる。これが、僕の望んでいた大学生活なのか?ってね。
「怖かったよ。急に冷水の中に放り込まれたみたいに、体が縮こまるような思いがした。何でこんなことになってるんだろう、って。そして、何で僕は今の今まで、一目見ればすぐ感づくようなこの状況に、疑問を持たなかったんだろう、って。
「僕は授業をサボるようになった。常識の通用しなくなったこの場所で、自分の身を守るにはこうするしかなかった。でも、大学生である以上単位はとらなくてはならないし、危険な学友達ともうまくやっていかなければならない。僕は、ここで生きていくために、四年間を平穏に過ごすために、徹底的に、自分を変えることになった。
「危険な人間と味方を瞬時に見分けるために、言葉の裏を読んで詠んで予みまくった。単位を取るために、教授の弱みをとことん調べ上げて、良心を捨て脅迫まがいの行為を繰り返した。いざ、戦わなくてはならなくなった時のために、身体に鞭打って肉体改造を施した。知ってる?このラケット、結構重いんだよ。素人なら、持ち上げることすらできない。球を弾にして打ち出すなんてことは、なおさらできないだろうね。
「僕の自己改革、防衛行動は結果的に実を結ぶことになった。ただただ現状に怯え、逃げ隠れしていただけの僕が、皆に恐れられる、かつて僕が忌み嫌っていたはずの存在になってしまうほどに。僕はただ、この四年間を普通に過ごしたかっただけなのに。
「それでも、ともかく、これまでの三年間、僕はどうにか上手くやってこれたんだ。あとの一年ちょっとも、なんとか凌いでいけるはずだ。人読みの技術と、それなりの身体能力が、この大学で僕が得た物だった。
「でも、それだけではいかなくなってしまった。ただのらりくらりとやり過ごすだけでは、どうしようもなくなってしまったんだ。こんな下らない茶番劇を終わらせて、元の生活に戻らなければならないと、今の僕は思っている。
「大切な人ができた。彼女には、絶対に危険な学生生活を送らせたくない。
「今ここで、さっさと終わらせてしまおう。
「加藤、いつもオソバに巻き込まれている苦労人、という立ち位置に居る君だけが、結果的に、いつまでも一貫して、まともな人間だった。これまでの三年間で、いつも厄災の渦中にしたのは、オソバでも理学部でもテニスサークルでも『彼女』でもなく、加藤、君だったんだ。
「これで、話すべきことは話した。加藤、覚悟の準備をしてくれ。