「山bar」にて
『定量的人生の求め方についての考察』
「はあ?失踪事件?」
我らが座教大学、その近所にある「山bar」というカフェのテーブル席で、オソバが素っ頓狂な声をあげる。遠慮を知らない彼の声は、どす黒い隈をしたサラリーマンや、隅のテーブル席で読書に勤しむ女子高生からの白い視線に晒されるが、傍若無人な彼がそのようなことを気にするはずもない。
通称「人斬り襲刃」、略称「オソバ」は大学の3回生の中で、いや学内全生徒の中で最も恐れられていると言っても過言でない男である。傍若無人、天上天下唯我独殺、襲葉に非ずんば人に非ず。その勝手気ままな性格と荒っぽい言動で目に入る物全てに何かしらの損害を与えることから、彼が入学した時から大学当局は数多くの罰を彼に課してきたが、いつの日か彼に処罰を下す人間は一人もいなくなっていた。どんな手段を使ったのかは定かではないが、信じられないことに彼はたった一人の個人にして、創立140年以上の歴史を持ち厳格な規律で有名なミッションスクールである座教大学の頂点に君臨したのである。彼の来ているTシャツにプリントされている人間は「彼がその内始末する予定の人間」であると噂されており、自分の顔が不運にも載ってしまった教授はあまりの恐怖から自主退職を願い出てしまうほどであった。
そのオソバと、もう一人の座教生であるツヅキに対峙しているプレッシャーで今にも泣きそうになりながら、僕達のサークル「座教大学ハイキングクラブ」の新入生である吉田という名の女学生が答える。
「は、はい。といっても、犯罪みたいな、そういう過激な感じじゃないんですけど」
肩はカチコチに固まり、声は擦れたように小さく、傍から見ても一目でわかるくらいに震えている。無理もない、大学に入学して早々先輩と、それもあの「オソバ」と対面しなければならないなんて、僕だって願い下げである。言い方は悪いが、どう考えても愚かな選択であると言わざるを得ない。
――そして、その愚かな選択をしなければならない程――彼女は切羽詰まっているのだろう。
「私、同じ授業に出席していた子が居て、とても良くしてもらっていたんですけど、あの、飯塚さんっていうんですけど。その子が最近授業に全然顔を出さなくて、そろそろ単位がとれないんじゃないかって思って、それで何かあったのかなって思って、調べてみたんです」
かろうじて絞り出した声に、彼女の横に座っていたもう一人の三回生、ツヅキが答える。
「確かに、授業に出てないだけじゃ失踪とは言えないね。大学生なら取れない単位は捨てに行ったり、モラトリアムに陥っても全く不思議じゃない」
優しい声色と、穏やかな表情で吉田さんの言葉に応える。オソバにすっかり怯えてしまっている女学生の緊張をほぐそうとしているのだろう、あらかじめ呼んでおいてよかったと心から思う。少なくとも人の良さに関して言えば、僕の知り合いの中でツヅキの右に出る者はいない。少なくとも、人の良さに関しては、だが。
「は、はい、なので、私も最初、勉強についていけなくなったとか、そういう感じなのかなとか、そう思って、勉強なら、私も何か力になれると思って、あの、私ノートだけはしっかりとってますから、それで、つーちゃんに、あ、つーちゃんっていうのは飯塚さんの呼び名なんですけれど、それで、まずはつーちゃんと話そうと思って、大学でつーちゃんに話しかけたんです」
「なるほど、ちゃんと調べた上で異常だと断定したわけだ。うん、根回しがいいね、人に頼る前にまずは自分でやってみる、そういうの凄く良いと思うよ。っていうか、オソバに助けを求めるくらいなら自分で頑張った方がマシか!」
アハハハと笑うツヅキに釣られて、吉田さんも思わずといった風に微笑む。ここら辺の手腕は本当に流石といったところだ。笑いの出汁にされたオソバはというと、少し不満げではあるが別に怒っているとかそういうわけではない。あらゆる悪口や軽口はオソバにとって何の意味も持たない。何かを言われて怒るということは、その言葉を敵と認めることになるから。オソバに敵は居ない。彼の視界には、ただ傷つける対象が居るのみである。だから、悪口や軽口にいちいち反応などしない。自分の悪口を言った人間も、自分を崇め礼賛する人間も、ただただ平等に、公正に、あるいは不平等に叩きのめすだけ。僕達が今この瞬間五体満足でいられるかどうかは、そしてこの先も五体満足でいられるかどうかは、実は完全に彼の気分次第だったりするのだ。全くもって恐ろしいことである。
「まあ僕達に相談してくるって時点で、ただ事じゃないってのはなんとなくわかってたけど、一筋縄じゃいかなそうだね。興味深く拝聴させてもらうよ、吉田さん。後輩の頼みを無下にするほど、僕達は薄情じゃないんでね。そうだろ?二人とも」
いくらか緊張の解けた吉田さんと、余裕の笑みを浮かべたツヅキが向い席に座っている僕とオソバを同時に見やる。期待と、若干の不安が入り混じった目だ。彼らは果たして助けてくれるだろうか?全くもって自分の利益にならないことを、それも失踪事件なんていういかにも怪しい香りのする案件を。
愚問だと、オソバと僕――加藤は首を縦に振って答える。オソバみたいに好き勝手したいわけじゃないし、ツヅキみたいに人が良いわけじゃない。ただ、身の回りの面倒ごとはさっさと終わらせてしまったほうがいい。なんといっても、こういった下らない出来事は少し目を話した隙に山のように積み重なっていくものだから。降りかかる火の粉は、服に燃え移る前に払わねばならない。
さあ、物語を始める準備をしよう。