昼想夜夢
深呼吸をすると海の匂いが体中に染み渡る。改めて言われなければ思い出せないほど慣れたこの匂いも、針につける餌の見た目も彼女は好きでないと言う。数年前友人の紹介で知り合った彼女とは、仲間内で遊んでいるうちになんとなく一緒にいることが多くなって自然と付き合う流れになった。いつも彼女のしたいことを優先して、周りからはお似合いのカップルと言われてそう錯覚していた気もする。
お互いの家族にも紹介済みで、結婚という言葉もちらほらと会話に出てくるようになった。結婚を決断するにはすこし早い気もしたが、とくに結婚時期に理想があるわけでもなく、そういう相手がいてタイミングが合えばいつでも構わなかった。だが、彼女とこれからの人生をともにしていく状況を想像してみても、いまいちぴんとこない。そんなことは口が裂けても言えないが、結婚とはこういうものなのだろうかと思いかけたところで、先日彼女のふとした発言からけんかに発展し、それからずっと連絡を取っていない。
「例のアレ、カレー粉をかけたらまあまあ美味しく食べられたわ」
横で切れた道糸に仕掛けを作り直している苔山が、なんの脈絡もなく言った。子どものころ仲良くなった釣り仲間の苔山とは、同い年だが同じ学校に通ったことはない。お互いに趣味も同じでしゃべるペースも同じだからか一緒にいるのが楽でかなり気が合う。小学生のころの夢は「教皇」だった神社の三男坊は一応神職資格を持っているが普段は普通の会社員で、彼のする話は聞き流しても問題ないほど無駄な情報が多い。
「苔山くんてさあ、結婚とか考えたことある?」
「それってカレー粉万能説より重要?」
話をするまえから訊く相手を間違えていることはわかっていたが、そういう反応を求めていた自分もいる。しばらく無言になり、なんの反応もない竿を見たあと岩場のほうにいる人の釣り具合を眺めていると、苔山が高く細い声をあげた。
「黒継くん家はあ、次男だと遺産相続どのくらいもらえるものなのお?」
もともと中性的な声質をしている苔山が、本気で女性の声真似をすると本物の女性がしゃべっているように聞こえる。
「……よく知ってんね」
「俺の耳に届くほどのうわさって相当だぞ、黒継くん」
友人の結婚式に招かれたとき、新郎側の親族席に空席があって遺産相続でもめたらしいといううわさ話を聞かされて、そのとき一緒に参列していた彼女が冗談めかして訊いてきた言葉がそれだった。親はまだ健在で働いているというのに、真っ先に質問されたことが遺産相続についてだったから、驚きすぎてつい反射的に「最低な質問だな」と吐き捨てるように言ってしまった。その言い方に彼女は祝いの場であることも忘れて激昂した。
すこしわがままなところはあったが普段は常識的な人だったから、正直耳を疑った。茹でたカニのように赤面していたところをみると、行き過ぎた内容だったと本人も気づいたようだが引っ込みが付かなくなったのだろう。最初は冗談だと取り繕っていたが、あまりにも具体的な内容だったから、ずっと考えていたことがうっかり口から漏れたのではないかと疑った。ひとり取り乱す彼女の姿を見て、これからは大切にしようと思い直した気持ちが潮のように引いていくのを感じた。
友人を祝福すべきときに言い争いなんてしたくはなかったから、それ以上はなにも言わずなにごともなかったかのようにふるまった。だが、その態度も逆鱗に触れたのか感情が抑えられなくなっていった彼女の荒々しい声は、同じテーブルに座っていた友人の耳にまで届いていたらしい。そこから人づてに広まった彼女と黒継のけんか話はまったく関わりのない苔山にまで伝わっていった。
多少裕福な家に生まれただけで、自分がなにかを成したわけでも誰より優れているわけでもない。家の方針で厳しく育てられたから、友人たちと一般感覚がずれているようなこともなかった。それなのに結婚が形になってきた途端、彼女の目が自分を透かして家を見ていたと知って、ぞっとしてしまった。
「さっさと見切りをつけて次へ進むことも大事、ということだ」
そう言うと苔山は釣り道具一式を抱えて歩き出し、黒継も遅れてそれにつづく。釣り場を移動する途中、彼女から連絡が入り出てみると、いきなり金切り声が聞こえた。彼女の失言を周囲に広めた責任を問われ、無実を主張したが一方的にこちらが悪いと言って聞く耳すら持たない。彼女は怒ると長いから、面倒くさくなって黙りこくっていたら怒りは止まることを知らず、最終的には過去の何気ない言動まで遡って罵られ、彼女から正式に振られて通話は終了した。悩みから解放されたことにほっと安堵の息をつくと、苔山からはおめでとう、と拍手を送られた。
◇
月日は流れそんな出来事もすっかり忘れたころ、法事で本家には大量の親戚が押し寄せ、黒継は朝から家の手伝いで大忙しだった。大人たちは大広間で寛ぎ、子どもたちは別の部屋で集まって遊んでいる。そのどちらにも属したくない若い連中は各自敷地内で適当に行方をくらましていた。
書斎に入ると早々に逃げていた兄が椅子にふんぞり返り、机に足を乗せて、見覚えのあるファイルを眺めていた。それはなんども叔母から押し付けられたことのある、結婚適齢期の女性情報がみっちり詰まったお見合いファイルだ。会うたびにお見合いを勧められてはいたが結婚をしたがっていたのは元彼女だけで、まだ結婚願望はないとずっと拒否してきた。
「まさかお見合いする気? 彼女どうしたの?」
兄にはかなり美人な彼女がいていつも自慢していたがそういえば最近は話を聞かない。兄はファイルから目を離さずのんきな声で応えた。
「家からの資金援助は一切ない、って言ったら捨てられた」
豪華挙式、新婚旅行クルーズ、一等地に一戸建新居でセレブ生活を所望する彼女の夢を、「夢は夢の中でどうぞ」と一蹴したところ大げんかになって、甲斐性なしの守銭奴一族と謗られ捨てられたという。どこかで聞いたような話だと呆れてしまった。長いこと付き合っていたはずだが、根っから陽性の性格である兄に気にしている様子はない。
机に積まれたお見合いファイルを適当に開いてみると、まるでパラパラマンガのように誰も彼も同じポーズに真面目な面持ちで写っていた。グループごとにファイル分けされていて兄がいま見ている白いファイルは特別な、いわゆる資産家の令嬢だけがまとめられている。
「なんで金持ちと金持ちがくっつくのかなといつも不思議に思っていたけど、そういうことなんだよなあ」
名前だけでわかるような家柄同士なら価値観も似通っていて、疑心暗鬼になる必要もない。結婚となると単純な話でもないが、すくなくとも次男の受け取る遺産がいかほどか、などと詮索してくることはないだろう。
「ナシ……ナシ……アリ! ナシ……ナシよりのアリ……大平原!」
兄が頬づえをつき、雑にページをめくりながらぶつぶつと呟いている。写真だけを見て、容姿か胸の大きさで好みを寄り分けているらしい。しばらくは一緒になって「アリ・ナシ」ごっこに興じていたが、そのうち全員が同じ顔に見えてきて、ソファに移動して寝転んだ。
ファイルをぱらぱらとめくる兄はときどき嬉しそうに「おまえこういう人好きそう」と言って写真を見せてくる。どの人もたしかに好みのタイプで、兄に自分の趣味を把握されていることは若干悔しかった。そのあとに胸がちいさいだの、年齢が合わない、などと親切にも情報を付け加えてくれる。どちらかというと胸より脚のほうが好きなのだが、お見合い写真で脚まで写してくれている人は残念ながらいない。
今日は朝からずっと立ちっぱなしで親戚の世間話に付き合ったり、子どもたちの面倒をみたりと忙しかったからかいまになって疲れが追いかけてきた。
繰り返される兄の声が呪文のように部屋に響き、子守唄にはならないが目を閉じて聴いていた。兄は定期的に人の好みを言い当てようとしてきたが、もう疲れて目を開けるのも億劫になった。しばらく無視していると嬉々とした声で名前が連呼される。
「蓮、おい蓮。今度こそおまえのドストライク発見。胸は今ひとつだけど、きれい系で同い年、スプリングフィールドさん」
眠りの入り口まで片足を踏み入れたところで、兄のひとことで一気に引き戻された。頭のなかで気になった単語を復唱し目を開ける。
「――スプリング……フィールド…………スプリングフィールド?!」
「そう、スプリングフィールド」
あはは、と笑う兄がファイルを突き出している。寝そべったまま首だけ伸ばして写真を見ると、兄の言う通りそれまでに見せられた人のなかで一番の好みだった。もっとよく見たくてソファに手をかけ勢いをつけて体を起こそうとしたが、淵から手が滑って見事に床に落下した。受け身などできなかったから落ちたとき、テーブルに膝と頭を強かに打ち付けた。ものすごい音がしたが頭のなかはスプリングフィールドという言葉で埋め尽くされ、痛みはまったく感じなかった。兄の心配する声にも返事ができないほど慌てて駆け寄って、開かれていたファイルを机に押さえ、写真の女性をじっと見つめる。
春原悠。顔は大人びて化粧をしているから別人にも見えるが、じっと見ていると思い出のなかの幼い顔とリンクする。学歴欄に高校以前の記載はないが、顔も名前も記憶の通り、中学のときに転校してきた春原で間違いない。
気づいたときにはファイル片手に書斎を飛び出し、叔母の名前を大声で呼びながら大広間に駆け込んでいた。普段大声どころか自分からはまともにしゃべりさえしない子が取り乱していたから驚いたのだろう。大広間にいた親戚一同は唖然として固まっていて、全員に注目されてようやく落ち着きを取り戻した。
「騒いですみません。瑠花さんに緊急の用事があって」
きょろきょろしていると全員が振り返った窓際で、ぽかんとした顔の叔母がちいさく手を振っている。黒継はみんなの視線を集めたまま、説明もせず叔母の腕を掴み応接間に引っ張っていった。
通っていた中学は土地柄のせいか転校生の出入りが比較的激しい学校だった。新しい生徒が増えたり減ったりするのは珍しいことではなかったが、別の土地からきた人というのはやはり地元の人とは雰囲気が違うし、前の学校の制服を着たままの人などなおさら目立つ。彼女は清楚なデザインのジャンパースカートの制服を着ていて特に珍しかったからかなり注目されていた。
都会から来た抜けるように色白い少女は洗練された物腰で、浜辺を裸足で転げ回る地元の女子とは一線を画していた。くわえて捉えどころのない根無し草は大いにミステリアスな雰囲気を生み、男女関係なく彼女のことはよく話題にあがった。黒継ももちろん年頃の男子として好奇心が湧かないわけもなく、学校で彼女を見かければ目が自動で追いかけてしまう。といってもそれはほとんどの男子が同じだった。
どんな転校生でも特別感は日を追うごとに薄れていくもので、よほど面白い性格の人気者でなければ注目は持続しない。実際の春原は見た目の印象とは違って人当たりがよかったからすぐに打ち解けたのに、なぜか彼女だけはいつまでたっても浮いている転校生感が抜けなかった。糸が切れたら一瞬で消えてしまいそうな、そんな違和感がずっと付きまとった。すぐにまた転校するといううわさを聞いて、上部だけの付き合い方をしているのだと知った。
黒継はただ気になるというだけで特に行動を起こすわけでもなく、たまに廊下ですれ違うときに目があったり、行事で同じグループになったり講堂に集まったとき視界に入ったら運が良い、と思う程度だ。ささいなことに一喜一憂し楽しく学校生活を送り、いつものように部活へと向かう途中で春原から呼び出された。声をかけてきたのは伝言を届けにきた春原の友人だったが、終始にやにやしていたからその目的をなんとなく察した。
放課後、女子から空き部室に呼び出されるということは誰がどう控えめに考えても愛の告白しかない。まともに話をしたこともない子から呼び出されるなんて、しかもそれが春原であると思うと気が動転して部室への行き方を忘れるほど混乱した。
はねる気持ちを必死に抑え平常心を保ち、誰もいない部室に入ると背後から複数の女子の掛け声がして、振り向いた途端、彼女が飛びついてきた。なにがなんだかわからないまま支え切れず、その場に二人で倒れてしまってそのとき背中を強打した。
気づいたら目と鼻の先に泣きながら謝罪する彼女の顔があって、すぐに返事をしてあげたかったが背中を打ったせいで呼吸が出来なかった。ぽろぽろと涙をこぼす彼女の背中をなだめるように軽く叩いて、必死に声を絞り出し「大丈夫」と強がってみせたけれど彼女は一目散に逃げて行ってしまった。
結局呼び出しの件はうやむやのまま週末遊びに出かけた先で怪我をしてしまって、自宅療養のあと登校してみたら彼女は入れ替わるように学校を去って行った。
彼女との思い出はそこで途絶え、黒継はそのあと昇華させることのできない恋煩いに陥り、長いあいだうなされて苦労したのだった。
その恋煩いの相手が大人になってきれいなワンピースを着て、叔母のお見合いファイルのなかにいる。
どうして彼女がお見合いを希望しているのか気になった。叔母が指揮を取るお見合いはすこし特殊でスペック重視な人選だからだ。ファイルに名を連ねているということは、彼女も叔母のお眼鏡に適った合格者ということになる。ただ、いくら結婚適齢期だといってもお見合いに婚期を委ねるには、彼女の容姿を考慮すれば焦りすぎだと思う。
どんな理由でお見合いをしたいのかは知らないが誰かとお見合いでもして、もし成立などしてしまったら、また悶々とする日々に逆戻りだ。いまなら住所も勤務先もわかるが、偶然を装って彼女に近づくのは道理に反する。彼女がお見合いを希望しているのならその向かいに座るしか道はない。
まともに話したこともない他クラスの顔見知り程度で、まだ覚えているかもわからない。あのときの呼び出しも結局告白だったのかも不明なのに、恋焦がれた相手がもう一度この町に戻ってきたことに完全に舞い上がって、その肝心な部分を失念していた。
彼女がどんなふうに成長しているのか、もしかしたらとんでもない悪女になっているかもしれないのに、そんなことはどうでもいいから会いたかった。会ってがっかりするとしても、それでひっかかったまま開きっぱなしの思い出の蓋を閉じられるならそれでよかったからだ。
◇
いつも釣りに行くときは誰かに連絡を入れたりせず、現地で友人に会ったら一緒に釣ったり世間話をしたりする。今日はひとり消波ブロックの上でぼうっと釣りをしていると隣に苔山が手ぶらできた。別の場所で釣っているところに黒継の姿を見かけて道具は放置したまま来たようだ。
「スプリングフィールドさん、覚えてた?」
「わからない」
お見合いの席で春原はどんな表情を見せるのか期待と不安が入り混じっていた。思い出して感動の再会になるか、よそよそしい空気になるか。正解はどちらでもなかった。
事前に身上書には目を通しているはずだが実際に顔を合わせてあいさつをするまで初対面と接するような態度だったから、まったく気づかれていないとわかった。中学のころとは名字が変わっているから身上書では気づかれない可能性も考えていたが、告白しようと思っていた相手なら顔を見れば思い出してくれるのではないかと思っていた。しかしその淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。ただ、そこまでは一応想定の範囲内だったから話を膨らませて思い出してくれたらいいと思っていたのに、対面してからじわじわと彼女に変化があらわれた。
正体を明かすきっかけを見失ったのは、だんだんと彼女の顔色が悪くなり、動きがぎこちなくなっていったからだ。目線を合わせてくれないのは仕方ないとしても、ずっとどこか一点を見つづけているのが気になってじっと観察していた。ときどき目が合うとすぐにそらしてしまう。恥ずかしさから目をそらす、というよりも見てはいけないものを見てしまったというように焦り、終始挙動不審だった。黒継はいつも「なにを考えているのかわからない」と友人知人職場の人間、あまつさえ親戚からも言われるほどだが、どうやら彼女はポーカーフェイスが得意ではないらしい。
彼女は上司に頼まれて仕方なくお見合いをしにきたと強調してきたが、それはもちろん知っている。叔母に頼み込んで、嫌がる彼女をこの席に無理やり引っ張り出した張本人だから。
そこまではよかったのだが自身の話下手が肝心なところで災いし、話の主導権は彼女に握られてどんどん話をそらされる。思い出話をしようにも取りつく島もなく話題をすり替えられるから合わせるだけで必死だった。彼女は警戒心を剥き出しにしていて、どうしてもこのお見合いを回避したいのだという意気込みがひしひしと伝わってきた。
「まったく相手にされなかった」
「ふーん、でも影は捉えたな。スローワインド、蓄光で夜勝負」
苔山は腕を組み、いつになく真面目な面持ちで言った。たしかにこのまま待っていても彼女からくることはなさそうだ。それならこちらから仕掛ける必要がある。
会話は散々だったが別れ際に連絡先を交換できたことだけは最大の成果だった。多少無理やり感はあったけれど連絡先を聞いたとき、気のせいかもしれないが彼女は一瞬だけ嬉しそうに笑った気がした。
黒継はいままで自分から女性を追いかけたことがなかったから、まったく反応のないターゲットにどのくらいの間隔でアプローチすればいいのかがわからなかった。
「笑ったと思ったら急に目そらすし。さっぱりわからん」
「これはもう作戦会議かな」
「そうしよう」
苔山とは長い付き合いになるが自分の話はまったくしないくせに人の恋愛事情にだけはやたらと興味を示す。こういうときだけ親切にしてくれるのは、おそらく人の話をつまみに酒を飲みたいだけなのだろう。今日は気が散ってしかたがないからさっさと撤収し、作戦会議という名の酒盛りをすべく神社集合とになった。
何時間にも及ぶ議論の末、あっさりめの文面で春原に連絡を送る。予定を聞いてみたがしばらく返信はなく夜になってから、いまは都合がつかない、と送った文面以上にそっけない文が返ってきた。
しばらく日を置いてから確認の連絡を送ったが返信はまだない。
◇
春原からの返信は来ないままいたずらに時は過ぎ、黒継はやるせない気持ちで町を散歩していた。地図を手にうろうろしている観光客を追い越し、坂道を上り切ったところにあるこぢんまりとした神社に向かう。神社仏閣の多いこの町のなかではちいさいほうだから余程の神社通でなければ観光客はほとんどこないが、立地のお陰で見晴らしはどこよりも良い。
お見合いの日、直前で急に冷静さを取り戻し、春原に会って確かめてそのあとどうするつもりなのか、先のことをまったく考えていなかったことに気づいて少々戸惑った。しかし実物の春原は写真よりもずっときれいで、迷いは一気に吹き飛んだ。大人びて化粧もしているから中学のころのままとはいかないものの、面影は残っていて懐かしさを感じた。雰囲気があるのも相変わらずで、窓越しに海をみていたときの凛とした横顔など、あのころと同じように目を奪われた。たかが中学のときの瞬間的な恋なんて錯覚のようなもので、大人になれば消えてしまうものだと思ったが、彼女を目の当たりにしたら惹かれてしまうのは必然だった。
完治したと思っていた恋煩いは再発し、気づいたらもう手の施しようがなかった。悪女だったらどんなによかったか、彼女の声は耳に馴染み、ふとした仕草に見入り、気持ちはすとんと心に落ちて全身に転移していた。
てっきり彼女が自ら望んでお見合いファイルに名を連ねていたのかと思ったが、よくよく聞いてみたら無理やりお見合いおばさん一派のコレクションにされていただけだった。結婚する気などさらさら無いといった感じだが、お見合いを断りたいとしてもあのぎこちない態度は相手が自分だからという気がしてならない。ただ、嫌われているという感じもなく、ときどき見せる笑顔との矛盾が理解できず心に靄がかかっていく。
地元の話なら盛り上がれると思ってこちらから切り出しても軽く受け流され、結局別の話になってしまう。さすが歴戦の転校生なだけあって話術が巧みだ。だが、気づいていて知らないふうを装う違和感は、逆に黒継の好奇心を刺激した。ここまできたらもう簡単に引き下がる気はない。春原がどうしてあんな態度を取るのか知りたくなってしまった。
意気込みだけは十分だが彼女との距離が一向に縮まらず黒継はいま悩んでいる。春原からの返信はまだない。
「ちっとも喰いつかないのだが」
境内に住み着いている黒猫をあやしながら、掃き掃除をしている苔山に相談する。白い手袋と胸元の白い毛がトレードマークのかわいい黒猫はよくなついていて、両頬を指先でくすぐると目を細めて顎を突き出す。
「猫を喜ばせるのは得意なのに」
「そいつオスだぞ」
黒継は大きくため息をつく。
「渋いなあ、スプリングフィールドさん。部室呼び出しって、告白じゃなくて果し合いだった可能性もあるのでは」
あの呼び出しそのものを勘違いしていた可能性もあるとすこし気にしていたから、その言葉はぐさりと胸に突き刺さった。図星を突いたことに苔山は気づきもせず、鼻歌混じりに竹ぼうきを動かす。
三男とはいえ神社生まれの端くれとして、休みの日はたまに神職としての仕事も務めている。長年しているだけあって掃除は板についていて、隅々までロボットのように同じ動作できれいに整えていく。
「相手の警戒心を解くには話しつづけるしかないんじゃない?」
「それが出来たらこんなに苦労してないわ」
「じゃあ、全肯定botになればいいんだよ」
「というと?」
苔山はほうきを片手に持ったまま空に人差し指を上げ、迷える黒継に神託を授ける。
「話術では勝てないんだから上手いこと言おうとしないで、相手に合わせるだけ。黒継くんをわざと幻滅させるようなことを言ってきても全部受け止めて、スプリングフィールドさんの自己肯定感を高めてあげる。動揺は隙を生む。そのチャンスを逃さず仕掛けて釣り上げる。最後まで抵抗するだろうから油断せず、焦らず巻いていけ」
「難易度高っ。それで、肝心のその鉄壁の大将を戦場に引っ張り出すにはどうしたら?」
「……そこは俺ら一兵卒ではどうしようもないので、大元帥の権力を行使してだな」
猫が高らかにゴロゴロ鳴いて、静止してしまった黒継の手に体をなすりつけてくる。
苔山が勝負は夜にすべきと言うから、ディナーに誘うことにした。これが春原と会える最後のチャンスになることを覚悟して叔母に連絡を入れる。
春原とのディナーデートのセッテイングを頼むと、あれだけ嫌がっていたお見合いを率先して進めたがる甥っ子の行動を叔母は訝しんでいた。春原もお見合いには乗り気ではなく、いまも断りたがっているということは叔母も知っていて、この縁談は確実に流れるものだと思っていたようだ。それなのにやたらと春原にだけ固執しているから、その理由を問い質された。やむなく彼女が初恋の相手だと秘密を打ち明けると、電話越しに黄色い悲鳴が聞こえた。
かくして大元帥の全面協力のもと、黒継は春原との最終攻防戦に挑めることになったのだった。
◇
一面の青空が広がる昼下がり、坂道を上る途中で神社の入り口を掃除している袴姿の苔山が見えた。彼も黒継に気づいて掃除の手を止めると声を張り上げた。
「うちは縁結び系じゃないからねえ」
傾斜はそれほどきつくはないが神社にたどり着くまでかなり長いからなんともないように見えて疲労は蓄積する。黒継とっては昔から通い慣れた道だし体力には自信があるからなんてことはないけれど、朝からずっと観光で歩き回ったあとの坂道チャレンジとなると慣れない人には少々きついかもしれない。
右手がぐんっとうしろに引っ張られ、振り返ると春原が立ち止まって息をついていた。
「疲れた?」
「地味に足にくるね。明日は間違いなく筋肉痛だな」
あはは、と息を吐きながら笑い、ふたたび歩き出した春原の歩幅に合わせてゆっくりと坂道を上る。苔山は境内に戻ったのかもう姿はなかった。
そういえば、苔山の実家であるあの神社はなんのご利益があるだろうか。子どものころからの遊び場だっただけで、まともな拝礼などしたことすらない。しかし春原との縁結作戦本部でもあった場所だからお礼をしておこうと思う。やっと手繰り寄せた糸が切れないよう、願うばかりだ。