箱舟の出航
髪ごと頭を強く引っ張られた後、痛みに呻いて藻掻いた手は宙を切った。クロエの脳裏にその光景がフラッシュバックしたのは、酷い揺れに全身を揺さぶられて目覚める直前のことだった。
「げほっ……! げほ、げほ、……はぁ、はぁ……!」
強い酩酊とともに上体を跳ね上げると、酷く咳き込んでしまった。頭が痛い。背中が痛い。肩が、手首が、もう何十年も使っていなかったかのように自分の自由に動かない。
何度か深呼吸した後、ごくりと唾を飲み込んだクロエは、目を開けているはずなのに視界が薄ぼんやりとしか把握できないことに気付いた。
――電気を、点けないと。
そう考えたところで、今度はやけに体が冷えていることに気付いた。そして、肩まである柔らかな金の髪が頬に幾度も触れることにも。
――風?
クロエは目を何度も瞬かせて、状況を把握しようと試みた。次第に暗闇に目が慣れてくる。定期的に揺れるのは、自分ではなく、自分のいる場所ごとのようだ。尻に硬い感触がある。ここはいつものベッドではないらしい――右手を床に着けて、感触を確かめる。
少しザラザラして、所々凹みがある。木の板か何かか。それよりもこの不規則な地面の揺れと、先ほどから定期的に聞こえてくる機械音、そして水を切るような――水?
今度こそクロエははっきりと目を見開いた。震える足を叱咤しながら両手で体を押し上げるように立ち上がる。転倒しないよう足を肩幅程度に開き、辺りをぐるりと見渡す。
視界の広さから、室内ではないようだ。この暗がりでははっきりとは認識できないが、時折ちかちかと光るのは、小さな明かりを反射した水面のようだ。空は曇っているのか、月もその影も見当たらない。小さな星すらも。
クロエの立っている場所は、木の板の上――より正確に表現するならば、船の甲板の上だった。夜の航海を決行している船は、クロエが足踏みするたびにぎしぎしと音を立てるくらいに年季が入っている。五十人は載せられるだろう船はそれなりの広さのようだが、移動や観光、宿泊に使われるようなものではなく、全体的に平らになった、いわゆるコンテナ船のような形をしていた。
頭が混乱したまま観察を続けると、その甲板の所々に横たわっている人間が幾人も存在していることに気付く。そのどれもが動いている様子はなく、クロエは背筋がぞっとした。比較的近くに倒れている人に近づこうと恐る恐る一歩足を踏み出した所で――。
「――おい」
「ひっ!」
男の声とともに肩を叩かれて、クロエは飛び上がるほどに驚愕した。がくんと膝が笑い、支えを失った体が重力に逆らわずがくりと地面へと頽れていく。その最中、腰を力強く引き寄せられたお陰で地面との距離がそれ以上近づくことはなかった。
「あぅっ」
「……大丈夫か」
体の力が抜けた後、緊張で強張ったクロエの耳元で、戸惑ったような、どこか労わるような青年の声が聞こえて恐る恐る振り返った。
クロエを支えてくれていたのは、眉間に皴を寄せて硬い表情をしている青年だった。辺りが暗く分かりづらいが、おそらく黒髪で短髪の青年はクロエより幾つか年上に見える。ぼんやりと青く見える瞳の色のせいなのか、機嫌の悪そうな表情のせいなのか、冷たそうに見えるその青年は、クロエの体が徐々に力を取り戻すにつれてその手をゆっくりと放した。
クロエは口を開こうとして、でも言葉が出ずに手を上げたり下げたりしていると、先に黒髪の青年が口を開いた。
「ここがどこか分かるか。お前も連れて来られたのか」
「え……わ、私……。わか、らない」
どこか咎められているような気がして、びくびくとしながら首を振る。青年は一端次の言葉を発しようとして、クロエの様子を慮るかのように一呼吸置いてから話を続けた。
「怯えるな。お前に危害を加える気はない。おそらく、俺とお前は――辺りに散らばってるやつらも、同じ立場だと思う」
青年が心なしか先ほどよりもゆっくりとした口調で話した。周囲に目線を飛ばした青年に釣られるように、クロエも辺りを再度見渡した。
先ほどのやり取りがうるさかったのか、何人かが体を動かしているのが見える。完全に覚醒しているわけではなさそうだが、さわさわと呻くような声がいくつも聞こえてきた。
クロエが落ち着きなく胸の前で手を動かしていると、そっと腰に手が添えられた。見上げると、間近でこちらを覗き込んでいる黒髪の青年がクロエの顔をまじまじと見ていた。クロエは何だか落ち着かない気になって、意味もなく小さな声を漏らした。
「……あ、の」
「先ほど転びそうになっていたが、足は痛めていないか。顔色もたぶん――悪くないように見えるが。具合が悪かったりしないか」
「……! ……!」
年の近い男にここまで接近されたことも接触されたこともないクロエは、目を白黒させながら勢いよく二度頷いた。青年は切れ長の目を眇めて微かに口角を上げると、クロエをしっかりと見つめながら再び口を開いた。
「とりあえず、そこらの人間を起こして回る。たぶん生きているとは思うがな。ただし何が起こるかわからないから、お前は絶対に一人で行動するな。俺と一緒だ。わかったな」
「は、は、はいっ」
「よし。俺はジークだ。お前は?」
「ク、クロエ」
クロエ、と青年――ジークは口の中で小さく呟くと、クロエの小さな手を取った。その手は意外なほど暖かく、冷え切ったクロエの手の体温は徐々に本来の温度を取り戻していく。それはたぶん初めまして、の握手のはずだったが、なぜか離されずにそのままジークが歩き出した。繋がれた腕に連動して、クロエもよたよたと歩き出す。
――もう十四なんだけど。そんなに小さな子どもに見えたのかな。
狼狽しながらジークの大きな手に引っ張られるように着いていくと、先ほどクロエが近付こうとした人影に向かっていることに気付く。床に突っ伏したままの人間は、大きさからいって男性のようだ。先ほどは全く動いていないように見えたその人は、ジークが傍らに屈んで肩を揺さぶると、小さく呻いて体を震わせた。
「おい、意識はあるか。声は出せるか」
「う、ぅ――何、だ――?」
「クロエ、俺の後ろに立て。辛ければしゃがんでいてもいい。周囲に異変があったら知らせろ。俺の腕が届く範囲からは外れるな」
「わっわかりました」
手を離されたクロエは、ジークと連動して屈んでいた足を延ばし、ぎくしゃくと立ち上がった。言われた通りにジークの背後に立って周囲を見渡す。
船はそう速度は出ていないようだったが、こんな暗闇にも関わらずろくな照明もなさそうだった。それに――ここは船で、水に浮かんでいるのは間違いないようだが、この酷い違和感は何なんだろう。
クロエの頭が再び混乱でいっぱいになっている最中に、どうやら後ろではジークともう一人、意識を取り戻した青年がぽつぽつと会話をしているようだった。
「こ、ここは……? 君は――えぇと。君たちはいったい……」
頭を撫で摩りながら上体を起こした男は、ジークとその背後にいるクロエに目を遣りながら戸惑いを含んだ声を上げている。
「俺はジーク。後ろのがクロエ。俺たちも気が付いたらここで転がっていたんだ。状況の把握がしたい。手伝ってくれ」
「僕はルカ。えっと、それは構わないけど。うぅ、殴られたのかな。頭が痛いよ。背中も、腕もだけど」
「状況証拠だけだと、誘拐されたんだと思う。ルカ、辺りを見てくれ。俺たち以外にも、何人も同じように倒れている」
「え? ――う、うわっ! こっこれは、これは何てことだ! 急いで助けないとっ、いたたっ」
ジークが淡々と状況説明をすると、ジークと同じくらいの年だろう青年が泡食った様子で立ち上がった気配がした。横目で見てみると、立ち上がった拍子に痛みを感じたのか、青年が眉を顰めながら背中を摩っている。ジークよりもわずかに背丈の低い青年は、人懐っこそうな栗色っぽい瞳をこちらに向けてほほ笑んだ。
「やあ。君がクロエかい。ルカと呼んでくれるかな」
差し伸べられた手を取ろうとしたところで、それを遮るかのようにジークがクロエをさっと背後に庇った。
「悪いが、状況をある程度把握するまでは不用意に近づくな。お前にとっても、俺たちが信用に足るかはわからないだろう」
「えっ、それは確かにその通りだけど……。あれ? ということは君たちはもともと知人なのかい」
「……初対面だ」
「え? えーっと……?」
戸惑いを隠せないように、瞳と同じく栗色の髪をかき混ぜたルカは、おや、というような表情になり、何かに納得したように頷いて見せた。
ジークの背後に庇われながら、ジークが取った冷たい態度におろおろとしていたクロエは、もしかして喧嘩になるのではと気が気でなかったが、喉を鳴らすような笑い声が聞こえてルカに目を向けた。
「ハハ……! わかった。信用してもらえるまで、近寄らないことを約束するよ。だけど僕の方は、君たちが信用に足らないとは思えない。頼りにさせてもらうね」
「……ああ。とりあえず、全員起こすぞ」
「了解。僕は右手から声を掛けていくから、君たちは左手からお願いね。何かトラブルが起こったら、声を上げるから助けに来てくれると嬉しい。そちらも声を上げてくれ」
「頼む」
二人の男のやり取りはクロエにとってはよくわからなかったが、とりあえず協力関係になったらしい。ジークに右手を取られたクロエは、再び引きずられるように甲板を歩き出した。