水槽
今日、僕の家に水槽が届いた。
といってもこの水槽は僕が買ったわけではない。同居している兄貴がネット通販で買ったものだ。兄貴は淡白な性格をしているようで、動物に目が無い。いま飼っているのは文鳥、トカゲ、ハムスター、そして芋虫。
このメンツの中に新しく加わるのが熱帯魚というわけだ。兄貴は午前中に行きつけのペットショップで熱帯魚を数匹買っていた。その熱帯魚たちは兄貴の部屋の隅に置かれたバケツの中で泳いでいる。
赤というよりは朱色。
青というよりは群青。
黄というよりは檸檬。
黒というよりは褐色。
色とりどりの熱帯魚たちはバケツの中で元気に泳ぎまわっている。その様子は新生活への期待に満ち溢れているとも見えなくは無い。実際のところは見慣れぬ環境に置かれ、対処に戸惑いながらも、結局自分にできることは泳ぐことだけだと気づきそうしている。ただそれだけなんだろうが。
兄貴が我が家にあるもうひとつのバケツに水を組み入れて戻ってきた。バケツを傾け、空の水槽の中に水を注ぎこむ。
一度。二度。三度。
兄貴は何度も洗面所と水槽を往復した。あらためて見てみるとこの水槽はなかなかの大きさだ。目測で言うと、縦六〇、横八〇、奥行き三〇といったところか。この大きさに熱帯魚四匹では十分すぎる。おそらくこれから徐々に買い足して行き、ゆくゆくは自分好みのアトランティスを作り上げていくのだろう。
そんな兄貴の作業を見つめているうちに、僕の中にざわめく感覚が現れた。
四度。五度。六度。
不穏な感覚。僕の理性がその感覚をせき止めようと試みたが、やつは理性をするりと通り抜けた。理性はふり返りやつを見つめた。そしてその目線を奥に移し、僕を見つめた。
構わないよ。しょうがないだろう。君は職務を全うしたんだ。誇りを持って。大丈夫、やつが来ても、今の僕なら……
七度。八度。九度。
やつは徐々に僕に近づいてきた。その距離は水槽に汲まれる水の量が増えるに比例して短くなる。
十度。十一度。十二度。十三度。
兄貴がバケツを床に置いた。水槽は十分水で満たされている。同じくやつも動きを止めた。やつは僕を見て微笑んでいた。全ての神が慈愛の精神に溢れているわけではないように、全ての微笑みが安らぎを与えてくれるわけではない。僕の心臓はすさまじい速さで鼓動を刻んでいた。
大丈夫。もうこれ以上近づけやしないさ。
兄貴は手際よく作業を進めた。中和剤を入れ、ポンプをセットし、水草の根を砂利の中に潜ませる。
そして最後に、熱帯魚たちがバケツから水槽に移された。
完成した水槽はなかなかどうして、見事なものだった。水槽の上に掲げられたライトスタンドから放出される光が、この人工的な世界を淡く輝かせる。
兄貴の質問に僕は満足に答えることができなかった。
そうだね、綺麗だね。
水槽に熱帯魚が入れられた瞬間。やつは僕の中に飛び込んできた。やつは僕の中で流動体となって、僕の身体を駆け巡り、僕をかたどり、また僕そのものである体中の細胞にその恐怖を植え付けた。
やつは、あの感覚は、僕の一つの記憶だった。
かつての僕に忘れ去られたことに腹を立てたのだろうか。勘弁してくれよ。忘れようと思って忘れたわけじゃないんだ。そりゃ確かに忘れたいとは思ったけれど、だからといって僕が忘れようと思って忘れたわけじゃないってことはちゃんと覚えておいてくれよ。情状酌量の余地ありって認められるためには、この点が大事なんだから。
そういえばあの水槽はどこからきたのだろう。
僕が小学三年生のとき、教室の後ろ、窓側のスペースに、クロメダカを観察するための水槽が置かれた。
縦四〇、横六〇、奥行き三〇。探せばどこにでもあるような普通の水槽。マニア御用達とまでは行かないだろうが、乳歯も抜けきっていない子供相手には十分すぎる代物だった。
初めてメダカが来た日、僕をふくむクラスの皆はメダカの虜になった。
休み時間になれば水槽の前に集まり、メダカ談義に花を咲かせた。一日一度、昼休みの餌やりは日直の仕事となり、皆一日千秋の思いで日直になる日を待ち望んでいた。
この餌やりに関して、ちょっとしたトラブルがあった。
Aは典型的なガキ大将タイプの子供だった。学校が終わっては一目散に家に帰り、ランドセルを玄関に投げ捨て、自転車に乗って公園に向かい、仲間たちを率いて遊びまわる。悪いやつではないが、敵に回したいとも思わないタイプの子どもだった。
対してBは至極真面目な性格だったと記憶している。真面目というより神経質といったほうが適当か。そんな彼の性格を示すエピソードをひとつぼくは記憶している。
筆箱を家に忘れ、隣の席のBに筆記用具を借りたことがあった。借りたのは鉛筆だけではない。ボールペンや定規まで、予備を筆箱に常備しているあたりに、彼のその性格が見て取れた。
放課後になり、僕がBに感謝の言葉を述べながら筆記用具を返すと、彼はその内の一つ、消しゴムを手にとり信じられないといった表情をみせた。
彼は僕を一瞥すると、自分のランドセルから自由帳を取り出し、新しいページに消しゴムを一心不乱にこすりつけ始めた。
次の日、僕はまさかと思い、一時間目の国語の授業終了後、彼と彼の消しゴムに目をやった。すると彼は、昨日の放課後と同じように、真っ白のページに消しゴムをこすりつけ始めた。
真っ白なページに、薄く黒い跡が残っていた。
彼は消しゴムについた黒鉛の跡を落としていたのだ。
その日はAが日直だった。
前回Aが日直を担当したちょうど次の日に、メダカは僕のクラスにやってきた。僕のクラスは生徒が三十人ほどいたから、その日はメダカがやってきてから少なくとも一月以上は経っていたことになる。
残酷とでも言おうか、そのころすでにメダカは僕たちの興味を惹きつける新しいおもちゃから、ただのクラスの備品へと格が下がっていた。それに付随する形で、日直の仕事である餌やりも、名誉ある職務からただの雑務へと成り下がっていた。
そんな地味な仕事をAは面倒にしか思わなかったようだ。彼はほんの一分とかからない仕事でさえも、その時間を遊びに充てたいと考えていた。
Aはその餌やりを一つの遊びにすればいいと思いついた。そして、彼が選んだ遊びとは、大量のメダカの餌を水槽にばら撒くことだった。
餌はカラフルなフレークタイプのものだった。そのボトルは水槽が置かれた机の余ったスペース、ちょうど水槽の右に置かれていた。
Aはクラスの中で仲のいい友人たちを集めた。彼の友人だけではなく、興味を持った他のクラスメイトまで彼のもとに集まってきた。その中にぼくもいた。
水面に餌がばら撒かれた。様々な色のフレークで水面が覆われた。
皆の歓声に混じって、パチンと乾いた音が教室に響いた。音のした方向に目を向けると、竹の定規を持ち、仁王立ちをするBの前で、Aが自分の右耳をおさえてうずくまっていた。
歓声は止み、その変わりに、悲鳴と怒号が教室中に溢れかえった。
Aと仲の良いクラスメイト達はそろってBに襲いかかり、Bはそれに定規で応戦した。
それ以外の男子は必死にその喧嘩を止め、女子たちは一人残らず教室の外へと避難した。
男子の一人がBの手から定規を取り上げた。
Bはその場から一歩下がると、学習イスを頭上に持ち上げ、男子達に向かって投げつけた。
運悪くとしか言いようが無いのだが、そのイスは僕が立っている方向に飛んできた。とっさに避けようとはしたが、隣にいる誰かも僕と同じように避けようと動き、僕は彼に体当たりされて床に尻餅をついた。
イスは僕の右腕をかすめて落ちてきた。
イスが床に叩きつけられる。僕の右耳に不快な衝撃音が響いた。反射的に僕の手は右耳を覆い、顔を左に向かせた。
その衝撃音が教室に響き渡るのと同じタイミングで、教室の後方のドアが開かれた。そこには数人の先生がいた。彼らは騒ぎを聞きつけて駆けつけたのだ。
先生たちは顕著に興奮していた生徒を連れて教室を出て行った。取り残された生徒たちはどうしたらいいのか分からず、心細そうな声で雑談を始めた。
しかし、僕はその会話の輪の中に入らなかった。僕は先ほど顔を左に向けたときから、あるものに目を惹かれていた。
目線の先にあるのは水槽だった。この騒動の喧嘩の原因となったメダカの餌であるフレークを、メダカたちは一心不乱についばんでいた。
いや、メダカはどうでもいい。メダカはいつもどおりだ。問題は、水槽だ。正確に言えば、水槽の右側の面、ガラスでできた水槽の側面に、五センチほどの亀裂が走っていた。
最初、亀裂は縦に一本あるだけだった。しかし、亀裂は徐々に増え始めた。一本目の亀裂に交わる形で、左から横に一本、右上から斜めに一本、右下からまた斜めに一本。四本の亀裂は米印の形を作りあげた。その亀裂をみていると、ぼくは誕生日に母が買ってきてくれたホールケーキを思い出した。八等分に分けられたホールケーキ。八つのピースから成るひとつの円。
その八つのピースの先端が、水槽の内側に向かって反り返り始めた。反り返ったピースの下には、ゴルフボール程度の大きさの黒い穴が広がっていた。その穴のふちには牙があった。針のように細く、微かに震える牙が穴の周囲に何十本と生えていた。
牙が激しくかみ合わせを始めた。すると、水面に浮かんでいたフレークがゆっくりとその穴に近づき始めた。
その黒い穴は水を吸いながらエサを吸い寄せていた。フレークが次々と穴の中へと運ばれていく。全てのフレークが穴の中に入ると、穴は透明の泡を一つ『ボコッ』という音と共に吐き出した。反り返っていた八つのピースはゆっくりと内側に戻り、亀裂は綺麗に無くなった。
クラスの中でそれを見ていたのは、僕一人だけだった。
ホームルームは厳粛な空気の中で行われ、先生は僕たちに早めに家へ帰るようにと促した。これ以上のトラブルはごめんだ。そんな本意が隠しきれず、口調の端々から読み取られた。
水槽のことを誰か友人に話そうと思ったが、昼休みの騒動からあとは教室内に自粛ムードが漂っており、奇々怪々なことを口に出せる雰囲気にはなかった。
放課後。ぼくは水槽と向かい合っていた。
教室の中には僕以外誰もいなかった。皆は帰った。先生にいわれた通り帰った。どうしてぼくは帰らなかったのだろう。気になったからだ。水槽が。気になって仕方がなかったのだ。
僕は水槽の中を覗き込んだ。
水槽の中では、いつもと変わらず、数匹のメダカが泳いでいた。
問題の箇所、水槽の右側面のガラスには何もなかった。そこにあるのは透明のガラス。濁った水を介して見えるガラスに亀裂は走っていなかった。
僕は水槽の横に置かれたボトルを手に取り、水槽の中へ少量エサを入れてみた。
メダカがエサをつつき始めた。数分ですべてのエサがメダカの腹の中へと納まった。
結局、あれはただの見間違いだったのだろうか。あの異常な状況の中で僕はパニックに陥り、ありもしない幻覚を見てしまった。
たぶん、そうなのだろう。
僕はボトルを水槽の横に戻し、再び水槽の中を見つめた。
『ボコッ』
音が聞こえた。
あの穴が食事を終えた時に聞こえた、あの音だ。
音のした方に顔を向ける。水槽の左側面。そこには、僕が昼休みにみたものと同じ黒い穴があった。穴はちょうど口を閉じているところだった。八つのピースが閉じ切る寸前、高速に上下する何本もの牙がかすかに見えた。
記憶を読み込む。ちがう。今みた穴は昼に見たものと全く同じではなかった。昼のものと比べると明らかに大きい。昼の穴はゴルフボールほどの大きさだった。しかし、今見た穴はソフトボールほどの大きさだった。
成長している。
その頃になってやっと僕はその存在に確かな恐怖を覚えるようになった。
化け物がいる。僕の目の前に化け物がいる。
急いで先生を呼びに行こう。
そう思った次の瞬間、反り返った八つのガラスのピースが水槽の底、地中から現れた。今度のピースもまた、円を作るように陣形を取っている。大きい。今までのものとは比べ物にならないほど。
八つのピースが反り返るにつれて、水槽内の様々なレイアウトが浮かびはじめた。砂利。水草。小岩。それらが次々と大きく開かれたやつの口中に飲み込まれていく。レイアウトだけではない。水が徐々に減っていく。やつは水を飲んでいる。そしてやつは、メダカも飲み込んだ。
今度の口の吸引力は前とは比べ物にならないほど激しかった。みるみる内に水槽の水が減っていく。
口の大きさは水槽の底面とほぼ同じ大きさだった。口の中で何本もの牙が上下に震えていた。
突然僕の視界が一面の白に覆われた。それはカーテンだった。水槽の後ろにあるカーテンが風に吹かれて翻ったのだ。
いや、違う。水槽が置かれてからというものの、その後ろにある窓が開けられたことはない。窓を開けるためには水槽の頭上から背面に手を伸ばさばければならない。平均身長が百三〇に満たない小学三年生にとってこれは容易なことではない。そもそも教室の他の窓は難なく開けることができるのだから、一つくらい窓を開けなくとも問題はないのだ。
じゃあどうして。どうしてカーテンが吹き荒れるのだ。
視界が開けると、そこには異形としか言えない光景が広がっていた。
カーテンが水槽の中の口に吸い込まれていた。
留め金が外れる音がした。カーテンはするすると口の中へと消えていった。口の中にある何本もの歯がカタカタと震えている。
僕の上半身が水槽の方に傾いた。もつれた足を整え、上半身を起こそうとした。
だが、上半身は起き上がらない。
汗が一線、頬をつたった。
首を動かし、頭を上げる。恐怖のあまり、ぼくは大きく目を見開いた。
やつは、水槽の近くにあるものを手当たり次第に吸い込み始めていた。
教室の後ろに張られた掲示物が宙を舞った。ロッカーの上に置かれた辞書が宙を舞った。
窓が揺れ始めた。窓の内側に取り付けられた手すりも上下に揺れ、ギシギシと苦しそうに泣き始めた。
僕は膝を床につき、教室の壁に備え付けられているロッカーを両手でつかんだ。下半身が浮かび上がる。奇妙な浮遊感が全身を駆け巡った。
そのとき僕は思い出した。やつは、メダカを食べた。
やつは肉の味を覚えたのだ。そして、その味に感動を覚えたやつは、次に自分の目の前にいる獲物に手を伸ばしたというわけだ。
右手がロッカーから離れた。教室中の机ががたがたと震えながら引きずられていく音がする。
僕は左手の指に精一杯の力を入れた。気づくと大声で助けを呼んでいた。昼間のように先生たちが教室の中に入ってきて助けてくれるのではないかと期待していた。
だが、いっこうに人が来る気配はしなかった。
もうだめだ。
五本の指はロッカーから離れ、僕の身体は、紙切れのように宙を舞った。
視界が暗くなり始めた。これが失神というやつか。不思議と僕は落ち着いていた。そこには失神を享受するゆとりがあった。
僕はただ、少しでもやつから離れたかっただけなのだ。物理的な距離でなくとも構わなかった。意識をなくしてしまえばやつはいなくなる。精神的な距離をおけばいい。見なければ見えない。つまりはそういうことだろう。
目を覚ますと僕は病院のベッドの上にいた。
病室の外の窓には満月が浮かびあがっており、小さな棚に置かれた置き時計は午後の十一時を告げていた。
僕は戸締りに来た学校の用務員によって助けられた。用務員が僕を見つけたとき、僕は教室の後ろ、水槽の手前で気を失っていたそうだ。
病院へ運ばれ、意識が戻らないままぼくは入院することになったらしい。そして、入院して三日目の夜になってやっと目を覚ましたというわけだ。
様々な検査が行われた。そのすべてをパスした。結局僕は一週間ほどで退院し、週に一度の通院で経過を見ていくことになった。
病院の医者や学校の先生、見舞いに来てくれた友人や、同じ病室のおじいさんなど、様々な人が同じ質問を僕にしてきた。
どうして記憶をなくしてしまったのか。
僕はこの質問に全く答えられなかった。
あの日の放課後、ホームルームが終わってからの記憶は一切途切れていた。それ以外の記憶、例えば昼休みに起きた乱闘騒ぎのことなどはしっかりと覚えていたのに、一部の記憶は、僕の頭から綺麗に振り落とされていた。
だが、今ならあの質問に答えることができる。
僕はただやつから少しでも離れたかった。
つまりはそういうことだろう。
窓の外では太陽が一日の仕事を終えようとしていた。
夕日の輝きが新品の水槽のガラスに反射して、僕の顔を照らした。
いつの間に眠っていたのか。
身体のあちこちが痛い。僕は兄貴の部屋の床の上に直接身体を預けて眠りこけていた。
部屋の中に兄貴の姿は見えない。どこに行ったのだろう。道具はそこいらに放りっぱなしのままだった。
僕は水槽を見つめた。水槽の中で熱帯魚たちが優雅に泳いでいた。
赤というよりは朱色。
青というよりは群青。
黒というよりは褐色。
この水槽が僕の記憶を、失われた記憶を再び取り戻させた。
それは誰が望んだことなのだろうか。
僕だろうか。真実を知ることを僕が望んだのだろうか。僕の望みにこの水槽が応えてくれたというのだろうか。
汗が一線、頬をつたった。
違う。僕は恐れている。やつを恐れている。あの水槽を恐れている。あの化け物を恐れている。
この恐怖は僕が望んだものじゃない。
この恐怖を望んだのは……この恐怖を望んだのはきっと……
水槽の中に大きな泡が一つ浮かんだ。
その泡は僕の質問に対して名乗りを上げているかのようだった。