叶うはずのない恋。
王城にある広間中央に拘束された私の目の前に並ぶのは、この国の最高位に座するお方とその二番目の息子――私の婚約者とその腕に抱かれる子爵令嬢。否、隣国の末姫。それから、その兄。
左右を遠巻きに囲むのは、国の中枢を任される貴族たちと、隣国の使者たち。瞳の感情はそれぞれで、誰しもがこのチャバンを茶番と理解していただろう。目の前の愛に溺れた三人以外は。
「第二王子の婚約者であったにも拘わらず、その立場に相応しくない目に余る所業の数々、加えて他国の姫君への暗殺を企てるとは庇いようもない」
吐き捨てるような言葉に、反論しようと口を開くもその機会は唇に触れた剣先に遮られる。つ、とわずかに血が滲むのを舌先に感じ、声を出す隙もなくすぐに閉じた。
ともあれ、どうせ弁明しようと同じことなのだ。「庇いようもない」とはよく言う。真実であろうと、偽りであろうと、もうすでにそれは決定事項であるというのに。そうでなくとも彼は私のことを庇うつもりなど毛頭ないだろう。
まさか学園を卒業した報告をするために辿った道が、断頭台へと繋がっていたとは今朝目覚めたときには思いもしなかった。
私を見つめる貴族たちの中には、朝食を共にした家族もいる。彼らの顔色を見るに、すでに知っていたのだろう。珍しく妹がやけにちらちらとこちらを気にするようすを見せていたのはそういうことか。
出そうになる溜息を呑み込んで、視線を愛溢れる場所へと向けた。
田舎の子爵令嬢と身分を偽って学園に入学してきた彼女は、怯えたように震えながらもこちらに憐憫にも似た視線を寄越している。思わず笑ってしまいたくなった。先程「目に余る所業」で片づけられてしまった私が彼女の恋を叶えてあげようと与えた数々の助言は、すべて無用のものだったのだ。確かにキツイ言い方はしたし、意地の悪い表現もした。けれどそれも当然ではないか。素直に優しく助言などしていては「この婚約は本意ではない」と吹聴しているようなものだ。格下、同格、もしくは周囲がそれもそうだと納得するような相手ならともかく、相手は王族。それも王位継承権を持つ者だ。一歩間違えれば不敬罪である。
「流石<黒薔薇の君>と言ったところか。反省の欠片もないどころか、そのような目で姫を睨むとは」
睨んでいない。もともとだ。立場的にも物理的にも口に出せない言葉を呑み込む。
<黒薔薇の君>とはもちろん私のこと。黒薔薇色の髪と瞳にちなんでカレがそう呼んだ。いつしか学園でもそう呼ばれるようになり、対するように同じ学園に通う妹は<白薔薇の君>と呼ばれるようになった。彼女の髪は銀色で、瞳は緑なのでまあわからなくもない。
先の婚約者の言葉は黒薔薇の花言葉である「憎しみ」からの揶揄だろうが、私は何も憎んではいない、恨んでもいない。何故ならば。
「最後に何か伝えたいことはあるか」
初めて国王陛下が発した言葉は、微かに揺れていた。そのことに周囲が騒めいたもののすぐに怒りからだろうと判断され静まったけれども、私には陛下のお声は酷く複雑な感情を孕んでいるような気がした。怒り、悲しみ、悔しさ、恐ろしさ、申し訳なさ、そんな苦しい心が混ざり合って溶けたような、そんな印象を受けた。
「伝えたいこと」という言葉選びをしてくださったということは、陛下は知っていたのだろうし、もしくはそのための婚約だったのかもしれないと。だからこその揺らぎなのだろうと。そう察した。察することができた。
誰に糾弾されようとぶれもしなかった視界がわずかに歪む。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
溢れ出る感謝で、心が震えて仕方がない。
口元から剣が退き、合わせて私は心の底から安堵と幸せに微笑んだ。
「『黒薔薇は枯れることがないでしょう』と」
「ひっ」
「貴様……ッ!」
呪詛ともとれるそれに、末姫様が悲鳴を漏らし婚約者が激昂する。そんな雑音を片手を上げることで制した陛下は私の目を真っ直ぐに見つめたまま、
「しかと」
聞き届けた。伝えよう。それらをあえて口に出さずにいてくださった陛下への感謝を礼の姿勢に込める。
これで。
「恥を知れ……ッ!」
これで、この世のすべてを。
「もういい連れていけ!」
これで、この世のすべてを諦めることができる。
それは十八年の生涯でたったひとつだけ望んだものだったけれど。ほかの何を諦めても、それだけは諦められないものだったけれど。ようやく、諦めることができる。
さようなら愛する人。
さようなら私のすべて。
――黒薔薇は、かくして茎から切り落とされた。
意識が浮上し、瞼を開く。目に映る天井では小さな電球がひっそりと休んでいるが、扉向こうの廊下から僅かに入ってくる灯りで薄暗がりでも物を判別することができる程度には明るい。
照明のせいだけではないぼんやりとした視界を瞬きではっきりさせてから痛む身体を起こすと、しばらく切っていない前髪が頬を撫でた。視界を狭める糸の色は、黒。手で梳くと、ぎしり、と嫌な感触がした。やはり石鹸が切れたからといって台所用洗剤で髪を洗ったのは失敗だったようだ。普段の洗髪も石鹸だが、それが髪まで洗えてしまう石鹸であることに今更ながら感謝する。とはいえ、シャンプーとコンディショナーを使わせないと言い切り、その石鹸を用意させた彼女には「ありがとう」の「あ」の字を口腔内に転がす気すら起きない。お金持ちゆえの物知らずを逆手にとって洗髪可能石鹸を発注してくれたメイド頭にだけは、すれ違うたびに感謝することに決めた。
使い古した薄い布団で凝り固まった身体をぱきりと鳴らしながら立ち上がり、伸びをする。ここは屋敷の中の物置のひとつであるが、これもお金持ちゆえに縦どころか横に伸びをしても余りある広さがある。生粋のお嬢様ならまだしも、一般人、それも牢屋で暮らしたことがある人間にとっては十分快適な環境だ。あのときは罪状が罪状だったからか、寝具は布一枚だった。
とり急ぎ、とばかりに扉に貼りつけられた小さな鏡を見る。そこには、不健康そうな顔色をし、最大限の優しさと憐れみを持ってようやく「痩せている」と言える肉――一応――付きの少女がいた。
その魂は、かつて異なる世界にて<黒薔薇の君>と呼ばれていた。今は日本人なら誰もが一度は耳にしたことのある深堂院財閥の、非嫡出子。名を、郡ララ。奇しくも<黒薔薇の君>の名、ラールレア・フロワの愛称と同じだった。
先ほど見たララ――私の夢に、久しく見ていなかったあの場面が現れた原因はわかっている。あの胸糞悪いゲームのせいだ。
昨日、隣の席でクラスメイト数人の会話から漏れ聞こえた名前が、やけに耳にしたことのあるものばかりでつい聞き耳をたててしまったのだが、結局何について話をしているのかわからず、気になって学校のパソコンを借りて人物名を調べた。すると検索結果に完全一致で出てきたのが、例のゲームだった。
どうやらそのゲームは登場人物と疑似恋愛を楽しむためのもののようで、既視感のありすぎる名前を持つ相手役たちの情報を見ると、驚くことに記憶の中の同じ名前を持つ者とまたしても完全一致した。私はこのときはじめて、あの世界がゲーム化されていたことを知ったのだ。否、ゲームが世界化したのだろうか。それはどちらでもいいしどうでもいい。
苦々しく昨日の記憶を辿って掘り返してしまった情報に、かさつく唇を噛みしめる。
主人公はあの隣国の末姫。城を出たことのない彼女が、誰かと婚約する前に色んな人と交流したい、あわよくばその中で運命の恋がしたい、などと思い、己を<姫>として見られないよう身分を偽って隣国の学園に入学する――というハジマリだ。なるほど彼女が自国ではなく他国の学園にやってきた理由はそういうことかと納得した。末姫はあまり公の場には出なかったが、やはり自国ではそこそこ顔を知られていたのだろう。
そんな彼女の物語に、スパイスとして活躍するのが私――黒薔薇の君、ラールレア。巷では私のようなポジションにいる人間を悪役令嬢というらしい。そのサイトによると『婚約者に近づく主人公を目障りに思い数々の嫌がらせを行う。最終的に嫉妬にかられ、主人公暗殺を企てるが失敗に終わり処刑される』とのこと。確かに私は諸々の罪で処刑されたが、暗殺は企ててはいない。それを周囲もわかっていたから、暗殺の詳細について一度も訊ねられることなく処刑されたのだ。それを知らなかったのは、恐らく<攻略対象>とあの広間に立っていた<主人公のすぐ上の兄>だけだろう。ただ、<攻略対象>のうち一人は、どう思ったのかはわからない。ハジマリから最期まで、私はカレに会えなかったから。
カレ――レイーデル・オルフレア。最年少騎士団長であり、あの生涯で私が唯一諦められなかった人。
「まさか攻略対象だったなんて……」
つまりは、あれだ。私が処刑された後に、あの末姫に恋をしたかもしれないということだ。
憎々し気に奥歯が鳴る。鏡についた手に力を入れると、ずれた指の跡が白く残った。
ただの創作だと一笑に付せばいい、いくら姿絵がそっくりでも私の記憶とは相違があるから確定ではないのだと堂々としていればいい、そんなことは重々承知だ。けれども。そうであれども。しかしながら。私にいちゃもんつけてきた奴らの名前がピンポイントで<攻略対象>としてフルコンプリートされている。どいつもこいつも「あいつに手を出すな」と五月蠅かった。婚約者の周囲の人間かと思えば、なんか教師や孤高で有名な存在もいたので些か不思議に思っていたのだが<攻略対象>だったという括りだというならば頷ける。頷けてしまえるのだ。
ぎりぎりぎりぎり。と、音を立てず痛むのは、奥歯と心。
「レイ、私を<黒薔薇>と呼び始めたのは貴方だわ」
私に<憎しみ>の名を与えたのは、貴方。
「お望み通り憎んであげる」
許せない。
許してやらない。
あの場でさえ抱かなかった強い負の感情が全身を廻る。
とはいえ、本人はこの世のどこにも存在しない。だからといってゲームショップでゲームを破壊して回ることも、ゲーム会社の襲撃もできない。し、しても意味がない。頭ではそう理解していても、それでも憎まずにはいられないのだ。
だって私は、今でも彼が好きだから。
あのとき諦められたと思っていた。だけれども、生まれ変わって、思い出して、想い出して。どこにも存在しない彼を求める自分を愚かと泣いて、泣いて、泣いて、諦めようとしてはできずに泣いた。そうして叶うはずのない恋を抱き続ける覚悟をしたのはつい先日のこと。だというのに。だというのに、だ。まさか私を処刑に追いやった原因ともいえるあの娘に恋したかもしれないだなんて。そんなこと、許せるはずもない。
会うたびに私を「僕の麗しい黒薔薇」と呼び抱きしめた貴方の恐ろしいほどの愛情を確かに私は感じていたし、陛下も恐らくご存じだった。だから「伝えた」のに。
せめてあの末姫が相手でさえなければ、私が死んだ後の話と荒れ狂う感情を抑えつけることができただろう、か。
仮定になど意味がない。仮定になど、意味がない。仮定になど、意味がない、ことなどわかっている。
それでも感情はかき乱され、かき回され、ゆるゆると揺らぎ続けるのだ。
そんなどうしようもない感情に滲み出てしまった涙を振り切るように拭って、布団の下に敷き自重でプレスした少し皺の寄った制服を身に着ける。長い前髪を下ろして、なるべく存在感が消えるように胸の辺りまで伸びた髪は結わない。同じクラスの異母姉を引き立てるように、そして深堂院の人間であるとバレぬように。
――それが今の私。
唯一を持っていた<黒薔薇の君>が、唯一をなくした成れの果て。
叶うはずのない恋を抱き、愛を憎しみに替えて今までよりもことさら強く貴方のことを想う。
私は<黒薔薇>郡ララ。
深堂院家の屋敷内の物置に住み着き、義母を奥様、異母姉をお嬢様と呼ぶ一人の十六歳の少女。
それが今の私。
哂えるほどに鮮やかな<黒薔薇の君>。
このあとレイが逆トリップしてくる、という流れを想定して書きました。
閲覧、御アクセス、ありがとうございました。