第809話 記憶を辿って
自身の存在があやふやとなった廉の体は黒い色の海の様なその空間と一体化し始めていた。
「このまま消えるのも悪く無いな」
死する覚悟を終えた廉の元に一人の男が立ち塞がる。
薄れゆく、記憶の中で廉はようやく理解する。
「紫音!」
その人物の名前を告げた瞬間、黒い色の海の様な場所は瞬間で変化し、白い空間へと変わっていた。
佐倉紫音は能力育成機関高等部異能クラス一年の同級生にして、チーム[アブノーマル]のリーダーと副リーダーの関係である。
「……ここで諦めるのかい?」
「諦めるって何を?」
「諦めていたじゃあ無いか」
「分からない。何を諦めたのかも、俺が誰なのかも……何も分からないんだ」
「それは記憶を失っているから?」
「……知っているのか?俺が記憶を失っている事を?」
「僕は君の記憶から産み出された存在だからね。君の知らない事は僕にも分からない事なんだ」
「……そうか。記憶を失う前の俺は[レジスタンス]の総帥に相応しい男なのかもしれなかった。でも、どうだ。今の俺はチーム[アブノーマル]のリーダーですら満足にやっているとは思えない」
「僕は今の廉しか知らないよ。記憶を失っても変わらないものが廉にはある筈だよ」
「……俺にあるもの」
廉が記憶を辿ると、紫音は消え、その人物が姿を現す。
「随分と難しい事を考えている様ね」
「……玲奈さん」
記憶を失ってから、廉の衣食住や川上道場で剣術を手解きした人物である。
しかし、現実の川上玲奈はジークフリード・アンサンブルの黒魔術:降霊術によって、魂を抜かれ、植物状態となっている。
「物事は単純なものから、複雑なものなどあるわ。それを踏まえて、今の貴方が何に立ち止まっているのかは分からないわ。でも、貴方が最初に何を思ったの?それは貴方によって、良くも悪くも単純で明快なものだった筈よ」
「……そうか。そんな簡単な事で良かったんですね?」
「……貴方がそう思えたなら、自信を持ちなさい。私はいつでも背中を押すわ。……責任は取らないけど」
廉は思わず、笑みを溢す。あの頃の様な変わらない玲奈のその姿は廉が目指していた強さであり、目標であった。
「……やっぱり、お母さんって凄いよね」
聞きなれた少女の声がすると共に白い空間は川上道場へと場所を変えていた。川上舞、川上玲奈の一人娘であり、川上道場で廉と共に稽古に励んだ男女であり、チーム[アブノーマル]の一員の一人でもある。
そんな舞は現在、有栖川天舞音によって精神と記憶を破壊され、寝たきりの状態となっている。