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血牙


 渇く。

 渇く。渇く。

 渇く。渇く。渇く。


「――ハッ……げほっ、げほっ」


 意識の覚醒と共に、ベッドから跳ね起きる。

 窓から見える空は、まだ白んでいた。


「くそ……」


 喉が、痛む。

 呼吸が沁みる。

 咳き込むほど、喉が渇く。


「これ……予想以上に……」


 こみ上げる衝動からは逃れられない。

 どうすればいい?

 どうすれば、この渇きから解放される?

 そんなことはわかり切っている。

 血を吸えばいい。

 でも、そんなこと。


「血……そうか……血なら」


 ベッドから降り、学習机の引き出しに手を掛ける。

 勢いよく引くと、音を立てて文房具が揺れ動いた。

 その中に、見つける。

 カッターを。


「大丈夫……大丈夫……指先なら」


 刃を出し、指の腹にあてがう。

 そして。


「――ッ」


 一息に引いて、身を裂いた。

 鋭い痛みが指先から肩まで駆け上る。

 思わず叫びそうになったのをなんとか堪え、痛みが引くのを待つ。

 人間なら何日もかかる治癒も、いまの僕なら一瞬だ。

 痛みがなくなり、閉じていた瞼を恐る恐る開く。


「……はぁ」


 そこには傷一つない、だが赤く色づいた指先があった。

 自傷行為。

 まともな精神状態でこれをやるのは、とてつもない勇気がいる。

 たとえ、すぐに治るとわかっていても。

 人間の頃だったなら、たぶん出来ていない。


「これで……」


 滴り落ちるほど赤く色づいた指先。

 それをゆっくりと口元に近づけていく。

 けれど、寸前のところで指が止まる。

 自分がいましていることへの異常性を、ここに来て考えてしまったからだ。

 自傷までして、自分の血を舐めようとしている。

 まずありえない行為。

 けれど、それでも僕はこれをしなければならない。

 喉の渇きも、限界だ。


「――」


 意を決し、血を舐める。

 一瞬にして口の中に広がる鉄の味と、えづくような血の臭い。

 目の端に涙がにじむ。

 胸の奥から嫌悪感が湧き出てくる。

 それでも、なんとか、飲み込んだ。


「――はぁ……はぁ……」


 気分が悪い。

 吐き気もする。

 血なんて、舐めるものじゃあない。


「でも……」


 あれだけ酷かった喉の渇きが、ほんの僅かにだが治まっていた。

 ひどく気分が悪くなるが、効果はあった。

 自分の血でも、すこしだが衝動を抑えられる。

 誤魔化すことができた。

 まだ、僕には時間が残されている。

 ほんの僅かでも、人を喰う覚悟の時間が。


「もう……一度」


 震える指先に、もう一度、刃をあてがう。


「くぅっ」


 それから何度か血を舐め、気がつくと空の白みはなくなっていた。

「今度は、ちゃんと消毒してからにしないと」

 あまりの喉の渇きに、そのまま切ってしまったけれど。

 本当なら刃を炙って、指もアルコールで消毒しないといけない。


「……準備をしないと」


 もういい時間だ。

 喉の渇きも、マシになった。

 準備をして、学校に行かないと


「――なぁ、体調でも悪いのか? 仁」

「え?」


 昼休み。

 いつものように昼食を取っていると、そう育人に見抜かれる。


「授業中、ずっと上の空だし。声かけても生返事だし。いまも箸が進んでないだろ」

「そう……かな。別に普通だよ、普通」


 気がつかなかったな、僕がそんな状態だったなんて。

 時が経つごとに酷くなる喉の渇きに、それどころじゃなかったのかも知れない。

 自分の血で衝動が抑えられると言っても、所詮はその場しのぎだ。

 ずっと渇いていることに違いはない。

 そればかりに捕らわれて、自分の状態や周りの目をなにも考えていなかった。

 気をつけないと、特にいつも一緒にいる育人には。

 心の中で、そう気を引き締めながら、箸を口に運ぶ。


「――いっ」


 卵焼きを食べていると、不意に鋭い痛みが口の中に走る。

 卵の味と、鉄の味が、舌の上で混ざった。


「どうした?」

「ちょっと、口の中を噛んだみたい」

「ほら、やっぱり。肩もこってるんじゃないのか?」

「どうかな」


 適当にはぐらかしつつ、傷口を舌で探ってみる。

 すると、すぐに違和を感じた。

 傷に、ではなく、自分の歯に。

 犬歯が、異常なほど尖っている。

 まるで牙のように。

 それは吸血鬼が身に宿す特徴の一つ。

 僕はそれだけ血に、他人の血に、飢えていた。


「……育人の言う通りかもね。今日は、真っ直ぐ家に帰るよ」

「そうしとけ。何事もなり初めが肝心なんだ。悪化する前に、きっちり治さないとな」

「そうだね……」


 口の中の痛みは、すでに消えてなくなっていた。

 僕はそれからなるべく、気をつけて弁当を食べた。

 牙を育人に見せないように。

 かなり変な食べ方になったけれど、口の中を噛んだすぐ後だったのが幸いだった。

 これなら多少、変になっても不自然には思われない。

 その後も、喉の渇きを自分の血で誤魔化しながら放課後を迎え、真っ直ぐに帰路につく。

 家に帰るとすぐに自室に引きこもり、ベッドに蹲った。

 渇く。渇く。

 痛いほどに、喉が渇く。

 いつまでも、ずっと、潤わない。

 鋭く尖った牙を、自分の手に突き立てる。

 そうして、より多くの血を吸い、なんとか衝動に抗った。

 痛みも、嫌悪感も、もはやどうでもいい。

 血を吸い、この衝動が治まれば、それでいい。

 けれど、それも長くは耐えられなかった。


「――もしもし」


 夜。

 近所の公園のベンチに、僕は腰掛けていた。

 折り曲げた指を口に突っ込み、牙を何度も突き立てていた。


「仁くん!」


 不意に、噛んでいた手が引き歯がされる。

 傷だらけになった指が外気に触れて、すこしみた。


「こんなに、なるまで……」

「ごめん、こんな夜遅くに」

「そんなことはいいよ。私を呼んだってことは」

「……うん。もう、限界なんだ」


 自分の血では、もう衝動は抑えられない。

 このままでは、人を襲ってしまう。

 自分を、制御しきれない。


「僕なりに、抗ってみたんだ。でも、秋月さんの言う通り、不可能だった」


 この衝動に、抗える者などいない。

 眠らずに生きていられる者など、いなかった。

 人の血を吸うということ。

 人を喰らうということ。

 それについて、折り合いをつける時間がほしいと言ったのに。

 僕はそんなことなど、もう欠片も考えてはいない。

 いまはただ、この渇きをどうにかしたいとしか、思えない。

 こんなに苦しいものだとは、思わなかった。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 乃々は、そんな僕を抱きしめてくれた。


「私は平気だから、血を吸って」


 その言葉を聞いたらもう、歯止めは利かなかった。


「ごめん。ごめんよ」


 僕は牙を、乃々の首筋に突き立てた。


「――んっ」


 噛み付き、溢れ出た血を吸う。

 甘くて、美味しくて、堪らない。

 自分のそれとは、全然、まったく違った。

 いつまでも、こうしていたいとさえ思ってしまう。

 今まで感じたことのない、この上ない幸福。

 喉の渇きは嘘のように掻き消え、自分の中のなにかが満たされていくのを感じる。

 これが、吸血鬼の性。

 抗いようのない、宿命。

 僕はこの時、実感した。

 再度、改めて認識し直した。

 僕はもう、人間ではないのだと。


「憶えてるかな? 私、昔にね。仁くんに助けてもらったんだ」


 血を吸われながら、乃々は呟く。


「皆の前で派手に転んじゃって、膝を擦り剥いたの。痛くて、泣いちゃって、だからかな。気がついたら周りに皆がいっぱいいて。傷が治るところを見られちゃった」


 そんなことが、あったような気がする。


「人狼だ。乃々ちゃんは、人狼だった。そう言われてね、みんなの目がとても怖かったんだ。それでまた泣いちゃった。でもね」


 でも?


「そんな時、仁くんだけは私を助けてくれたの。みんなの前に、たった一人で立ちはだかって護ってくれた。嬉しかったな、とっても」


 牙は、いつしか普通の犬歯に戻っていた。

 吸血衝動は完全に鳴りを潜め、僕は正気を取り戻せた。


「だからね。もし仁くんが困っていたら、今度は私が助けようってずっと思ってた。まぁ、私は人狼だってことがバレて、幼稚園にいられなくなったんだけど」


 だから、乃々は僕のまえからいなくなった。

 小学校、中学校と、一緒の学校にならなかった。

 けれど、高校で、僕たちは再会した。


「夢が叶っちゃった」

「乃々……ありがとう」

「ううん。どういたしまして」


 乃々が、そんな風に思っていてくれたなんて。

 僕のほうには正直、朧気な記憶しかない。

 言われてみれば、そうだったかも知れない、くらいだ。

 けれど、それでも乃々は、こうして僕を助けてくれた。

 なら、今度は僕の番だ。

 乃々が困ったなら、今度は僕が助けよう。

 この吸血鬼の力で、出来うる限り。


「おっとっと」


 吸血が終わり、乃々が離れると、途端に体勢が崩れる。

 すぐに立ち上がって、乃々の身体を支えた。


「あははっ、立ちくらみかな?」

「ごめん。僕が血を吸い過ぎたんだ」

「気にしないで、これくらい直ぐに治るよ」


 その言葉の通り、乃々はすぐに自分の足で立った。


「じゃ、そろそろ戻らないと。夜も遅いし」

「送っていくよ」

「いいよ、気を遣わなくても」


 そう言って、乃々は公園を出ようとする。

 だから。


「ダメだ」


 その手を取って、引き留めた。


「送っていくから」

「……じゃあ、送ってもらおうかな」


 僕たちは歩き出す。

 手を繋いだまま、昔のように。

 公園を出て、孤児院へと向かう。

 その道のりに障害はなく、何事もなく到着する。


「あれ?」


 しかし、孤児院のグラウンドまえに、誰かが立っているのが見えた。

 その小柄な誰かが、僕たちに気がついて振り返る。

 それは夥しい量の血を流した銀色の人狼。

 司だった。


「たす……け、て……くださ、い」


 その言葉を残して、彼の意識は途絶えた。

 力なく、崩れ落ちるように倒れ伏す。


「だ、大丈夫かっ」


 すぐに駆け寄って、抱え上げる。


「はやく、家の中にっ」

「わかったっ」


 司を抱きかかえ、グラウンドを横断する。

 それが彼らとの出逢いの切っ掛けになるとも知らず。

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