衝動
「まずはお礼を言わせてね」
たおやかで、優しい声をした秋月さんは言葉を紡ぐ。
「乃々と一緒にこの孤児院を護ってくれてありがとう」
立ち上がり、深々と頭を下げられる。
自分より年上の女性に、こんな風にされたのは初めてだ。
照れくさいというか、むず痒いというか。
けれど、それも束の間のこと。
すぐに掻き消える。
「……いえ、ここが襲われたのは僕にも原因がありますから」
直接の原因ではないかも知れないけれど、遠因ではある。
僕が襲われていなければ、現場から離れなければ、乃々に気づかなければ。
ここは狙われずに済んでいたかも知れない。
乃々は、僕なんかが助けようとしなくても、古金を撃退できていたのだから。
「そうだとしても、私はあなたに感謝しているわ」
「そうそう。悪いのは古金なんだから、仁くんは胸を張っていればいいんだよ」
「そう……かな」
そう、思うことにしよう。
せっかく、こう言ってくれたことだし。
「心根の優しい人ね」
そう呟いて、秋月さんはイスに腰を下ろす。
「それで、吸血鬼だったわよね?」
「はい」
人狼から転じた吸血鬼。
伝承に記された吸血鬼については調べられた。
けれど、僕の身に起こった吸血鬼化のことは調べられなかった。
人狼に喰われると人狼になる。
この情報が世に出回っていない以上、吸血鬼化のことなんて、調べようがなかった。
「吸血鬼の存在は、人狼に古くから伝わるっているものよ。と、言っても、ほとんど御伽噺や伝説のようなものだけれど」
「そうなんですか?」
「えぇ。なにせ、吸血鬼は人間からしか生まれないから。人間が人狼になることだって稀なのに、吸血鬼となると更に確率が低くなる。……そうね、例えるなら、宝くじの一等を連続で引き当てるくらいかしら」
「そんなに確率が低いんですか……」
気が遠くなるような確率の果てに、僕は吸血鬼になった。
どうしてそんな低い確率を、一発で引いてしまったのだろう。
まぁ、引いていなければ死んでいたのだけれど。
運が良いんだか、悪いんだか、わからないな。
「人間が人狼となる過程で、ごく稀に生まれる変異個体。それが私たち人狼が古くから吸血鬼と呼ぶ存在よ」
変異個体。
人狼の亜種。
突然変異という言うべき存在。
「吸血鬼は人狼とは異なる性質を持っているとされているわ。人狼が獣の特性を身に宿すのに対し、吸血鬼には一対の翼と牙が現れるの」
「翼と牙」
翼には覚えがある。
古金と対峙した際に、背中から一対の翼が生えていた。
意識して生やした訳でもないけれど。
いつの間にか、消えていたし。
しかし、牙にはすこしの覚えがない。
「大神くん。あなた、喉が渇いてないかしら?」
「……そう言えば、すこし前からずっと」
ここにくる途中、自動販売機で適当な飲み物を買って飲んだのだけれど。
なぜか、渇きが潤わない。
図書館を出たあたりから、ずっと喉がすこしだけ渇いている。
「牙は、そのためにあるのよ」
「そのため? ……まさか」
「そう。吸血鬼に人狼のような食人衝動は起こらない。けれど、代わりに人の血を欲してしまう、吸血衝動が起こってしまうのよ」
人狼も、吸血鬼も、結局は人間に仇なす性を背負う。
人を喰いたいと、人の血を飲みたい。
そこに、どれだけの違いがあるだろう。
一緒だ。
人の血を飲むということは、その人を喰うに同じ。
変異個体だとしても、その宿命からは逃れられない。
そのことをどうしようもなく、この喉の渇きが訴えていた。
「……失礼を承知で聞きます。この衝動を、我慢することは出来ないんですか?」
出来るはずがないと、理解はしていた。
我慢できるなら、捕食事件など起こらない。
人狼は、食人衝動には抗えない。
つまり、その変異個体である吸血鬼も。
「元人間の大神くんの心情は察するにあまりあると思っているわ。けれど、こればかりははっきりと言わせてもらいます。衝動を我慢することなんて、不可能よ」
不可能。
そうとまで、言い切ってしまうのか。
「衝動は、例えるなら強烈な睡魔に似ているわ。最初は意思や理性で抵抗することができても、最後にはかならず屈してしまう。眠らずに生きていける人間がいないように、私たちも衝動には抗えないの」
「そう……ですか」
この喉の渇き。
今はまだ我慢できる。
けれど、これから時を追うごとに、渇きは酷くなる。
そして、最後には人を襲い、その血を喰らう。
人工肉とはわけが違う。
血液は、人工的には造れない。
提供もされない。
必ず、誰かの血をもらわなければならない。
「僕は、どうすれば……」
自然と手が喉元へと向かう。
この渇きが、恐ろしくなった。
「一つだけ、手があるわ」
「それは、なんですか?」
「人間ではなく、私たち人狼の血を飲むこと」
人狼の血を、飲む。
「私たち人狼も、生物学的にはヒト科ヒト族の範疇にいる種族だから。私たちの血でも、衝動は抑えられると思うわ」
「でも、それは……」
たしかに、それは解決方法ではあった。
人間ではなく、人狼に血をもらう。
事情を知らない人間ではなく、事情を察することが出来る人狼のほうが難易度は低い。
けれど、それは僕の根本にある拒否感。
人を喰らいたくないという感情の解決には、ならなかった。
「仁くん」
不意に、名前を呼ばれる。
釣られるように見た乃々の目は、真剣みを帯びていた。
「私は、いいよ。仁くんにだったら、血を吸われても」
「乃々……」
冗談で言っている訳ではない。
目を見れば、それが本心であると理解できる。
「……すこし、待ってほしいんだ。心の中の、整理をつけたい」
人の血を吸うということ。
人を喰らうということ。
そのことについて、自分の中で折り合いをつけるだけの時間がほしい。
いろんな思いが、頭の中や胸の奥で錯綜している。
こんな状態で、軽々しく、血を求めたくはない。
「……そうね。大神くんには時間が必要よね。なら、今日のところは切り上げましょうか」
「はい。すみません」
「いいのよ。ゆっくり、考えなさい」
そのあと僕は、心なしか酷くなった渇きを我慢しながら孤児院を出た。
家にどう帰ったのかは、憶えていない。
ぐるぐる、ぐるぐる、思考は巡る。
人狼。吸血鬼。食人。吸血。衝動。
つらつらと考えていたら、気づくと自室のベッドの上だった。
「――このように、人狼による捕食事件は年々、増加傾向あります」
不意にテレビの音声が聞こえて、ベッドから起き上がる。
テレビのリモコンにいつ触ったかも憶えていなかった。
「でも、人間による殺人事件のほうが、はるかに多いですよね? 実際」
「そりゃー、あなた分母が違い過ぎるからでしょうが」
「どちらにしても、対策は必須だと思いますけどねぇー」
ニュース番組では、この前の捕食事件に触れていた。
僕はその犯人を知っている。
人狼、古金。
あの日、深刻なダメージを負った古金は、軽傷ですんだ司に担がれて去って行った。
追わないのか、警察に引き渡さないのか。
そう問うたとき、乃々は複雑そうな顔をした。
いわく、人狼は人狼を人間には売らない。
それがどんな凶悪な人狼でも、たとえ親の敵でも。
人狼を売った人狼は、ほかの人狼からの信用を失うからだ。
人間よりも数が少ない人狼は、それだけ帰属意識が強い。
仲間とまではいかないまでも、微かだが繋がりが築かれている。
そこに軋轢を生むような行為は、身の破滅を招いてしまう。
人狼が起こした事件は、人狼が解決する。
そこに人間が介在する余地はない。
人狼の世界で生きていきたいのなら、その慣習に従うしかない。
だから、僕も古金を人間に売るような真似はしない。
でも、だからこそ、思う。
口を噤むことが、果たして真っ当な判断なのか否か。
「――被害者遺族の方々の無念は計り知れないでしょうねぇ」
咄嗟に手に取ったリモコンで、テレビを消した。
その真っ黒に染まった画面に映る自分を、直視することが出来なかった。
「――仁ー、ごはんよー」
「……いま行く」
その場から逃げるように自室を出る。
喉の渇きは、よりいっそう酷くなっていた。