旧友
意識が覚醒する。
「あ、れ……?」
もう目覚めることはないと思っていたのに。
僕は目を覚ました。
物が見られて、息が吸えて、心臓が動いている。
助かったのか? 背骨を抜かれ、あんなにも血を流したのに。
「ぜんぜん、痛くない」
寝かされていたベッドから起き上がる。
その動作に一切の不便はなく、痛みもない。
背中に手をやってみても、傷が見当たらない。
下からなぞる背骨は、すべて綺麗に積み上がっていた。
「……夢? でも」
あの衝撃は、いまでも目に焼きついている。
身体に刻み込まれている。
あれがただの夢だったなんて、とても思えない。
「状況がまるで飲み込めない……服も違うし」
身に纏う服が学生服じゃない。
見覚えのない服で、僕のものじゃない。
「というか、ここどこだ?」
よくよく見てみれば、寝かされていた部屋にも見覚えがない。
古めかしい洋館を思わせる、趣のある一室。
だが、家具は少なく、生活感もない。
室内をぐるりと見渡し、最後にベッドの脇に目をやる。
すると、ぱっちりとした大きな瞳と目が合った。
「おにーちゃん、起きたー?」
見知らぬ子供が、そこにいた。
「えーっと」
ますます状況が呑み込めなくなってしまった。
けれど、それでもなんとか、返事を絞り出す。
「う、うん。おはよう」
「おはよー」
そう朝の挨拶を交わし、子供は僕に背を向けた。
出入り口のほうへとぱたぱたと走っていき、背伸びをしてドアノブに手を掛ける。
それからこちらには目もくれず、子供はどこかへと行ってしまった。
「……なんだろう、いまの子」
この家の子かな?
そうでなくても、あんな小さな子だ。
側に大人がいるに違いない。
その大人から、事情を聞けるかも。
そう思い、ベッドから足を下ろした。
そうして裸の足がスリッパに触れようとしたところ。
「ん?」
どたどたと騒がしい足音がした。
「はやく、はやく。こっちー」
「ま、待って。翔太」
どうやらさっきの子供が戻ってきたみたいだ。
ほかの声もするし、察するにこの家の住人だと思う。
よかった。これですこしは状況が呑み込めそうだ。
がちゃりと、扉がひらく。
「目が覚めたんだね、仁くん」
そう親しげに僕の名前を呼んだのは。
「真月……さん?」
真月乃々。
その人だった。
あれ、というか、ずいぶんと印象が違うような。
「ありがとね、翔太。冷蔵庫にプリンあるから、食べてもいいよ」
「ほんと! やったー!」
プリンと聞いて大はしゃぎした子供――翔太は、駆け足で部屋を後にした。
この部屋に二人きりとなる。
そうなると真月さんは近くのイスに腰掛けた。
その横には、フルーツの入った小さなバスケットが置かれていた。
「えーっと、どういうこと?」
「混乱してるよね。うん、一から説明するね」
真月さんは、僕の望んでいることを口にしてくれた。
「あの時、仁くんは人狼に襲われたの」
「それは憶えてる。血がいっぱい出て、それで……」
息絶えた、はずだった。
「人狼にはね。世間には公表されてないことがあるの」
「公表されてないこと? それって?」
「人狼に食べられると人狼になる、ってこと」
「――なっ!?」
人狼に喰われると人狼になる、だって。
そんな話は聞いたことがない。
悪魔と遊べば悪魔になるとは言うが。
けれど、そうなのだとしたら、納得のいく部分も出てくる。
背骨の一部を失い、大量の血を流し、それでも僕は生きている。
身体に一つの不具合もなく。
でも、そんなこと。
「……じゃあ、僕も人狼になった……ってこと?」
「うん。すごく低確率なことなんだけどね。運がよかったのかな」
運がよかった。
たしかにそうかも知れないけど。
「信じられない?」
「……急には」
「そう言うと思って」
真月さんはバスケットから一つのリンゴと、深皿を取り出した。
「はい、これ」
そして、その二つを僕に手渡した。
「これを……どうするの?」
「握り潰してみて。片手で」
片手で、握り潰す。
そんなこと出来るとは思えないけれど。
とりあえず、真月さんの言う通り実行してみる。
頭に疑問ばかりを浮かべながら、深皿の上でリンゴを強く握ってみる。
瞬間、リンゴは意図もたやすく握り潰された。
「うそ……でしょ」
たしか、リンゴを潰すのに握力が八十キロくらい必要だったはず。
今年、測定した時は二十八キロだった。
あれから特に握力を鍛えていたという訳でもない。
つまり、僕は昨日今日で握力が二倍以上に跳ね上がったことになる。
人狼に、なったことで。
「はい、濡れタオル」
「あ、ありがとう」
準備がいいもので、適度に水分を含んだタオルと深皿を交換した。
「これでわかったでしょ?」
「そうだね……認めざるを得ないかも」
どれだけ頭で否定しようと、現実はことごとく動かぬ証拠を突きつけてくる。
僕の身体は疑いようのないほどに変化していた。
人間から、人狼へと、変貌していた。
「それにしても、あの時はびっくりしちゃったな」
真月さんは、教室にいる時とはまるで別人だった。
寡黙で、孤高で、読書が好きな文学少女。
そんな印象だったのに、こうして接してみると他のクラスメイトと変わらない。
普通の少女だ。
「私、本当に死んじゃったかと思ったもん。仁くん」
「……あの」
「ん?」
「その、仁くんって言うのは……」
先ほどから、真月さんは僕のことを仁くんと呼んでいる。
僕を下の名前で呼ぶのは、家族と育人くらいのものだ。
なのに、どうして真月さんは、そんなに親しげに?
「……そっか、やっぱり憶えてないんだ」
「憶えてない?」
どういう意味だ?
「幼稚園の頃!」
びしっと、真月さんは人差し指を差す。
「私たち、とっても仲が良かったんだよ?」
「そう……なの?」
「そう! 同じ、もも組で毎日一緒に遊んでた!」
もも組。
朧気な記憶だけど、幼稚園の組分けはフルーツの名前だった。
幼いながらに、ももは嫌だなと思っていたような気がする。
「思い……出せないかな?」
「……ちょっと待って」
なにか、思い出せそうな気がする。
幼稚園。もも組。真月乃々。
乃々?
「あっ」
「思い出したっ!?」
いた。
たしかに、いた。
僕が幼稚園にいた頃、毎日のように遊んでいた女の子が。
「の……乃々?」
呟くように、名前を呼ぶ。
あの頃のように。
「――思い出してくれたっ」
とても嬉しそうな声がして。
「あっ、ちょっ」
不意に、抱きしめられた。
「よかったぁ! せっかく一緒の高校になれたのに気がついてくれないんだもん!」
「わ、わかった。わかったから、落ち着いて」
いろいろと、いろいろと不味い。
幼稚園の頃ならいざ知らず、高校生にもなってこのスキンシップは不味い。
なんか、柔らかくて、いい匂いがして、暖かくて。
どんどん思考が不健全な方向に進んでしまう。
だって男子高校生だもの。
「おねーちゃん」
「はいぃ!?」
小さな女の子の声がして、真月さんは跳び上がるように僕から離れた。
第三者の声を聞いて、ようやく自分がなにをしていたのか理解したのだろう。
救世主あらわる。
なんか、心臓が驚くほど脈打っている。
破裂しそうだ。
「な、なに? 陽子」
「おきゃくさんが来てるよー」
「お客さん? うん、わかった。すぐ行くね」
「うんー」
ぱたぱたと、女の子は去って行く。
それを追いかけるように、真月さんも立ち上がる。
「仁くんはここでゆっくりしてて、遠慮はいらないから」
僕に背を向けて、そう言ってくれた。
顔をあわそうとしないのは、気まずいからだろう。
僕もそうだ。
「うん。ありがとう、真月さん」
「……あの、ね」
けれど、その気まずさをはね除けるように、真月さんは振り返る。
顔を合わせ、目と目が合う。
「昔みたいに……乃々って呼んでほしいな。なんて」
昔みたいに、か。
もう随分と、二人とも変わってしまったけれど。
せっかく、古い友達を思い出せたんだ。
昔懐かしい呼び方で呼び合うのも、いいかも知れない。
「わかったよ、乃々」
「えへへ。じゃあね」
最後に笑顔を見せて、乃々は部屋を後にした。
一人、部屋に残った僕は、下ろしていた足をベッドに上げて寝転がる。
すこし、昔のことを思い出しながら。
「そっか……気がつかなかったなぁ」
真月乃々が、乃々だった。
端から見ると意味がわからないな、これ。
でも、それも無理もない。
最後にあったのは卒園式で、小学校も中学校も別だった。
高校生になって同じクラスになっても、幼稚園のころの友人なんて思い出せない。
寧ろ、よく乃々は僕のことを憶えていたな。
僕なんて、すっかり忘却の彼方だったのに。
「……人狼か」
ふと、思い出す。
自身がおかれてしまった状況に。
旧友との再会で、すっかりと忘れていたけれど。
僕は人狼に、なってしまっている。
身体能力はすでに並外れているし、治癒能力も爆発的に上がっている。
失った骨を再生させてしまうほどに。
そして、僕もいずれは食人衝動に駆り立てられる。
人口肉を、食べなければ。
そのためには、まず。
「――」
揺らぐ。
建物が、轟音を立てて、一瞬だけ揺れ動く。
「地震っ……じゃない?」
飛び起きてみるも、振動は続かない。
一瞬だけ揺れて、すぐに納まった。
それに、いま思えば地震のような揺れではなかったように思う。
なんというか、なにかが激突したような。
「……外に、出てみよう」
地震ではないにしろ、なにかあったのは確実だ。
この建物には小さい子がすくなくとも二人いる。
心配だし、僕にもなにか出来ることがあるかも知れない。
裸足のままスリッパを履き、僕は部屋のドアノブに手を掛けた。