ああ言う、礼で意
作蔵が今から味わう勿体ない恐怖。
高額なしゃぶしゃぶ肉が伊和奈によって煮立てるスープへと潜られらる瞬間が、刻一刻と迫っていた。
「作蔵、主役を入れるよ」
「ああ、束で泳がせろ」
黒毛和牛の霜降りロース肉(しゃぶしゃぶ用)を3枚重ねにして箸で挟む伊和奈。
風に靡くように小刻みに揺れている鮮やかな薄紅色と白の“恐怖”にどう立ち向かおうかと、作蔵は喉を鳴らす。
伊和奈は鍋から立ち上るスープの湯気を掻き分け、箸で挟む肉を投入した。右へ左へと箸の先を動かし、しなやかに煮えた肉を引き上げる。
ほんのりとした、桜色の肉。小皿に盛られた梅塩。伊和奈の手によってそれぞれが重なりあう瞬間を、作蔵はじっとして見つめた。
「作蔵、覚悟をしなさい」
冷たく、凍てつく。
伊和奈の眼差しに、作蔵は堪らず身震いをした。
「止すのだ、伊和奈。待て、伊和奈。俺は、俺は……。」
ーーうわぁあああああっ!!!!
伊和奈の口の中で“恐怖”が噛み砕かれた瞬間、作蔵が悶えて叫んだーー。
***
いよいよ、始まった。
別の部屋にいた男は「くっくっくっ」と、気味悪い顔で笑った。
「文吉、父さんについてきなさい」
男は無色透明で楕円形の固体を掌の上に乗せていた。
「どうした、文吉。父さんが見えないのかい」
男は焦っていた。掌の上の固体に反応がないと、挙動不審な状態になっていた。
男は顔つきを険しくさせ、部屋の扉を蹴り破る。飛び散った扉の破片を足の裏で踏んで刺し、廊下に血の飛沫が残るのも気にせずの男は、作蔵と伊和奈がいる部屋へと向かっていった。
「儀式を止めろっ! 肝心の倅がいなければ、意味はーー」
男が入室をした。しかし、目の前の光景に言葉を続けることを止めた。
ーーさあ、作蔵。どんどん、恐れなさい。
ーーいやん、伊和奈のばかん。ああ、そんなに攻めては駄目よ、だめだめ……。
ーー恐いよね、悍ましいよね。でも、こんなに沢山あるのよ。舌の上で絡ませなさい、噛みなさい、喉を鳴らしなさい。
ーーああ、伊和奈の苛めっ子。だけど、もっと、もっと噛ませてーー。
「きみたち。お願いだから、此方を向いてよ」
男の声は切実で、顔は呆れていた。
「……。作蔵、バレたみたいよ」
「知るか。それにしても、肉を鱈腹に食うはあとにも先にも今回だけだろう。伊和奈、先ずは思う存分に味わうをしよう」
「あ、肉なくなった。おじさん、作蔵はまだ“恐さ”が足りないみたいだから、追加をお願いね」
「わかった、買いに行ってくる……。」
男は作蔵と伊和奈に背を向けた。一歩、二歩と部屋の出入口へと進み、三歩を踏もうと右足を上げたところで立ち止まる。
ーーんなわけ、ないだろうっ!!!!
男は怒りを膨らませ、掌を天井へと翳した。
突風と衝撃、部屋の中に充満する薄茶色の粉塵。息は詰まりそうで、全身は煤まみれになる。
「勿体ない。鍋のしめとして雑炊が食べられないではないか」
作蔵は鍋の中を覗いて落胆した。残るスープの表面に黒い塵と埃が降り積もり、浮かんでいた為にだった。
「作蔵のいう通りよ。立派なお屋敷なのに、おじさんが天井に穴を空けてしまったからね」
伊和奈は天井を見上げていた。屋根まで貫通させるほど突き破られた天井の穴を覗くと、青空と雲が見えていた。
「きみたち、驚きとがっかりの感覚がずれているよ。おじさんの予想ではね、鶏冠頭のお兄ちゃんが『何をするのだっ!』と、お嬢ちゃんが『なんてことをするのっ!』と、一斉におじさんへと振り向くをして叫ぶのだろうとーー」
「伊和奈。おっさん、何でがっかりしているのだ。あ、何とか食べられそうだ」
「たぶん、私達の反応が予想と反しているからだよ。止しなさい、作蔵。食べるなんてみっともないし、お腹を壊したら意味ないよ」
半ば呆れながらも眉を吊り上げ歯軋りをしている男。鍋の中から箸で挟んで持ち上げた、煤と埃が絡み合って煮えきった肉に息を吹き掛ける作蔵。作蔵の様子を止める伊和奈。
「でも、恐ろしい。しゃぶしゃぶは、本当に恐い」
「悲鳴をあげて身を悶えさせながら、肉を奪い合う。具材の一片、スープの1滴を残さず美味しくいただく。作蔵は、本当にしゃぶしゃぶが恐い。ごめんね、作蔵。あなたに恐い思いをさせてしまった」
「伊和奈、謝るな。そもそも、こんな状況になったのはーー」
作蔵は黄色の襷を肩に掛けて方結びで絞める。そして、男を振り向いた。
男の顔が厳つくなる。
「兄ちゃんに“恐れ”の儀式は効かない。いや、そんなもの全くの虚言だった。とんだ芝居に付き合わされてしまった」
「おっさんが物事の大元だ。伊和奈を巻添えにして、何をふんぞり返っているっ!」
「倅の為だ。おまえの“器”は倅がまた生きる為に必要だからだ」
男の瞳の色が、茶から紫へと変わる。頭髪は焚き付ける炎のようにゆらめいた緋色、口から牙になった歯を剥出し、灰色に濁った息を吐く。
身に纏う服から見せる肌は赤茶色。爪の先端は細く、鋭く。
男は姿を変えた。
先程まで見ていた人の象の面影さえ残らずで、男は姿を変化させた。
「作蔵。おじさんは長いこと“闇”にとりつかれていたから、今の姿になってしまったと思うよ」
「さっきから『倅』と、言いまくっているのも気になる。伊和奈、答え合わせするぞ」
「“さくぞうをぬいて”だよね」
「“こわいふり”と“にく”は付録のようなものだ。中心となっているのは何かだよな」
「うん」
伊和奈は腰に着けている巾着袋の中に右手を入れる。
「待て、まだ取り出すな」
作蔵は伊和奈の掌動きを止めて、姿を変えた男を睨む。
ーー“儀式”が効いていたらおまえの“器”を“芯”から綺麗に剥がすつもりだったが、やり方を変える。ワシの、この尖った爪でおまえの“器”に切り込みをして“芯”を抜きとり、ワシの口から吐く焚きついた息で“芯”を燃やそう。残った“器”にファスナーを取り付けて倅の“芯”を入れて綴じる。
「おっさん。準備万端はいいが、肝心のあんたが言う『倅』は何処にいるのだ」
作蔵の問い掛けに、姿を変えた男の頬が痙攣した。
「その様子だと『倅』は、いないのだな。でも、俺の“器”を掻っ払っていれば、いつかは『倅』に与えられる。傍迷惑だ」
ーーワシはもう“人”では生きていない。だが、それは大したことではない。ワシは倅が人で生きれば十分だ。ワシは、もう“鬼”だ、倅がすべてだ。倅が、倅が……。
「作蔵。おじさん、何か考え込んだよ」
伊和奈は自身を“鬼”と言った男の様子の変化に気付いたのであった。
「今だっ! 伊和奈」
作蔵は伊和奈を促した。伊和奈は一度背筋を伸ばして「おっけい」と、巾着袋から中身を取り出した。
ーー何だ、何を見せたのだ。
鬼の姿をしている男は伊和奈が掌で握り締めて翳す蒼の球体を凝視した。
「気付けよ、馬鹿親父」
掛ける襷の結び目を解く作蔵は、襷の端を合わせて真っ直ぐと帯状に持ちかえる。
作蔵は襷を野球の道具に見立てて、体勢を調えた。
「ちゃんと打ちなさいよ」
伊和奈は球体を両手で包み、鳩尾へと抱える。さらに両足の歩幅を一歩前後にさせて、右腕を前へと三回転半回した。
伊和奈は作蔵へと球体を投げた。構える作蔵は棒状の襷で球体を打つ。
球がバットに当たる時に生じるような音が室内に響き渡り、飛ぶ球の行き着いた先はーー。
「ストライクッ!」
「作蔵、あんたがバッターでしょうっ!」
「え、違うの」
「ああ、こっちまで何と判定すればいいかこんがらがるっ!」
「デッドボールだろう。おっさんに直撃したぞ」
「だから、それはピッチャーが投げた球がバッターの身体のどれかに当たった場合よ。わたしが球を投げて作蔵が打って、球がおじさんに当たってーー」
ーー『ドッジボール』だ……。て、おまえらはワシに何を……。
男は、腹部を抱えて床に卒倒した。
「“いらいぬしここにいる”つまり、俺らがぶっ飛ばしたのはあんたの言う『倅』だ」
男に命中した蒼の球体が床に落ちて作蔵の褄先へと転がり、作蔵は腕を伸ばして球体を掌で拾い上げたーー。