薄紅色の恐怖
昏倒のふりをしている作蔵は、カセットコンロが点火している音に耳を澄ませていた。
時が迫っている。しかも、身を悶えさせるような事。喉がなりそうだったが、顎を引いて耐えた。
ぐつぐつと、鍋の中に浸るスープが煮沸する音が聞こえる。昆布と鰹節の混じり合う匂いが鼻腔を擽らせる。うっすらと開ける目蓋の隙間から見えたのは、鍋からほこほこと立ち上る湯気が、天井へと昇っては消えてを繰り返している。
限界状態だった。口の端から味覚に反応した液体が溢れる寸前だった。
「起きろ。そして、悶えろ」
男が作蔵の脇腹に褄先で突いた。反撃を喰らわせたいと感情が疼いていた。
ーー手を出したら“ごめんなさい”を10分で1万回帳面に書く。
下拵えされた大根と人参が盛られている笊を抱えている伊和奈が作蔵をじろりと、睨んでいた。因みに語りかけているだろうの伊和奈の言葉は、あくまで薄目で伊和奈を見ていた作蔵の解釈だ。
「わあ、ここはどこだろう」
作蔵は上半身を起こして目蓋を擦り、無感情の言い方をした。
「さくぞうぬいて、い、さくぞう、ら、さくぞう、い、さくぞう、ぬ、さくぞう、し、さくぞう、こ、さくぞう、れ、さくぞう、に、さくぞう、い、さくぞう、る、さくぞう、こわ、さくぞう、い、さくぞう、ふ、さくぞう、り、さくぞう、に、さくぞう、く……。作蔵、用意はいいかしら」
作蔵は、見逃さなかった。いや、聞き逃さなかった。伊和奈が言う不快な言い回しと、腰の後ろで右手に握り締めるのが何の意味を示しているを、瞬時に理解した。
「ああ。もう、すでに身震いしている」
作蔵は腰の位置で右手の人さし指と親指を輪っかにさせて拳を握るを伊和奈に示した。
伊和奈は小さく頷いた。
男の顔が怪訝になっている。作蔵は、伊和奈に首を横に振って見せた。
「おじさん、鍋の手順はどうするの」
伊和奈は横目で男を見て言う。
「頃を見計らって“器”を採取する。嬢ちゃん、あんたはこいつの見張りをしていてくれ」
男は中身が詰まった買い物袋を伊和奈に預けると、作蔵を閉じ込めていた部屋から出る途中で羽織る半袖ジャケットの右ポケットに手を入れて、引き抜く。
男の手から紙切れが離れ、ばたん、と、扉が閉まる。ひたひたと、スリッパで廊下を踏み締める音が遠退いていく。
「ふん」と、作蔵は部屋の隅々へと視線を向けて鼻息を吹く。
板張りの床に落ちていた紙切れを拾い上げ、先端が丸くて人さし指程の長さの2B鉛筆を伊和奈から受け取ると筆先を紙切れに走らせる。
〔『さくぞう』を抜いた“そいつ”は切り札として、おまえがしっかりと持っていろ〕
「結構たっぷりだよ。作蔵、絶対に嘆くよ」
伊和奈は作蔵が紙切れに書き記した文字を読むと、男から渡された買い物袋から中身を取り出して、テーブルの上に置いた。
「上等だ。さあ、始めよう」
作蔵は箸を握り締めた。
鍋の中でぼこぼこ煮え立つスープへと、伊和奈が笊の中身を投入する。
作蔵は柚子醤油と梅塩を2枚の小皿に其々と、注いでいた。最初は薄切り短冊状の大根、次に同じ切り方の人参を箸で挟み、柚子醤油が注がれている小皿の中に浸して口の中に入れるとはふはふと具材を咀嚼する。
煮えた具材に噛り付く作蔵の様子に伊和奈は苦笑いをしながら、先程作蔵から受け取った紙切れの裏をひっくり返した。
〔龍本産 黒毛和牛 霜ふりロース 500g
¥8000×2〕
〔鳥岡産 黒豚 肩ロース、モモセット 500g
¥5400×2〕
伊和奈の目蓋と頬がぴくりと、痙攣した。さらにテーブルの上に置いていた竹の皮の包みを解くと、鮮やかな薄紅色の薄切りの肉が折り重なって詰まれていた。
「作蔵、ちゃんと“怖い”をしなさいよ」
伊和奈が手にする箸の先で挟まれて垂れている霜降り肉が、小刻みに揺れていたーー。
“さくぞう”を抜いたら出てきます、強引です。何が出てくるのかは……。
答えは次話で(たぶん)作蔵に言わせます。