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煮苦

 作蔵が両腕をだらりと、垂らして男の肩に担がれていた。


 伊和奈は見るのが精一杯だった。

 男が一歩動くと、作蔵の腕が左右に振られている。

 作蔵の意識がどうなっているのか。確かめたいと思いはするが、男の不気味な笑みがおぞましい。

 感情にまかせて動くをするならば、共倒れをするのは確実だと、伊和奈は堪えることを選択した。


「手伝うは、何をすればいいの?」

 指先、褄先がかじかむ感覚。寒空に薄着でいるようだと、伊和奈は身震いしながらも男に訊いた。


「くっくっくっ」と、男は嘲笑いをするばかりだった。


 伊和奈は沸々と、怒りを膨らませた。

 先程までと違い、全身が火照る感覚。強く握りしめる拳を開いて、指の関節を鳴らして掌を綴じる。


「失礼した。目的が成し遂げられると思ったら、感無量となってしまった」

 男は笑いを止めて、深呼吸をする。


 男はどこまでが真面なのかと、伊和奈は頬の裏を噛み締めた。


「で、わたしは何をすればいいの?」

 鼻息を強く吹く伊和奈は男に訊く。


「こいつが恐れているのが何かを教えてくれ」

 男は肩に担いでいる作蔵を揺さぶった。


 伊和奈は目蓋を痙攣させた。作蔵が“恐れている”のが『何』と、男ははっきりと尋ねた。


「おじさん。作蔵はね、豚肉と牛肉がまったく駄目なの。特にしゃぶしゃぶは、煮えたったスープに肉を潜らせるところを見るだけでも悲鳴をあげて逃げるわ。黒豚と黒毛和牛、どんなに最高級の肉でも作蔵は受け付けない。現物を見せる、品名をうっかり口で突くならば此方が大変な思いをしてしまう。それほど、作蔵は豚肉と牛肉が、特にしゃぶしゃぶは駄目なの」


「随分と、もったいない“恐れ”だね。でも、解った」

 男は作蔵を担いだまま、伊和奈に背中を向けた。そして、部屋の出入口まで行くと立ち止まった。


 伊和奈は男の目つきを見た。

 寒気がする、声が出せない。伊和奈は作蔵に手を差し伸べるが、歩幅をひろげることが出来なかった。


 男は作蔵を担いだまま、部屋を出た。

 扉が閉じられ、圧縮が生じたような摩擦の音が伊和奈の耳元で聞こえた。


 伊和奈は扉の取っ手を握る。回す、押す、引くをする。


 完全に閉じ込められたと、伊和奈は開かない扉の前で愕然となった。

 さっきの衝撃音は、男が“術”を掛けた時に生じた音だった。


 男は作蔵を別の部屋に置いてまた出掛けた。振り向いた先の部屋の窓の外を見ると、男はひとりで歩く姿があった。

 男が何処まで見抜いていたのかはわからないが、これでは作蔵と接するが出来ないと、伊和奈は歯痒さのあまりに扉を蹴った。


 褄先に激痛。

 伊和奈は膝を曲げて腰を落とした。そして、背中を丸めて右の素足を両手で何度も擦った。


 “実体”ではなかった頃は覚えるはなかった感覚。体感温度、体調の良し悪し。神経に刺激が反応する。


 受ける度に“実体”の自覚をする。

 承知はしていたが、僅かに欠けた足の親指の爪を見つめる伊和奈は溜息を吐いた。


「作蔵、もう少し辛抱してね。あんたが無駄に頑丈は、わたしが一番知っている。お願いだから、諦めることは絶対にしないでよ」


 窓の外は、雨上がり。

 射し込む日射しを背中に受ける伊和奈は、床に影を落としていることを気付かなかったーー。



 ***


 それは、伊和奈がいる隣の部屋でのことだった。


 ごきごき、ばきばき。と、関節を鳴らす音が室内に響く。


 腕を伸ばして背伸びの運動。屈伸、反復横飛び、倒立前転、後方二回宙返り一回ひねりをする。床に足を着けて直ぐに膝に手を置いて右に左と回して、アキレス腱を伸ばす。


 今一度、腕を伸ばして背伸びの運動をして呼吸を調える。


「ああ、きつかった」


 どこの誰だか知らない、あれは誰だの(たぶん)青年が肩の関節を回しながら溜息を吐く。


「『たぶん』とは、何だ?」


 何かが気に入らなかったのだろう。青年から顎を下からつきあげるようにして打たれてしまった。


「俺は“やられたふり”をしていたのだ。おかげで身体が鈍ってしまった。軽ぅううく、柔軟体操をして次に備えた俺の努力を水の泡にするなっ!」


 待て、途中で柔軟体操の領域を越えていた。そして、何に備えてなのかが理解できない。


「おまえは、馬鹿か? 俺が“恐れていること”を伊和奈は奴に言った。聞いていた俺は身震いした。だから、俺はーー」


 作蔵は背筋を伸ばして顔を厳つくした。そして、床に腰をおろして仰向けになった。


 ーーいよいよだ、ようやくだ、やっとだ。倅が大気を吸い、大地を踏む。その瞬間を見る、すべてが報われる……。


 聞けば凍てつくような、悍ましい声色。


 奴が戻ってきたと、作蔵は察していた。

 先程までの余裕綽々な態度は全くなく、部屋に運ばれた時と同じ体勢を作蔵はしたのであった。


 ーーおじさん、道具は此処に持ってきていいの?


 嘘の昏倒こんとうをしている作蔵は、声が誰なのかは解っていた。


 ーーテーブルの上にカセットコンロを置くのだ。


 ーー肉以外の具材はどうするの?


 ーーこだわるとはな。冷蔵庫に大根と人参が入っているから、適当に切って持ってきて。


 ーー薄く、短冊状にするね。肉と同じようにさっと、スープに潜らせられるから。あ、スープの出汁はわたしが持っていた昆布と鰹節でいいかしら?


 ーーなんでもいいよ。薬味と調味料も適当でも構わない。


 ばたばたと、足音が遠退く。

 伊和奈が台所に行ったのだと、狸寝入りをしている作蔵が思った。


「貴様が悶える、苦しむ。その瞬間を見届けて、貴様から“器”をいただく」


 声がはっきりと聞こえた。

 男が言っていると、作蔵は起き上がるのを堪えながら薄目をして、声がする方向を逐った。


 ーーふぁふぁふぁ……。もうすぐ、倅が生きられる。もうすぐ……。もうすぐーー。


 男の猟奇的と思わせる目付きと笑い声を、作蔵はじっとしながら見て、聴いていたーー。



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