帰ってきた
時代は、なんでもあり。
空を見上げれば猫の足跡、地面を見下ろすと芋虫の集団行動が繰り広げられ、河を眺めていれば泳ぐ魚の群れが水上で円舞をやってのけていた。
それらは、日中の光景では当たり前だった。
陽が西の地平線に沈み、夜の帳が降りると光景は一変する。
「兄貴、鴨が葱を背負って来ましたぜ」
「万能ネギ。しかも、米俵ほどの束を何故、背負っている」
会話からして悪さを企む者同士が、背の高さは軽くある雑草に潜んでいた。
奴らが見たのは鴨そのものだった。葱も本当に万能ネギだった。
「どうする、子分その1」
「あっしに訊いて、しかも如何にも下っ端と言わんばっかりの呼び方は洒落になってないっすよ」
鴨、カモーン。
「兄貴、古い」
「馬鹿たれ。と、言うか、誰と勘違いしてツッコミをかけた」
「え」
下っ端その1の顔が青くなった。
「兄貴、酷い。あっしはどうせ名前を呼ばれることは……。待てや、コラ」
此方の語りを遮るとは、大したもんだね。
「いっちいち、会話を止めるな」
では、名前なしAで。
「完全に、この先では絶対に登場しないキャラで確定するつもりだなぁああ」
面倒くさい性格だね。
「兄貴、頼むから頭が爆発するような会話を止めてくだせぇええ」
「面白いから続けろ」
兄貴、了解。と、言うことでーー。
「おまえら喧しいうえに見苦しいっ!」
ぼかすか、ぼこぼこ。ごんごん、どこどこ。あ、語りにまで拳骨とは酷いね。
「擬音で喋るな。場景がさっぱり分からないだろう」
誰だ、誰だ、あなたは誰。
「『蓋閉め』の作蔵だ。伊和奈、1話限りのあんぽんたんどもの“蓋を閉める”を始めるぞ」
言っとくけど、此方を含ませるのは駄目だよ。
「うるさいからあっちにいって。おっけい、作蔵」
作蔵が伊和奈と呼んだ馬の尻尾娘に蹴られてしまった。
「何、まるで妖怪みたいな呼び方ね」
今度は踏み潰されてしまった。ポニーテールを和風ぽく言っただけなのに、あんまりだ。
「これ以上『仕事』の邪魔をするつもりならば、あんたには選択の余地がない覚悟をしてもらうよ」
伊和奈の地獄の底から這い上がってきた魔王のような目付きにぞくっと、寒気がした。
「はい、一丁上がり」
物語の進捗状況の都合上、肝心の悪モノたちを封じる場景が割愛されたが、作蔵は『仕事』をやってのけた。
「鴨、囮をさせてすまなかった」
作蔵は、米俵ほどの大きさに束ねた万能ネギを背負っている鴨に言う。
ーーどうってことないよ、作。あんたたちが此所に戻って来た、況してやあんたたちの『仕事』に役立った。もう、嬉しくて堪らないよ。
「感謝する。どれ、約束通り、葱を買い取る。好きな値段を申し付けてくれ」
ーー金はいらない。あんたらが戻ってきてくれた祝い品として、受け取ってくれ。
「だがーー」
ーー伊和奈の手料理は絶品だ。あんただって体力勝負の『仕事』をしているのだ。あんたの“糧”となる、それは決めていた。だから、わっしは……。
『美味しく食べられる』ことに、胸をはって記憶を大気に解かすよーーーー。
ほう、ほう。
梟の鳴き声に耳を澄ませていた作蔵は〈スーパーカナブン〉と印刷されている買い物袋を右の掌で握りしめていたーー。
***
作蔵と伊和奈は自宅に戻った。
「荷解き、全然手付かずだね」
「引っ越し早々『仕事』の依頼で、それどころではなかったからな」
「二羽の鷺が詐欺をしている。夜道を歩くと草場から現れた鷺に『俺たちの尾が白いと、悪いお化けが逐っている。振りきりたいから米を掛けて欲しい』どう、聞いても意味がわからない言い方を真に受けて、本当に米を投げつけた住民があとをたたないから、何とかしてと、説明しているわたしでも頭が痛い“依頼”をあんたが引き受けたからね」
「一気に、息継ぎせず。お疲れ様です」
作蔵は、伊和奈の汗まみれの顔を見て言う。
「蕎麦の具材は鴨肉と万能ネギでいいの」
「ああ、奴もそれを望んだ。俺の腹を満たせれば幸いと、奴は願っていた」
「わかった。あ、しまった」
「どうした、伊和奈」
「出汁の材料を買い忘れていた。作蔵、すぐ戻ってくるから、我慢してね」
「〈なんちゃってかつお節・顆粒〉があるだろう。わざわざ出費が嵩むことをするな」
「食材を丁寧に美味しくいただく。それが礼儀よ、作蔵」
伊和奈は笑みを溢して玄関の扉を開いた。
***
遅い、遅すぎる。
作蔵は中身がまだ詰まっている段ボールの上に腰掛けていた。
伊和奈がまだ帰ってこない。
梱包から取り出した目覚まし時計の針の先は9と5を指していた。
伊和奈は昆布と鰹節を買う為に出掛けた。越してきた自宅から一番近い店は、作蔵が走って10分は掛かる場所にある。以前の伊和奈だったら、5分で着いているだろうの場所だ。
伊和奈はかつて“実体”がなかった。経緯を語ると長くなるので割愛するが、伊和奈が“実体”に戻ってからの行動は、全くもって今まで通りだった。
今の伊和奈は“生身”だ。行動そのものは変わらないが、突然の災難に身体が耐えられるは別だと、作蔵は伊和奈に忠告をしていた。
伊和奈が出掛けたのは、1時間前。伊和奈は用事を済ませると寄り道はしない。だから、とっくに帰宅をしている筈だと、作蔵は空腹に耐えながら目覚まし時計を見ていた。
移り住んだ地域は、作蔵が“本業”に転職する前に住んでいた。土地勘は伊和奈だってあるだろうに伊和奈が帰ってこないと、作蔵は鯖の味噌煮の缶詰めを握りしめていた。
作蔵の腹の虫は、大音量で鳴いていた。
味見。
そう、風味が損ねてないかを確認する為に缶を開いた。伊和奈にばれたときの言い訳を、作蔵は喉を鳴らしながら考えた。
いざ、実食。の、筈だった。
作蔵は、缶の蓋を開けるのに手間取っていた。正しくは、開けるに開けられなかった。
缶切りがない。
鬱蒼と積み上がっている段ボールの何れかに仕舞い込んであるのはわかるが、伊和奈でないとわからなかったと、作蔵は解ったのであった。
伊和奈が帰ってこない。
掃除と洗濯はそこそこに出来るが、食事に関しては伊和奈がお手のものだと、作蔵はつまみ食いを諦めた。
こちこち、ちくたく。
作蔵は、目覚まし時計の秒針の音に耳を澄ませていた。
すれ違いになるかもしれない。しかし、伊和奈が出掛けて既に2時間が経っていた。
作蔵は、目蓋を綴じて「ふん」と、鼻息を吹かせ、段ボールの上に置いていた黄土色の襷を肩に掛けて縛った。
腰に黒色の前掛けを巻き、紐を方結びに絞めあげ、黒足袋を履く足で廊下を歩き、玄関の土間に置く一本歯下駄の鼻緒に足の指を入れて、下駄の音を鳴らしながら玄関の扉を開いた。
時は既に深夜。
作蔵は、伊和奈を捜す為に夜道を歩く。
民家の塀の角には電信柱。備えてあった笠を被る電球の灯は、朱色。
作蔵は、水溜りを跨ぎ損ねて足の脛に泥水を浴びた。
ーーふぇ、ふぇ、ふぇ。とうとう、痺れを切らせたのだな。
作蔵は、下駄を鳴らすことを止めた。
「当たり前だ。引っ越し早々の『仕事』を終わらせて、飯を食べるところだった。もとい、相棒の帰りがまだだから、俺は捜すを決めたのだ」
ーー動くには、ちと、遅かったな。
「何だと」と、作蔵は厳つい顔をした。
ーーあんたが捜している“嬢ちゃん”は、今の“身体”が窮屈だと、脱ぎ捨てたいと願った。だから、あちきが叶えてやった。
「嘘を言うな」
作蔵は声を荒らげて詰め寄った。
ーー“身体”があると隅々まで行き届かない不便が生じてばかりだった。なんてことも言ってたっけ。疑うなら、自分の目で確めな。
作蔵は、漆黒の闇に目を凝らした。
作蔵は伊和奈を捜しているうちに辿り着いた、住宅街から離れて生い茂る森林の畦道を歩いていた。
夜風が吹いて、樹木の枝が擦れる音と作蔵の足元に舞い落ちる枯葉。
頭部に違和感があると、作蔵は、掌を乗せて触る。
作蔵は、月明かりに照らされている掌の中に目を凝らす。
砕けている乾物。伊和奈が汁の出汁をとるために拘る昆布の破片。
頭上を、樹木の幹から分かれて伸びる枝の先を見上げる。
「腹が減った。蕎麦を食べさせてくれ」
作蔵は、伊和奈を見ていたーー。