5 入社式3 (SIDE:澪)
おかしい、なんでバレたんだろう。一生懸命害の無い草食動物の皮を被って擬態しているはずなのに。
中高時代から大学まで、息を吐くように毒を吐くだとかピンポイントで相手の地雷を踏み抜く危険物だの言われた本性が、どこからか漏れているのだろうか。
ほ乳類は専門じゃないからあまり詳しくはないけど、そういえば確かウサギも羊も愛らしい見た目と違って意外と凶暴な面もあると聞いたことがあるような気がする。
つまり草食動物だからといって必ずしも害が無いとは言い難いのだ。故に鹿の害なんかが社会問題になってたりするんだよね。興味ないから、うろ覚えだけど。
「システム開発課は社内で唯一フレックスタイム制を導入していて服装の規定も特にないから、常識の範囲内で、出勤退勤時刻および服装を個人の裁量で決めて良いことになっている。
だけど、しばらくは出勤は他の新入社員同様、九時からで良い。従って退勤は十八時となる。デスクワークが多いから長時間座って作業するのに楽な服装で来てくれ。髪型も自由だ」
なるほど、出勤や退勤する時刻も、服も髪型も自由なのか。それはすごい。だから上下ジャージ姿の人やジーンズ穿いている人がいたのか。
ご自由にどうぞって言われても選択肢多すぎて困るけど、おかしなものでなければラフな服装でも良いってことかな。
「一応社食もあるし、近くにコンビニや飲食店もあるから、昼休憩に外に食べに行くこともできるけど、総務とかに頼んでデリバリーとかを注文することもできる。
自宅から弁当持参とかでも良いが、そういったものを利用するなら明日案内するから、どうするか希望を言って貰えればそれに合わせる」
「周囲の立地とか知りたいので回ってみたいですが、社食があって特に問題がなければ、そちらを利用したいです」
「了解。うちの課は基本的に歓迎会とかいった職場絡みの飲み会は一切しないから、慣れるまでは定時になったらすぐ帰宅して良い。
質問や相談があれば、その都度聞いてくれ。業務時間内にメモを取るのは構わないが、その内容は機密保持のためにも部屋の外には出さないで欲しい。
明日の朝、大学ノートを手渡すからそれを使って、帰宅時には与えられた机の引き出しなどにしまって、持ち帰らないようにしてくれ。
私物やコートなどは各自与えられる鍵付きのロッカーにしまって、必要な時以外はなるべく帰宅時まではそこから出さないで。
ロッカールームは男女別で出入口には監視カメラがあるから、何か問題があれば総務へ相談するように。
あっ、鍵はIDカードとかハイテクじゃなくてごく普通のだから、なくしたら困る貴重品はできるだけ持参しないか、どうしてもという時は総務部に相談してくれ。
数は少ないが、個人用の金庫が一応あるらしい。私物のデジタルビデオカメラとかを預けるやつもいるから、大きさは普通のコインロッカーの半分くらいのものだ」
ゆるいのかと思ったら、私物の持ち込みに関しては色々厳しいみたいだ。
「ところで音無さんは、システム開発課といって何をする部署なのかわかる?」
「……わかりません。初めて聞きました。不勉強ですみません。」
「いや、新卒なら皆だいたいそんなもんだ。システム開発っていうのは、一言で言い表すなら、その会社の業務を円滑に遂行するための道具を作ったり、それらの管理・保全をしたりする部門だ。
もっと簡単に言うと、会社内で生じるコンピューター全般のトラブル対応やサポート、ヘルプが我々の仕事だな。
で、俺達『システム開発課』の仕事は、同じ会社の社員達が、PCやタブレット、スマートフォンなどを使って、彼らの仕事をより楽に便利に効率化できるよう、そのための下準備とフォローとバックアップをすることが主な職務だ。
それが、例えば社内ネットワークの構築や管理・保全だったり、サーバ管理だったり、社員達が利用する専用アプリケーションの製作やその改善や保守管理だったり、その他各種コンピュータートラブルの解決だったりするわけだ。
もちろん市販のものや外部企業などで安く賄えるものは、システム開発課でわざわざ作るまでもなく購入する場合がほとんどだ。
だけどその内、一般に販売されているものでは十分ではなかったり、これぞという機能がなかったりして満足がいかないけれど、外部に発注すると高くついたり、セキュリティその他の問題で委託しづらいといった問題が出来たりする。
そういったものを我々が社員の要望に応じて製作し、フィードバックを受け改良を加えつつ補完し、より良い業務の遂行、効率化を目指して支援する、というのが主な業務だ。
ここまででわからないこととか、質問はあるかな?」
熊男もとい、鴻先輩が水を得た魚のように生き生きしていることだけはわかります。
「……あの、私はこれまで大学で生物学、主に日本国内に生息するトカゲについて研究をしておりましてその関係で必要に迫られてPCを扱うようになり、日本各地を歩き回って収集した情報を分析するためにプログラミングを覚えました。
なのでコンピューターおよびプログラミングについてはほぼ独学であり、それらを専門的に学んだことは一度もありません」
これだけは言っておかねばならない。
「大学にあったのはMacintosh XというOSがインストールされたPCで、私が個人的に購入したノートPCはWindows7でしたので、一応両方を使うことができますが、どちらも精通しているとは言い難いです」
私がそう言うと、鴻先輩の顔がくしゃりと歪んで、見るからに消沈してしまった。
「あー、なるほど……まぁ、一般的な使い方はできるってことで良い、か?」
「一般的な使い方という定義が良くわかりませんが、少なくともPCを使って文書を作成したりPCを使って研究を分析したり、資料となる論文などを検索し閲覧してそれらを元に論文を記述したりレポートを書いたりすることはできます。
あと、在学中にMOS検定のWordとExcelの現行バージョンのスペシャリストレベルと、日本語ワープロ検定の2級を取得しました。
また覚えたプログラミング言語はVisualBasic.NETとJavaとC言語です。
大学で最初に使ったツールが先輩の作ったもので、C言語で書かれていたので」
「プログラミングは独学で覚えたって話だけど、具体的にはどうやって覚えた?」
「最初は先輩が作成したプログラミングの記述をノートに手書きで書き写して、それを大学の図書館で見つけたC言語の解説本で解析するところから始めました」
「……え?」
鴻先輩の質問に返答すると、何故か不意に固まって動かなくなった。
「その頃はPCをまだ購入していなかったので、手書きするしかなかったんです。大学のPCは誰かが使っている時は使えなかったので」
更に補足して言うと、鴻先輩の眉間に深い皺が寄った。あれ、何かまずかっただろうか。
「その、私の当時の知識や読解力では解説本をそのまま読んでも、あまり内容を理解できなかったので、実際に動いているプログラムを解析してそれを理解できれば、何故そこにその記述があるかとか、それがどのように動作するのかがわかるのではないかと思ったので。
で、そうやってだいたいのところを何とか時間を掛けて読み解いていたら、先輩にPCを購入してVisualBasic.NETの勉強から始めた方が良いんじゃないかと助言を受けたので、そちらの勉強を並行して始めました。
それからはネット検索で解説サイトを見つけて、実際にプログラミングして試行錯誤しながら進めていきました。その後、同じ先輩にJavaも覚えておくと良いよと言われて、それも」
「ああ、なるほど。うん、わかった」
鴻先輩が苦笑しながら頷いた。
「それで、その先輩に色々教えて貰ったのか」
「そう、ですね」
あの人はスパルタで少々不親切だったけれど。それでもまぁ、助かったと思うことがなかったわけでもない。彼が欲しい分析ツールを作るのを手伝わされたりしたけど、あれも今思えば良い勉強だ。
プログラミングは実際に作って動かしてみるのが一番勉強になる。
最初の内は何故そうなるのかわからないまま、どやされながら何度も作り直させられてたけど、出来上がったものがきちんとイメージ通りに動作するのを見る時には、感慨と充実感がある。
プログラミングの醍醐味というか面白さは、コンピューターは命じられたこと以外はしないということだ。命じられた内容通りに、それが正しかろうと誤りだろうと、忠実に実行しようとする。
故に、期待通りのものが作れないのは、それを記述した自分のせいだとわかる。何故そうなったのかわからない時は焦ったり困惑したりもするが、その原因が見つかった時、それが解決した時はとても気持ちが良い。爽快だ。
コンピューターは人間と違って嘘をつかない。誤魔化したりしない。外聞を気にして体裁を繕ったりしないから、自分のやらかした失敗がそのまま表に出て来る。
私は今のところ拙いプログラミングしかできないが、人間とコミュニケーションを取ることに比べれば、コンピューターとの対話は楽しいと思う。
ただ、長い時間ディスプレイを見つめていると、眼が乾いたり頭が痛くなったりするので、それだけは苦手だが。
「ところで音無さん、君はPCの基本的な知識はあるってことで良いのか? IT系の知識はどのくらいある?」
「IT系の知識に関しては独学も含めて学んだことがないので、たぶん疎いと思います。購入したPCの初期設定やインターネット接続のための設定などは、マニュアルを見ながらであれば可能ですが」
私がそう答えると、鴻先輩は自分の顔を手で覆ってしまった。……ずいぶん大きい手だな。スイカを片手でわしづかみできそう。
「……あー……プログラミングができるなら、コンピューターの基本的な知識は十分あると判断したのかな……いったい何をどこから教えれば良いんだろう……」
もしかして、困惑させるようなことを言ってしまったのだろうか。
「あの、必要ならこれから勉強します。何を勉強すれば良いか、教えていただければすぐにでも」
「ああ、勿論それはそうなんだが、社内ネットワークとか有線LANとか無線LANとかWi-Fiはわかる?」
「LANとWi-Fiは聞いたことがあります」
「社内ネットワークっていうのは、例えば有線LANなら同じ会社のPCを、それぞれのグループ毎にハブを経由してLANケーブルで繋いで、それらを更に社内限定で共有するサーバー、つまりデータを保管するコンピューターに繋ぐことで、社員皆で共通のデータを扱えるようにするということだ。
まぁ厳密にはちょっと違って、それぞれ個々にどのフォルダのデータをどこまで扱えるかっていう権限が決められていて、それらを設定するのも俺達の仕事なんだが、そういったものを設定することで、皆が円滑に業務を行えるような環境を整える。
これについては実際にPCに触れて体験した方が早いけど、一般的にはそれらを行うためには個々に異なる『アカウント』を与えるわけだ。
利用者側は作成されたアカウントとそれに付属するパスワードを入力して、サーバーにアクセスする。
音無さんはネット通販とか、インターネット上の何らかのWebサービスは利用したことがある?」
「はい、あります」
「ならユーザー登録はしたことあるよな? 良くサイトの端っこや上部にある『新規登録』ってやつでアカウントとパスワードを作成するだろう?
あれはユーザー、つまり顧客を登録されたアカウント毎に区別したり、データを蓄積したりしてまとめて管理するためというのもあるけど、そうやってアカウントを作成することで、そのサイトで提供する各種サービスを利用する権限を付与しているんだ。
登録するだけで無料で利用できるサービスと、有料で利用できるようになるサービスは、そうやってアカウント毎に利用できるか否かを判断する。
つまり所定の手続きを行って何らかの形で利用料金を決済しないと、有料サービスは利用することはできない。
インターネット上にある各種サービスはそんな感じで提供されているけど、社内ネットワークでは我々システム開発課が管理者もしくはそれに準ずる者として、個々人に付与されるアカウントを作成し、それぞれのアクセス権限を設定する。
セキュリティおよび機密保護のため、管理者権限を持つ一部の者以外は基本的に、閲覧したり読み出し・書き出しできるファイルやフォルダに制限を掛ける。
俺達が日常的に行う業務は主に、内部のみで繋がる社内ネットワーク用と外部と繋がるインターネット用のサーバーをそれぞれ監視し、定期的に出力されるログやエラーメッセージなどを確認し、それぞれのアカウントやファイルなどが不正に利用されたり、何か異常な現象が起きていないか確認して、もし何かおかしなことがあればその原因を調べて対処し、何も異常がなければ何かあった時のために、その正常なデータのバックアップを取って保管するというものだ。
バックアップの具体的なやり方は後日、業務時間中に教える。ここまでで質問はある?」
口頭でつらつら説明されて、少々焦る。
たぶんこちらが初心者だと思って、懇切丁寧にわかりやすく説明しようとしてくれているのだとは思うけど、親切すぎてどんどん流れて行く話にいっぱいいっぱいになってしまう。
「すみません、メモまたは音声記録を取ってもよろしいですか?」
入社式だからと今日は、事前に必要だと聞いていたボールペンと印鑑は持ってきたものの、スマホ以外に使えそうなものは持参して来なかった。なんて失敗だ。
私が慌ててスマホを取り出してそう言うと、
「ごめん、こんなところでする話じゃなかったな。悪い、直前までどういう子が来るのか詳しく聞いていなかったから、こっちも準備不足で。
明日までに参考になりそうな資料やマニュアルを用意する。詳しいことはその時に話そう」
と、謝られてしまった。
「いえ、こちらこそ不勉強ですみません」
私も深々と頭を下げて謝罪する。
てっきり配属先は事務関係とかでなかったら営業補佐みたいなところだと思っていたから、システム開発課は全くの想定外だった。
もしかして学生時代にプログラミングでいくつか研究用の分析ツールを作ったという話をしたせいで、システム開発課に行くことになったのだろうか。
考えてみたら他の同期の女の子達はほとんど文系出身で、理系で男だらけの環境で野山を駆け回っていたというのは私くらいだった気がする。
男性陣の方は視界内に存在はしていたけど、きちんと彼らを個別認識できてはいなかったので、良くわからない。
たぶん彼らの顔は数日も経てば忘れてしまうだろうが、おおよその体格と名前くらいはなんとなく記憶に残っているので、他と識別できないということもないだろう、きっと。
別に異性との付き合い方が理解できているわけでも、こなれているわけでもないのに。だいたいそんなことがまともにできていたなら、ギリギリまで就職先に悩むようなことはなかったわけだし。
だからといって同性とも上手く付き合えるわけではないけど。
私はほ乳類は専門じゃないし、とりわけホモ・サピエンスは謎と疑問だらけの不思議生物だと思っているのに、どうしたら良いのだろうか。
いまだに自分の立ち位置も状況も理解できてはいないのに、明日から社会人としてやっていけるのだろうか。ちょっと不安だ。
なるほど、これが新入生や新入社員達が新しい環境に移った際に感じるという不安というやつか。そしてその新しい環境に慣れることができないと五月病というやつに悩まされるわけか。
これまで私は周囲がどんな環境・状況でも、我関せずとばかりにマイペースを貫いていたために、期待と不安とやらにも、五月病にも無縁だった。
そもそも周囲に馴染もうとか、適応しようだとか、考えた事がなかったのだ。そんなことをする必要性を特に感じていなかったので。
今は違う。素のままの自分では社会に受け入れては貰えないと学習したから、なんとか受け入れて貰えるようにしようと努力しようとしている、そうしている最中だ。
頑張って駄目なら、仕方ないから他の方策を考えなきゃいけないな、とも考えているが。
どうしても無理なら仕方ないとは思っているものの、やるからには全力で取り組もうとも考えている。だって、そうしなければ、NEETへの道が待っているだけだから。
目の前にある課題を愚直に、自身の能力が許す限りの全力を持って取り組むというのは、私に唯一ある能力なのだから、ここで努力しないという選択肢はない。
そうやって、私はこれまで自分の目前に突き付けられた課題を消化してきたのだから。
私は諦めや切り替え・見極めは割合早い方だとは思うけれど、何もしないで諦めるということだけはしないことにしている。
全力でやって駄目なら諦めもつくし。後になってズルズル後悔したくはないから、これ以上ないというくらいにやって玉砕した方がマシだ。
無理かどうかは、実際にやってみればわかることだ。考えていても仕方ない。やるか、否か。
まぁ最悪田舎に戻っても、それが楽しいかどうかはともかく、生きていくだけならそれほど不自由することもないだろうという甘えもなくもないが。
足掻ける内はできるだけ頑張ってみた方が良いよねと思う。
己の人生がどうなるかなんてものは、一瞬前までわからないのだから。
◇◇◇◇◇
式の終了後、住民票などの書類を提出したり、年金や保険、給与振り込み口座を登録するための各種申請書類を書いたりなんだりして、社則の簡易版とか入社に関する注意書きとか、いくつかの書類などを貰って帰宅した。
途中、バスの定期券を購入したり、夕飯を買うためにコンビニに寄ったりもしたけど。
「……というわけで、男しかいない部署に配属されることになりました。以上が本日の報告」
『やだ、何それ、面白い。これまであなたから聞いた話で一、二を争うわね。あんまり笑わせないでよ、腹筋割れたらどうしてくれるの?』
え、小夜が何を言っているのか理解できない。
「今の話の何が面白かったの、小夜」
『イケメンの先輩に話し掛けられたけど面倒だからガン無視して一度も反応せずに済ませた、とか本当、あなたらしいわ。
たぶん今頃そのイケメンチャラ男先輩、なんで自分が無視されたのか考え込んでるわよ。たぶん女にそんな目に遭わされた経験はあまりないだろうし、あなたみたいな謎思考の女がそうそうそこらにいるはずもないし』
「何故そんな反応されるのかわからないけど、ほ乳類のオスとは必要や必然性がない限り、接触は最低限に控えたいだけだよ」
『あんたは同性に話し掛けられても、面倒だと思ったら反応しないでしょ』
「それはそうだけど、今回は同期の女子に話し掛けられた時は一応返事をしたよ。でも結局話が続かないからぼっちだったけど」
『そりゃそうよ。無駄な雑談でも人と会話するには、それなりの話し方ってものがあるもの。あなたは何でもバッサリ最終的な結論だけ言って済まそうとするでしょ。
それじゃどう頑張っても話題は膨らまないし、盛り上がらないわよ』
そういうものなのか。しかし、そう言われたからと一朝一夕に改善できるものでもない。明日の様子を見て、帰りにコミュニケーション関係の書籍や必要そうな資料を買いに行こう。
今日のところは、社内ネットワークと有線LANとシステム開発の一般的な定義と業務についてネットで調べよう。付け焼き刃でも予備知識は無いよりあった方が良いだろうし。
だが、しかし、
「それよりも重要なのは、明日からの私のキャラクター設定と今後の対人対策だよ。前提条件が崩れたんだから、新たな方針と対策を考えなきゃいけないよ」
『大学の研究室時代のキャラじゃダメなの?』
「駄目だから相談してるんだよ。全方位に敵を作って、いじめられずとも自分でいちいち確認しない限り連絡事項が飛ばされるような環境じゃ、到底長続きしないよ」
『あら、あなたにしては随分殊勝ね。どういう心境の変化かしら』
「就職活動する段階になって、人脈と対人関係の重要さを思い知ったからだよ。私を助けてくれたのは、結局小夜だけだったからね」
『あなたなら、家族や親戚に泣きつけばどうにかなったんじゃないの?』
「別にうちの親はそれほどコネとか持ってないし、伯父さんや従兄弟に頼んだら後が恐いよ。あの人達は、使える人脈を駆使して更なる人脈を手に入れる技能は随一だけど、これは駄目だと見放されたり切り捨てられたら、彼らの知り合いがいるところにはいられなくなっちゃうもの」
『あれ、そんなに恐い人達だっけ? 良い噂しか聞かないけど』
「見込みがあると思われている内は親身になって無償で色々世話してくれるけど、どんな悩みやトラブルも知り合いの誰かに『困ったねぇ』と相談したら、当人達が何もしなくても周りの人達が都合良いように処理してくれるっていう人達だよ。
どこぞの家で無断駐車に困っていると相談されて、他の人に『こういう話があるんだよ、困ったねぇ』と話したら、何故かその無断駐車していた人が一ヶ月後には転居していたらしいから。
人徳だとかお天道様がどうとかいう話じゃないよ。そんなおとぎ話を信じられるのは未就学児までだよ」
『他人事なら面白いけど、自分に降り掛かってくるとしたら恐いわね』
「しかも人に何か相談されたら、それがどんな人でもどんな問題でも見返りなく相談に乗って速やかに解決して貰えるとなると、信奉者が増えることはあっても減ることはほぼないんだよ」
『何もしていないのに解決するっていうのもすごいわね』
「それを何とか解決できそうな人、幾人かに事情を話すだけだからね。誰にも知られず解決したいこと以外はどうにかなるし、どうにかするよ。
何か弊害があるとしたら、彼ら自身は誰にも何にも悪いことはできないってことだから」
『それって普通に生きていたら、当たり前なんじゃないの?』
「そうでもないよ。普通に生きている人は、この世の中にたった一人の敵も作らないなんて生き方はできないから。
それができるのは、ちょっとした会話を通して相手の性格や考えを見抜いて、その人が望む未来が訪れるように立ち回らないといけないから、普通の人間には無理な所業だよ」
『味方にできれば心強いけど、敵に回したら恐ろしいわね』
「対面した全ての人を初見で理解するって難しいよ。私は絶対無理。人の区別や見分け方すら怪しいくらいだし。人の顔を覚えるコツとやらを教わったことがあるけど、駄目だった」
『あんたは相貌失認とかなんじゃないの? その割にトカゲの個体判別ができるのは謎だけど』
「トカゲは人間と違って、おのおのの個体で大きさが違っていたり、住んでいる場所や環境によって微妙に模様や色が違っていたり、テリトリーを持っていたり、欠損部位が回復しなかったり、行動の癖や食事の量がそれぞれ違っていたりするもの。
人間も多少はそういうこともあるけど、意識的に言動や容姿の印象を変えたり、毎回アクションを起こす度に同じような行動を取るとは限らないでしょう。
人は嘘をついたり誤魔化したりできるけど、トカゲは違う。自分に正直に生きてる」
私は人の顔もそうだが、初見の記号を覚えることも苦手だ。だからそれらを覚えようとする時は、必ずそれらに表題と分類やタグをセットで付けることにしている。
追加で付ける情報は多ければ多い方が良い。
例えばウムラウト、ラテン文字の母音の上部に二つの点が並んで付いている記号であれば、表題はそのままウムラウトで、その意味と使用例に加えて、タグにドイツ語、スウェーデン語、a、o、uと付けて、それら全てをセットで記憶する。
鴻先輩であれば、表題に鴻先輩、正式名称として鴻哲郎、意味の代わりに自分との関係性として『同じ会社の先輩』と付けて、タグにシステム開発課、熊男、ヒグマ、目算210cm、男性、わかれば自分との年齢差、低い声、ラスボス、筋肉、大柄などと直感的に思いつくことを付けてセットで記憶する。
そうすることで万が一相手の顔を失念しても、タグ付けに使った印象などを参考にして、目の前の相手の呼称や名称を思い出せるというわけだ。
私がそうやって人の特徴を記憶することによって個人を判別できるようになったのは、どうしたらそれができるようになるか、幾度も失敗を繰り返し試行錯誤したからである。
相手の情報にエピソード記憶をひも付けるのも良い。それらの情報が増えれば増えるほど記憶のデータベースが充実し、強固になっていく。
逆に言うと、似た特徴を多く持つ人が現れた際には相手との関係が希薄であればあるほど、その人の認識、判別が難しくなる。
もっとも相手との関係が希薄であれば、うっかりその人の情報を失ってわからなくなってしまっても日常生活を送るには特に問題が生じないので、忘れたり失念したりしてもそれによって困ることはほとんどない。
また必要が生じれば改めて記憶し直せば良いだけのことだ。
私は人よりそれが顕著なのかもしれないが、人は多かれ少なかれ、忘れてしまう生き物だ。長らく付き合いのなかった人のことを失念しても、ある程度は仕方ないと許容される。
そんなことより大事なのは、明日からのことだ。
「私はどう振る舞えば良いのかな」
『あなた以外の相手なら、臨機応変にしろと言うところだけどね』
小夜はちょっぴり呆れたみたいに、だけど仕方ないねといった声で続けて言う。
『とりあえず、周囲に喧嘩を売るような言動は絶対にしないこと。迷った時は何もしないで後で相談したりして決めること。
それから真面目で真摯に振る舞い、周囲の様子や状況が把握できるようになるまではじっくり観察して記憶すること。
そうすれば、後で持ち帰って分析したり、研究したり、できるから。あなたがこれまで研究でやってきたことを、形を変えてやっていけば良いでしょ。
一度にたくさんやろうとせずに、少しずつ片付けていけば、どうするべきか、どうしたいのか、見えてくるはずよ』
小夜の言葉は魔法みたいだ。小夜は、私の知らない私のことを、とても良く知っている。
小夜がこうすれば良いよと言ってくれたことで、間違っていたことなんて、一度もない。
小夜は私にとって魔法使い、あるいは神様みたいな存在だ。
見えない道を照らして、指し示してくれる。
「小夜、有り難う。本当に有り難う。すごく助かるよ」
『そんなたいしたことはしてないけどね。まぁ、何かあれば連絡しても良いわよ。だけど、夜の十一時以降に連絡きても、絶対取らないから』
「わかってるよ、小夜」
私の一番大事な親友、幼なじみ。
あなたがいるから、私はきっと生きていける。