1 入社式 (SIDE:澪)
人間は苦手だ。知らない人は何を考えているか、さっぱりわからないから。
私は生まれも育ちも田舎で、庭だか山だかわからないようなところで義務教育を終えるまで野山を駆け回るように遊んで育った。
私の身近にいた生き物は同じ家に住む家族や時折訪ねてくる親戚の他は、家の周囲にいるヘビやトカゲ、野ネズミにクモ、その他様々な虫やそれらを餌とする鳥や小動物達だった。
家の周囲は手入れされた畑だけでなく、山野草の生い茂る日当たりの良い平地やなだらかな丘にまばらに生える大小様々な雑木、土の色をところどころ覗かせるボルタリング初心者でも装備があればかろうじて登れそうな崖、裏山には湧き水の出る場所などがあった。
熊や鹿、猿などは見掛けないけど、猪や狸、野ウサギなどは時折山を降りてくることがあった。大抵は人間の姿を見ると即座に逃げてくれたから、トラブルらしいトラブルとは無縁の幼少期を過ごせたけれど。
私の生まれた田舎は、幼稚園だの保育園だのといった施設はなかった。隣家は一番近いところでも四百mは離れていたしスーパーやコンビニなどは隣町まで行かなければなかったし、小学校でさえ徒歩で片道二時間の距離にあった。
幼稚園は隣町に住む叔父の家に下宿して通った。そこで初めて同い年の子供を画面越しでなく肉眼で見ることになった。
私は彼らとの付き合い方がわからず、彼らの大半は私を異物と見た。そこで親友、英田小夜に出会えなければ、私は今でも他人とは相容れない異物のままだっただろう。
私にとって山を降りた下界は、不思議で奇妙な世界だった。そこで生きる人々は騒がしすぎ、急ぎすぎていて私には理解できない論理で動いている。
生きるために必要なものなんて、身体維持に必要とする飲食物と、自身を最低限守ってくれる衣服と、雨風をしのいでくれる屋根さえあれば十分だと思う。
多すぎる物も金も例えあっても持て余すかそれによって何かしらの面倒事を呼ぶだけで、良いことなんて何もない。
欲張れば欲張るほど人の心は荒れ失うものの方が多いと思うのに、どうして彼らはあくせくと暇無く心を殺して働けるのだろう。
両手で持てるだけの物があれば十分だろうに。
自分一人では持ち上げられない荷物なんて所有しても、それを独力では保持し続けられず管理もできないなら、それは過ぎたものだ。
自身に使いこなせない道具は身に余るもので、それがなくて困ることなんてきっとない。
どうしても必要だというなら、今持たなくてもいずれ手に入るものだ。目の色変えて誰よりも先にと、周りの人を押しのけてまで手に入れる必要はない。
私がそう思うだけで、それを他人に押し付ける気はない。ただ、不思議に思うだけだ。
本当にそれは必要なのか、と。
世界は未知と不思議に満ちている。それは興味深いことであると同時に、恐ろしいものでもある。
私の父は三兄弟の真ん中だ。一番上の伯父は神社の宮司、一番下の叔父は隣町の町役場に勤める公務員であり、父は文筆業の傍ら自給自足生活を営んでいる。
私の進学・就職に際して、祖母が『あの子に普通の仕事は難しいんじゃないかね』と苦言を呈したそうで、当人の希望にもよるが伯父のところで巫女になった方が良いのではという話があったらしい。
あったらしい、というのは、私の進学・就職が決まってから、母が私にそういった話をしたからだ。
「でも、私に巫女なんて向いてないよ?」
私がそう答えると、母は苦笑しながら頷いた。
「そうね、あなたはマイペースな子だからねぇ。巫女も神主も、人の話を聞くのが一番大事なお仕事だから、難しいわよねぇ」
勿論、それ以外にもしなければならない仕事はいくらでもある。だけど人の話を聞いて、人に寄り添い、人を理解することのできない神職など話にならない。
それができない人はそういうことを期待される職業に就くべきではない、就いてはならないと思う。
できることならば、好きなもの・興味のある事象をとことん研究できるようになりたかったけれど、学者・研究者になるにも人と会話する能力、その他対人スキルは必要だ。
父のように対人関係を最小限にできるだけの才能・能力を持ち合わせなかった私は、『普通に就職する』以外の道はなかった。
私が必要とするものなんて、そう多くはないのに。
生きていくって難しい。
◇◇◇◇◇
入社式。期待と不安で揺れる希望の朝、であるらしい。
金曜まで同じ施設で研修を受けた人達と同じように参加するだけなので特に期待も不安もないのだけれど、それでも本日は正式に配属先が申し渡され初めて上司となる人と相見える日なので、大抵の人は緊張したりなんだりするらしい。
なるほどそう言われてみれば、新たに知らない人、それも目上の、これから付き合うことになる上司になる人と初対面、となればそうなるのもおかしくはない。
相性もあるだろうし、相手の人柄もこれからの所属先の情報もなく、それらに適性があるかどうかもわからない。
志望する部署や職務内容の希望とかは事前に提出済みではあるが、それらが自身の期待通りになるとは限らない。
研修期間中に、各部署に勤めている先輩や未来の上司と思しき人達による簡単な紹介・説明などはあったが、それだけでは心許ないという人もいるだろう。
正直なところ私は自分が就職できたということに安堵して、それ以上のことに思いを馳せることはなかったのだけれど。
もしかして、志望する部署の欄に『特になし』と書いたのは私だけだっただろうか?
そうだとすると、もしかしたら私は入社前から悪目立ちしてしまっただろうか。まぁ、今更焦っても遅いのだが。
今となっては、他にも同じことを書いた人がいたことを信じるしかない。とはいえ、覇気がない、意欲が足りないと見られても仕方ないだろう。
しかし、ここに──入社式の会場であるホテルの宴会場──私がいるということは、不採用にするほどではないと判断されたのだろう。
この会場に私の愛する爬虫類は一匹もいないけれど、おそらくはこれから勤務する職場にもいないだろうけど、それは最初から覚悟していたことだ。
この会社に自分が興味の持てることがあるかどうかなんてことは、最初から期待していない。
擬態もとい外見の大幅改造の後、いくつか受けた面接の内、受かったところがここだったというだけのことだ。かといって、入社するからには与えられた仕事・職務に手を抜くつもりは毛頭ない。
一応面接では、学生時代に培った体力と忍耐力、目的のためには睡眠時間や食事を削ることも厭わないこと、それを可能とする高い集中力と共に収集した情報を分析するために必要になって覚えたプログラミングとその成果についてアピールしておいた。
他に自分の売りと言えるものは思いつかなかったし、出来ない事をできるとは言えなかったので。
この会社の主な業務は、スポーツ用品の開発および販売である。商品の生産については他企業との提携や委託によって行われており、直接生産するための自社工場などは持っていないそうだ。
昔はいくつか存在したものの、業績不振や不況の煽りを受けて閉鎖・縮小を繰り返し、十数年ほど前からは国内にあった自社工場は全て閉鎖か別会社となったようである。
といった話を聞いて大変だなぁとは思ったけれど、それだけだ。自分には関係ないし、これから関係することもないだろう。他の企業・業種でも良くある話の一つだろうし、過去は過去、今は今、だ。
自分の配属先に関係あるようなら知っておいた方が良いだろうが、間違っても商品開発部などには配属されないだろうし社史を編纂するような部署や広報などに配属されるとも思えない。
さて、いったいどこの部署に配属されるのかな。今住んでいるアパートの家賃四万円が払えれば、どこだって構わないのだけれど。
皆にボロだの狭苦しいだの言われて不評のワンルームだけど、二階建ての最上階だから水漏れは老朽化以外にはないし、テレビやDVD録画再生機などはノートPCがあれば不要だし、どうせ自炊などできないのだから台所が狭くても問題はない。
ベッドなんて置いてあってもダニや埃・カビの温床になるだけなので、定期的に動かしたり干したりせざるを得ない布団で寝起きした方が良い。
電子レンジが置けて食事をするためのスペースがあって夜寝るためのスペースを取れれば十分だ。
冷蔵庫は一応小さいものがあるけど中身が入っていることはほとんどないので電源はいつも抜きっぱなしだ。
今時読みたい本や雑誌は電子書籍で買えば良いし必要最低限の衣服を置ければ問題ない。学生時代に必要に迫られて購入したものは実家に送った。
できれば実家から通勤できるところへ就職できれば良かったのだが田舎の就職先は狭き門だし、そもそも就職について考えるのが遅すぎた。今更言っても仕方ないことだ。
女の子が住むには殺風景すぎると言われたけれど私はこれで問題ないと思っているし、ここで生活できれば良いのだ。不自由はない。
どうしても広い風呂に入りたければ温泉か銭湯にでも行けば済むことだ。広い部屋に移ったり部屋の中にたくさん物を置けば、その分掃除や家事に時間が掛かる。
面倒臭いことは苦手だ。
最初からなければその分問題は起こりにくくなる。それを使わなければとかあるなら活用しなければなどと考える必要もない。
余計なことをしなければ電気代や水道代も最小限で済む。食事にこだわらなければ自炊しなくても何とかなるのが都会の良いところだ。
コンビニという二十四時間三百六十五日いつでも好きな時に買い物が出来るシステムを考えついた人には、心の底から感謝したい。
田舎にはあっても利用する人がいない、あるいは利用する利点が存在しないので必要ないが、ある程度人が住んでいる場所には必要だろう。ちょっと便利すぎて、困るくらいだ。
……ところで、社長の挨拶が終わったら、副社長による訓示とか、重役さん方の企業理念云々といった話やこれまでの会社の業績についての話とか始まったのだけど、さて、これっていつ終わるのかな。
真面目に聞こうとするとうっかり立ったまま寝そうで困る。とりあえず結論らしき結論がないお話を長々と語られるのはつらいな。
論文でも訓示でも、それをわざわざ語る意味や意義は必要だと思うんだ。要約しどころがないオチもメリハリもない話って、誰が聞いてもつまらないものだと思うし。
入社式の開始時刻が九時半、それで各人への配属先任命が十一時半から、十三時から懇親会。プログラムによるとそうらしい。
なるほど、終了時刻がわかっているなら我慢もできるか。社長さんの話はそこそこ面白かったんだけどね。……内容はもう覚えてないけど。
はて、念のため、スマホで録音しておくべきだったかな。
これまで受けた研修内容については録音してPCでノイズを除去し音量・音質を調整済みだ。今後レポートを提出しろと言われても対応できるよう、その内いくつかはテキストに書き起こしてある。
たぶん研修で講師役が語った内容は、今後の業務に必要とされるのだろうから。きっと。
無駄な時間にはしたくないのだけれど、どうしよう。話している内容が頭に入って来ない。言いたいことはわからなくはないけど、だからどうしたとしか思えない。
困った。ここ半年ほど勉学よりも入社試験に出る一般常識や面接のことばかりに傾注していたせいか、句読点なしに長文を語る人の言葉が理解できなくなってしまったのか。
社長さんの語りはゆったりとしていて穏やかで、音程もテンポも内容も聞きやすかったのに。
だからといって全く内容を聞かないわけにもいかないだろうし、必死に耳を傾け彼が何故こんな話をしているのか理解しようと努力してみたけど、結局良くわからなかった。
日本語を話しているはずだし内容が理解できないわけでもないのに相手の意図がわからない。あえて言うなら若い頃の自慢話に聞こえるのだけどそれで間違いないのだろうか。それが今年入社する私達にとってどんな益があるというのか、謎だ。
私が生まれる以前の話をされてもそれがいったい何の役に立つのかわからない。どう活用しろというのだろうか。
やはり、音声録音アプリは起動しておくべきだったか。眉間に皺を寄せて考えていると、すぐ近くからクスッと笑う声が洩れ聞こえた。
いつもならば気にせず無視するのだけど、そちらの方から視線を感じる。なんだか嫌な予感がするけど、そちらをゆっくり確認してみた。
チャラいイケメン風の優男が口元に拳を当てて、笑い声を押し殺しているのが見えた。気のせいだと思いたいが、視線がこちらを向いているように見える。
ニホントカゲの個体差は一目で判別できるが、人間の顔の造作の良し悪しは正直良くわからない。だが、イケメン好きの従姉妹が好きそうな顔立ち・髪型だということは理解できる。
さて、あの茶髪で無雑作ヘアとかいわれる一見手を掛けてないようで実はとてつもなく手を掛けている髪型を保っている二十代半ばと思しき男に、何故か見覚えがある。
おそらく彼は研修三日目に営業部の業務紹介の講師役──確か営業部長だったはずだ──の助手役および現役営業マンとして実際に経験した業務やその所感について語っていた人ではなかろうか。
チャラそうな外見の男は他にもいたけど、彼のことは従姉妹が好きそうな外見の人だということでかろうじて記憶に残っていた。
体型・体格や髪型・髭やキャラクターなどでもっとインパクトが強かった人もいたので、特に印象深かったわけではないのだが。
従姉妹が好みそうな顔という他は、身長も体格もほぼ標準的でこれといった特徴がない。
どこにでもいそうな感じで、薄いピンクのシャツとグレーのスーツに、可愛らしいキャラクターを描いたネクタイというチョイスが狙いすぎではないかと思うが、童顔気味の彼には似合っているのだろう、たぶん。
ところで彼は何故、私がいる方角を見ながら忍び笑いをしているのだろうか。もしかしたら笑い上戸なのかもしれない。
バッチリ視線が合ってしまった気がするが、気付かなかったことにして無視して良いだろうか。係わるとろくな事にならない予感しかしない。
きっと気のせい。たぶんそう。こちらを見ているような気がするのは、自意識過剰というやつだ。たぶんきっとそうだと思う。そうだと良いな。
何もなかったことにして正面に向き直ると、不意に近い場所から声が聞こえた。
「ねぇ、君。ちょっと、無視しないでよ」
自分に無駄に自信がある男は、大概ろくな事をしない。対人スキルがそれなり以上にあって、空気が読める癖にわざと読めない振りをする男は余計にだ。
係わらないに超したことはない。君子危うきに近寄らずである。
「内巻きカールの君、君のことだよ」
息が掛かるほど近くで、耳元で囁くように言うのは、セクハラで良いだろうか。
セクハラ認定しても、身の危険を感じる状況下以外では、決して問答無用で殴るな、蹴るなと親友は忠告してくれたが、果たしてこれは殴っても良いだろうか。
声や息遣いが聞こえる場所から顔の位置を推測することは容易いので、ノールックで眉間辺りに裏拳をぶち込むことは可能だ。
おそらく股間の急所狙いで、膝蹴りを叩き込むことも問題なくできるだろう。しかし、今のこの状況でそれを行っても良いかどうか、あまり自信がない。
ああ、しかしこれ以上近付かれたら、間違いなく予告なしに反射的に鳩尾に肘鉄を入れてしまうだろう。
人間の、見知らぬ男の体温や気配は気持ち悪い。
もう考えるのはやめて、いっそ殴ってしまおうか。そう考えた瞬間、男が身を引いて距離を取った。
「ごめん、ごめん。悪い、恐がらせるつもりはなかったんだ。どうか許してくれないか?」
随分と勘の良い男だ。しかし、こちらが何も言わない内から許してくれとは小賢しい。やはり好きにはなれないタイプだ。
自分が上手く立ち回ることを考えて、相手の気持ちを斟酌せずに己の都合だけ押し付けてくる輩に、誠実さはない。どうせ謝るのはポーズだ。反省などというものはしてない。
ここで本気で謝罪ができる人間は、最初から人を不快にさせるようなことはしない。計算高い男だ。ここで私が許さないと言えば、彼の一方的な言葉を聞いた人間は、どう思うか知っている。
ああ、面倒臭い。
先程まで若い頃の経験談として全く参考にならない武勇伝らしきものを朗々と語っていた相談役なる人物は、そろそろ締めに入ったようだ。さて、どんなオチをつけてくれるのだろうか。
ここまで三十分弱、一人で語ってくれたのだから期待したい。これまでのスピーチの中で最長なのだ。さぞや綺麗にまとめてくれるだろう。
「ねぇ、聞こえてるんでしょ? 無視しないでよ」
そんな可愛らしいことを言って許されるのは、三親等以内の一桁年齢の子供か、その家で飼われている愛玩動物だけだ。もっとも可愛いペット達は人語を話したりはしないが。
「……以上でわたしの話は終わりとする。ご清聴有り難う。諸君のこれからの活躍を期待する」
あれ、オチは? 聞く人をあっと言わせるビビッドでニッチでエッジの効いた至言はどこ? 終わってない、まだ終わってない、全然終わってないよ。オチはいったいどこにあるの?
「クソつまんない話を真剣に聞いてる振りはしなくていいよ、どうせ誰もまともに聞いてないし。それより君さ……」
ようやくこれで一時間十五分が経過した。あとの一時間弱はどうするのかと思えば、電報の祝辞や、お偉いさんやお得意様からの有り難いお手紙を読み上げて下さるそうだ。
司会進行役の総務部の人、大変だな。喉がかれたり痛くなったりしないんだろうか。
壇上奥の額縁に社訓とやらを掲げた文章が書かれているから、あれの唱和とかも休憩前にやるんだろうな。とすると、この祝辞の読み上げの終了時間も見えてくる。
以下省略とかで省略できたら、もっと時間を短縮できるのにね。
「いやいや君、本当は聞こえてるよね。さっきからちっとも反応しないけど、聞こえているよね。何、俺、君に何かした? 君の気を害するようなひどいことをしたの?
どうして無視するの? 俺は君に嫌われるようなこと、したかな?」
あえて言うなら存在自体が不快です、なんて言ったりしないけど。特に理由はないけど、できれば何も聞かなかったことに、気付かなかったことにしたいです。
声に出して言わないけど。