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14 鴻哲郎(SIDE:澪)

 こういった試験の参考書は二~三千円以上はするものだと思っていたのだけど、先輩に手渡されたのは思っていたより安かったので買うことにした。

 レジに並ぼうとすると、何故か鴻先輩が着いてくる。


「鴻先輩も何か買うんですか?」


 手に本を持っているのでそう尋ねたところ、鴻先輩はニンマリ笑っただけで答えない。

 変だなと思いつつ、順番が来たので会計をするため先程手渡された本を台の上に置いたところ、先輩はその上に更にもう二冊乗せて更に六千円をトレイに置いた。


「会計一緒にお願いします」


「えっ!」


 驚いて振り返ると、鴻先輩はニヤリと悪役めいた笑みを浮かべて言った。


「いや、どうせだからこっちのドリルも買っておいた方が良いと思ってね。大丈夫、気にしなくて良いよ」


「いえ、気にします」


 こんなことされて気にしないはずがない。先輩がこんなことするなんて思わなかったからすっかり気が動転しているけど、たぶん相変わらず顔には出ていないだろう。

 彼と私は先輩後輩の仲ではあるが、こんなことでお金を出してもらういわれは無い。


「音無さん、あまりお金使いたくないって言ってただろう。俺はこういうの買って読むの好きだし、読み終わったら大抵はそのまま捨ててるから、ついでに音無さんの勉強になるなら一石二鳥だ。

 過去問や参考書はうちの資料に回せるし、俺も読みたいから終わったらいつでも良いからちょっと貸して読ませてくれる? それでチャラだ」


「そんなのでチャラにはならないと思います」


「あ、店員さん、問題ないので気にせず会計しちゃって下さい。お騒がせしてすみません」


 ハッと気付いて振り向くが、既に本は三冊ともレジに通した後だった。先輩の方を向こうとすると、ポンと頭の上に手を置かれた。


「ごめん、音無さん。先に言っておいた方が良かったな、すまない」


 ……そんな風に申し訳なさげに謝られると、困る。


 それにしても、何なんだろう。先輩の距離が妙に近い気がする。家族や親戚以外の男性にこんな風に頭を撫でられたのは初めてなのに、不快感を覚えないというのも変だ。


 最近ずっと隣の席に彼がいてその状態で話し掛けられることが多かったからか、席についていない時には手を伸ばしても触れない距離まで寄って来て声を掛けられることが多かったからか、それらを含めてこれまでにないくらいの頻度の回数で相手の目の見える距離で幾度も会話を交わしたからなのか。


 ちょっと考えても良くわからないことはどれだけ考えても答えなんて出ないのだから、考えるだけ無駄だ。わかっているのに、頭が上手く回らない。


 何だろう、これ。いったい何なのだろう。なんだか心拍数が速くなっている気がする。ついでに体温も少しずつ上がってきているような。


「音無さん、もしかしてテンパってる?」


 バレた! 何でだろう、これまで小夜と家族・親戚以外に気付かれたことなんて一度もないのに。


「あー、うん、ちょっと移動しようか。近くに良く行く喫茶店があるから、そこへ行こう」


 そう促された。自然に手を取られて二、三歩進んだところで、鴻先輩が「あっ」と声を上げて慌てて手を放した。


「ごっ、ごめん、ついうっかり甥姪にやるのと同じ感覚で触ってた! 本当ごめん! いや、びっくりするよな、こんなゴツい男にいきなり触られたら。なんかもう、ああ……やらかした」


 珍しく先輩が赤面して焦ったような早口口調で弁明すると、ガックリと項垂れた。そんな様子を見て、私はようやく落ち着きを取り戻した。


「いえ、こちらこそすみません。あの、でも、参考書のお金は自分で出します。参考書が会社の資料として経費で落ちるのなら、せめてドリルだけでも。

 だって書き込みドリルってコピーして使うとかしないと、他の人が使えないですし」


「いや、大丈夫だから気にしないで。そんなに高いものじゃないし、でもどうしても気になるって言うなら、課長には音無さんが勉強するのに必要だったって言えばそっちも経費にして貰えるから」


「そうなんですか?」


「そうだよ。会社は新しく入ってきた社員を教育してそのために必要な経費を負担する義務があるんだから、これくらいは当然なんだ。

 だいたい会社で仕事をするための勉強に必要な経費を企業側が負担しなかったら、新入社員は勿論、途中入社の社員だって困るだろう?


 だって勤め始めたばかりで企業からまだ報酬を支払われていなかったり、あるいは支払われてはいても最初はそれほど高い金額は貰えていないのに、自己負担で勉強していたら後が続かなくなってしまう。

 どうせ皆入ってきた時は同じように苦労するんだから、それに必要になるものは共有できるものは皆で共有して、勉強するための知識・経験談ややり方なんかも共有した方が合理的だし手っ取り早い。


 だから別に俺は奢りとかで金を出したわけじゃない。これは会社で負担する費用を立て替えただけ。後から加えた本も必要だと思ったからだし、そういうのを説明しないで驚かせたのは本当に悪かったと思う。

 ちょっと驚かせようかなという気持ちがあったのは確かだから、その点は謝る。申し訳なかった」


 そう言って、鴻先輩は深々と頭を下げた。


 前々から知ってはいたけど、本当にこの人、真面目で律儀だな。今回の件に関してはちょっとした茶目っ気というやつだったのかもしれないけど、それにしても真面目だと思う。

 どこぞのチャラ男に爪の垢を煎じて飲ませたい。あの男がそれくらいで言動を改めるような殊勝な性格をしているとはとても思えないが。


 それにしても人前で年下の女にこうやって頭を下げられるって、なんかすごいな。


 これまで頭は良くても無駄にプライド高くて、そのくせ妙に卑屈だったり厭味だったり根性ねじ曲がってたり嫉み深かったりする面倒な人間ばかり見てきたせいで、なんでこの人はこの年齢でこんなに率直で潔いんだろうかと感心してしまう。


 たぶん、本当に心の底から善良で優しい人なんだろうな、きっと。あまり人の裏とか考えたり疑ったりしなさそう。騙されやすそう、または騙しやすそうとも言えるけども。


 何だろう、なんだかモヤモヤする。すっきりしない。おかしいな、体調は悪くないし生理だってもう終わりかけで落ち着いているはずで、痛みだってもうほとんどないのに。

 いや、答えの出ないことを考えるのは時間と労力の無駄だ。どうしても必要なことならその内何か思いついたり、必要に駆られて必死に考えることになるのだから今は必要ない。


 気持ちを切り替えよう。わからないものはわからないのだから仕方ない、うん。


「先輩の行きつけの喫茶店って何処にあるんですか?」


「え、あ、うん。ここから五分も歩かずに行けるな。表通りじゃないから客がそれほど来なくて、いつ行っても好きな席に座れて静かだから、読書するにも勉強するにも良い環境だ」


「それは良いですね。案内お願いします」


 そう言って軽く会釈すると、鴻先輩は嬉しそうに顔を緩ませた。珍しい、ちゃんと顔全体で笑ってる笑顔だ。いつものラスボス感あふれる悪人顔じゃない。

 あのVTRでしか見たことなかったけどやっぱり先輩ってちゃんと普通に笑えるんだ。普段は例のラスボス顔だったから、もしかしてあれは奇跡の一枚的な伝説的ショットなのかと疑い始めていたのだけど。


「じゃあ、案内するよ。この書店の裏口から出た方が近いからそっちへ行こう」


 鴻先輩はそう言って、トイレや非常口などの店内標識の矢印の方へと歩き出す。私が小走りに駆け寄ると、ふと気付いたように歩く速度を落とした。


「ごめん、少し速かったよな」


「いえ、足の長さが違うので仕方ないと思います」


 私がそう答えると、鴻先輩は苦笑した。


「いや、そういう問題じゃないと思うけど。音無さん、こういう時は文句言った方が良いぞ。

 今の今までちっとも気付かなかったから、こういうバカでニブイやつにはハッキリ正面切って言わないと、いつまで経っても気付かないからな」


「……自分で自分のこと、バカでニブイとか言うんですか?」


 びっくりだ。そんなこと言ったら、相手になめられるかもとか思わないのかな。


「だって本当のことじゃないか。俺、そういうの全然自分で気付けないから、何かあったらすぐ言ってくれ。ほら、犬や猫の躾けだって悪いことしたらすぐ叱らないと駄目だろう?

 時間が経つと余計にされる側は負担になるし、した側は気付かないままどんどん忘れてしまうから、遠慮なんてしないでガンガン言ってくれ。その方がこっちも有り難い」


 なんとなくだけど、ようやくわかってきた気がする。この人、私が今まで見て来た理系の人達とは全然系統が違う。

 なんだろう、あえて分類するなら技術系とでもいうべきか。理論や経過よりも、実態や技術や結果をより尊重するタイプ。

 自論や自身の持つ知識にこだわらず、効率重視でより良い結果を出すために広く情報収集して、良いと思ったものはどんどん取り入れ吸収して、自身の技術や技能をより伸ばすことを喜びとする。


 あれだな、鴻先輩は若い女の子にはともかくある程度年上の人には可愛がられるタイプだろうな、きっと。あと、面倒見が良いからある程度年下の子にも慕われそう。

 だけど気の毒だとは思うけど、同年代の彼の恋愛対象になりそうな女性にはあまり積極的に好かれたり、理解してもらえなさそう。


 いい人だとは思うけど、第一印象が悪すぎる。身長と体格はどうしようもないとしても、あのラスボスオーラ満載の悪役顔はいただけない。あれがなければだいぶ印象が良くなるはずだけど、本人は自覚あるのかな。

 でも、さすがの私でも「笑顔が恐いので優しく見える笑顔を練習した方が良いですよ」なんてことは言えない。いい人だからこそ、傷付けるようなことは言いたくないなと思ってしまう。


 なんてことだ。悪意が服着て歩いているだとか、毒気を振りまくのがデフォルトの歩く悪魔だとか言われたこの私が、人を気遣おうなどと思うようになるとは。

 鴻先輩があまりにも悪意や毒とか悪感情に縁がなさそうな純粋な人だから、そういうので汚しちゃいけない気分にさせられるんだ、きっと。


 私だって当たり前だが、嫌だと思ったり不快だと思ったりしたわけでもない、悪気が一欠片だってなさそうな真っ直ぐないい人に対して攻撃的な言動をしたことなど、これまで一度だってない。

 だいたいそんなことをする意味も理由もないし、無駄なことに時間や労力を掛けたくもない。


 だけど、なんだか心配になる人だな、鴻先輩。悪い人に騙されてカモにされそう。既に私にはカモがネギを背負って歩いているようにしか見えない。


 仕事の先輩としては私なんて及びも付かぬほど有能だし、しっかりしてて落ち着きもあるし冷静だし丁寧だし、教え方も親切でとても明快でわかりやすい。

 相手の理解度や状況に合わせて適宜説明・解説を変えられる柔軟性も持っている。信頼し尊敬するに値する理想的な先輩だと思う。


 だけどなんだろう、この危うさは。初めて見た時の印象はヒグマだったけど、今は誰にでも尻尾振ってしまう人懐っこい大型犬に見える。


 大丈夫かな、なんて私が心配する筋合いなんて欠片もないのだけど。

 彼はきっと一度懐に入れた相手は庇護対象か、心から信頼できる仲間だと思ってしまうのだろう。相手に裏切られたり、苦しめられるなんてことは露程も考えないに違いない。


 後ろからいきなり刺されたりしたら、本気で泣いてしまいそう。もっとも、彼の人柄や見た目的にそういったことになる可能性は低いとは思うけど。


 ふと思った。もしかしてこれが『大人の男性から垣間見える少年ぽさ』というやつなのだろうか。それならば理解できる。

 鴻先輩は私より五歳年上で、見た目的にも中身的にも庇護なんてものは必要としていないだろうに、庇護欲もしくはそれに近い何かを覚えさせる危うさ、あるいは繊細さを持っている。

 別に彼は未熟なわけでも幼稚なわけでも、あざといわけでもないのにだ。


 なんだろう、これ。ほだされているのかな。それとも先輩とずっとそばにいて話をしていたから、慣れてきたのだろうか。良くわからない。

 小夜には庇護欲、あるいはそれに類する何かを覚えたことはないのに。


 とても不思議だ。良くわからないけど、悪くはないと思う。

 彼はどう見ても私が苦手とする男性にしか見えないのに、近寄られても不快ではないし、話し掛けられても嫌悪を覚えないし、触れられても殴ったり蹴ったりしたくならない。


 そんな人間は、これまで家族・親戚の他には小夜しかいなかったのに。どうしてだろう、いつの間に平気になっていたのだろう。

 変だな、私が私じゃないみたい。まるで普通の人みたいに、近くに他人や親しくない人がいても平気でいられるようになったのだろうか。


 だとしたら、これまで無駄に足掻き苦しんでいたことの大半が、普通の人みたいに上手くやっていけるようになれるのだろうか。


 不意に、泣き出したい気分になった。……私らしくない。こんなところで、こんなことで泣きたくなるほど繊細な人間ではなかったはずだ。


 涙や感情は何の役にも立たない。そんなものは誰にも見られないところで気付かれない内に、どうにか処理してしまうべきだ。

 そんなものに流されたり振り回されたりしても、何の意味もないのだから。


 落ち着いて、深呼吸しよう。深く吸って、吸って、吸って、ゆっくり長く吐き出す。自分の鼓動を数えて、気分を切り替えられるまで何度も繰り返す。

 ほら、大丈夫。何もなかった。何でもなかった、問題ない。


「音無さん、この店だけど……大丈夫?」


 振り返った鴻先輩に、頷き答えた。


「はい、大丈夫です」


 にっこり微笑むと、先輩も頷き返して手招いた。


「じゃあ、行こうか。うっかり言い忘れたけど、この店スイーツとか置いてないんだ。あっても冷凍のホットケーキくらいのつまんない店だけど、大丈夫?」


「別に嫌いではありませんが、特に甘い物が好きだというわけでもないので問題ありません」


 そう答えると「良かった」と言って、彼は笑った。


「オッサンと近所の年寄りしかいないけど、その分静かさと客の少なさだけは保証できるから」


 私もつられて笑ってしまった。そういうのは、店の前で言うものじゃないと思う。

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