13 英田小夜2(SIDE:澪)
創作フレンチ、と称する基準は何なのだろうか。日本の食材でフレンチを作るのはまぁわかる。
でも和風調味料で味付けしたり和食の調理法で調理したものを、フレンチ風に盛り付けたものはフレンチと称して良いのだろうか。
「おいしいならそれで良いじゃないの。意味とか定義とかどうでも良いわ。少なくともここにいる客は誰もそんなこと気にしてないでしょ。
まぁ、ディナーとランチは作ってる人が違ってディナーの方がオーナーシェフで、そっちの方がより本格的だって話だけど」
「なるほど、それなら看板に偽りなしなのかな」
「私はそういうのをいちいち気にする澪が変だと思うわ。分類なんてものを気にするのは、役人と学者と法律家だけで良いのよ。彼らはそれが仕事だから仕方ないんだろうけど、無関係な人間にはどうだって良いわ」
「だから日本語はどんどん曖昧になって、広義の意味が増えたり使い方が変わっていくのかな」
「そういうことは言語学者に聞いたら? 私に聞かれても迷惑だから」
小夜は全くにべもない。私と一緒で興味のないことはどうでも良いのだから、仕方ない。小夜にとって大事なのは支払った金額に対する自身の満足度であり、それが彼女にとってのコストパフォーマンスなのだ。
私はコストパフォーマンスという言葉は、個人の満足度といったミニマムで短期的な意味合いで使うのはどちらかというと不適切で、もっと長期的な例えば企業や団体などある程度大きな組織の経費や投資によって得られる効果という意味で使われるべきではないかと思うのだけど、小夜には絶対賛同されないだろう。
一般的な言葉についても有り得ることだが、とりわけ専門用語というものに対して後から広義の意味や本来の使い方とは違うニュアンスを付け加えるのは、混乱や誤解を招く元になるのではないだろうか。
一方が通じていると思っていたらもう一方がそれとは異なる意味合いで捉え認識していた場合、双方が同じ事柄について話しているつもりでいても齟齬や誤りが生じる可能性が生まれてしまう。
それが打ち合わせの段階で判明したなら被害が生じても最小限で済むが、プロジェクトや事業が大きく動き出してからでは、関連する個人や団体などに多大な迷惑や損害が生じてしまうかもしれない。
そうはならない可能性もあるがそうなる可能性が0.0001パーセントでもあるのは、私にとって恐ろしいことだと感じてしまうのだ。
個人が好き勝手に元からある言葉に新たな意味を付与しそれを周囲に広めてしまうのは、とても恐いことだ。
私には空気を読むとか、相手の表情や仕草・言動などから何かを察するなどといった機能はないので、言われたことを文字通りに受け止めることしかできない。
故に手持ちの辞書や事典にはない独自の意味などというものを付与されると、とても困るのだ。
辞書や事典は新たに購入するのは結構痛い出費だ。あんなものを個人で改訂版が出る度に買い直すのは少々懐が厳しいし、手間にもなる。
ネット上の無料の辞書や事典を使えば良いのかもしれないが、ネットに接続できない場合はどうしたら良いのか。そう考えるとやはり手近なすぐ使えるところに欲しいと思う。
相手の使う言葉の意味が理解できたとしても、齟齬や誤り・勘違いやすれ違いを完全に防げるとは限らないのだが、少しでも可能性を低くできるのであれば、それにこしたことはない。
「ところで小夜、私の手持ちの辞書に『創作フレンチ』という単語は掲載されてないんだけど、正確にはどういった定義がされているのかな?」
「私が知るわけないでしょ。どうしても知りたいなら店のオーナーにでも聞いてみたら?」
その人はディナーを作っている人で、ランチは別人が作っているということではなかっただろうか。
「はい、これがこの店のブログよ。このメールフォームでメールが送れるみたいだから、質問したいなら送ってみれば? 返事が来るかどうかは保証しないけど」
そう言って小夜がスマホの画面を見せてくる。全く面識のない人に、しかもディナーの予約などするつもりは全くないのに不躾にメールを送ることは躊躇われる。
「ごめん、小夜。私が悪かった」
私がそう言って謝ると、小夜はふんとばかりに胸を張った。
「食事中につまらないことでグダグダ言うのはやめてって、前にも言ったわよね」
「本当にごめんなさい」
「そう思うなら、二度とやらないで」
どうやら小夜の機嫌を損ねてしまったようだ。
「ああそうだ、この前の御礼」
六万円の現金を入れた無記名封筒を手渡す。
「多いわよ?」
「迷惑料も入ってる」
私がそう答えると、小夜は大きく肩をすくめてみせた。
「私は確かにお金が大好きだけど、金で私の機嫌が取れるとは思わないでね」
「でもあの日、友人といたところを邪魔したんでしょう?」
相手の性別については聞いていないけど、小夜が話さないということはたぶんそういうことだ。私に紹介したいとは思わない人か、でなければ今口説いている最中の人。
「友人ではないわね。同僚だって言ったでしょ」
「でも、男性だよね」
ほぼ確信しつつそう断言すると、小夜は少し困ったような呆れているような、でもなんとなく恥ずかしそうな顔になって、私を睨んだ。
「どうして澪はそういう時だけ察しが良いのよ」
どうしてと言われても、それは私が小夜に慣れたからとしか言いようがない。
「小夜が何かを隠したい時は、それについて言及を避けたり別の話題で誤魔化そうとするからじゃないかな?」
私がそう答えると、小夜は耳まで真っ赤になって両手で顔を隠してしまう。
「そういうところを相手の男性に見せれば、すぐ落とせると思うよ?」
基本的に他人の気持ちやその動きなんてものは理解できないけど、こういう小夜は文句なしにとても可愛いと思う。これで惚れないなら、その人とは見込みがないから他を当たった方が良い。
「そんなことできるわけないでしょ、カッコ悪い」
「そうかな、私はすごく可愛いと思うよ。こんなに可愛い小夜が見られないなんて可哀想」
「あのねっ、そういうことが自由自在にできるようなら苦労しないのよ!!」
「小夜はどんな顔していても可愛いし、美人できれいで楽しいよ? そんな小夜の魅力が理解できない男なら、さっさと振って他にいい人捜した方が良いよ。
見る目がないか、好みに合わないんだろうから」
「……澪は時折、とんでもなくタラシなこと言うわよね」
「そうかな?」
「あなたの性別が男だったら、たぶん私はあなたに初恋して失恋していると思うわ」
「私が男だったら、絶対小夜と付き合うと思うよ?」
「ダメよ、私が耐えられないもの。澪は友人としては嫌いじゃないけど、恋人としてはたぶん最悪の部類よ。絶対途中で付き合いきれなくなるわ。
私は私のことを好きで好きでたまらないと思う人以外とは付き合いたくないもの」
「私は小夜のこと大好きだよ」
「あなたの好きは、トカゲより優先できる好きなの?」
そう言われると困る。小夜のことは好きだけど、トカゲやその他爬虫類の動画を見ながら食事をするなと言われても、たぶんきっとやめないと思う。
「……ごめんね」
なんとなく気まずくなって謝ると、小夜は大仰に溜息をついた。
「そんなことわかってるわよ。だから友人としてはアリだけど、恋人としては絶対無いわけ。そして澪じゃなくても私以外のものを私より優先する男は願い下げよ。あり得ないわ」
「その、上手くいくと良いね?」
「可哀想な子を見るような目で見ないでくれる? どこかに絶対一人くらいいるわよ。誰より何より私を愛してくれる男が!」
これまで全敗しているのにそう言い切れる小夜は、とてもタフで夢見がちだと思う。だいたいそういうことは心の中で思っていても、どうしようもないんじゃないかな。
小夜はモテるくせに、好きな人と気持ち的には両想いでも気に入らないとなると振ったり諦めたりしてしまうから。
そういったことを口に出して言わなくても理解できる人なんて、もしこの世に存在したらその人は人間じゃないと思う。
だから、私は祈らない。
◇◇◇◇◇
ランチを終えて割り勘で支払いを済ませた後、特に用事はないけど書店へ寄った。遠出という程の距離でもないけど急ぎでやらなきゃいけないこともないしまだ時間の余裕はあるし、ここまで来たら何処かへ行きたいと思ったから。
「あれ、音無さん」
背後から声を掛けられ振り向くと、鴻先輩が立っていた。毎度のことながら威圧感がある。近くに立たれると首が痛くなりそうだ。
「こんにちは、鴻先輩」
「ああ、こんにちは。今から行くのか、友達のところ」
「いえ、終わってランチを一緒に食べて来たところです」
「そうか。……しふ……ぃいな」
「え?」
ボソッと最後に呟かれた言葉が聞き取れなかった。
「あっ、な、何でもない。いや、俺、この近所に住んでてここ徒歩圏内なんだ」
「へぇ、街中に住んでいるんですね」
「昔から住んでるだけだから、うちの近所は普通に住宅地だ。すぐ裏に居酒屋とかカラオケ店とかあるけど」
「それは夜、騒がしそうですね」
「物心ついた時からだから全く気にならないな。ただ、友人や知り合いに家がバレるとビジホ代わりに泊まろうとするのが出て来たりして、そっちの方が困る」
ビジホ、泊まるという単語から類推すると、ビジネスホテルのことだろうか。たぶんそれで間違いないな。省略・略称は人によって違ったり増えたりするから、ちょっと苦手だ。
滑舌悪かったり、聞き取りづらい声質の人だと特に。鴻先輩はその点マシな方だけど、あまりに低くて小さな声は聞き取りにくいから困る。
「何か買いたい本があるのか。仕事のことなら、良ければ相談に乗ろうか?」
ちょうどIT関連のコーナーだったから、そんなことを言われてしまった。
「いえ、そういうわけではないのですが、あまりにも知らないのでなんとなく。特に買いたい本があるわけでもないです。それに先月も今月も色々使ったので、しばらく必要ではない買い物は控えたいですね」
「あ、じゃあ家に来るか?」
「え?」
「あっ、いや俺の家、両親祖父母と同居だし変な意味じゃないから! そ、その家にある本なら色々参考になるんじゃないかって。兄貴の置いていったのだけど、初級システムアドミニストレータの参考書とかもあるからもしかしたら参考になるかもしれないって」
「初級システムアドミニストレータ?」
「ああ、十年くらい前になくなった試験で俺は受けてないけど、IT系の試験では難易度がわりと低めだったから高専の先輩とかでも受験していた人がそこそこいたんだ。
といっても結構試験範囲が広くて全く知識のない人が参考書とかなしで受けようとすると合格できないから、当時は参考書とか解説サイトとかが色々あった。
さすがにそっちは情報が古いから一部は使えないけど、今は代わりにITパスポート試験っていうのがあってそっちの参考書も持ってるから、良ければ貸すよ。
基本情報技術者試験の参考書もあるけど音無さんにはまだ難しいから、もうちょっと知識や技術が身について来たら、会社の書庫にある参考書を借りると良い。
うちの課で試験受けたやつもこれから受けるやつもいるし、受験希望者が多い時は勉強会とかもしているから、俺がいない時はその辺にいるやつに聞けばすぐわかるはずだ。
俺の兄もIT系であっちはバリバリのSEでその手の本や参考書は山ほどあるから、参考にはなると思う」
SEというのは、確かシステムエンジニアのことで、いわばプログラムの設計士という役どころだ。システム開発課では鴻先輩や浦谷主任がその役割を担っているようだ。
鴻先輩曰く、他にもやればできる人は幾人かいるものの積極的にやりたがらないとこぼしていた。
しかしやればできる人の中に石田先輩が筆頭で含まれていることなどから察するに、鴻先輩はものすごく鈍いかちょっと抜けている天然だと思われる。
「では、ITパスポート試験の参考書をお借りしても良いですか?」
「わかった。ああ、ごめん、音無さん。良く考えたらもう五年前の本だから新しく買った方が良いかもしれない」
「じゃあ、探してみます」
「なら、休み明けにレシートを持ってきてくれるか。もしかしたら経費が出るかもしれないから。あ、この辺にあるよ」
そう言われて指された場所に手を伸ばすが届かない。背伸びをしようとすると、先輩がその参考書を取り手渡してくれる。
「はい、音無さん」
「有り難うございます、鴻先輩」
受け取って礼を言うと、先輩ははにかむような笑みを浮かべた。
「わからないことがあれば、何でも聞いてくれ。いつでも相談に乗るから」
それは、これまで聞いた鴻先輩の声の中で、最も優しい声に聞こえた。




