11 週末の予定(SIDE:澪)
金曜の十八時、先程まで読んでいた本を閉じて、軽く伸びをした。
とりあえず日常的に行う業務に関してはだいたい頭に入った。同じ課の社員の容姿と名前は、いつもの方法で一致するようになった。
鴻先輩のおはようは音階で表現するとC3・D3・D3になるけど、通常会話の最初の音は大抵それより一オクターブほど低いE2から始まる。
他の人の話す時の音程にもルールや法則性があるのだろうかと観察してみたが、そんなことはなかった。特に石田先輩はほぼ毎回音程もリズムも異なる。
彼の場合は、落ち着いて話せる時、素っ頓狂な声を上げる時、緊張したり焦ったりするのか声がかすれたり上擦ったり様々だ。
小清水課長はだいたいE3とF3とG3で構成された音程で淡々と話している。男性の唱える祝詞や念仏の内、心地良く聞こえる音程はこの辺りなのではないかと思う。
それ以外に声質やリズムも大事なのだろうけど、この音程で一定のリズムを刻まれると、その内容や状況によっては眠気を誘いやすくなる気がする。
だからといって朝の挨拶的なことを話している上司の声を聞いて、危うくうたた寝しそうになるのは至極まずいことはわかっている。
しかし、いわゆる生理期間中は血の気が足りなかったり、体温が上がったり、あるいは鎮痛剤を服用するからか眠くなりやすいのだ。
そんないいわけを口にするのは嫌なので油断しないよう気を付けたり、眠気がヤバイ時は自分の身体をつねったりしている。
ようやく今日で山が終わったので明日から薬はいらなくなるが、明日と明後日は休みである。先輩方はサーバーの定期メンテナンスで日曜は交代で出勤するようだ。
他の部署のサポートなどは無理だが、IT関連の基礎的な知識は教わった分に関してはほぼ暗記できたと思う。
これまでに鴻先輩に渡された書籍は、パソコンやタブレットなどの解説や、○fficeソフト3種、社内ネットワークやITインフラに関するもの、システム管理者の業務についての解説、NASやストレージに関するものなどである。
読んでいてふと気付いたのだが、ところどころ書き込みや付箋がある。どうやらこれらはシステム開発課の資料用書籍ではなく、鴻先輩が個人的に購読したものであるようだ。
見た目は細身のヒグマみたいなのに繊細で几帳面な文字を書く人らしい。あと、彼の愛用するシャープペンの芯は0.3か0.35のHだとわかった。
ちなみに私は書きやすさ重視で○ンボ鉛筆のM○NOシリーズか三○鉛筆のHi-○niシリーズの0.5ミリBを使用している。
彼がシャープペンを握っているところを見掛けたことはほとんどないが、一度だけ○ットリング社の製図用シャープペンを持っているのを見た。
同じく○ットリング社の製図ペンを使っているところを良く見るので、よほどお気に入りなのだろう。
私は筆記具に特にこだわりはなく、全てコンビニか百円ショップで購入している。
芯と消しゴムとノートはある程度品質の良いものを使った方が書きやすいが、筆記具は消耗品だと思っているので、お金をかけるより使い潰した方が安上がりだろうという考えだ。
自宅ならばともかく人の多い場所で使うと気付かぬ間に紛失していることがあるので、傘と筆記具は紛失しても困らない安物を使うことにしている。
男性の服にはポケットが多いので高い筆記具を持ち歩くことも容易いのだろうが、女の服についているポケットは基本的に飾りであり実用的では無いというのも一因かもしれない。
なんにせよ、人の物を断りも無く勝手に持ち出して返却しないという人間は絶滅して欲しいと思う。幸い現時点で盗難・紛失被害には遭っていないが、人の善意を無条件に信じることはできないのは私の性分である。
机の上などの後片付けをしていると、鴻先輩が歩み寄って来た。相変わらず笑顔がラスボス顔である。これが常態だと知らなければ、気の弱い人は脅えてしまうだろう。
「音無さん、今日で入社から五日経ったけど、調子はどうかな?」
はて、いったい何を聞かれているのだろうか。
「何か困ったこととか、わからないこととかないか? あれば教えてくれ。あ、課内のことは勿論だけど、課の外のこと──例えば高坂先輩のこととか」
なるほど、そういう意味か。
「いえ、今のところ特に問題ありません」
とりあえず今は解決しているし。
「そうか、それなら良かった。いや彼、ここ最近は定時帰宅が多くてそのくせ直帰が一度もないものだから、もしかしたらと思ったけど、何もないようなら安心した」
「それは何か問題があるのですか?」
「彼は営業だから、取引先に行った帰りに一緒に飲みに行ったりすることが多いんだ。そうすると、終わってから会社に戻ると遅くなる。
出先で直帰することにしてスマホで退勤処理をすれば戻らなくても定時帰宅扱いにできるけど、今週は定時帰宅できるように社に戻ってデスクワークをした後、定時で帰宅しているようなんだ。
そのくせ売り上げはこれまでと比較しても同じくらいで、落ちていない。新規の取引先の開拓とかはしていないようだから、下がってはいないけど上がってもいないというわけだ。
これまでの彼の業績などを考えると消極的で、何かあったのかと心配になったんだ」
鴻先輩の心配する意味や理由が良くわからない。はて、と首を傾げると、先輩は苦笑し首を左右に振った。
しかしほとんどシステム開発課室から出ない人なのに、他の課の人の現況に何故それほど詳しいのか。
時折、課外の人と話す時もあるがだいたい数分程度なのに、謎である。
「俺の考え過ぎで何もないなら良いんだ。悪かったな、邪魔して。
そういえば音無さんは就職して初めての休日だけど、週末は何か予定とかあるのか? ああ、答えたくなければ答えなくて良いから」
「友人の勤めている店へ行く予定です」
「へぇ、音無さんの友達って、ショップ店員とかなの?」
「いえ、エステティックサロンです。業務に則したこと以外にも悩み相談とかも聞いてくれて友人・知人が多いので、頼めば美容・ファッション関係の人を紹介してくれます。
紹介してもらったことはないけど、インテリアコーディネーターや弁護士や医者もいるそうです」
私がイメチェンするために利用した美容院や洋服店は全て小夜の紹介だ。出身地である田舎は別にして、それ以外の彼女の知己は全員店の客あるいはその関連で、ほとんどは女性だが男性も含まれているらしい。
たまにしか彼女の勤務先には行かないから良くわからないけれど、平日が定休だけど休みの日もほぼ営業のために出歩いていて忙しいようだ。
あの社交的な猫かぶりっぷりは、とてもじゃないけど私には真似できない。営業モードの小夜に会う度に、この人はいったい誰だろうと思ってしまう。
「そうなのか。良い友達なんだな」
「はい」
正直なところエステで何を頼めば良いか私には判断できないので、小夜におまかせである。
数ヶ月に一度、アロマオイルで全身マッサージ──正確にはマッサージではないらしいが、私にはマッサージとしか思えない──をして、月一で髪や爪・かかとなどのケアをする。
午前中の予約の場合は昼食、午後の予約ならアフタヌーンティー、夕方ならば夕食を一緒に取る。今回は午前十時半の予約なので、おそらく小夜は早番で十五時もしくは十六時上がりなのだろう。
行く店の予約は小夜がしてくれるので、私は小夜が教えてくれた『休日のおしゃれ女子が友人と遊びに行く時のファッション』で店へ向かう予定だ。
それでは不適切な場合は、その都度ドレスコード等の指示が出る。私はそのパターンを記録・記憶することによって、小夜以外の人と出掛ける時の参考とすることになる。
これまでのところ、家族・親戚と小夜以外の誰かと出掛けたことはない。チャラ男先輩の件はイレギュラーなのでカウントしない。
「俺はしばらく休出は免除されているから、休みは犬と散歩するか書店へ行くくらいしか外に出る予定はないんだよな」
「……そういえば借りた書籍は、全て鴻先輩の私物ですよね」
「ああ、元はそうなんだが他の連中も読みたがったから回し読みしてたら、課長にレシートか領収書を出してうちの課の資料にしろと言われて、今はシステム開発課の所有になっているんだ。
こういう解説本って、読み終わって内容を理解した後で読み返すことは滅多にないから有り難いことではあるんだが、最初からそうするのなら書き込んだり付箋付けたりしなかったのにという後悔はしている」
「そうですか? 簡単な補足説明とか他の参考書籍名とページ数とか書いてあって、それも含めて参考になると思います」
「そうか、なら良かった。音無さんも何かうちの課で使えそうな資料本買ったらレシートは捨てずに取っておいて、駄目元で課長に見せると良いよ。
許可が出れば、IT系でもビジネス本でも経費出るから。私物ではなくなるから必要ない時は、この部屋か資料を置いてる書庫で保管になるけど。
その時は『システム開発課』『各種資料マニュアル』フォルダに『資料用書籍リスト』っていう○xcelのファイルがあるから、そこに追記しておいて」
「わかりました」
私が私的に購入したビジネス本や心理学などの書籍は、手放すつもりはないので──紙書籍もいずれ裁断して電子書籍にする予定なので──その予定はないが、頷いておく。
鴻先輩は当初はその予定がなかったようではあるが、課の資料にするなら最初からそのつもりで購入した方が良いだろう。
彼の旧私物は確かに役に立っているのでこのままで良いが、私は自分の私物として購入したものはいかなる理由があっても、手放したいとは思わないので。
鴻先輩がぶっきらぼうで無愛想な反面、仕事熱心かつ真面目ないい人であるのは今日まで業務時間中しか観察してなくても十分理解できたのだが、ちょっと気持ち悪いくらい無私の人に見える。
私が言うのもなんだと思うのだけれど、何が楽しくて生きているのかわからない。
わからないが、何か企んでいそうなラスボス顔でも慣れるとちゃんと笑顔に見えてきて、楽しそうに仕事をする人だということがわかってきた。
時折、他の部署のおじさん社員に呼び出されて、『面倒くせぇな』とか言いながら部屋を出て行く時や、同僚に雑用を押し付けられる時ですら楽しそうだ。
何故そんなに楽しそうでいられるのか私には理解できないが、当人が楽しそうなのできっと問題はないのだろう。私もそんな境地になれれば良いのだが、そんな未来はまだまだ先だろう。
「では、お先に失礼します」
「ああ、お疲れさま。気を付けて帰ってね、音無さん。あと体調に気を付けて」
いつも通りの挨拶ではあるが、そんなに心配されるほど危なっかしく見えるのだろうか。確かに家族・親戚や小夜にも、目を離すと何をやらかすかわからないなどと言われたりするが、職場ではきちんと猫の皮を被っているつもりなのに。
それとも上手く隠し通せているつもりなのは私だけなのだろうか。しかし、先輩達の態度からはそういったことが読めない。
まぁ、良い。明日は小夜に会えるのだから、その時相談しよう。




